愛しい薔薇の守り人②
文字数 1,761文字
ブリュンヒルドはそのルートを通じて、アメリカで去年出版されたサン=テグジュペリ『
さらにあろうことか、彼女はそれをマントルピースの上にうやうやしく飾られたヒトラーの著作『
廊下側の覗き穴から定期的に一家を監視するのが仕事のSSや、清掃作業よりも秘密を嗅ぎ回る方に熱心なメイドたちに発見されでもしたら、このヴィラでどれほど好待遇を約束されていても厳罰は免れないというのに。
ブリュンヒルドはハオランに見せつけるように、毎晩英語をわざわざノルウエー語に翻訳し、ヒヨルに読み聞かせてやるのだった。
傍目には『Mein Kampf』を子どもに英才教育する模範的な母親のように見えるところが、いっそう始末が悪かった。
当然、ハオランは烈火の如く怒りった。この本は早々に処分されるものと、ミツハは安堵に胸を撫で下ろした。
しかし、いつまでたっても現状のままなのであった。
それどころか、いつの間にやら双方が作品をたいそう気に入ったらしく、こうして夫婦喧嘩にパロディが出てくる有様なのだから、恐れ入るしかない。
ミツハは、これを「ついうっかり」暖炉に叩き落として燃やそうとしたことが何度かある。
Naziのバイブルとも言える『Mein Kampf』にそんな無礼を働いたら最後、身元のはっきりしない孤児の東洋人の自分など容易く処分されるだろう、とわかっていてもだ。
実行しなかったのは、命が惜しかったからではない。
命より重い誓いがあったからだ。
この国で初めて出会った時、終生そばにいてあなたをお守りしますと、ミツハは赤ん坊のヒヨルに誓った。
ヒヨルにとってはそれほど意味のないことだったのかもしれない。
だが、家族を失って当てもなく異国の地を彷徨い続け、空腹と寒さのあまり道端にうずくまっていたミツハに、ヒヨルはまっすぐ駆けよってきた。
1ライヒスマルク銀貨をくれ、あたたかな抱擁と無邪気な微笑みまで与えてくれた。
ミツハにとってそれは、死に体の小鳥を生まれたての天使が両手で掬い上げてキスしてくれた、それほどのことだった。
同じ日本人というところからハオランの保護を受けることができ、現在に至る。
以来、一家から受けた恩義に報いることだけを自分の生きる使命と思い定めている。
ヒヨルが最後の息を引き取るその時まで、ミツハの使命は終わることがない。
毎日アメリカとイギリスの爆撃機が頻繁に飛んでくる現在、むやみに死に急ぐのは、この可愛い女主人に対する裏切り行為以外のなにものでもなかったのである。
「まあ、その時には、あたくしを密告すればいいでしょう? 元から愛のない夫婦ですもの、あたくしはかまわなくてよ」
「そんなことができるわけがないじゃないか」
「あら、それはあたくしを愛してくださるってこと、王子さま?」
「バカな。ヒヨルにはどんな母親でも必要なんだ、そのことは先にあれほど何度も話し合ったじゃないか」
「つまり、あなたはあたくしのような厄介な妻はいらないということね」
ミツハはヒヨルのおままごとを見守りつつ、昨日のことをぼんやりと回想する。
そういえば、とふいに疑問が湧いた。
いつも見ているだけで当てられてしまうほどお熱い二人なのに、この国のどこの家族でも口にする「
「ブリュンヒルド、私はとても疲れているんだ。子どもたちもいるし、そういう話は食事の後にしないか」
「いいえ、今よ。二週間もお帰りにならないなんて、本当にお仕事だったのかしら? 結婚の時に交わしたお約束をないがしろにしてらっしゃるんじゃなくて、ハオラン?」
そして例によって激しい言い争いが始まるのであるが。
傍目には熾烈な夫婦喧嘩に見えても、二人はそんなやりとりを十分楽しんでいる。異国語でも当意即妙な会話が成り立っているのが、その何よりの証拠だったーー
>>>③につづく(③まで)