美しい傷
文字数 3,631文字
うつむきながら、蒼玉 は廊下を早足で歩く。
この時代の異物。
存在してはいけない「モノ」。
ずっと「少女のお化け」であった自分が実体を持ったとしても、本質は変わっていない。
そうとわかっている。
わかっているのに。
(わたしのようなものが、つながりを持ってはいけなかった……。後悔しても、もう遅いわね)
頼りなげな小さな足音が、神社の廊下に吸い込まれていった。
◇
「蒼玉 と水浴びなんて久しぶりだね」
「水じゃないですよ、姉上。ほら、あったかいです!」
湯舟に片足を入れた蒼玉 が、キラキラした瞳で紅玉 を振り返る。
「おふろって気持ちがいいんだよって、小さな鎮 が話してくれたけれど、本当……」
ちゃぷんと小さな水音を立てて湯船につかった蒼玉 は、うっとりと目を閉じた。
「……気持ちいい」
「温泉でもないのにお湯がふんだんに使えるなんて、贅沢 だねぇ、この時代は」
湯舟の反対側に入った紅玉 が、蒼玉 のふくらはぎに自分の足を絡 ませ微笑む。
『これまでのことをざっと教えておいてくれる?何があったのかを。それから、この時代のあらましも』
『はい』
蒼玉 の腕輪が、湯の中でぼぅっとした光を帯び始めた。
湯船のふちに乗せた片手に頬を預けて目を閉じ、紅玉 は妹が送る過去視に神経を集中させる。
『……時代は進んでも、人の闇は変わらないのか。同じ過ちを繰り返して、そのたびに血と涙が流れる。理不尽に奪われるのは、いつも一番弱い者たち』
頬を上気させた紅玉 から切なげなため息がもれた。
『それにしても、ずいぶん文明とやらが進んだんだね。……へーえ、それは便利そうだ。ふむふむ。……え!アーユスを使わずに、誰でもが空を飛べるの?』
『すべて、鎮 から教えてもらったことですけれど』
『そう。ずっと見守ってきた子なんだね。……白虎が今、暮らしているのは……。としぶ?……こんなに人間が住んでいるの?毎日がお祭りみたいだね』
紅玉 が蒼玉 の手を離して、湯船から立ち上がる。
「欲望の数だけ闇は生まれる。闇鬼 の餌には事欠かなそうだね。……完全復活も近いかもしれない。心してかかろう」
「はい」
「ところで蒼玉 、これってどう使うんだっけ?」
「姉上、それは温度調整の、」
「え、こっちじゃなかった?こっち?」
「そのままひねってはダメ、きゃあっ」
いきなり勢いよく噴出した冷水を浴びて、蒼玉 が思わず悲鳴を上げた。
「ごめん!わあぁっ」
最大の水量になったシャワーヘッドが、紅玉 の手から踊り出して床に落ちる。
「どうしたの、大丈夫!?」
騒ぎを聞きつけた鎮 が浴室のドアを開け、冷水シャワーに襲われている姉妹を見て、急いで栓を締めた。
「わぁ~、びっくりした。……ありがとう白虎」
「いえ、どういたしま、わああっ、ごめんなさい!!」
状況に気づいた鎮 が慌てて出ていこうとして。
一瞬だけ、蒼玉 を振り返った。
「っ!」
見張られた紅い瞳に気づいた蒼玉 が、慌てて背を向ける。
「あの、ほんとにごめん、なさい……。えと、ごゆっく、り」
浴室のドアが閉まり、鎮 の足音が駆け足で遠ざかっていった。
「ごめんね、蒼玉 。あのさ」
「いいのです。……何もおっしゃらないで」
「……わかった」
いたるところ傷痕だらけの細い体に腕を回して、紅玉 は妹を引き寄せる。
「水をかぶったから冷えちゃったね。もう一度、湯に入ろう」
「……はい」
並んで湯船に足を入れた紅玉 の体にも、もちろんいくつもの痕はある。
だが、蒼玉 のそれは比較にもならない。
傷跡のないところを探すほうが難しい小さな体を隠すようにして、蒼玉 は湯舟の端でうつむいていた。
