一般教養教育に関するミルの考え

文字数 1,454文字

 一般教養とは何だろうか。ブリタニカ国際大百科事典には、それに関する教育について、次のように記されている。

職業的専門的知識技能に対し,広く人間として共通にもつべき教養。ギリシア時代の自由教育を原型とするヨーロッパにおける伝統的な概念で,時代により,その時代の特徴を反映したいろいろな様態を示したが,人間の普遍的,全体的,調和的完成を目指す点では一貫していた。

ここには、ヨーロッパで行われてきた一般教養教育の目標が「人間の普遍的,全体的,調和的完成」だと記されている。しかし、この目標は、ジョン・スチュアートミルが講演で述べた一般教養教育の極致とは必ずしも一致しないようである。以下では、ミルが重視した探究活動に言及し、現代日本の一般教養教育においても探究的学習が十分には実施されていないことを述べる。
 医学、法学、神学課程に入る前の一般教養教育の極致について、ミルは以下のように述べている。

その最終段階においては、諸科学の「体系化」、すなわち、人間の知性が既知のものから未知のものへと進むその進み方についての哲学的探究が含まれています。われわれは、人間精神が自然探究のために所有している手段についての概念を広範囲に適用することを学ばなければなりません。つまり世界に実在する諸事実をいかにして発見するか、それが真の発見であるか否かを何によって検証するかを学ばなければなりません₁。

つまりミルは、人間の普遍的,全体的,調和的完成というよりは、哲学的探究活動、世界の真なる諸事実を探求し、発見を検証する活動こそが「一般教養教育の極致であり、完成」だと言っているのである。
 こうした探究活動の方法はいろいろ考えられるが、レポートや論文の作成などもその一つであろう。石原は、論文をかくことは「生き方や人生観に関わる」と述べており、文学的研究は、生き方の探究に関わるものだと捉えているようである。
 さて、こうした探究活動は現代日本の一般教養教育で十分に実施されているのであろうか。石原は、レポート課題について、次のように述べている。

演習なら、僕は通年の授業で二〇枚以上(八〇〇〇字以上)のレポートを四回、半期の授業で十枚以上(四〇〇〇字以上)のレポートを三回課す。もちろん、すべて添削した上でコメントを付して返却する。もし、今の大学でこれくらいのことをやっていないとしたら、それは間違いなく手抜きだと断言できる₂。

 放送大学という通信制大学には、『日本語アカデミックライティング』という科目があるそうだが、一般教養教育として提供されていると考えられるこの科目に、上記の基準を適用してみよう。この科目は、半期で通信指導一回と単位認定試験しか課されておらず、受講生の意見を基に推測すると、唯一の添削課題であろう通信課題は原稿用紙十枚に満たないようであり、単位認定試験は記述式ではなく、選択肢式の問題である。したがって、この科目の講師は手抜きをしていると断言できることになる。
 調査事例があまりに少数なので、誤謬(ごびゅう)のリスクはあるが、石原は「教育にさほど重きを置かないいまの日本の大学では、どの学生でもこういう経験ができるわけではない。」と述べていることからも、ミルが一般教養教育の極致として重視した探究活動は、日本の一般教養教育で十分に保障されていない可能性があるといえる。




₁ ジョン・スチュアートミル著. 竹内一誠訳. 2016. 『大学教育について』. 岩波書店
₂ 石原千秋. 2006. 大学生の論文執筆法. ちくま新書
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