聖家族の誰にもナイショの秘密②
文字数 1,936文字
ヒヨルは人形の上部に掲げられたリボンの文字を読んで、無邪気に首を傾けた。想定通りだ。
「
ミツハは壁の覗き穴あたりから漂ってくる人の気配に気付かぬふりで、あえてドイツ語で答えた。
公的にキリスト教は奨励されていないとはいえ、各家庭のクリスマスが廃れることはなかったから、この話はタブーではない。
「家族なら、ミツハは?
「キリスト教では、聖なるものは常に三つなんです。
母マリアはブリュンヒルドさま、父ヨセフはハオランさま、幼児イエスはヒヨルさま。そんなふうに考えるとわかりやすいのでは?」
へんなの! とヒヨルはピンクの唇をアヒルの子のように尖らせた。
「
「あなたは男の子ですよ」
「え〜っ? だって、お母さまが言ってたよ」
賓客の前でゲーテの詩を暗誦させられる時のように、ヒヨルは生真面目な顔で母の言葉をそのまま繰り返した。幸いノルウエー語だ。
「『アナタがオンナノコとしてウマレタことにはとてもトクベツなイミがあるからそのことをダレにもナイショにするのよ』って――」
ミツハは唇に人差し指を当て、
「どうして(ヴァルーム)?」とヒヨルは頬を膨らます。
ここから日本語に切り替える。ヒヨルもつられて日本語になった。
「誰にも内緒ということは、私にも喋っちゃいけないということですよ、ヒヨルさま」
「ミツハとくまちゃんは特別だもん」
「それでもダメです。ここでは誰が聞き耳を立てているかわかりません。
あなたたちご家族を守るために必要なことです。わかりますか」
ここでは親しげに接してくる人間の誰がスパイでもおかしくないのだから、とまではミツハは言えなかった。
その代わりにこう続けた。
「お父様は? ハオランさまはどうでしょうか。
いずれあなたは男子として立派なゾンネンブルク家の跡取りになるのだから自覚を持て、とこの間おっしゃっておられたような」
う〜う〜とヒヨルは口をすぼめて唸り、何とも可愛い上目使いになった。
「ねえ、じゃあ、ヒヨルも父さまみたいにお髭が生えてくるの?」
ミツハは答えに
「夕方におかえりなさ〜いって父さまにほっぺたすりすりするとね、じょりじょり痛いんだよ、あんなふうになっちゃう?」
「ええ、たぶん」それ以外に何と言えただろう。
するとヒヨルの顔が、るるるりりりらららっとご機嫌な時のハミングが聞こえるような笑顔になった。
「じゃあね、ミツハに一番最初にじょりじょりしてあげる!」
うっかり吹き出しそうになったのを咳払いで誤魔化した。
ヒヨルの腕にある、ハーケンクロイツの腕章が目に止まった。
カーマインレッドに染められたウールの上着の肩にかかるヒヨルの金髪は、降り注ぐ太陽の光のよう。青い瞳は、森の泉のように青く澄んでいる。
この金髪碧眼が、大ドイツ帝国において由緒正しいドイツ人の祖、アーリア人の証とされ、このヴィラで最も尊重される子どもたちの特徴にもなっていた。
十二歳まで日本で生まれ育ったミツハの感覚からすると、ヒヨルの顔は凹凸が強すぎるし、肌の色が半透明に思えるほど生白くて、東洋的な可愛さの基準からは若干外れている。
母そっくりの整いすぎた美貌は、光の加減で妖しい色香さえ漂わせることさえあった。
しかし、この笑顔を前にすると、ミツハはどんな時でも無条件降伏するしかないのであった。
赤ん坊の頃から傍にいたものの、ブリュンヒルドはゴージャスな見かけによらず良い母親で、世話を押し付けられたことはかった。
近年の大ドイツ帝国は極度に身分格差がシビアになっており、ミツハははっきり東洋人だとわかる見た目である。使用人の分際で、ヒヨルの兄のつもりになるような思い上がりを抱く機会はなかったといっていい。
それでも、ヒヨルの笑顔にはまったく分け隔てがなかった。笑顔は家族の一員に向ける全幅の信頼の証だった。
それこそが日本では滅多に言葉にしない、「
こんな無垢な笑顔をひたと向けられて、ヒヨルを愛さないでいられる人間がこの世にいるだろうかとさえ思う。
どんなことがあろうと、この小さな女主人の笑顔だけは裏切ってはならないのだ、と何度自分自身に誓ったことだろう。
>>>③につづく(③まで)