第2話

文字数 2,835文字

 三ツ矢浩司は自身が受けていた捜査を、新しい任務の為に別な者と引き継ぐ事で忙しかった。その三ツ矢を課長の柳沢潤が自分のデスクへ呼んだ。
「何でしょう?」
「引継ぎの方は進んでいるか?」
「はい。後は細かい資料の受け渡しだけです」
「それは良かった。話は他でもない。君もその名は知っているだろうが、キングが動いている。つい最近、警視庁が捕まえた売人がキングの息が掛ったやつでね。うちも関東信越厚生局で追っていたんだが、警視庁に先を越されてしまった。まあ、しがない売人程度なら何時でもパクれる。うちが狙うのは大元のキングだ」
 柳沢の言葉に頷く三ツ矢。柳沢の言葉は続く。
「横浜分室のうちも、キングを追う事になった。その役目を君に託したい。いいかな」
 三ツ矢は体が奮えた。
「時間は多少掛かってもいい。この横浜でもキングの暗躍はある。このまま自由にさせていたら、街中にポン中(覚せい剤中毒者)が溢れてしまう。使える物は何を使っても構わない。目指すはキングの逮捕だ。潜入捜査としては、大変難しい案件だが、宜しく頼む」
「はい。了解しました」
「うむ。先ずはやさ(家)が必要だろう。その他に必要な物があったらすぐに用意するから、庶務課に顔を出して資金を出して貰え」
「はい。そのようにします」
「拳銃を忘れるなよ」
「大丈夫です」
「うむ。じゃあ頼んだぞ」
 それで柳沢の話は終わった。自分のデスクへ戻った三ツ矢は、早速必要な物をメモに書いた。キングを捉える為に潜入捜査をするには、名前も前歴も変え、別人にならなければならない。先ずは偽造免許証が必要だ。それと、潤沢な資金と、柳沢にも言われた拳銃は必須だ。金は幾らあっても困らない。拳銃は相手が犯罪組織だけに、身を守る為にも必要だ。この辺は潜入捜査が認められている厚生労働省麻薬捜査官、俗に言うマトリに与えられた特権で、警察官との違いである。
 他の必要な物をメモに書いた三ツ矢は、それを持って庶務課へ行った。庶務課の課員は、そのメモを見て、何も言わず粛々と現物を用意し、足りない物は明日迄に用意すると言って来た。三ツ矢は現金と拳銃にスマホと車のキーや衣類を受け取り、その場を後にした。明日は偽造免許証を受け取りに来なければならない。
 キングとは。数年前より首都圏一帯に君臨する覚せい剤の卸元だ。キングという名は厚生労働省麻薬取締部や警視庁が付けた名前だ。尤も、地下世界の暗部で蠢く下っ端連中もキングと呼んではいる。
 三ツ矢は庶務課から交付された拳銃の具合を確かめながら、それをヒップホルスターに差し込み、衣類やスマホの入った紙袋の中に入れた。
 今回の潜入捜査の為に与えられた車に乗り込み、三ツ矢は自宅の方へ向かった。環八を通り、奥沢の方へ向かう。暫くはこの道を走る事も無くなる。
 家へ着くと、一人娘の聖来(せいら)が飛び付かんばかりに迎えてくれた。ついこの前二歳になったばかりの聖来に三ツ矢はメロメロだ。妻の幸恵が、
「今日は何時もより早いのね」
「うん。明日から出張なんでね。それで今日は早上がりなんだ」
 妻の幸恵は、三ツ矢のちゃんとした仕事を知らない。単に厚生労働省の役人としか三ツ矢から聞かされていないからだ。
「食事にする?それともお風呂がいい?」
「聖来はもう入ったのかい?」
「まだよ」
「じゃあ聖来と一緒に風呂にするか」
「分かった。聖来、パパとお風呂だよ」
「パパと一緒、パパと一緒」
