虫すだく 3 (3)

文字数 788文字

「帰ってあげる。その代わり何があっても、すべてあなた一人でやることね。さあ、社会に出たことがないお子ちゃまにどこまでできるのかしら? 頭がいいのと世間を知っているのとはわけがちがうのよ」
 小さなハンドバッグから取り出すと、指先で弾いた。それはひらひらと舞いながら、布団の上に着地する。
「困ったら泣きついてくるといいわ」
 母親の布団の上に汚らわしい物が落ちたことが許せなくて、のぞむはそれをつまみ上げる。

「ごたいそうな役職だこと」
 指先にはさまれているのは、『取締役専務』と印刷されている名刺一枚。それが女の実力だけで得た報酬ではないことを含ませたのだが——揶揄するような笑みを浮かべたのは女の方だった。

          *

「誰かきたの?」
 女が帰った後、のぞむの母が頭をもたげた。そんな仕草さえ、やっとのことだ。

 何かを期待する声に、のぞむは内心いらだちを覚える。母は、十年以上、盆と正月しか顔を見せない父親にいまだに期待をしているのだ。

「誰もきてない……」
 のぞむは嘘をつく。
 のぞむの母親は、父親とあの女の関係を知らない。父親の会社の専務が女であるということすら知らないであろう。

「そう……」
 たった一言に、のぞむの母はあからさまにがっかりする。

 のぞむは制服のスカートをギュッとつかんだ。
 今日も学校に行かなかった。
 朝制服を着ても、母の容体が急変するかと思うと、家の外にも出られなかった。結局、制服を着たまま、母のかたわらで夜を迎えるのだ。

「水をちょうだい」
 母は枯れ枝のような手をさしのべる。
 のぞむは枕元の水さしに目をやった。からだった。
 水を取りに行った井上は戻ってこない。

 ゆっくりと立ち上がった。
 雨だれに頭を落としていた真っ白な牡丹の花房が、滴を払ってもたげるようであった。
 だが、美しい少女の華奢な足は、女が落としていった小さな紙を、踏みにじっていた。
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登場人物紹介

加賀美 朔 (かがみ さく)

他人に興味がなく、感情というものを持ち合わせていない。

人に言えない秘密を抱えている。

自動車整備士。

桂木 奏凪 (かつらぎ そな)

姉に虐待を受け続け、逃げ出した先で朔に出会う。

そのまま朔のアパートに住みつく。

桂木 のぞむ

奏凪の血のつながりのない姉。

地元でも評判の美人だが、近寄りがたい雰囲気を持つ。

倉沢 矩 (くらさわ ただし)

優等生で、かわいそうなものを放っとけない性格。

のぞむの幼なじみで、短大の図書館司書。

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