『文学部唯野教授』の批評理論

文字数 5,385文字



 気軽な読書で、わざわざ文学理論や批評理論を参照しながら読む必要など全くないと思われるが、それはともかく、この批評理論を扱ったベストセラー小説に、『文学部唯野教授』という本がある。岩波はこんな宣伝文句を書いている。

これは究極のパロディか,抱腹絶倒のメタフィクションか! 大学に内緒で小説を発表している唯野先生は,グロテスクな日常を乗り切りながら,講義では印象批評からポスト構造主義まで壮観な文学理論を展開して行くのであったが….「大学」と「文学」という2つの制度=権力と渡り合った,爆笑と驚愕のスーパー話題騒然小説.
 
 この宣伝文句の通り、この小説では主人公である唯野教授は、小説の中で批評理論の講義を展開するのである。この講義はイーグルトンの『文学とは何か』の入門書になる、「どこの大学でも通用する本物の講義 ₁」と評価されているが、どの講義も誰にとってもわかりやすいわけではない。
 この『文学部唯野教授』は、現代の文学理論や批評理論で重視されるメニッポス的風刺の作品だと指摘する声があり、批評理論によって文学テクストを解釈する方法が注目されていると言われる状況で₂、この本を検討することは、いささかの意義があるようにも思われる。そこで、以下では『文学部唯野教授』で扱われている批評理論のうち、この作品の特徴を分析するのに有益なロシア・フォルマリズムと受容理論を取り上げ、最後に主題と関係する結末を検討し、ロシア・フォルマリズムで主張される異化作用という規定には限界があること、受容理論は必ずしも閉鎖的ではないことを述べたうえで、作品全体の主題について、先行批評とは異なる見解を提出したい。

1 ロシア・フォルマリズム

 ロシア・フォルマリズムの一派が発展させたオストラネーニエ(異化)は、文学と非文学を区別する有力な規定と言われる₃。これは、「慣れ親しんだもの、<ファミリア―>なものを<ファミリア―>でなくする操作₄」と捉えられるようなものであり、『文学部唯野教授』では次のような例が示されている。

喧騒と、やみくもな怒りの中にあるわが若き教え子たちよ。唇歯輔車(しんしほしゃ)としての君たちに対するわたし。おお、七曜前にさかのぼるそのわたしの世迷いごとからたちまちにして時間は流れた。今となって尚、君たちがその心に喚起できるわたしの言辞とはどれほどのものなのかすこぶる疑問だ₅。

 この規定は文学とは何かに対するすぐれた回答ではあるが、問題もある。たとえば、『文学部唯野教授』では、使い古された用語は「自動化」され、もはや日常用語以上の異化効果がないと「どこの大学でも通用する本物の講義 」の中で語られている。
 ここでは、別の観点から異化効果による文学の規定が通用しない例を示したい。大橋は『とはずがたり』を「これが書かれた時代には、ありふれた表現であっても、いまのわたしたちには異様なもの、珍しいものであって、これでじゅうぶんに文学している₆」と述べているが、これは日記文学であるから、たとえ現代語で書かれているとしても、文学性は認められる作品ではないだろうか。一方、御堂関白日記はこれとは異なるもので、たとえば次のような文体である。

相撲止事仰有。諸寺仁王経転読事。即頭弁。三所大祓事。

相撲(すまい)(とど)むる(こと)(おお)()り。諸寺(しょじ
)
仁王経(にんのうきょう)転読(てんどく)(こと)(すなわ)頭弁(とうべん)に。三所(さんしょ)大祓(おおはらえ)(こと)

変体漢文による文体は現代では異化効果を有するけれども、公的生活を記録したこの日記はあくまで日記なのである。
 このように、ロシア・フォルマリズムの規定も、ある時代のある人たちによるイデオロギーであり、先に述べたような、この規定では捉えきれない例が存在する。

2 受容理論

 受容理論は、文学作品を未完成とみなし、空白や不確定箇所が具体化されることで作品は完成へと導かれると考えるのだが、文学テクストを読む過程において、読者は持っていた偏見を攪乱(かくらん)され、あらたな認識に至ることが想定される₇。『文学部唯野教授』の講義では、偏見の攪乱について「否定作用」という用語を用いて説明されている₈。

読者が『空所』の部分をいろいろ勝手に想像することによって、それまでの自分の習慣やものの見かたをしている限りは絶対に見えてこないようなものを見えるようにする『否定作用』がある。

