大阪哀歌(エレジー)-3-
文字数 3,369文字
お茶のお師匠さんの家の裏戸口を開けると、挨拶を口にする前に、粋に和服を着こなした年配の女性が飛び出してきた。
「まぁまぁ、そないに濡れて。この雨のなか、大変やったね。お使い、おおきに」
(え、叱られへんの?)
「あの、遅うなって……」
「お教室が始まるまで、まだ時間があるさかい大丈夫。鎮 さんもご苦労さま」
「え?」
煌 は秋鹿 を振り仰いで、目を白黒させる。
何のためらいもなく一緒に入ってきたことを不思議に思っていたが、このふたりは知り合いらしい。
(もしかして、センパイって、ここのお弟子さんなん?)
「さ、荷物はこっちに」
「あ、あの!」
包みを受け取ろうとしたお師匠さんの手を、我に返った煌 が慌てて押えた。
「あの、ボク、こけてもうたさかい、中身がもしかしたら……」
「ああ、気にせえへんで。今日お願いしたのは、お大福やさかい」
(そうなんや)
ほっとした煌 の肩に、秋鹿 が手を置く。
「転んでも、夏苅 君はちゃんとかばっていたから、中までは濡れていないですよ」
「まあ、そうなん?えらかったねぇ。さぁ、上がってちょうだい。早よ着替えな、風邪をひいてまうわ。鎮 さんもね。……いくこさぁ~ん!」
「はーい!」
お師匠さんの声に応えて、これもまた上品に髪を結った、着物姿の女性が奥から姿を現した。
「鎮 さんとお友達のお着替え、お願いね。私はお教室の準備をするさかい」
「はいはい、任せとくんなはれ。さ、鎮 ぼっちゃん、こちらへ」
「ぼ、ぼっちゃん?」
「お友達もどうぞ」
流れるような動作で荷物を取り上げられて、上がり框 から中へと誘 われる。
「今日はまた肌寒いさかい、まずお風呂に入りまひょ。あらまあ、ふたりともびしょ濡れでんなぁ」
「あ!ごめんなさいっ!廊下、汚してしもうて……」
「ええんよ。あとで拭いたらええんやさかい。遠慮せえへんで、はい、こっち」
そうしてふたりは、上品でありながら、有無を言わせない「いくこさん」の手によって、脱衣所に放り込まれた。
純粋な日本家屋に設 えられているにしては、意外過ぎる最新式のユニットバスにつかりながら。
煌 の目は、洗い場で髪を洗っている秋鹿 の首元に釘付けである。
「なあ、秋鹿 センパイ」
「……ん?」
「首のそれ、外さんとええの?」
シャワーで頭の泡を流し終わった秋鹿 が、濡れた赤目を笑ませて振り返った。
「お守りだから、外さないように言われてる」
「ふーん?」
湯舟の縁に置いた組んだ両手に顎 を乗せ、煌 は首を傾 げる。
「勾玉 やね。何の石?」
「翡翠 と赤瑪瑙 」
「へー。ひもは濡れてもええの?」
「替えはいくつか用意してある。乾いたらまた使えるし」
説明しながら、煌 がつかっているのと反対側の湯舟に、秋鹿 が入ってきた。
「そないに四六時中、付けてへんとあかんの?学校にもしていってるん?体育の時間やら、どないしてんねん?」
煌 は秋鹿 の視線から逃れるように、体を縮めて湯船の壁に背中をぴたりとくっつける。
「体育は免除してもらってる。健康上の理由ってことで。……コンタクトが外れるといけないから」
「そっか」
コクコクと小さくうなずく煌 を見て、秋鹿 の首が傾 いた。
「どうした?腹でも痛いのか?」
「いや、あの……。その形のせいかな」
体育座りをした煌 が、あごを湯に埋めるようにして秋鹿 を見やる。
「形?」
「目玉に似てるやん?なんや、見張られてる気ぃするんや」
「……へぇ……」
秋鹿 が首にかかる革ひもに指をかけ持ち上げながら、じっと煌 を見つめた。
◇
「その首飾りって」
渉 と槐 が顔を見合わせる。
「鎮 が今もつけてる、チャンドラの」
「そ。今ならわかるわ」
煌 に苦笑いが浮かんだ。
「あんとき、勾玉 を通して見とったんやな。蒼玉 が俺のこと」
煌 の視線の先で鎮 は口の端を上げるが、何も言わない。
「それにしても、鎮 って、最初っから
「だぁなぁ」
感心しきりの槐 の隣で、ソファにもたれた渉 がニヤニヤと笑った。
「最初に会ったとき、あんまりしゃべんねぇから、喉か頭のどっちかが悪いと思ってたわ」
パチリっ!
鎮 の指が鋭い音を立てたのと同時に、腹を押えた渉 が前かがみになる。
「ぐぅえ!……悪いのは……性根だった……」
バチリ!!
