虫すだく 1 (1)

文字数 912文字

 雨が小さなのぞむを打つ——
 ぽたぽたというこの雨音さえ、煩わしい。

 冬の入口の雨は、のぞむの体を冷気で包む。唇は紫色になり、顔は色を失ったが、体が震えるのを必死でこらえた。
 なぜなら、あの女が暖かな室内から自分を見ているからだ。
 寒さがこたえているとは絶対に悟られたくなかった。あの女を、喜ばせたくなかった。

 門の前に立ち尽くすのぞむの視線が、自然と向かいの家に行く。
 その家は倉沢家という。
 のぞむと同い年で、(ただし)という少年が住んでいた。
 その少年とは物心ついた時から仲がよく、のぞむは家にも何度も遊びに行ったことがある。
 
 その家の勝手口に通じる小さな門を、誰かが入っていくのが見えた。
 黒い大きな傘をさした、背の高い人だった。たぶん、大人の男の人だろう。

 倉沢の家には大人の男の人は一人しかいない。矩の祖父だけだ。
 でも、家長である祖父は、勝手口から入るようなことはしない。

 その男の人が倉沢家で何をしているのかは、小さなのぞむには見えなかったし、想像もつかなかった。
 倉沢家の敷地に建つ古びた蔵が、勝手口の死角になっていた。

 ふいに雨粒が落ちてこなくなった。
 髪が雨にぬれて重く、いつの間にか(こうべ)をたれていたのぞむは、顔を上げる。

 自分と同じくらいの身長の少年が、傘をさし出し、冷たい雨からのぞむを守っていた。

 雨を遮る傘がありがたく、のぞむの胸に熱いものが込み上げてくる。
 だが、それをぐっとこらえた。

 塾から帰ってきた矩は、門の外に追い出されたのぞむを見つけた。またか、と思った。
 桂木家に雇われている家政婦が、女主人が入院していて不在なことをいいことに、主家の娘をいたぶっていることを、矩は知っていた。
 矩だけではない、このことは神代市咲梅地区では周知の事実だ。

 晩秋の夕暮れ、雨の日に小さな子供を傘も持たせずに外に出すなんて、非道極まりない。
 矩は自分の母親や祖父に家政婦の仕打ちを訴え続けているのだが、大人たちは他家に関わるのを嫌って、矩の言葉に耳を貸さない。

 自分を見上げてくるつぶらな瞳に、胸がしめつけられる。体は疲労の極限に達していても、瞳は虐待に屈しない強い光を放っていた。

「——また出されたのか?」
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登場人物紹介

加賀美 朔 (かがみ さく)

他人に興味がなく、感情というものを持ち合わせていない。

人に言えない秘密を抱えている。

自動車整備士。

桂木 奏凪 (かつらぎ そな)

姉に虐待を受け続け、逃げ出した先で朔に出会う。

そのまま朔のアパートに住みつく。

桂木 のぞむ

奏凪の血のつながりのない姉。

地元でも評判の美人だが、近寄りがたい雰囲気を持つ。

倉沢 矩 (くらさわ ただし)

優等生で、かわいそうなものを放っとけない性格。

のぞむの幼なじみで、短大の図書館司書。

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