『空所』による想像力と『否定作用』によって、現実の慣習の欠陥がどうしようもなく見えてきてしまう。これが文学作品の効果だってわけ。

 この批評理論については、読者行為を閉鎖的なものにするという批判がある。たとえば、『文学部唯野教授』には、次のような記述がある。

いくら文学作品が読者に働きかけ、読者が文学作品に問い返し、さらにまた文学作品が読者を修正するなんて言ったって、これはずいぶん理想的に思えるけどさ、実はこういう読者はすごい批評能力を持った読者じゃないのかな。ただひとつの正しい解釈は存在しません、なんていくら格好のいいこと言ったって、このような、文学作品と読者のやりとりというか回路っていうか、こういうのはやっぱり閉鎖的であって、文学の専門家の間での、いわゆる文学制度の閉鎖性と同じでしょ₉。

 読者が自ら作品の空白や不確定箇所を主観的に具体化し、文学テクストの読解を通して自分の認識を改めるという読者本位の考えを批判したものと思われるが、空所の具体化の仕方が各人で多様であるならば、他者による解釈との直接的、間接的交流を通して読書経験を深めることが可能であり、読書経験を閉鎖的な個人的読書行為を前提とする必要はないと思われる。
 受容理論は、「作品を囲繞(いにょう)する現実のコンテクスト」へ向かう回路が遮断(しゃだん)され、「作品を読むとは、実際には自分自身を読むことである以上、読者は自己とは出会えても他者と出会うことはありません。作品を読めば読むほど、読者は自己確認の迷路にとりこまれて脱出できなくなります」と批判されることがあり₁₀、たしかに、独善的な読みのリスクがあるとはいえるものの、空白や不確定箇所に対する他者の具体化を考慮することで、こうしたリスクを軽減することができるのではないだろうか。

3 『文学部唯野教授』の主題

 『文学部唯野教授』の中で、「その次がマルクス主義批評。これはぼくの講義が展開のしかたの面でいちばんお世話になっている、イギリスのマルクス主義批評家で最近では小説まで書いているテリー・イーグルトンを中心にしてお話ししましょ₁₁。」と述べられている通り、この作品の、特に講義の部分の元になっている本は『文学とは何か』である。この本は、批評理論を説明する一方で、「文学理論を歴史化し相対化し、とことん、けなしまくって埋葬するという面₁₂」がある本なのだが、『文学部唯野教授』も、それぞれの講義で批評理論をけなして批評するところがある。
 大橋は、イーグルトンの「ほぼまんべんなく見渡した分野の批評理論を、全部、否定してゆく₁₃」やり方を「多様な意見なり見解なりを、そのどれにも優位性を付与することなく並列するというメニッポス的風刺の方法₁₄」と捉えているようであるが、『文学部唯野教授』もこのようなものだと認識している。具体的には、最終的に唯野が作家になったのはメニッポス的戦略であり、批評したり、解釈したり、分析するだけの立場から、書き、創造する立場へ脱出し、国文科の女学生と再会することで地獄めぐりは終わり、「最終的に文学理論を埋葬しているといえる₁₅」と捉えられているのである。
 しかしながら、大橋の批評は不確定箇所の具体化であり、『文学部唯野教授』の主題に関しては、別の捉え方ができるように思われる。まず、結末についてであるが、たしかに唯野はサイン会を開き、作家としての気分を味わい、幸福感に浸るのだが、大学を辞めたことは明確には示されていない。小説の中では最後となる、夏季休暇に入る前の講義では、今後の予定が述べられた後、「文学の実作を試みると同時にそうした理論を構築するための研究にとりかからなくちゃね」と述べられている。また、唯野と文芸誌の編集者との会話には、次のようなものがある₁₆。

「そこでぼくの野心だけどさ、小説を書きたいというのはその野心のうちのほんの一パーセントに過ぎないわけ」
「えっ。では残り九十九パーセントの野心というのは」
「君にはわからないだろうけど、新たな文学理論を確立したいという野心です」