「ふぐぅっ!」
今度はあごを押えて悶絶する渉 を眺めながら、煌 が感嘆の声を上げた。
「すげぇ。それ、さっき蒼玉 が使うとった術やんな。今度、俺にも教えてや」
「僕も僕も!」
目をキラキラさせた槐 が身を乗り出す。
「最近、アーユス飛ばすって、ちょっとわかってきたんだよね。できそう!おもしろそう!便利そう!」
「……てめぇら……」
槐 と煌 をにらみ上げた渉 が、手負いの熊のように唸 った。
◇
「濡れた制服はクリーニングに出しておいたから、これを着て」と渡されたのは、「小さくなって着れなくなったから」と言うにしては、真新しい秋鹿 の服だった。
行きよりも雨脚は強くなっていて、乾かしてもらったスニーカーも、すぐにまた湿ってしまったが、帰り道の煌 の足取りは軽い。
あの上級生とのトラブルを思い出せば、腹の底がぞわぞわするような不安にかられるけれど。
誰かが、何かが「大丈夫だよ」と、励まし続けてくれているような気がするから。
「ただいま戻りました……」
店のガラス戸を開けると、店内では両親と岸本を始めとした職人たち、そして、杉野がそろって右往左往していた。
「……あの、どないしたん?もしかして、」
お師匠さんが家には連絡をしたと言っていたから、騒ぎの元は自分ではないだろうとは思ったが。
煌 はおどおどした表情で、大人たちの輪へと近づいていく。
(先輩がなんか言うてきたんやろか)
さっそくクレームがあったのかと、煌 が心配を口にするより先に。
何枚かの書類を手にした伯父、今では養父が振り返った。
「ああ、お帰り」
「ぼん、お手柄やったな!」
顔を上げた職人岸本には、意外なほどの笑みが浮かんでいる。
「おかえり、煌 」
帰ってきていた養母もふんわりと笑いながら、小さな肩に手を回した。
「岸本さん、まだ決定やないから。あら、煌 あんた、めっちゃオシャレな服を着てるちゃうん。……このブランド、ジュニアなんか出しとったのね」
「まず、どんな菓子にするか決めなあかんな」
養母の隣では、岸本が古びたぶ厚い冊子をぺらぺらとめくっている。
「う~ん。定番でいくか、新機軸でいくか。いや、あんまり時間はかけられへんな。……おかみさん、いつまでやったかな」
「二週間後って言っとったわ」
「あの、ほんまにどないしたん?」
背中のタグを確認している養母を、煌 は心細そうに見上げた。
(こんな大騒ぎになるくらいのクレームだったん?)
だが、養母から返されたのは、煌 の不安など吹き飛ばすような笑顔で。
「新しいお仕事の話が来たんやで」
「新しい仕事?」
「ちょっとおっきな話やから、みんな張り切っとるんよ。……煌 のおかげや」
「ボク?」
「情けは人の為ならずというのは、ほんまこのことね。煌 の優しさが、このチャンスを呼び寄せてくれたんやで」
何のことかよくわからず、首を傾げた煌 に養父も大きな笑顔でうなずいた。
「おとうちゃんたちはもう少し仕事をするさかい、先に夕飯を食べとき。岸本さん、今思いついたんやけどな……」
岸本に肩を寄せた養父は、もう仕事人の顔をしている。
「行こ、煌 。燎 ももうすぐ帰ってくるさかい」
養母に促 された煌 は、職人たちの張り切った雰囲気を背中に母屋へと入っていった。
◇
だが、明るかった店の様子とは裏腹に。
翌日からの道場は、煌 の不安が的中したものとなってしまった。
あの上級生の仲間たちはもちろん、これまで親しくしていた同級生たちも。
練習時間以外は、煌 に声すらかけてこない。
道場の壁際で一塊 になって、煌 をちらちらと見てはにやにや笑ったり、あからさまに目をそらしたり。
練習が終わっても、誰も挨拶さえせずに帰っていく始末だった。
ひとりぽつんと道場を出た煌 は、緊急の連絡用にと持たされているキッズ用のスマートフォンを取り出して眺めてみる。
――夏苅 に落ち度はない。気に病むな。必ず解決する――
もう何度読んだかわからない、秋鹿 から突然送られてきたショートメール。
「なんやろ、これ。……おみくじみたい」
何度読んでも同じ感想しか出てこないけれど。
煌 の目は、ほんの少しだけ明るくなった。
「まぁまぁ、そないに濡れて。この雨のなか、大変やったね。お使い、おおきに」
(え、叱られへんの?)
「あの、遅うなって……」
「お教室が始まるまで、まだ時間があるさかい大丈夫。
「え?」
何のためらいもなく一緒に入ってきたことを不思議に思っていたが、このふたりは知り合いらしい。
(もしかして、センパイって、ここのお弟子さんなん?)
