4 部長は酒の肴になる

文字数 1,655文字

焼き物の煙で店内が見渡せないほどである。盛況の大衆居酒屋の引き戸が開く。
遅れてきた楠が四人掛けの席についた。
「すんません!遅れました。あ、生ね!」
「あ、もう頼んであるわ。」
上着を背もたれに掛けながらオーダーしかけた楠を伏島が制した。
「で、そっちはどうよ?」
「まだ一週間すよ、先週ここで送別会してもらったばっかすよね!」
笑いながら楠は答えた。
楠は春の人事で別部署に移っている。

「緒川、暑くねぇか?ハイ、サンキュー!」
楠が運ばれてきたジョッキを受け取りながら上着を着たままの緒川に訊いた。外を歩くならまだしも屋内では上着なしでいい季節になっている。それにこの店内は熱気に満ちていて伏島などは袖まくりをしネクタイまで外していた。
「ちょっと汚しちゃって。」と恥ずかしそうにいって、上着の襟をめくると、シャツに黒いシミが点々と数か所にあった。
「うわ、どうしたそれ!ま、とりあえず乾杯!」
楠は緒川のシャツのシミを気にかけながらもジョッキを差し出す。
「部長だよ、わざとじゃないけどな。」
ジョッキを当てながら緒川の代わりに答えたのは伏島だった。
「え?!自分でやったんじゃないんだ。」
てっきりまた緒川が粗相をしたのかと思ったらしい。
「部長ってさホラ、万年筆振り回すでしょ。で、ペン先の金具が緩んじゃってたのかな、ビシってこうやった時、インクが漏れて緒川のシャツに飛んじゃったんだよ。」
伏島が半ば楽しそうに割り箸の一本をつまんで楠に向け、その場を再現してみせた。
「ひでぇな、そんで?」と楠が緒川に水を向けると、
「ちゃんと謝りました。」
「何でお前が謝んだよ!!」楠が即座に突っ込んだ。
「いやぁさ、その話をね、お前が来るまでしてたんだよ。」
と伏島が困ったように緒川に向いた。
「僕が悪いので…。」と彼は小さく言いながら小さくジョッキに口をつけ、いやそれは違うぞ!と楠は憤り、やっぱそう思うよなぁ…と伏島も頭をかいた。

僕が悪いので…。の後に緒川はこう心の中だけで続けた。
——僕が悪いのでこうなって当然なんです。僕が至らないので部長を怒らせて、部長が怒るから万年筆を振り回すんです。万年筆って筆記用具ですよね、振り回すものじゃないですよね。だから振り回すように設計されていなくって、でも僕が毎日部長を怒らせるものだから毎日部長の万年筆は振り回されているんです。そうやって部長の万年筆は毎日本来の用途でない役割を強いられて徐々に摩耗して行き、そしてついにまさに今日あの時、ペン先の部品が限界を超えインクが漏れ出て飛び散ってしまったんです。僕がちゃんとミスなく仕事が出来てさえいれば、このシャツがインクで汚れることはなかったんです…。僕のせいなんです!
「ちょっと言い方がキツいんすよねぇ。」楠の声が遠くで聞こえた気がした。
「ええ…。」と緒川は小さな相槌を打つが、なおも心の中では続けていた。
——えぇ、確かに言い方はキツいかもしれませが疋嶋丸部長はいつも正しい事を仰っています。常に俯瞰した視点をもって全体を見、常に公平な位置から全員を見ています。そしてここが一番大事なんですけど、兎に角正直なんです!空気読んだりしないんです!上の立場にも下の立場にも歯に衣着せず物言える稀有な人なんです。疋嶋丸部長の口から放たれた言葉が、たとえそれがどんな罵詈雑言であっても、いや、酷い悪口悪態である程、僕自身が本当の《緒川はるか》という男を知るのです。疋嶋丸部長に叱責されている瞬間だけ、僕は本当の僕に出会えるのです!
「おい緒川!」伏島が赤い顔で部下を覗き込む。
「はい。」緒川は顔を上げた。無音の大演説に没頭し過ぎたかもしれない。
「まぁ元気出せよ。」と肩に手を置いたのはだいぶ酔いが回った楠だった。その後も二人は、更年期かな、まさか早すぎすよ!ちょっと貫禄あるけどまだ20代に見えますもん、等と上司をネタに盛り上がっていた。
緒川はジョッキ1杯と漬物の盛り合わせ一皿を大事に飲み食いし、3人で店を出た。
歩き出すとビルの影から月が現れた。

…満月か、と彼は思った。
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登場人物紹介

疋嶋丸ひろ子 (ひきしまる ひろこ)

36歳。部長を務めるマネジメント部は一般企業の総務と経理業務を受け持つ。ストレスで情緒不安定となっていたが趣味を持ち、人生が変わってゆく。



緒川はるか (おがわ はるか)

24歳。極度の口下手だが頭の中では"超"饒舌。部長に激しく叱責される事を至上の悦びとし、本来は有能だが叱られたいがためにわざとミスを繰り返している。よく夢をみる体質であり睡眠が浅い。

伏島 将太

31歳。同じ部署のグループリーダー。

落ち込んでいる緒川を慰めてくれる。

疋嶋丸を苦手にしているが一方で尊敬もしている。

楠 鼓舞 (くすのき こぶ) 

25歳。緒川の先輩。先日部署を移動し、現在は疋嶋丸と同期の女性上司、松田節子チーフの下で働いている。松田に連れられて観劇したことをきっかけに、女性シンガーソングライターを応援し、ライブ等に足を運ぶようになった。

永井玲奈 (ながい れいな)

24歳。同じ部署の女性社員。緒川に好意をよせているかもしれない。天然ぽく振舞っているが観察眼は鋭く策士である。

大森 明日菜 (おおもり あすな)

疋嶋丸の親友であり元同僚。演劇や音楽など、多彩な才能を持つが、運営は苦手で節子に手伝ってもらっている。

松田 節子 (まつだ せつこ)

疋嶋丸の親友であり他部署ではあるが現在も同じ職場にいる。

箱川 六瀬  (はこがわ むつせ)

20歳 ということになっているが本当は24歳。バイトしながら地下アイドルをやっている。明日菜の主宰する劇団にも所属している。

若林 武  (わかばやし たけし)

大物プロデューサー風のおじさん。

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