男爵の相棒-1-
文字数 2,509文字
気持ちが腐ったときには、相棒と散歩に行くに限る。
目を向ければ、同じタイミングで見上げるまっすぐな瞳。
しゃがんだとたんに、腕の中に飛び込んでる体はあったかい。
そうして相棒からほっぺたをなめられていると、こんなオレでも必要とされてるって思えるんだ。
◇
「内部進学をするつもりがないなら、志望校くらい決めておけ」
珍しい時間に帰ってきた父親から、いきなりそんなことを言われて面食らう。
――今の成績じゃあ、内部進学が微妙だぞ。もう高3の秋だってわかってるか?――
そう言った担任は呆れた様子をしていたから、ついでに親にも電話したんだろう。
でも、学校へ行く意味さえわかってないオレには、「つもり」も「志望」も存在しない。
無言でうつむいていたら、ため息を残して父親は部屋を出ていった。
上品なスーツが似合う父親は、オレがどんなイカレた恰好をしていても、文句のひとつも言わない。
何をしていても、声を荒らげることもない。
多分、オレのことなんか、どうでもいいんだろうな。
◇
幅広のハーネスを着けると、シュナウザー特有のふさふさの髭 が寄せられて、小さな桃色の舌が手を舐めてくる。
「ちょ、くすぐってぇって」
垂れた耳の間を乱暴になでてやると、向こうもぐいぐいと頭を押し付けてきた。
それから、その場でクルクルと二、三度回ってみせる姿は、子犬のころと変わらない。
「もうジジィなんだから、ちょっと大人しくしてろ。心臓悪いって言われたろ」
「嬉しい」を全身で表現する相棒のリードを手にして、玄関のドアを開けたところで。
呼び鈴を押そうとしているイトコと遭遇した。
「今から散歩?……またずいぶんと素敵なTシャツを着てるね」
普段、優等生面しているイトコの、うっすらバカにするクソムカつく顔は、オレにしか見せないものだ。
「いいね、五百木 本家の人間は。成績が悪かろうが素行が悪かろうが、将来はイオキコーポレーションのイスが用意されてるんだから」
「うっせえよ。お前こそ、こんな時間に何しに来たんだよ」
「伯父さんと創一 さんに、お渡しするものがね」
アニキの名前をわざわざ出して、オレには除外だとほのめかすなんて。
ホントにイトコは性格が悪い。
「それもママの言いつけ?イイコちゃんも大変だな」
ニヤリと笑ってやれば、イトコの顔にさっと怒気が現れる。
「義叔父 さんから、あんまこっちくんなって言われてんじゃねぇの?パパの言うことも聞いておけよ」
「あんな奴の言うことなんか、」
「叔母さんと同じようなこと言ってんなよ。義叔父 さんは、そんな悪いヒトじゃねぇだろ」
「ははっ」
何の因果か、オレと同じ学校で同学年のイトコが、声を上げて嗤 った。
「同類相憐れむってやつだね。同じ三流のニオイがするもんな、アイツとお前は」
「ウウウウウっ」
相棒はすげぇ賢くて、
「ヴァウ、ヴァウっ」
「バロン、ステイ」
鼻にしわを寄せて牙をむきながら、それでも相棒はきっちりと座った。
「主人に似てバカイヌだなっ」
青ざめるほどの怒りをにじませた犬嫌いのイトコが、一、二歩下がっていく。
「……おまえと叔母さんだけだよ、吠えられてんの。行こうぜ、バロン」
軽くリードを引くと、髭 が触れるくらいぴったりと寄り添って、相棒も走り出した。
早くアイツから距離を取りたかったけど、相棒は最近、主治医から「心臓に影がある」と言われている。
12歳を過ぎてから耳も遠くなったし、無理はさせられない。
――もう少し速く走る?――
そう言いたげな、白い眉が被 さる黒い目がオレを見上げた。
「大丈夫だよ」
走りながら軽く頭をなでてやると、向こうも足を止めずに頭を擦 りつけてくる。
「港の夜景が見える坂まで行くか」
つぶやけば、言葉がわかるみたいに相棒が少し足を速めた。