「さ、荷物はこっちに」
「あ、あの!」
包みを受け取ろうとしたお師匠さんの手を、我に返った
「あの、ボク、こけてもうたさかい、中身がもしかしたら……」
「ああ、気にせえへんで。今日お願いしたのは、お大福やさかい」
(そうなんや)
ほっとした
「転んでも、
「まあ、そうなん?えらかったねぇ。さぁ、上がってちょうだい。早よ着替えな、風邪をひいてまうわ。
「はーい!」
お師匠さんの声に応えて、これもまた上品に髪を結った、着物姿の女性が奥から姿を現した。
「
「はいはい、任せとくんなはれ。さ、
「ぼ、ぼっちゃん?」
「お友達もどうぞ」
流れるような動作で荷物を取り上げられて、上がり
「今日はまた肌寒いさかい、まずお風呂に入りまひょ。あらまあ、ふたりともびしょ濡れでんなぁ」
「あ!ごめんなさいっ!廊下、汚してしもうて……」
「ええんよ。あとで拭いたらええんやさかい。遠慮せえへんで、はい、こっち」
そうしてふたりは、上品でありながら、有無を言わせない「いくこさん」の手によって、脱衣所に放り込まれた。
純粋な日本家屋に
「なあ、
「……ん?」
「首のそれ、外さんとええの?」
シャワーで頭の泡を流し終わった
「お守りだから、外さないように言われてる」
「ふーん?」
湯舟の縁に置いた組んだ両手に
「
「
「へー。ひもは濡れてもええの?」
「替えはいくつか用意してある。乾いたらまた使えるし」
説明しながら、
「そないに四六時中、付けてへんとあかんの?学校にもしていってるん?体育の時間やら、どないしてんねん?」
「体育は免除してもらってる。健康上の理由ってことで。……コンタクトが外れるといけないから」
「そっか」
コクコクと小さくうなずく
「どうした?腹でも痛いのか?」
「いや、あの……。その形のせいかな」
体育座りをした
「形?」
「目玉に似てるやん?なんや、見張られてる気ぃするんや」
「……へぇ……」
◇
「その首飾りって」
「
「そ。今ならわかるわ」
「あんとき、
「それにしても、
こんな
じゃなかったんだね、ホントに」「だぁなぁ」
感心しきりの
「最初に会ったとき、あんまりしゃべんねぇから、喉か頭のどっちかが悪いと思ってたわ」
パチリっ!
「ぐぅえ!……悪いのは……性根だった……」
バチリ!!
「ふぐぅっ!」
今度はあごを押えて悶絶する
「すげぇ。それ、さっき
「僕も僕も!」
目をキラキラさせた
「最近、アーユス飛ばすって、ちょっとわかってきたんだよね。できそう!おもしろそう!便利そう!」
「……てめぇら……」
◇
「濡れた制服はクリーニングに出しておいたから、これを着て」と渡されたのは、「小さくなって着れなくなったから」と言うにしては、真新しい
行きよりも雨脚は強くなっていて、乾かしてもらったスニーカーも、すぐにまた湿ってしまったが、帰り道の
あの上級生とのトラブルを思い出せば、腹の底がぞわぞわするような不安にかられるけれど。
誰かが、何かが「大丈夫だよ」と、励まし続けてくれているような気がするから。
「ただいま戻りました……」
店のガラス戸を開けると、店内では両親と岸本を始めとした職人たち、そして、杉野がそろって右往左往していた。
「……あの、どないしたん?もしかして、」
お師匠さんが家には連絡をしたと言っていたから、騒ぎの元は自分ではないだろうとは思ったが。
(先輩がなんか言うてきたんやろか)
さっそくクレームがあったのかと、
何枚かの書類を手にした伯父、今では養父が振り返った。
「ああ、お帰り」
「ぼん、お手柄やったな!」
顔を上げた職人岸本には、意外なほどの笑みが浮かんでいる。
「おかえり、
帰ってきていた養母もふんわりと笑いながら、小さな肩に手を回した。
「岸本さん、まだ決定やないから。あら、
「まず、どんな菓子にするか決めなあかんな」
養母の隣では、岸本が古びたぶ厚い冊子をぺらぺらとめくっている。
「う~ん。定番でいくか、新機軸でいくか。いや、あんまり時間はかけられへんな。……おかみさん、いつまでやったかな」
「二週間後って言っとったわ」
「あの、ほんまにどないしたん?」
背中のタグを確認している養母を、
(こんな大騒ぎになるくらいのクレームだったん?)
だが、養母から返されたのは、
「新しいお仕事の話が来たんやで」
「新しい仕事?」
「ちょっとおっきな話やから、みんな張り切っとるんよ。……
「ボク?」
「情けは人の為ならずというのは、ほんまこのことね。
何のことかよくわからず、首を傾げた
「おとうちゃんたちはもう少し仕事をするさかい、先に夕飯を食べとき。岸本さん、今思いついたんやけどな……」
岸本に肩を寄せた養父は、もう仕事人の顔をしている。
「行こ、
養母に
◇
だが、明るかった店の様子とは裏腹に。
翌日からの道場は、
あの上級生の仲間たちはもちろん、これまで親しくしていた同級生たちも。
練習時間以外は、
道場の壁際で
練習が終わっても、誰も挨拶さえせずに帰っていく始末だった。
ひとりぽつんと道場を出た
――
もう何度読んだかわからない、
「なんやろ、これ。……おみくじみたい」
何度読んでも同じ感想しか出てこないけれど。