◇
この体を見て、鎮 はどう思っただろうか。
こんなことなら「触れ合える出会い」になど、ならなければよかったのに。
(「キラキラしたおねえさん」でいたかった……)
蒼玉 は立ち止り、鼻をすする。
戦士 ならば傷を受けることなど当たり前だし、これまではどうと思うこともなかった。
むしろ、傷の数は村を守った証 であり、自分が許される縁 でもあった。
誇らしく思いこそすれ、恥ずかしくなどなかったけれど。
廊下の突き当りに、人が出入りする気配のない部屋を見つけた。
襖 を開けると、寝具類やら食器やらが詰めこまれている。
(ここで頭を冷やそう。……大丈夫。まだ鎮 を手放すことはできる。余裕ある「おねえさん」でいられる)
一歩、中に入って。
後ろ手で襖 を締めようとした、そのとき。
「!」
手首をぐいとつかまれて、蒼玉 は目を見開いて振り返った。
(気配など感じなかった)
見上げれば、鎮 の赤い瞳は泣き出しそうに揺れている。
(もう、ここまでアーユスを使いこなすのね、鎮 は……)
戦士 に悟られないほどアーユスを制御する鎮 は、すでに自分など必要ないのかもしれない。
ならば、この醜い体を知られてしまったことは、いいきっかけなのだろう。
「……大丈夫、ですから……」
アーユスを封印しながら、蒼玉 はつかまれていないほうの手を鎮 の胸に当てた。
「皆さんのところへ戻って。ちょっとだけひとりに、っ!」
背後から抱きしめる腕の、その力の強さに蒼玉 は息を飲む。
「ごめん蒼玉 、あのとき」
「いいのです。……醜いものを見せてしまって、ごめんなさい」
「ちがっ」
鎮 は蒼玉 の肩をつかんで、自分のほうを振り向かせた。
「醜いなんて思ってないっ」
「でも……、見た、でしょう?」
蒼玉 は鎮 の手を取ると、自分の臍部 に導く。
そこにあるのは、臍 を中心にして、円を描くように彫られた梵字の刺青 。
「うん。ニーラカンタのマントラだったね」※
鎮 は作務衣の下にあるはずの刺青 をなぞるように、蒼玉 の腹を擦 った。
「一目でわかったの?」
「もちろん。ソウおねえさんはちゃんと、マントラを視せながら教えてくれただろう?この刺青 のおかげで、傷を受けても、即座に癒しの方術を発動させることができるんだね。ヴィーラにはみんなあるの?」
こくりとうなずく蒼玉 の額に、鎮 の額がコツリとぶつけられる。
「じゃあ、俺にも必要だね」
『あなたの体に、余計な傷はつけたくない』
密やかなアーユスを流す蒼玉 を、鎮 は柔らかく抱きしめた。
『余計なんかじゃないよ。稀鸞 さんとの約束を守るためにも、必要だろう』
「……さっきは、ほんとにごめん……。あれはね」
腕を振り払ったことを詫びる、鎮 のアーユスが蒼玉 に届く。
『バレちゃうと思った、から。……蒼玉 、きれいで……』
「きれい?わたしが?本当にそう思うの?こんな傷だらけの」
「思い、出させないで」
弾かれるように蒼玉 が顔を上げれば、耳まで真っ赤になった鎮 が顔を伏せていた。
「ごめん。……ごめんなさい」
絞るような声の謝罪は、抑えきれないアーユスにかき消されてしまう。
『キスしたい。もっと抱きしめて、どこにも行けないようにしてしまいたい。全部、全部俺のものにしてしまいたい』
必死にコントロールしようとして、それでも漏れ出るアーユスが、腕輪からほわほわとした光となって薄暗い部屋を照らしていた。
「……ごめん……」
身の置き所がないように困り顔をしている鎮 の頬に、蒼玉 は震える指を添えた。
「こんなに醜い私を」
「蒼玉 はきれいだっ」
「!」
突然、唇を塞がれた蒼玉 の目が、まん丸に見開かれる。
