ミューズの息子たち③
文字数 2,189文字
太陽光の乏しい北ヨーロッパの森は真夏の昼間でも暗い。闇に対する本能的な恐怖が、大昔から人々の空想力を刺激し、怪奇な妄想話を盛り上げてきた。
ここ、「
かつての神聖ローマ帝国時代には、遠征時に亡くなった戦士のためのカタコンベがあり、たくさんの薔薇の木と精霊に守られていたという。鬱蒼とした森に囲まれ、長らく呪われた土地としてゲルマン人たちに忌み嫌われてきた、と。
そのために、Naziが「第三帝国」と呼ぶこの国が、まだ「第一帝国」と呼ばれていた時代から、虐げられていたユダヤ人の富豪たちが邸宅を建てる場所になった。
ユダヤ人たちは薔薇を丹精し、古霊たちに対してもきちんと礼節を守ったので、その時は問題は起こらなかった。
しかし、現在はNaziが接収して、聖なる墓場という場所柄も弁えず、帝国の人民増産計画のための
Naziは宗教より科学を信じた。特にユダヤ教に端を発するキリスト教を軽んじた。
これは礼節を守ることを知らず、薔薇の木を枯らす行為だった。そのために、ローマ人の古霊たちは激しく憤っている。
そのエネルギーが次元を掻き乱しているから、こういうことが起きる、というのがその説であるた。
ヴィラの住人たち、特にHJの男子たちは、表向きはナンセンスだと一笑に付しながら、裏では結構本気に取っているようだ。
それは常人間離れした異能を誇る《ミューズの愛し子たち》のメンバーたちも同じだった。
『ミツハ?』
ヒヨルがたった今我にかえった顔で、空中で振り返った。
しかも、ぼんやりと虹色のハレーションに包まれたその姿は異形である。
二本の黄金の角が頭髪からにょっきりのぞき、服からはみ出した両足はロバの
周りのメンバーまでつぶらな瞳の可愛らしいロバに変化していた。
まるで絵画に描かれたケンタウロスかパーン神の群れのようだ。
ミツハをまっすぐ見つめる、上気した薔薇色の顔の大きな碧い瞳だけが、よく知るヒヨルだった。
こんな姿を見ても、わたしのヒヨルさまはロバになってもなんて可愛いんだ、と迷うことなく思える。
それは、ミツハ自身が、これが蜃気楼のような現象であることをよく知っていたからだった。
決して触れることはできないのに、そこにあるように見える、オーロラのように輝くカーテンが、幾重も二人の間にある。
それがヒヨルの動きでめくられる度に、空間には違う光景が映し出されるのだ。
博学かつ未来予知のできる《ミューズの愛し子たち》のリーダー、カール・ハインツによれば、これは「多次元」という概念を理解すれば説明のつく現象であるらしい。
どれだけ丁寧に解説されてもメンバーの誰一人飲み込めなかったが、21世紀初頭にはおそらく解決する問題である、という。
理由はなんでも良かった。自分なりに腹落ちして、ヒヨルを不安にさせないしっかりした態度を取れればそれでいい。
プリズムの角度によって太陽光が七色に分かれて見えるようなものではないか、とミツハは適当に考えてみた。ヒヨルの姿が波長ごとに別物のように見えているだけで、本質的にななにも変わりがないのだろう、と。
その証拠に、ひたと見つめ合うヒヨル瞳には何の曇りもない。
『ミツハ!』
ヒヨルはミツハを認め、満面の笑みになった。蹄を高らかに鳴らしながら、三階ほどの高さの空中からこちらへ一直線に駆けてくる。
近づくにつれ、何重ものベールが剥がれ落ちるように異形の神の姿が消え、本来の四歳のヒヨルの身体があらわになってきた。
最後はとととっと四歳児の覚束ない足取りになって、跪いたミツハの胸に飛び込んだ。
歌うことでほかほかしている小さな身体を、思いきり抱きしめる。
「ヒヨルさま、とてもお上手でしたよ」
『ほんと?』
「ええ、それに素敵なお歌でした」
『そう? ミツハはこのお歌好き?』
「好きですよ。あなたにとても似合う。でも」
『でも?』
ヒヨルはまったく唇を動かさなかった。エネルギー消耗を考えずに無我夢中で歌いすぎて、醒めはじめた今は身体がだるくてたまらないのだろう。
接触テレパシーを使う方がずっと楽なのはよくわかる。しかし、ミツハは迷うことなく、唇を使って答えた。
「このお歌はお外で歌ってはいけませんよ。讃美歌ならともかく、あなたの能力を刺激しすぎる。あまり歌うと後でまた困ったことになってしまいます」
案の定、ヒヨルはそこで大きな
お部屋に帰りましょう、とミツハはヒヨルを軽々と抱っこする。
寝ぼけた声で、ヒヨルはもにょもにょとまだ喋っていた。
『じゃあ、おねんねの時は?』
「小さなお声でしましょうね」
『くまちゃんに歌ってあげてもいい?』
「うんと小さなお声でならいいでしょう」
うん、と頷き、微笑んだヒヨルは安心し切った顔で目を閉じた。
ミツハはもう一度、ぎゅっと抱きしめてやる。
ヒヨルがこの異能に溺れて当たり前の人間らしさを見失わないように、という強い祈りを込めて。
>>>第4話終了/第5話につづく