第2話 恋愛について #1
文字数 1,630文字
前話の、絶望と希望が自分の外にあり、自分はただそれに捉われているだけ、という心の動きが、恋愛の場合はどうなるのか。考えてみたいと思う。
「恋愛の最初の期間こそ、この上もなく美しいものである。その時は、相逢うたびに、目と目を見交わすたびに、何やら新たな喜びが心のうちに起ってくるものだ」
と、市民の生活満足度ランキングで常に上位にいる国の哲学者は言っていた。
だが、申し訳ないが、その季節はいずれ終わるのだ。
いのちには終わりがある、恋にも終わりがある、と言った音楽家もいた。
言い換えれば、終わりがあるから素敵なんだな。
つまり恋愛の初期期間がそうであるように、希望に満ちた時間、心ときめく時間は、希望に囚われている時間にすぎない、って言いたいのだろう?
それとも、幸福な時間は「今」にない、常に未来への「希望」が幸福な気分にさせるだけで、その今はただ希望の虜、未来への希望の囚人となって安住しているだけなんだ、とでも言いたいのかな?
せっかちにツッコミたがる男は嫌われるぜ。
あのね、人間ってのは生来あまのじゃくにできているんだ。
今あるものには、ほんとの満足は見い出せない。だって、すでにあるんだから。
満たされていたとしても、そのあるものに、上塗りが加えられる。
うすくなるんだよ、最初の幸福は、どんどん。
そうして、ないものをねだるようになる。
ないものって何だ? ないものを、どうして求められるんだ?
あるものなら、手を伸ばすことができる。でもそれは、つかみどころもないものじゃないか。
ところが、そのあるものも、あったのかどうか、実は定かでないものだ。
きみは、自分の思ったこと・感じたことを絶対化していないか?
だから周りときみ自身とに一線を画して、外と内と分けているんだ。
きみの周りにいる一人一人の中にだって、絶対があるじゃないか。
とするなら、みんな同じじゃないか。
何をいちいち、分けているのだ。
あるとしたら、絶対でない、アメーバみたいに有形無形になる心なのだ。
そしてこの心は、それ自体では存在しないものなんだよ。
常に周りから感化され、感化されることしかできない、感化されないとない、つまり「己を持たないもの」だ。
そしてこの心が、人間の60%、人によっては8、90%を占めているのだ。
考えてもみ給えよ、すると、人間存在、夫婦であれ友達であれ恋人であれ、その一人一人の自己は、「己のないもの」に占められていることにならないか?
そんな人間たちが、やれ「自分をわかってくれない」だの「相手との性格の不一致」だの、わけのわからないことを言ってイガミ合っているのだ。
だが、その有形なるものがなくては、心は感化もされないから、あることにもならない。
でも、心は確かにある。
すると、この心も、希望や絶望と同じく、人を支配するところのものになる。
自分の心であるはずなのに、自分のものでない。
とするなら、各人一人一人が抱えている「自己」とは何なのだ?
何に対してイガミ合い、別れたり、離婚したりするのだ?