第3話:子供の受験と店舗拡大

文字数 1,558文字

 しかし、1971年のニクソン・ショックから1973年の第1次石油ショックまでの3年間は日本経済が戦後最大の波乱にみまわれた。ニクソン大統領がドル防衛の緊急対策を発表したのは1971年8月15日だった。その後、「ドルと金の交換停止」「10%の輸入課徴金実施」「賃金・物価の90日間凍結」を内容とする「ニクソン・ショック」は世界経済を震撼させた。

 先進諸国は為替レートをいっせいにフロート「実質的切り上げ」させ日本も360円の対ドル為替レートを308円に切り上げた。1971年夏、佐飛初幸は沼津高専電気科に入りたいと考え両親に伝えた。1972年が明け、1月7日に佐飛初幸は沼津高専への受験の手続きをとった、そして、1月16日に受験した。1月20日の合格発表に母と一緒に行き、自分の受験番号を確認した。

 その後、入学手続きを取ってきた。一方、佐飛克子は沼津の名門、沼津東高校を受験した。その後、合格発表に母と一緒に出かけ自分の受験番号を探し当てると飛び上がって喜んだ。そして入学手続きを取った。帰りのバスの中で佐飛克子は母に将来、英語に関係した仕事をしたいので上智大学に入りたいと伝えた。自宅に帰ると父にも上智大学英文科を目指すと宣言すると豪気だと喜んだ。

 佐飛初幸は、自宅から自転車で沼津高専に通い、佐飛克子はバスで沼津東高校に通い始めた。この当時の日本経済は1973年2月、各国とともに変動相場制に移行した。日本の景気は1970年後半から停滞し円の大幅なフロートアップで「輸出の減少による国際収支の悪化」と「デフレ・ショック」が懸念された。しかし、円切り上げの影響はほとんど現れなかった。

 それどころか1972年の国際収支は前年を上回る60億ドルあまりの黒字となった。そのため、実質GNPも前年の2倍にあたる8%台の伸び率を示し企業収益も急速に回復し、日本経済がニクソン・ショックを乗りきった。1972年の5月連休に佐飛克子は沼津の予備校に入り上智大学英文科を目指すと宣言した。この頃、田中内閣が新政策の柱にすえたのが「日本列島改造論」だった。

 日本列島改造論はおりからの金融緩和のもとで進行していた企業の土地投機に油を注いだ。それにより土地転がしが始まりマンション投機へ向かった。地価の高騰につれて卸売物価が急上昇し、日本経済はかつて経験したこともない複雑なインフレになった。そんな1972年12月に証券会社から佐飛哲山に電話が入り、以前購入した丸紅株が2回の株式分割で20万株が25株に増えていたと言われた。

 それを聞き全株成り行き売りを指示すると丸紅株の全株が売れ税引き後利益が16350万円で証券口座残金が1億7千万円となった。この結果を聞いて佐飛哲山が大喜びした。その後、佐飛哲山は販売店を5ヶ所「三島駅近くに2店、沼津駅近くに3店」に増やして多くのアルバイトさんを雇った。そして、銀行に借りた金5千万円を全額返した。その結果、佐飛哲山の資産合計が1億2千万円となった。

 そこで、佐飛哲山は奥さんと2人の子供の名義で郵便貯金の定額預金を開き毎年百万円ずつ入金させた。こうして1973年が明けると家族3人に100万円ずつ渡して1年満期の郵貯定額貯金を開くように指示した。そして1973年から佐飛魚店の新しい販売店として三島駅近くに2店、沼津駅近くに3店の計5店でアルバイトさんを使い、土日、連休、観光シーズンに干物を売りまくっていた。

 1973年10月、中東の産油国が原油価格を70%引き上げた。このため、インフレが発生し、狂乱物価と呼ば、その後、第1次オイルショックと呼ばれた。この激しいインフレを抑えようと日本銀行は公定歩合を9%まで引き上げた。この金融引き締めにより景気が悪化し不況に陥ることになった。
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