第6話  ケイコ①

文字数 2,574文字

 翌日。八月八日火曜日。いつものように、出勤一番乗りをセイジ社長と競って負けた七時十五分。デスクに置いたカバンから、六年前にプリンターで印刷した不正検査マニュアルのファイルを取り出し、ケイコの椅子を引き出して座面に置いて、椅子を戻した。デスク上では目立つからだ。

昼休み。食堂でランチBの鯖の味噌煮を食べていると、対面に座っているケイコが、SNSで文句を言ってきた。
「なんで最新版じゃないんですか?」
「物入りだし、最新版じゃなくてもいいだろ」篠崎もスマホで返す。
「経理部の図書費で買えばいいじゃないですか」即座に返ってきた。
「経理が持っていたら、監査室が不審に思う」
「あの人たち、元帳も見たことないし、固定資産台帳の実査もしたいことないし、ましてや五万円未満の経費なんか、金額とハンコしか見ません。何に使ったかなんて、全然気にしませんよ。買ってください」十秒のリプライ。
「しょうがない。八月予算で買う。届いたら印刷して」一分もかけて返信した。
「CDだから画面で読めるのに、紙の無駄じゃありません?」
「画面より、紙のほうが検索しやすい」
「部長、アナログですね」それだけ返すと、お先に失礼します、と口で言ってケイコは席を立った。SNSなんぞでやり取りしていたため、四十五分しかない昼休みが残り少なくなり、急いでメシをかきこむ羽目になった。
 

午後から篠崎は、経理部の自分のデスクで、ネシアに対するオフサイト(非臨場)調査を開始した。ケイコも特命調査室員だが、経理部員は誰もそのことを知らない。したがって、他人がいる場所では、特命調査の会話はできない。ケイコは自分のデスクで、子会社向けに篠崎部長名で出す英文通知の原稿を作成中である。
どうもこれでは能率がよろしくない。SNSをPC(パソコン)上で使ってみるのも一案だが、他人に履歴を読まれる恐れがある。グループウエアに同梱されていたチャットツールは、社内おしゃべりに使われるという理由でアクティブにしていないが、特命調査室メンバー間だけ相対チャットで使うことを思いついた。
「システム部のあいつにやらせよう」

 篠崎は、ネシアのERP(Enterprise Resource Planning:企業資源統合活用型ソフトウエア)の会計システムに、本社管理者権限でアクセスして、設立以来二年半の、全仕訳をCSVファイルでダウンロードした。英文で制定された勘定科目とそのコードは、全グループ会社で統一させてある。補助科目は子会社ごと独自に採っているが、すべて月次決算が締まるまでに報告させてある。これが判らないと、連結財務諸表作成時に、内部取引の相殺消去に支障が出るためだ。間々、相殺しきれない時があって、新規補助科目の本社連絡漏れということはあるが。
 仕訳データを、篠崎が自作したEXCELマクロベースのCAAT(Computer Assisted
Aoudit Tools:コンピュータ支援監査ツール)にかけて、パラメータを変更しながら、
取引の抽出をした。特に異常なものは見当たらない。
 多額な取引は、シンメカ本社からの仕入と、ネシアでの売上回収金をシンメカ本社に送
金するくらいである。
受注売上・購買在庫システムは、シンメカ本社指定のERP(販売管理・購買管理モジ
ュール)ではなく、現地のITベンダー製である。元々は米国製なのだが、地元企業向けにカスタマイズされ、インドネシア語で請求書や送り状が出せるからという理由で、比良坂が強硬に主張して使用している経緯がある。
そのシステムから会計のERPへのデータは、月末バッチ(一括処理)で一取引先一
仕訳のみ、「シンメカ本社当月仕入高」「●●社、当月売上高」「××社当月入金高」と、月
末日付で入力されていてるだけである。売上・仕入の一取引毎の明細が、シンメカ本社からは全く見えない。これは世界中(といっても十か国しかないが)の子会社で、ネシアだけの例外処理である。
 念のため、シンメカ本社からネシアへの売上実績と、ネシアのシンメカからの仕入額を
突き付き合わせて見たが、異常は無い。これは毎月連結時に相殺消去しているので、差異
があったら本社経理のミスになるから、当然と言えば当然だ。

篠崎は管理棟の中で厳格に区切られた部屋を持つ監査室に赴き、真っ黒に染めた髪の毛を、テカテカのオールバックで固めている、身長は百六十センチだが体重は八十キロはありそうな室長の成田に、今年の六月に実施したネシア監査の調書を見せてくれるよう、丁重に申し入れた。調書とは、実施した監査項目と内容を記述したもので、監査報告書作成の基礎となるものである。
「調書? 報告書が出ているだろう。あれで十分だ。調書なんて、部外者に見せる物じゃない」流行らない四角い金縁メガネに、歯周病の臭気を含んだ声で、まさにケンモホロロで断られた。
「あんたがCIA(公認内部監査人)ホルダーだってことは聞いてる。だが、こっちだってQIA(内部監査士)だ。他人の仕事に首をつっこまないでくれ」
不意を衝かれた焦りだろうか、成田は吹き出した汗を拭っている。余剰な体脂肪を含んだ汗と、体臭隠しに塗布されていたデオドラントが混じって篠崎の鼻を突く。
監査室恒例の、過剰な防衛反応だ。強硬突破はやめて引き下がった。強引に、たとえ社長命令で提出を求めても、耶蘇の奴らは屁理屈こねて従わないのが常だった。

「ブチョー、貸してもらいました。ちょっと甘えたらすぐ出してくれましたよ。今晩、駅前の居酒屋で飲むことにはなりましたけど。そっちの残業代と運転代行費用、よろしくお願いします。でもあのオッサン、息も体も臭くてたまりません。別途不快手当いただきますね」
 篠崎が命じてほんの五分。経理部隣接のミーティングルームに待つ篠崎の元に、ケイコが戦利品の分厚いファイルを抱えてやってきた。
監査室によるネシア監査のエビデンス(証拠)類である。この際、作っているのか疑わしい調書より、生資料の方が主観が入らないだけマシである。早速全部コピーして、三十分も空けずに監査室に返納させた。ケイコには、不快手当代わりに、駅前の有名和菓子屋の喫茶室で、好きなものを注文して良いと提案した。
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登場人物紹介

地方都市で急成長中の精密機器メーカーの経理部長。

実は特命監査室長

技術憧憬癖があり、無線マニア、飛行機マニア。

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