『大好きだ。可愛い、愛しい。蒼玉 、蒼玉 ……。全部全部、全部俺のもの』
それは、思念というよりも情動の奔流。
鎮 の思慕と口付けに溺れそうになった蒼玉 が、息を弾ませながら、くったりとその胸に体を預けた。
『誰か、来たら……』
『誰の気配もないよ』
蒼玉 の吐息さえ奪いながら、鎮 は口づけを続ける。
『でも』
『わかった』
強引すぎることに気は咎 めるが、ひとたび触れてしまった蒼玉 の唇を離すことなど、今の鎮 にはできそうもない。
鎮 は蒼玉 を縦て抱きにすると、襖 を閉めて納戸の奥まで入りこんだ。
『ほら、ここなら誰にも見つからない』
床に座り込んだ鎮 は、それは大切そうに蒼玉 を膝に抱 える。
「蒼玉 」
一瞬も目をそらさずに、甘いため息交じりで呼ばれた名前は、愛を告げる言葉そのものだった。
「ごめんなさい」
鎮 の首を抱きしめ、顔を埋 めた蒼玉 の声に涙が混じる。
『ごめんなさい。わたしみたいなものがつながりを持ってしまって。あなたを縛ってしまって』
「どうして?俺が望んだことなのに」
「でも」
鎮 を見上げる大きな黒水晶の瞳が、涙で潤んでいた。
「すべて覚悟している」
ほろりとこぼれた蒼玉 の涙を、鎮 は唇で受け止める。
「こんな気持ちにさせておいて、蒼玉 は俺を置いて逃げるつもり?」
「逃げたりしないわ。鎮 以上に大切なものなど、わたしにはないから」
「俺もだよ」
ふたりは月見草の蕾 が綻 ぶように笑い、頬を寄せ合う。
『俺たちは同じなんだよ』
『……そうね』
初々しいふたりが交わす口付けの音がひっそりと熱を帯びて、仄暗 い部屋に溶けていった。
※ ニーラカンタ シヴァ神の慈悲深い側面を表した神格 そのマントラは恐ろしい病を払拭することができる 毒素を取り除くとされる
この時代の異物。
存在してはいけない「モノ」。
ずっと「少女のお化け」であった自分が実体を持ったとしても、本質は変わっていない。
そうとわかっている。
わかっているのに。
(わたしのようなものが、つながりを持ってはいけなかった……。後悔しても、もう遅いわね)
頼りなげな小さな足音が、神社の廊下に吸い込まれていった。
◇
「
「水じゃないですよ、姉上。ほら、あったかいです!」
湯舟に片足を入れた
「おふろって気持ちがいいんだよって、小さな
ちゃぷんと小さな水音を立てて湯船につかった
「……気持ちいい」
「温泉でもないのにお湯がふんだんに使えるなんて、
湯舟の反対側に入った
『これまでのことをざっと教えておいてくれる?何があったのかを。それから、この時代のあらましも』
『はい』
湯船のふちに乗せた片手に頬を預けて目を閉じ、
『……時代は進んでも、人の闇は変わらないのか。同じ過ちを繰り返して、そのたびに血と涙が流れる。理不尽に奪われるのは、いつも一番弱い者たち』
頬を上気させた
『それにしても、ずいぶん文明とやらが進んだんだね。……へーえ、それは便利そうだ。ふむふむ。……え!アーユスを使わずに、誰でもが空を飛べるの?』
『すべて、
『そう。ずっと見守ってきた子なんだね。……白虎が今、暮らしているのは……。としぶ?……こんなに人間が住んでいるの?毎日がお祭りみたいだね』
「欲望の数だけ闇は生まれる。
「はい」
「ところで
「姉上、それは温度調整の、」
「え、こっちじゃなかった?こっち?」
「そのままひねってはダメ、きゃあっ」
いきなり勢いよく噴出した冷水を浴びて、
「ごめん!わあぁっ」
最大の水量になったシャワーヘッドが、
「どうしたの、大丈夫!?」
騒ぎを聞きつけた
「わぁ~、びっくりした。……ありがとう白虎」
