三百六十七話 正体
文字数 2,823文字
「今朝は、妙なメイルを、拝受しました」
都が歌い始める。
「其処に、出生の意志が、載つて居り、現在は、酸素を押し返そうと必死です、まう、亡骸は、消去完了。何處にも桃源郷は、無いと云ひます」
紫苑の元夫、名は健司。健司の首には鉄の首輪が嵌められ、吊り下げて窒息させるために鉄の鎖が天井に伸びている。直治の手元には鎖の長さを調節するレバー。健司は必死につま先立ちをして、息をしようとしている。
「苦しいですか? 健司さん。『絞めると締まりが良くなる』んでしたっけ。男もそうね、窒息させると勝手に勃起するみたい。貴方も快楽を感じているんでしょう?」
いつもの、人間が痛苦に悶えて狂うのを楽しむ雰囲気は無い。都の目に『異常さ』が湛えらている。
「僕は、両の肢から、認知しました」
澱んだ空気を透き通った声が震わせる。
「此処に、『半分の意味』を、見出して、現在は、酸素を吸ひ切つてしまふ準備中です、亡骸に、弁護は不要。何處にも桃源郷が、無いの、な、ら」
テーブルに並べてある拷問用の鉄の串を、都が手に持つ。
「お造り致しませう」
健司の両の眼球に、串を突き刺す。首を絞められているので濁って掠れた絶叫が上がった。
「生むで廃棄する勇氣」
ジャスミンはポテトチップスといちごミルクをお供に、都の静かな怒りを観察している。
「空を斬つてゆく庖丁」
都はテーブルの上のナイフを手に取り、健司の肋骨の下からの皮膚を切り取り始める。
「今日、胎盤、明日」
健司の内臓が垂れる。
「僕を食しても、植わらない理由は」
健司の血を踏みしめながら、都がゆっくりと、その場で回る。
「渾て獨りぼつちだから」
からんからん、と音が鳴る。都がナイフを床に投げ捨てた。
「偖は、こんな輪廻と、交際をする、業が、お嫌ひなのでせう。当然です、未だ」
すう。
「何の『建設も着工』してゐない。白紙に還す予定です。お顔を、さあ、拝見させて、く、だ、さい・・・」
それは怨嗟だったのだ。
「ジャスミン、三日、生かしておきなさい」
ジャスミンはポテトチップスを齧りながら、片手をひらひらと振った。都が地下室の唯一の出入り口であるドアに近付くと、千代が素早くドアを開ける。都はそのままドアを出て、階段を登っていった。千代は都の姿が見えなくなるまでお辞儀をすると、頭を上げ、ドアを閉めた。
「今夜はホラーな見世物でしたねェ!」
場違いに明るい声が響く。
「すっげー怖かったな。滅茶苦茶怒ってたじゃねえか」
淳蔵がずっと片手に持っていた酒に、漸く口をつける。
「夫婦間でも強姦は成立する、だっけ? ということは、ひろは・・・」
俺はそれ以上は言わなかったし、言いたくなかった。
「この状態で三日も生かしておけだなんて、全く恐ろしい。それができるお前は何者なんだよ、ジャスミン」
直治の言葉にジャスミンは顎に手をやり、首を捻ってなにかを考える仕草をした。そして立ち上がってシンクで手を洗うと、直治に歩み寄る。ジャスミンは『人の形』をしている時は、一条家では一番背が高い。恐らく2m近い背丈だ。必然と、直治が見上げる形になる。ジャスミンはにやりと笑うと、ゆっくりと直治の顔に手を伸ばした。何故か直治はそれを避けなかった。ジャスミンに片手で顔を鷲掴みにされた直治は一瞬目を見開くと、小さく呻き、眠るように目を閉じた。崩れ落ちる直治の身体をジャスミンが支え、床に横たえる。
「なッ!?」
淳蔵の声。ソファーに座っていた俺達は思わず立ち上がった。ジャスミンはそのまま地下室を出ていく。
「うう・・・」
直治はすぐに起き上がった。
「直治、大丈夫か?」
俺達は直治に歩み寄り、様子を見守る。
「だ、だい、じょうぶだ・・・」
眠らされて夢を見ていたのだろうか。寝起きの顔をしている。
「なにを、見たんだ?」
「あいつ、は・・・、ジャスミンは・・・、」
天国と地獄は異世界の一つ。神や天使、魔王や悪魔が住んでいる世界の総称に過ぎず、地球で暮らしている生きものが生前の行いによって行き先が決まるのではない。地球の生きものが『善い者』と考えている魂が天国の住人に気に入られやすく、『悪い者』と考えている魂が地獄の住人に気に入られやすいだけ。経年劣化を経て機能を停止した肉体や魂は地球という『箱庭』から取り出されて、修理してまた使ったり、コレクションとして飾ったり、おもちゃとして遊んだり、不要なモノとして存在を消す。そうして箱庭で遊んでいるのが、いにしえの時代に不老不死を得た、進化も退化もできなくなった存在の、唯一の楽しみ。
ジャスミンは底なしの悪意と圧倒的な力を持つ存在。
