第32話

文字数 2,729文字

「キング。下村の事をどう思います?」
 吉良が訊いて来た。
「どうって、特に何とも思わないが。彼がどうかしたか?」
 そう答えたキングに、吉良は、
「裏切らないかどうかって事です」
 と言った。
「裏切ったらどうなるか、分かっているのは彼ですよ。家族の事を思ったら、少なくとも私が彼の立場なら裏切るなんて思いもしない」
「確かに。ですが、人間どこでどう変貌するか分かりません」
「吉良。それを言うなら、君達と私の関係だって同じだよ。私が貴方達を裏切らないという保証は無い。尤も、私は貴方達に全幅の信頼を置いているがね」
「私達がキングを裏切る事はありません。行先が例え地獄の底であったとしても、着いて行きます」
「ありがとう。その言葉を聞けただけでも嬉しいよ」
「それで下村の事ですが」
「うん」
「奴がWとしての立場に思い悩んだ挙句、我々を裏切るという事は考えられないでしょうか」
「ゼロではないかも知れないが、彼はあれでなかなかしっかりした所がある。打算的にはならない。ただどちらかと言えば、感情的に動く人間だから、その点で裏切る可能性が生じるかも知れない」
 キングの対人観察力は素晴らしかった。吉良をはじめ、自らの周りの人間だけでなく、三ツ矢といった、ある種部外者の者にでも発揮される。キングはその対人観察力で物事を決めて行く。
「彼が裏切りの道を選んだら、それが大きな間違いだったと直ぐに気付くさ」
「そうですね。キング、貴方の言う通りだ」
 吉良は自分の心配がお門違いだったと認めた。本当に三ツ矢が裏切れば、地獄に落ちるのは彼なのだからと。それでも、キングの側近として、三ツ矢の動向には注意を払わなければならない。それがキングの側近としての役割だからだ。
 キングの心配は今の所大丈夫だった。久し振りに顔を出した三ツ矢にその傾向は全く見られなかった。従順な犬のように、三ツ矢からは反抗の色は見られなかった。
「翼政会の時は上手く行ったみたいだね。お陰でうちも取引が上手く行っている」
「連中は何でマトリが、という顔をしていたよ」
「これでマトリ内でのあんたの立場は上昇したな」
「そんな事無いよ」
 三ツ矢の謙遜する言葉に吉良は、
「まあ、あんたはうちとは切っても切れない仲なんだ。そこの所をよく考えて、これからもうちの為に働いてくれ」
 三ツ矢にそう言った。言われた三ツ矢は、少し不機嫌そうな表情を見せたが、吉良には悟られなかった。
「下村さん。ちょっと調べて貰いたい事があるんだ」
「なんだ?」
「横浜分室の方で、貴方以外にうちの売人を挙げようとしている人間はいないかい?」
「そういう話は聞いていない」
「ならば調べてくれ。末端だがうちの売人が数日前にパクられたんだ。取引の場所は横浜だったんだが、もし横浜分室で貴方の他に動いている捜査員がいるなら、検挙に動く前にこっちへ知らせて欲しんだ」
「分かった。すぐに調べる」
 三ツ矢は、キングの目の前ですぐさま柳沢課長へ電話を掛けた。
(三ツ矢です)
(どうした?)
(ちょっと伺いたいのですが、横浜分室で、私以外にキングの一味を追っているのはいますか?)
(ああ、その件か。君に知らせていなくて申し訳ない。末端の売人を追っていたんだ)
(この次からもしそういう事をするのでしたら、事前に連絡を頂きたいのです。この事で私が潜入捜査官だとキングの一味に分かってしまう恐れがありますから)
(この件は細田部長の方で取り決めた事なんだ。多分細田部長は一日も早くキングの一味を挙げたかったんだろう。私の方から君に任せているのだからと言って置くよ)
(分かりました。では事前の連絡の件、宜しくお願いします)
 キングが三ツ矢の目の前で、にこりと微笑み、親指を立てた拳を見せた。
「すぐに結果を出してくれる。いいですねえ。なかなかそうやって動いてくれる人はいないのに、さすがは下村さんだ。尤も、そうじゃなければWなんて出来ませんよね」
「好き好んでWをやっている訳じゃない」
「まあ、そう尖がらずに。私は貴方を買っているんです。単なるWで終わる人じゃないとね」
「単なるWで充分だよ。それ以上何がある」
「ありますよ。どうです。本気で私と継続的に覚せい剤の取引をしませんか?マトリの点数稼ぎのダミーの取引ではなく」
 キングの提案はある意味本当のWになれという意味も含まれていた。三ツ矢からすれば、危ない橋を渡って、他の組織と覚せい剤の取引をするよりも、キングと本当の取引をした方が、いろんな意味で利点があった。
 キングからすれば、三ツ矢と取引する事によって、たまにパクらせるダミーの分を調達出来る。プラスマイナスゼロだ。そして、そこ迄三ツ矢を縛る事が出来れば、裏切りの可能性を多少でも減らす事が出来る。
「吉良もそう思わないか?」
「良い考えだと思います」
 三ツ矢は迷った。迷ったがキングのこの提案を受けた。
「分かった。あんたの言う通りにしよう」
「これで貴方とは五分の取引相手だ。先ずは、今貴方が自由に動かせるシャブの量を知りたい」
「分室への報告書に載せていない量が三キロちょっとある。この三キロで元手が出来れば、量は増やせる」
「ならば、いよいよ私との取引が有効になる。その三キロを私が買おう。金額はグラム五千円でどうだね?売買と一緒に、うちとは違う仲買人を紹介するよ。そうすればうちで売った分でネタが仕入れられる」
 三ツ矢は、キングの買値が安いのでその事を言うと、
「ならばグラム六千円でどうだね。これが一杯だ」
 暫らく考えた三ツ矢は、
「分かったそれで手を打とう。それでいつブツを持ってくればいい?」
 と言った。
「明日ならどうだ」
「ここへ持ってくればいいんだね?」
「ああ」
「じゃあ明日」
 そう言って、三ツ矢はキングのアジトを去った。吉良は去って行く三ツ矢の背中を見ながら、キングにひとこと、
「大丈夫ですかね」
 と問い掛けた。
「賭けてみるさ」
 吉良は黙ってキングを見つめる。その眼差しには畏敬の念が映っていた。
 三ツ矢は、明日のキングとの取引の為の準備をした。手持ちの三キロン覚せい剤を、千八百万で売ったら、今度はその金を元手に覚せい剤を仕入れなければならない。売値は最低でもグラム七千円じゃなければ損をする。そんな金勘定をしていると、何となく自分がみすぼらしく思えて来た。キングとの取引で三キロを売り渡すと、手元に残るのは横浜分室から引っ張った元手の二百グラムがある。これは、安藤と一緒に小売で使う元手にするつもりだ。末端なら二百グラムぽっちでも四百万以上、下手をすれば六百万位にはなる。と、そんな事を考えていると、自分が完全に売人になってしまったと、苦笑いを浮かべながら一人初台のアジトで思っていた。
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