三百四十六話 信じらんねえ

文字数 1,759文字

どれだけ身体を洗っても『あのにおい』が取れない。

どれだけ胃の中のものを吐いても身体が綺麗にならない。

気持ち悪い。

何度歯を磨いても口の中がねばねばして吐いてしまう。

やけになって、歯磨き粉のチューブを口に含み、強く握って中身を押し出す。強い刺激で更に気持ち悪くなったが、洗面台に泡を零しながらも歯を磨いた。


「クソッ・・・」


髪を切ってしまいたい。


「うう・・・」


都に会いたい。会って、抱きしめられたい。肌の柔らかさを感じて、体温で温められて、優しいにおいを胸いっぱいに吸い込んで、甘い声で名前を呼んでほしい。


「やめろ、やめてくれ・・・」


どうして今まで都とキスなんてできたんだ、俺。汚い手で都に触れることができたんだ。自分がどうしようもない汚物だということを、自覚しないでいられたんだ。

ベッドに寝転ぶ。

わかっている。ジャスミンはこんなことはしない。あいつはトラウマは抉らない。だから俺の問題だ。カチ、と鍵が開いた音がした。また直治か。起き上がってドアを見る。


「なっ、みや・・・」


駄目だ。我慢できない。


「え、ぅ・・・」


口をおさえてトイレに駆け込もうとしたが、ベッドから床に崩れ落ち、そのまま吐いてしまった。


「淳蔵!」


都が駆け寄ってくる。気遣うように肩に手を置かれて、自身への嫌悪感から、ぞわ、と鳥肌が立った。もう胃液しか出てこないのに、吐き気が止まらない。


「どうして・・・。どうして、淳蔵・・・」


手が離れていく。途端に悲しくなった。都に捨てられた気がした。


「いかないで・・・」


そう、言ってしまった。


「いかないで、みやこ・・・」


自分でもなにがしたいのかわからない。都は驚いた顔をした。そして、汚れることも厭わず、俺を抱きしめる。飢えていたものを与えられて、俺は貪るように都を抱きしめ返した。都の肩に顔をうずめて、みっともなく泣いてしまう。


「ごめんね、淳蔵。どこにも行かないよ。ごめんね・・・」


都が謝る必要なんてないのに。都は優しくて、危険だ。こんなに優しくされたら、溺れるように好きになってしまう。俺が落ち着くまで、都はずっと俺を抱きしめ続けてくれた。


「ご、ごめん、都。ごめんなさい」

「私こそ、勝手に部屋に入ってごめんなさい」

「ちゃんと、ちゃんと話すから、このまま・・・」

「うん」


抱きしめ合ったまま、俺は話し始める。


「ごめん、俺、昔の『商売』をしてた頃の夢を見て、急に自分のことが気持ち悪くなって、都を汚してしまう気がして・・・」

「うん」

「身体を洗っても、歯を磨いても、胃の中のものを全部吐いても、自分が汚れている気がして・・・」

「うん」

「ごめんなさい・・・」

「淳蔵」


都が俺から身体を離す。そして俺にキスをした。


「な、なにして、き、汚いだろっ! め、目の前で吐いたのに、な、なん、」

「わからないの? 今の状態の淳蔵にキスできるくらい淳蔵のこと愛してるからだよ」

「な・・・な・・・」

「フフッ、いつかのお返し。舌だって入れられるけど、試す?」

「やめっ、」


都の瞳がアメジスト色に輝いた。身体が動かなくなる。都は本当に俺の口の中に舌を入れてきた。


「んんっ! んーっ!」

「んー?」

「んーっ! んーっ!」


唇が離れると、身体が動くようになる。


「し、信じらんねえ・・・」

「疑うならもう一度試す?」

「ばっ、馬鹿! やめろ! やめて! やめてください!」


都はくすくす笑った。


「世界で一番美しい生きものは、奇妙なことを考えるんだね」

「お、俺のこと・・・?」

「私が今、淳蔵以外と話しているように見えるの?」

「ううー・・・」

「ほら、歯を磨いてお風呂に入って少し寝なさい。片付けは私がしておくから」

「そんな・・・」


都はにやりと笑うと、右手の指でぱちんと音を鳴らした。俺の吐瀉物があっという間に綺麗になった。


「ね?」

「・・・今夜、虐めさせてあげる」

「フフッ、晩ご飯、ちゃんと食べに来るのよ。体力落ちてるでしょうからね」

「わかった」


都は立ち上がると俺の頭を撫でてから、部屋を出ていった。病魔で沸騰する血管に雪が溶け込んだような心地良さを感じる。歯を磨いて風呂に入ってベッドに寝転ぶ。嘘のように吐き気は無くなっていた。ここ数日、吐き続けて疲れていたからか、すう、と眠くなる。一瞬、また昔の夢を見たらどうしようと怖くなったが、すぐに大丈夫だと確信した。夢は見なかった。
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