第5話:子供の巣立ちと兄の就職

文字数 1,519文字

 小野田は鈴木のおかげで生きて再び日本へ帰えることができた。鈴木と交わした会話の中で小野田は米軍から盗んだトランジスタラジオを持っていて当時の日本の状況も把握していたという。競馬で戦友と賭けをしたりしたことも話していた。その途方もない29年という歳月を考えるとなぜ?と思う。しかし、小野田は陸軍中野学校に出身だった。そこでの教育は最後の一人になっても戦い、玉砕してはならない。

 捕虜になっても死んではいけないとするもので主力の撤退後も任務を全うするよう教え込まれたためだった。また反撃に備え敵陣内で諜報を行う残置蝶者となるよう叩き込まれていた。かたや鈴木紀夫は、どこの馬の骨的なところから、「小野田寛郎から見つけられた鈴木紀夫」として、一躍、時の人となった。こうして、小野田寛郎は日本に帰国し、いろいろなことを言われ、もう昔の日本はないと考えた。

 そこで、日本に帰国して1年後に、南米・ブラジルに渡った。1974年12月9日、田中金脈問題で田中角栄首相が辞任した。1975年が明け、2月下旬、佐飛克子は上智大学を受験した。そして3月上旬の合格発表に母と一緒に行き、掲示板に貼られた紙の中に自分の受験番号を見つけた。合格を確認し入学の手続きを取った。

 その後、母と一緒に中野駅近くの女子学生の多いマンションに行き入居の契約を取ってきた。こうして、夕方、沼津の実家に帰った。その晩、父に上智大学の合格と女子学生の多い中野のマンションに引っ越すことを伝えた。3月10日、山陽新幹線の岡山駅~博多駅間が開業した。3月末頃、佐飛克子は母と共に中野のマンションへ行った。

 その晩、一緒に夕食を食べて、母は沼津へ帰える時、別れがつらいと涙を見せた。5月10日、ソニー、ベータマックスの家庭用ビデオテープレコーダ1号機、「SL-6300」を新発売した。1976年が明け、7月12日に佐飛初幸はNECの就職試験を受けたいと会社に連絡すると入社試験の資料が自宅に届いた。そして、7月15日にNECの就職試験に応募した。

 その後、7月20日の就職試験を受けてNEC川崎工場へ出かけ、午前中に筆記試験を受け、午後から個人面接を受けた。その後、19時前に沼津の実家に帰ってきた。7月24日に合格通停が届いた。7月27日、ロッキード事件で田中角栄・前首相が逮捕された。8月3日、NECがワンボードマイコンのTK-80を技術者向けに新発売した。

 10月31日、日本ビクターが家庭用VHSビデオテープレコーダ1号機、HR-3300を新発売した。やがて、1977年が明け1月3日、23時半頃、東京都港区で東海道新幹線の列車食堂でアルバイトをしていた男子高校生がアルバイト先から宿舎へ戻った。その途中、品川駅近くの品川スポーツランド正面にある公衆電話に置かれていた未開封のコカ・コーラを拾い、宿舎に持ち帰った。

 翌1月4日の1時過ぎに未開封のコカ・コーラを開けて飲んだところ、男子高校生は異様な味を感じた。そこで、すぐに吐き出し水道水で口をすすぐが突然倒れた。男子高校生は意識不明の重体となり、直ちに病院に運ばれた。病院の救急室で胃洗浄などの救命処置が行われたが、まもなく死亡した。死因は青酸中毒であった。

 しかし、同じ1月4日の8時15分頃、前述の男子高校生がコーラを拾った電話ボックスから第一京浜を約6百メートル北に行った歩道上で作業員が倒れているのが発見された。こちらも病院に運ばれたが死亡が確認された。死因は第一の事件と同様に青酸中毒だった。また、男性が倒れていた場所の近くには男性が開栓したとみられるコーラのびんが発見され残っていたコーラから青酸反応が検出された。
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