待雪草 1 (5)

文字数 828文字

          *

「久しぶり」
 矩は奏凪に声をかけた。
 長い廊下の向こうからやってくる矩の姿を見つけた奏凪は、黙って頭を下げる。
 矩は自分より遥かに背が低い奏凪を見下ろした。黙っていても満開の花のように華やかなのぞむに比べ、地味だと言われる奏凪だが、やわらかい雰囲気が矩の心を癒やす。

 そばで見ていた井上は、奏凪に対する矩の目つきが、のぞむに対するそれとは違っていることを敏感に感じていた。
 かなり前から気づいていた。気が利かないのではない。わざと愚鈍なふりをして、矩を中心とした三角関係をあおっているのだ。

「スーツ姿なんて初めて見た。大人っぽいねー」
 ほめられたのか揶揄されたのかわからない言葉に、奏凪は照れるでもなくうつむく。
「就職活動をしてるんだって? どうだった?」
 奏凪はゆっくりと首を横にふる。
「じゃあ、うちの図書館においでよ。雑用をしてくれる人を募集してるんだ」
 奏凪は顔を上げ、矩ではなく、背後に立つのぞむを見た。

 日本家屋の廊下は、総じて薄暗い。そこに立ち尽くす継姉の姿。
 のぞむから立ち上る気配が、奏凪をおびえさせた。

 我が家に甘く響く矩の声に、のぞむは耳をふさぎたかった。
 矩の自分に対する口調と奏凪に対する口調が、あからさまに異なっていた。
 それが何を意味するのか、認めたくなかった。

 ムーンストーンを贈られ、『恋人たちの石』だと浮かれた己の浅はかさ、『涙知らずの石』をプロポーズされたのだとかんちがいしてはしゃぎ、身につけた己の愚かさ。
 のぞむは内心身悶えし、己を恥辱の底に突き落とした奏凪を激しく憎悪した。

 奏凪の視線を追い、矩はふり返る。
「のぞむもオッケーだろ? さっき協力してあげないとって言ってたよな」
 邪心などひとかけらもないさわやかな笑みを向けられ、のぞむは渋々うなずく。

 押し殺していたものの、悔しさにわずかに表情が歪んだのを、井上は見逃さなかった。ざまみろと、吹き出したかった。しかし慎重に鉄面皮をひきしめた。

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登場人物紹介

加賀美 朔 (かがみ さく)

他人に興味がなく、感情というものを持ち合わせていない。

人に言えない秘密を抱えている。

自動車整備士。

桂木 奏凪 (かつらぎ そな)

姉に虐待を受け続け、逃げ出した先で朔に出会う。

そのまま朔のアパートに住みつく。

桂木 のぞむ

奏凪の血のつながりのない姉。

地元でも評判の美人だが、近寄りがたい雰囲気を持つ。

倉沢 矩 (くらさわ ただし)

優等生で、かわいそうなものを放っとけない性格。

のぞむの幼なじみで、短大の図書館司書。

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