オレンジ色の工場夜景の上にそびえる、青くライトアップされた橋。
お気に入りの風景を見れば、少しは気分がよくなるかもしれない。
そうしたら、未来への展望なんてものも考えついて、父親に話ができるかもしれない、なんて。
「そんなわけ、ないのにな」
独り言をこぼすオレに、相棒はいつまでも寄り添ってくれていた。
◇
昼間は暑かったといっても、もう十月だ。
夜にTシャツ一枚での散歩は無謀だったようで、朝起きれば体がだるい。
学校は休むことにして、そのままベッドでゴロゴロしていたとき。
足元で寝ていた相棒が起き上がって、嘔吐 く仕草を繰り返した。
「カハッ、カハッ」
その合間に妙な咳をするから、慌てて起き上がって、その背中を擦 る。
「どうしたよ。どっか苦しい?」
咳をする合間に博士のような眉が動いて、申し訳なさそうな黒い目が上がった。
――心配かけてごめんね――
まるでそう言っているみたいで、思わず相棒を抱き上げる。
心音に雑音が聞こえると診断した獣医から、「何か気になったらすぐ来るように」と言われているし……。
「よし、医者行くぞ」
スマートフォンで時間を確認すると、まだ午前の授業中だ。
学校は家から徒歩圏だけど、今なら知り合い連中には会わないだろう。
急いで支度をして、相棒を抱えて部屋を出たところで、母親に出くわした。
「あら。また個性的なシャツを着てるわね」
Tシャツを一瞥 する目は驚いている様子もなく。
学校を休んでいることにも、何も言われない。
「……帰ってたんだ」
久しぶりに見た母親は、相変わらず”デキル女”って感じだ。
「書類を取りに戻っただけだから、また出かけるけどね。どこに行くの?病院?どっちの?」
お手伝いさんに病欠の連絡を入れてもらったことは、知っているらしい。
「バロンの」
「そう」
母親はブランドものの財布を取り出すと、万札を引き抜いて差し出してくる。
「なに」
「診察代。創二 、あなた、お金持ってるの?」
「うん。小遣い、まだあるし」
「これから診察代もかさむかもしれないんでしょう。もらえるときにもらっておきなさい」
ぐい、と押し付けるように札を渡して、母親は自室へと消えていった。
母親から気遣われたのも久しぶりで、雨が降るかもなんて思っていたんだけど。
どうして、嫌な予感ってのは当たるんだろうな。
目を向ければ、同じタイミングで見上げるまっすぐな瞳。
しゃがんだとたんに、腕の中に飛び込んでる体はあったかい。
そうして相棒からほっぺたをなめられていると、こんなオレでも必要とされてるって思えるんだ。
◇
「内部進学をするつもりがないなら、志望校くらい決めておけ」
珍しい時間に帰ってきた父親から、いきなりそんなことを言われて面食らう。
――今の成績じゃあ、内部進学が微妙だぞ。もう高3の秋だってわかってるか?――
そう言った担任は呆れた様子をしていたから、ついでに親にも電話したんだろう。
でも、学校へ行く意味さえわかってないオレには、「つもり」も「志望」も存在しない。
無言でうつむいていたら、ため息を残して父親は部屋を出ていった。
上品なスーツが似合う父親は、オレがどんなイカレた恰好をしていても、文句のひとつも言わない。
何をしていても、声を荒らげることもない。
多分、オレのことなんか、どうでもいいんだろうな。
◇
幅広のハーネスを着けると、シュナウザー特有のふさふさの
「ちょ、くすぐってぇって」
垂れた耳の間を乱暴になでてやると、向こうもぐいぐいと頭を押し付けてきた。
それから、その場でクルクルと二、三度回ってみせる姿は、子犬のころと変わらない。
「もうジジィなんだから、ちょっと大人しくしてろ。心臓悪いって言われたろ」
「嬉しい」を全身で表現する相棒のリードを手にして、玄関のドアを開けたところで。
呼び鈴を押そうとしているイトコと遭遇した。
「今から散歩?……またずいぶんと素敵なTシャツを着てるね」