その力は異世界の治安や様子を一変させる程のもの。
暇潰しに生命の誕生から終焉までを観察していた時に、一条都という存在を見つけた。ジャスミンは都の虜になった。政を全て放り出して朝も夜もなく都を見つめ続けた。ジャスミンの圧政に耐えかねていた者達が、これを好機と見て反乱を起こす。ジャスミンはそれら全てを呆気なく滅ぼした。そして再び都を見つめる。そんな様子を見かねた、唯一ジャスミンに力で対抗できる最高位の存在に咎められ、言い争いに発展し、やがて力の対決になった。ジャスミンは相手の八割程の力を失わせることに成功したが、悍ましく醜い姿にかえられ、愛しの都の居る地に堕とされた。都に拒絶されることでこれ以上ない程の絶望を味わわせ、弱体化したジャスミンを殺す算段だったのだ。
『犬さん、あのね、犬さんはおめめが二つ、あんよは四つ、尻尾は一本、お口は一つなんだよ』
正真正銘の人間の少女である都は、不気味な姿のジャスミンに悲鳴を上げるどころか『変な犬』に『正しい犬の姿』を教えただけで、家に拾って帰って飼うつもり満々でいたのだ。拒絶されるどころか受け入れられてしまったジャスミンは希望よりも強い感情であっという間に力を取り戻し、ラブラドール・レトリーバーの子犬に変身して都の小さな腕の中に飛び込んだ。
「・・・それ以来、愛し愛されることで力を増幅させるジャスミンに、都以外は手出しができないってわけだ」
直治はそう、締め括った。
「やべー犬ですニャ」
千代がチェシャ猫のように笑う。俺はあんまり笑えなかった。
「不老不死は、完璧ではないんだな」
以前から知っていることを、俺は再確認するために口にする。
「それで人の姿のジャスミンは『お尋ね者』ってわけかァ」
「まだ敵が居るってことだな・・・」
「それよりもだな」
直治は苦笑を堪え切れず、唇の端を歪める。
「あいつ、勉強が苦手なんだな・・・ンフッ・・・」
「へ? 勉強?」
「都が大人になった時に自分のことを話したら『政治について勉強しないからそうなるの!』と怒られたそうだ。それと、日本語。極東のちっせえ島国の言語なんて読み書きを覚える意味ないと考えていたことも都に怒られて、俺達みてぇに一日六時間、都に教えてもらったものの、出来が悪過ぎてひらがなだけで諦めたと・・・」
「馬鹿犬、ですね・・・」
桜子の皮肉に、皆で静かに笑った。
都が歌い始める。
「其処に、出生の意志が、載つて居り、現在は、酸素を押し返そうと必死です、まう、亡骸は、消去完了。何處にも桃源郷は、無いと云ひます」
紫苑の元夫、名は健司。健司の首には鉄の首輪が嵌められ、吊り下げて窒息させるために鉄の鎖が天井に伸びている。直治の手元には鎖の長さを調節するレバー。健司は必死につま先立ちをして、息をしようとしている。
「苦しいですか? 健司さん。『絞めると締まりが良くなる』んでしたっけ。男もそうね、窒息させると勝手に勃起するみたい。貴方も快楽を感じているんでしょう?」
いつもの、人間が痛苦に悶えて狂うのを楽しむ雰囲気は無い。都の目に『異常さ』が湛えらている。
「僕は、両の肢から、認知しました」
澱んだ空気を透き通った声が震わせる。
「此処に、『半分の意味』を、見出して、現在は、酸素を吸ひ切つてしまふ準備中です、亡骸に、弁護は不要。何處にも桃源郷が、無いの、な、ら」
テーブルに並べてある拷問用の鉄の串を、都が手に持つ。
「お造り致しませう」
健司の両の眼球に、串を突き刺す。首を絞められているので濁って掠れた絶叫が上がった。
「生むで廃棄する勇氣」
ジャスミンはポテトチップスといちごミルクをお供に、都の静かな怒りを観察している。
「空を斬つてゆく庖丁」
都はテーブルの上のナイフを手に取り、健司の肋骨の下からの皮膚を切り取り始める。
「今日、胎盤、明日」
健司の内臓が垂れる。
「僕を食しても、植わらない理由は」
健司の血を踏みしめながら、都がゆっくりと、その場で回る。
「渾て獨りぼつちだから」
からんからん、と音が鳴る。都がナイフを床に投げ捨てた。
「偖は、こんな輪廻と、交際をする、業が、お嫌ひなのでせう。当然です、未だ」
すう。
「何の『建設も着工』してゐない。白紙に還す予定です。お顔を、さあ、拝見させて、く、だ、さい・・・」
それは怨嗟だったのだ。
「ジャスミン、三日、生かしておきなさい」
ジャスミンはポテトチップスを齧りながら、片手をひらひらと振った。都が地下室の唯一の出入り口であるドアに近付くと、千代が素早くドアを開ける。都はそのままドアを出て、階段を登っていった。千代は都の姿が見えなくなるまでお辞儀をすると、頭を上げ、ドアを閉めた。