 はしゃぐ聖来を抱き上げ、三ツ矢は浴室へ向かった。父親と一緒に風呂へ入れると言う事で、はしゃぐ聖来に目を細める三ツ矢。体を洗ってやり、一緒に湯船に浸かる。明日からはこの生活も暫くはお預けだ。
 風呂を出、食卓に付くと、三ツ矢は妻の幸恵に、
「明日から暫く単身赴任で出張だ。余り荷物を持って行きたくないから、着替えを少し用意してくれ」
「急なのね。出張先は何処なの?」
「北海道の支局だ」
「寒い所だから、冬物を用意した方が良くない?」
「いや、大丈夫。向こうで揃えるから」
「分かった。もし必要になったら連絡頂戴ね。それと、ライン、忘れずにね」
「ああ、分かったよ」
 その夜、三ツ矢は久し振りに妻を抱いた。
 翌朝の朝食時、何も知らない幸恵は、昨夜の久々の出来事に、すっかり気を良くしている様子で、夫の浩司への朝食作りにもその気持ちが溢れていた。三ツ矢にはその姿がいじらしく見えた。
 スーツケースを手にし、いつもより早く奥沢の自宅を出た三ツ矢は、横浜分室へ向かった。庶務課に頼んでおいた偽造免許証を受け取らなければならない。高速を使い、横浜市中区にある関東信越厚生局麻薬取締部横浜分室へ向かった。
 庶務課へ行く前に、三ツ矢は課長の柳沢の元へ顔を出した。
「今日からキングの所へ潜ります」
「宜しく頼むよ。君だけが頼りだ。そうだ、連絡人として越川を付ける。連絡用のケータイ番号はこれだ」
 と言って、柳沢が紙片を渡してくれた。
「ありがとうございます」
 連絡人となる越川はベテランだ。三ツ矢よりも年数が古い。先ずは一安心という所か。偽造免許証を庶務課で受け取る。名前は下村聡となっていた。今から自分は三ツ矢浩司の名前を捨て、下村聡にならなければならない。潜伏先のアパートは局が既に探してくれていた。場所は大田区六郷だ。行ってみると築年数が三十年以上にはなっていそうな程、薄汚れたアパートだった。車を停められるスペースがあったのはラッキーだった。荷物を持って一階の右端の部屋へ向かった。潜伏するアパートは一、二階二部屋ずつの四部屋からなっていた。先に住んでいる住人へ引っ越しの挨拶をするべきかどうか迷ったが、あえてしない事に決めた。
 部屋へ入る。
 六畳一間と、三畳程の台所。いろいろな匂いが染み付いた部屋だった。電化製品や家財道具は全て揃えてあった。局の手回しはこういう所でも早い。窓を開けてみる。一メートルとない距離にブロック塀が隔たりを作っていた。何かあった時に唯一逃げられる場所だ。そう思い、暫く窓の外を眺めていた。眺め終わると、雨戸を閉めた。三ツ矢は荷物を解き、いよいよ始まる潜入捜査の用意をし始めた。
 拳銃はベレッタのM85。それと小型の特殊警棒を与えられた。ベレッタM85はグリップの所が日本人の小さな掌でも包める位小型で、体への秘匿性が高い。それは重要な事だ。以前はマトリっも警察官が使用しているニューナンブがメインの武器だったが、現在はオートマチックの拳銃を主に手にしている。
 黒光する銃身を眺めながら、これを使う事が無いようにと三ツ矢は願った。マガジンに実包を装填していく。グリップへマガジンを装着する。遊底をスライドさせ、実弾の一発目を薬室へ送り込む。安全装置を掛け、身に付けたヒップホルスターに差し込んだ。
 いよいよだ。今日から自分は下村聡として生活して行き、キングの牙城へ潜り込むのだ。生きて戻れるかどうか、何の保証も無い。マトリとしての誇りだけがこれからの原動力だ。三ツ矢は夜を待った。
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