虫すだく 3 (6)

文字数 770文字

「早く手を出して! 私が井上さんの爪を切ってあげるんだから」
「はぁ?」
 あまりのことに井上は間抜けな表情になった。
 のぞむが自分の爪を切ってあげたい、だって?

「何をご冗談を……お嬢様にそんなことはさせられません……」
 とまどうあまり、どもりながら、遠回しに断る。
「私がやってあげたいの。ほら、こんなに爪がのびてるじゃない。さあ、手を出して」
 なかなか手を出そうとしない井上の右手を、優しく取る。そして、おぼつかない手つきで切り始めた。

 パチン、パチン。

 最初は順調に進んでいたが。

「痛っ」
 激しい痛みを感じ、井上は思わず手をひっ込めてしまう。

「あっ、ごめんなさいっ」
 井上の小指から血がしたたるのを呆然と眺めながら、のぞむは涙にうるむ目で井上を見上げ、可愛らしい声であやまった。
「どうしよう……血が……」
 のぞむの必死な面持ちに、わざとではなかったのだと井上は思った。のぞむが演技などできない性格であることは、井上が一番承知している。
「大丈夫です。ちょっと皮が切れただけですから。もう爪を切らなくていいです」
「……ほんとに……ごめんなさい……痛かったでしょ?」
 と言いながら、シクシク泣き出した。井上はギョッとする。
 この弱々しい姿、この殊勝げな態度。
 一度も涙など見せたことなどないのに、この変貌ぶりはいったいどういうことだろう。

「大丈夫ですから、もう泣かないでください」
 のぞむが自分の暴虐に負けて泣く姿を見たかったはずなのに、今は妙な違和感しか覚えない。一刻も早く、この場から逃げ出したかった。
 だから、
「これ、かたづけてきます。ついでに絆創膏を貼ってくるので、お嬢様は夕食を食べていてください」
 そう言い置いて、泣き続けるのぞむを残して、そそくさと立ち去ってしまった。

          *

 井上は数日後、スーパーで声をかけられた。
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登場人物紹介

加賀美 朔 (かがみ さく)

他人に興味がなく、感情というものを持ち合わせていない。

人に言えない秘密を抱えている。

自動車整備士。

桂木 奏凪 (かつらぎ そな)

姉に虐待を受け続け、逃げ出した先で朔に出会う。

そのまま朔のアパートに住みつく。

桂木 のぞむ

奏凪の血のつながりのない姉。

地元でも評判の美人だが、近寄りがたい雰囲気を持つ。

倉沢 矩 (くらさわ ただし)

優等生で、かわいそうなものを放っとけない性格。

のぞむの幼なじみで、短大の図書館司書。

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