「いえ、どういたしま、わああっ、ごめんなさい!!」
状況に気づいた
一瞬だけ、
「っ!」
見張られた紅い瞳に気づいた
「あの、ほんとにごめん、なさい……。えと、ごゆっく、り」
浴室のドアが閉まり、
「ごめんね、
「いいのです。……何もおっしゃらないで」
「……わかった」
いたるところ傷痕だらけの細い体に腕を回して、
「水をかぶったから冷えちゃったね。もう一度、湯に入ろう」
「……はい」
並んで湯船に足を入れた
だが、
傷跡のないところを探すほうが難しい小さな体を隠すようにして、
◇
この体を見て、
こんなことなら「触れ合える出会い」になど、ならなければよかったのに。
(「キラキラしたおねえさん」でいたかった……)
むしろ、傷の数は村を守った
誇らしく思いこそすれ、恥ずかしくなどなかったけれど。
廊下の突き当りに、人が出入りする気配のない部屋を見つけた。
(ここで頭を冷やそう。……大丈夫。まだ
一歩、中に入って。
後ろ手で
「!」
手首をぐいとつかまれて、
(気配など感じなかった)
見上げれば、
(もう、ここまでアーユスを使いこなすのね、
ならば、この醜い体を知られてしまったことは、いいきっかけなのだろう。
「……大丈夫、ですから……」
アーユスを封印しながら、
「皆さんのところへ戻って。ちょっとだけひとりに、っ!」
背後から抱きしめる腕の、その力の強さに
「ごめん
「いいのです。……醜いものを見せてしまって、ごめんなさい」
「ちがっ」
「醜いなんて思ってないっ」
「でも……、見た、でしょう?」
そこにあるのは、
「うん。ニーラカンタのマントラだったね」※
「一目でわかったの?」
「もちろん。ソウおねえさんはちゃんと、マントラを視せながら教えてくれただろう?この
こくりとうなずく
「じゃあ、俺にも必要だね」
『あなたの体に、余計な傷はつけたくない』
密やかなアーユスを流す
『余計なんかじゃないよ。
「……さっきは、ほんとにごめん……。あれはね」
腕を振り払ったことを詫びる、
『バレちゃうと思った、から。……
「きれい?わたしが?本当にそう思うの?こんな傷だらけの」
「思い、出させないで」
弾かれるように
「ごめん。……ごめんなさい」
絞るような声の謝罪は、抑えきれないアーユスにかき消されてしまう。
『キスしたい。もっと抱きしめて、どこにも行けないようにしてしまいたい。全部、全部俺のものにしてしまいたい』
必死にコントロールしようとして、それでも漏れ出るアーユスが、腕輪からほわほわとした光となって薄暗い部屋を照らしていた。
「……ごめん……」
身の置き所がないように困り顔をしている
「こんなに醜い私を」
「
「!」
突然、唇を塞がれた
『大好きだ。可愛い、愛しい。
それは、思念というよりも情動の奔流。
『誰か、来たら……』
『誰の気配もないよ』
『でも』
『わかった』
強引すぎることに気は
『ほら、ここなら誰にも見つからない』
床に座り込んだ
「
一瞬も目をそらさずに、甘いため息交じりで呼ばれた名前は、愛を告げる言葉そのものだった。
「ごめんなさい」
『ごめんなさい。わたしみたいなものがつながりを持ってしまって。あなたを縛ってしまって』
「どうして?俺が望んだことなのに」
「でも」
「すべて覚悟している」
ほろりとこぼれた
「こんな気持ちにさせておいて、
「逃げたりしないわ。
「俺もだよ」
ふたりは月見草の
『俺たちは同じなんだよ』
『……そうね』
初々しいふたりが交わす口付けの音がひっそりと熱を帯びて、
※ ニーラカンタ シヴァ神の慈悲深い側面を表した神格 そのマントラは恐ろしい病を払拭することができる 毒素を取り除くとされる