虫すだく 1 (3)

文字数 816文字

「うん……それより、おじいさんは帰ってきてる? 車があったけど」
「いるわよ。でも、今、奥にいるから」
 母親はそれだけしか答えない。
 矩は首をかしげる。母親にいつもの余裕がないように感じられた。
「おじいさんに本屋に連れて行ってもらう約束してたんだけど、のぞむを連れてきたから今日は行けないって言わなきゃ」

「あら、のぞむちゃん……」
 矩の母親は、玄関のひきちがい戸の陰にぼんやりとたたずむのぞむを見つける。たった一目でのぞむが置かれた状況を把握した。

 ずぶぬれだということにも、この時間に矩が連れてきたことにも言及せず、息子と同じ穏やかな口調で、
「ちょっと待っててね、タオル持ってくるから」
 と、パタパタと奥に戻っていった。

 矩の母親はのぞむを風呂場に連れて行った。
 沸いたばかりの風呂に入れさせてもらい、ぬれたのぞむの服の代わりに、矩のTシャツと短パンを準備してくれ、出てきたのぞむの髪をバスタオルで拭いてくれた。

 こんなふうに母親という人に世話をしてもらうのは、何年ぶりだろう。
 のぞむの母親は病気がちで、入院と退院をくり返していて、昔は世話を焼いてもらったのだろうが、その記憶も薄れて消えかけていた。

 のぞむの世話を焼いている間、いつもは優しく話しかけてくれるのに、今日は黙りがちだった。
 別のことに気を取られているらしく、のぞむの髪を拭く手は機械的だった。
 しかしのぞむは、長く雨に打たれたせいでくたくたで、そのことに気がつかなかった。

          *

 倉沢家の食卓にのぞむも呼ばれた。こたつを囲むように、矩の祖父と母親と、猫を抱いた矩が座る。

 のぞむは矩の隣に並んで座った。こたつが暖かくて気持ちよかった。
 矩の膝の上にいた猫が、のぞむの膝の上にやってくる。やわらかくて温かくて、ほどよい重みが心地よかった。

 食卓では炊き立てのご飯と味噌汁からおいしそうな湯気が立ち、肉じゃがのジャガイモが、出汁を吸って崩れかけている。
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登場人物紹介

加賀美 朔 (かがみ さく)

他人に興味がなく、感情というものを持ち合わせていない。

人に言えない秘密を抱えている。

自動車整備士。

桂木 奏凪 (かつらぎ そな)

姉に虐待を受け続け、逃げ出した先で朔に出会う。

そのまま朔のアパートに住みつく。

桂木 のぞむ

奏凪の血のつながりのない姉。

地元でも評判の美人だが、近寄りがたい雰囲気を持つ。

倉沢 矩 (くらさわ ただし)

優等生で、かわいそうなものを放っとけない性格。

のぞむの幼なじみで、短大の図書館司書。

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