普段、優等生面しているイトコの、うっすらバカにするクソムカつく顔は、オレにしか見せないものだ。
「いいね、
「うっせえよ。お前こそ、こんな時間に何しに来たんだよ」
「伯父さんと
アニキの名前をわざわざ出して、オレには除外だとほのめかすなんて。
ホントにイトコは性格が悪い。
「それもママの言いつけ?イイコちゃんも大変だな」
ニヤリと笑ってやれば、イトコの顔にさっと怒気が現れる。
「
「あんな奴の言うことなんか、」
「叔母さんと同じようなこと言ってんなよ。
「ははっ」
何の因果か、オレと同じ学校で同学年のイトコが、声を上げて
「同類相憐れむってやつだね。同じ三流のニオイがするもんな、アイツとお前は」
「ウウウウウっ」
相棒はすげぇ賢くて、
無駄
吠えなんか絶対しない。「ヴァウ、ヴァウっ」
「バロン、ステイ」
鼻にしわを寄せて牙をむきながら、それでも相棒はきっちりと座った。
「主人に似てバカイヌだなっ」
青ざめるほどの怒りをにじませた犬嫌いのイトコが、一、二歩下がっていく。
「……おまえと叔母さんだけだよ、吠えられてんの。行こうぜ、バロン」
軽くリードを引くと、
早くアイツから距離を取りたかったけど、相棒は最近、主治医から「心臓に影がある」と言われている。
12歳を過ぎてから耳も遠くなったし、無理はさせられない。
――もう少し速く走る?――
そう言いたげな、白い眉が
「大丈夫だよ」
走りながら軽く頭をなでてやると、向こうも足を止めずに頭を
「港の夜景が見える坂まで行くか」
つぶやけば、言葉がわかるみたいに相棒が少し足を速めた。
オレンジ色の工場夜景の上にそびえる、青くライトアップされた橋。
お気に入りの風景を見れば、少しは気分がよくなるかもしれない。
そうしたら、未来への展望なんてものも考えついて、父親に話ができるかもしれない、なんて。
「そんなわけ、ないのにな」
独り言をこぼすオレに、相棒はいつまでも寄り添ってくれていた。
◇
昼間は暑かったといっても、もう十月だ。
夜にTシャツ一枚での散歩は無謀だったようで、朝起きれば体がだるい。
学校は休むことにして、そのままベッドでゴロゴロしていたとき。
足元で寝ていた相棒が起き上がって、
「カハッ、カハッ」
その合間に妙な咳をするから、慌てて起き上がって、その背中を
「どうしたよ。どっか苦しい?」
咳をする合間に博士のような眉が動いて、申し訳なさそうな黒い目が上がった。
――心配かけてごめんね――
まるでそう言っているみたいで、思わず相棒を抱き上げる。
心音に雑音が聞こえると診断した獣医から、「何か気になったらすぐ来るように」と言われているし……。
「よし、医者行くぞ」
スマートフォンで時間を確認すると、まだ午前の授業中だ。
学校は家から徒歩圏だけど、今なら知り合い連中には会わないだろう。
急いで支度をして、相棒を抱えて部屋を出たところで、母親に出くわした。
「あら。また個性的なシャツを着てるわね」
Tシャツを
学校を休んでいることにも、何も言われない。
「……帰ってたんだ」
久しぶりに見た母親は、相変わらず”デキル女”って感じだ。
「書類を取りに戻っただけだから、また出かけるけどね。どこに行くの?病院?どっちの?」
お手伝いさんに病欠の連絡を入れてもらったことは、知っているらしい。
「バロンの」
「そう」
母親はブランドものの財布を取り出すと、万札を引き抜いて差し出してくる。
「なに」
「診察代。
「うん。小遣い、まだあるし」
「これから診察代もかさむかもしれないんでしょう。もらえるときにもらっておきなさい」
ぐい、と押し付けるように札を渡して、母親は自室へと消えていった。
母親から気遣われたのも久しぶりで、雨が降るかもなんて思っていたんだけど。
どうして、嫌な予感ってのは当たるんだろうな。