ここでいう新たな文学理論とは、夏季休暇前の最後の講義で述べられた、「虚構の、虚構による、虚構のための理論というのがあり得るか得ないか。むしろ虚構の中から生まれた、純粋の虚構だけによる理論でもって、さっき言ったようなあらゆる分野の理論を逆に創造してしまうことさえ可能な、そんな虚構理論」のことである₁₇。
 このように、唯野は新しい批評理論をつくるという野心があったのだが、それが作家となったことで消え失せたとは書かれておらず、唯野が大学を辞めず、新しい批評理論の創造に取り組む可能性が否定されていない以上、大橋の読みは不確定箇所の具体化の一つなのである。
 次に、では一体どのような読みが可能なのであろうかという問題を考えたい。大橋が言うように、この小説は「唯野教授の講義部分」と「大学の内情を暴露的にカリカチュアした部分」に分かれる₁₈。しかし、講義の部分も唯野による批評理論を(けな)す批評が入るので、いずれにしても批評理論および、大学の権威というものを否定するのがこの小説の主題であるように思われる。
 大橋は「日本にはすべてをまんべんなく語れる頭のいい人がいて、批評理論をまんべんなく紹介して、すべてをみる超越的な姿勢を誇示し、それによって権威というものを維持しようとする人たちがいます₁₉。」と述べているが、『文学部唯野教授』には、このような態度を示す教員たちを揶揄(やゆ)する箇所が随所(ずいしょ)にみられる。たとえば、唯野の講義に次のような箇所がある。

だいたい批評家って人たちは、本来は作家がいるからこそ生きていける人たちなんて、最初から作家に負けてるわけなんだけど、どうしても作家に勝とうとするの。でもやっぱり作家にかなわない₂₀。

ほかにも、文学賞を受賞した唯野に対して、次のように述べる教授が描かれている。

小説なんてものは人格を下落させなければ書けないものなんだ。貴様はもう学者として泥がついた。貴様はもう共産党だ。もう駄目だ。文学賞なんかとったりしやがって。自慢なのだろう。それがもう人格低下の証拠だ。いやしくも大学教授なら、文学賞なんてものはすぐとれるんだ₂₁。

わしなんかもっともっと書いてるんだぞ。しかも学術論文をだ。小説なんかじゃないぞ。学術論文だぞ。学術論文だぞ。・・・・どうだ凄いだろう。どうだ凄いだろう。ぼくに勝てると思ってるのか。ぼくには勝てないんだぞ。ぼくより有名になったって駄目なんだぞ。有名になんか、誰だってなれるんだ。ぼくみたいな偉い学者には誰もなれないんだからな。くそ。小説家なんて誰も尊敬しないんだぞ。・・・・₂₂

大橋は「現代の批評理論は権威に挑戦しそれを否定する方向にある₂₃」と述べているが、『文学部唯野教授』もそれを志向する小説であろう。




₁ 大橋洋一. 1995. 「第一講 メニッポス的風刺の誘惑」『新文学入門』. 岩波書店. p.14
₂ 廣野由美子. 2005. 『批評理論入門「フランケンシュタイン」解剖講義』中央公論新社. p.i
₃ 大橋洋一. 1995. 「第二講 閉ざされた窓」『新文学入門』. 岩波書店. p.33
₄ ibid.
₅ 筒井康隆. 1990. 文学部唯野教授. 岩波書店. p.95
₆ 大橋洋一. 1995. 「第二講 閉ざされた窓」『新文学入門』. 岩波書店. p.40
₇ 大橋洋一. 1995. 「第四講 読者の運命」『新文学入門』. 岩波書店. pp.95-100
₈ 筒井康隆. 1990. 文学部唯野教授. 岩波書店. p.196
₉ ibid. p.199
₁₀ 大橋洋一. 1995. 「第四講 読者の運命」『新文学入門』. 岩波書店. p.101
₁₁ 筒井康隆. 1990. 文学部唯野教授. 岩波書店. p.301
₁₂ 大橋洋一. 1995. 「第一講 メニッポス的風刺の誘惑」『新文学入門』. 岩波書店. p.13
₁₃ ibid. p.19
₁₄ ibid. p.18
₁₅ ibid. p.15
₁₆ 筒井康隆. 1990. 文学部唯野教授. 岩波書店. p.301
₁₇ ibid. p.302
₁₈ 大橋洋一. 1995. 「第一講 メニッポス的風刺の誘惑」『新文学入門』. 岩波書店. p.14
₁₉ ibid. p.24
₂₀ 筒井康隆. 1990. 文学部唯野教授. 岩波書店. p.227
₂₁ ibid. p.281
₂₂ ibid. p.282
₂₃ 大橋洋一. 1995. 「第一講 メニッポス的風刺の誘惑」『新文学入門』. 岩波書店. p.24

参考文献
大橋洋一. 1995. 「第一講 メニッポス的風刺の誘惑」『新文学入門』. 岩波書店
筒井康隆. 1990. 文学部唯野教授. 岩波書店
廣野由美子. 2005. 『批評理論入門「フランケンシュタイン」解剖講義』中央公論新社
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