「今夜はホラーな見世物でしたねェ!」
場違いに明るい声が響く。
「すっげー怖かったな。滅茶苦茶怒ってたじゃねえか」
淳蔵がずっと片手に持っていた酒に、漸く口をつける。
「夫婦間でも強姦は成立する、だっけ? ということは、ひろは・・・」
俺はそれ以上は言わなかったし、言いたくなかった。
「この状態で三日も生かしておけだなんて、全く恐ろしい。それができるお前は何者なんだよ、ジャスミン」
直治の言葉にジャスミンは顎に手をやり、首を捻ってなにかを考える仕草をした。そして立ち上がってシンクで手を洗うと、直治に歩み寄る。ジャスミンは『人の形』をしている時は、一条家では一番背が高い。恐らく2m近い背丈だ。必然と、直治が見上げる形になる。ジャスミンはにやりと笑うと、ゆっくりと直治の顔に手を伸ばした。何故か直治はそれを避けなかった。ジャスミンに片手で顔を鷲掴みにされた直治は一瞬目を見開くと、小さく呻き、眠るように目を閉じた。崩れ落ちる直治の身体をジャスミンが支え、床に横たえる。
「なッ!?」
淳蔵の声。ソファーに座っていた俺達は思わず立ち上がった。ジャスミンはそのまま地下室を出ていく。
「うう・・・」
直治はすぐに起き上がった。
「直治、大丈夫か?」
俺達は直治に歩み寄り、様子を見守る。
「だ、だい、じょうぶだ・・・」
眠らされて夢を見ていたのだろうか。寝起きの顔をしている。
「なにを、見たんだ?」
「あいつ、は・・・、ジャスミンは・・・、」
天国と地獄は異世界の一つ。神や天使、魔王や悪魔が住んでいる世界の総称に過ぎず、地球で暮らしている生きものが生前の行いによって行き先が決まるのではない。地球の生きものが『善い者』と考えている魂が天国の住人に気に入られやすく、『悪い者』と考えている魂が地獄の住人に気に入られやすいだけ。経年劣化を経て機能を停止した肉体や魂は地球という『箱庭』から取り出されて、修理してまた使ったり、コレクションとして飾ったり、おもちゃとして遊んだり、不要なモノとして存在を消す。そうして箱庭で遊んでいるのが、いにしえの時代に不老不死を得た、進化も退化もできなくなった存在の、唯一の楽しみ。
ジャスミンは底なしの悪意と圧倒的な力を持つ存在。
その力は異世界の治安や様子を一変させる程のもの。
暇潰しに生命の誕生から終焉までを観察していた時に、一条都という存在を見つけた。ジャスミンは都の虜になった。政を全て放り出して朝も夜もなく都を見つめ続けた。ジャスミンの圧政に耐えかねていた者達が、これを好機と見て反乱を起こす。ジャスミンはそれら全てを呆気なく滅ぼした。そして再び都を見つめる。そんな様子を見かねた、唯一ジャスミンに力で対抗できる最高位の存在に咎められ、言い争いに発展し、やがて力の対決になった。ジャスミンは相手の八割程の力を失わせることに成功したが、悍ましく醜い姿にかえられ、愛しの都の居る地に堕とされた。都に拒絶されることでこれ以上ない程の絶望を味わわせ、弱体化したジャスミンを殺す算段だったのだ。
『犬さん、あのね、犬さんはおめめが二つ、あんよは四つ、尻尾は一本、お口は一つなんだよ』
正真正銘の人間の少女である都は、不気味な姿のジャスミンに悲鳴を上げるどころか『変な犬』に『正しい犬の姿』を教えただけで、家に拾って帰って飼うつもり満々でいたのだ。拒絶されるどころか受け入れられてしまったジャスミンは希望よりも強い感情であっという間に力を取り戻し、ラブラドール・レトリーバーの子犬に変身して都の小さな腕の中に飛び込んだ。
「・・・それ以来、愛し愛されることで力を増幅させるジャスミンに、都以外は手出しができないってわけだ」
直治はそう、締め括った。
「やべー犬ですニャ」
千代がチェシャ猫のように笑う。俺はあんまり笑えなかった。
「不老不死は、完璧ではないんだな」
以前から知っていることを、俺は再確認するために口にする。
「それで人の姿のジャスミンは『お尋ね者』ってわけかァ」
「まだ敵が居るってことだな・・・」
「それよりもだな」
直治は苦笑を堪え切れず、唇の端を歪める。
「あいつ、勉強が苦手なんだな・・・ンフッ・・・」
「へ? 勉強?」
「都が大人になった時に自分のことを話したら『政治について勉強しないからそうなるの!』と怒られたそうだ。それと、日本語。極東のちっせえ島国の言語なんて読み書きを覚える意味ないと考えていたことも都に怒られて、俺達みてぇに一日六時間、都に教えてもらったものの、出来が悪過ぎてひらがなだけで諦めたと・・・」
「馬鹿犬、ですね・・・」
桜子の皮肉に、皆で静かに笑った。