第4話 平安北道・龍川郡(ピョンアンブクド・リョンチョングン)
文字数 18,459文字
撃鉄の上がるガチリと言う音が、背後で何者かに背中を突かれる成(じょう)の耳朶を打った。
右肺の少し上、臓器の無い場所に当てあられている生硬い感触は命を奪わないまでも、いざとなれば動けなくなる程度の激痛を与える覚悟はあるのだと、言わずもがな物語っている。
首だけをそっと巡らせてみた。
どくんと一つ心臓の音が鳴ったのは、肩口から視界に飛び込んで来た女の顔が余りにも整っていたせいである。
向こう側が透けて見えるのでは無いかと思うほどに白い肌は、朝鮮式に引っ詰めた黒髪に良く映えている。
長身ですらりとした体躯のその女は、翡翠色をした裳(チマ韓服のスカート)と襦(チョゴリ=韓服の上着)を身に纏い、双眸から放つ射るような視線で振り向く成を牽制した。
「畏れ多いことではありますが、私は世孫(セソン)様の身の回りの御世話をするよう仰せ付かりました、宋永善(ソン・ヨンソン)
でございます。
以降私のことは宋尚宮(ソンサングン)と御呼び下さいますよう」
口元にだけ笑みを浮かべた宋永善は、流暢な日本語でそう告げた。
時代錯誤も甚だしく自らを宋尚宮と称するこの女は、何時ぞやにニュース番組の特集で見た、「何とか隊」と呼ばれる北の最高権力者を慰める為の女達の一人か。
否、今の今迄、この女の気配には全く気付かなかったのである。
彼女が何処にいて、何処から忍び寄って背後を取られる不覚を取ったのか、軍事教練の経験など無い成には全く見当も付かなかった。
それに日本人かと思わせる程流暢な日本語。
やはりこの女の出所は、朝鮮人民軍なのかと成が胸中に呟いた刹那、「世孫様は前を御向むきになり、右手を挙げて兵士達に微笑んで下さいませ」と耳元で無機質な声がした。
無視を決め込んだ成が薄ら笑いを浮かべると、宋永善もにやと嗤い、背中に突き立てた銃先の動きを強め前を向かせようとする。
事ここに至っては反駁の言葉も思い付かず、成は彼女に促されるまま前を向いて片手を挙げた。
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「チョハ(邸下)!」
成の挙げた手に呼応して歓喜の声を上げたのは、防波堤の下で控える夥しい数の兵士達。
手に、手に、小銃を掲げて成に応えた。
最早この状況は旅の途中に立ち寄った、アミューズメントパークのアトラクションと呼べる範疇に収まるべきものでは無い。
つい数日前、民団(在日本韓国民団)職員の金山と言う男に請われるまま日本を発ち、本来『中国の朝鮮族を訪ねて』と言う招待旅行に来ている筈の自分が、何故今こんな破目に陥っているのか。
ふとこの偽招待旅行を勧めて来た金山の柔和な丸顔が脳裏を過ぎり、正真の民団職員だと言う確認を取っていないことに歯噛みしてみたが、そのようなことも今となっては総て後の祭りだ。
学生マンションを経営している都合上、韓国からの留学生を世話してくれる民団との付き合いは欠かせない。
差し出された名刺に民団某と言う文字が書かれていれば、立場上一も二も無く耳を貸してしまうのは当然だ。
その上旅費を要求するでも無く、「選ばれた民団員の方に、ご家族で無料招待旅行を」と言う誘い文句の書かれたチラシを携えて来た男を、いったい誰が北の工作員と思うだろう。
今更ながら自身の愚かさには愛想が尽きる。
とは言え兎にも角にも現況を確かめねばと思い直した成は、前を向いたままで宋永善に問い掛けた。
「では宋尚宮に訊ねます。今し方着替えさせられた私のこの黒い韓服や頭に被せられた冠ですが、一体これには何の意味があるのです。
そしてまたこれは、何の騒ぎですか?」
「恐れながら申し上げます。世孫様が今御召しになっておられます龍袍(ヨンポ=王族が着用する大礼服)並びに翼善冠(イクソングァン=朝鮮王や王世子等が政務のときに被る頭頂部に二つの角がある黒い冠)は、朝鮮王族のみに着用が許されたもので、世孫様の仰った『韓服』には些か問題が御座います」
返答を受けた成が怪訝そうな顔で振り向くと、宋永善は怜悧な眼光を向けながら、今一度背中に突き立てた銃先で前を向くよう促す。
銃先に促されるまま再び前を向いた成は、胸中に『韓服』の何が問題なのだろうかと呟き、同時に『北鮮』の事を『北韓』と言う呼び方をするのは、北の人間に取って大層な侮蔑になるらしいと言う記憶が蘇り、「つまり韓国の服を意味する『韓服』と言う言い方に問題がある。
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ならばこれを、朝鮮服と言えば良いと?」と応じた。
「はい。今後はそのように」
そうして抑揚の無い平坦な声で応じる宋永善と言い、先程から少し後ろで唯微笑んでいるだけの大将軍と名乗る老年の男と言い、一体彼等は何者でこれは何事なのか。
たった一つだけ思い当たる節が有るには有るが・・・・・しかしそんな馬鹿な、と、成が胸中に呟くよりも早く宋永善は言い放った。
「このように兵士が盛大に歓声を上げておりまのは、世孫様を我が『大朝鮮公国(だいちょうせんこうこく)』の新しい君主として御迎えすることが出来たからでございます。
何と申しましても世孫様は英親王邸下(ヨンチンワン・チョハ)の血を受け継ぐ、李王家直系の子孫であらせられる訳ですから」
思い当たる節を見事的中させた成の膝が、がくがくと嗤い始める。
刹那聞き慣れた幼い声に耳朶を打たれ、成は兵士達の見守る前で為す術も無く膝から頽(くずお)れてしまった。
「パパ。これから写真撮るのぉ。これって何のコスチューム?」
成同様に肩や胸に金糸で龍の縫い取りの施された、子供用の黒い龍袍を身に纏った桂(ケイ)が、屈託の無い笑顔で胸に描かれた金色の龍を、両手で抱き上げるようにして駆け寄って来る。
膝立ちになっている成の背後で、兵士達の目に留まらぬよう咄嗟に六四式拳銃(人民軍採用の国産拳銃)を後ろ手にした宋永善が、「世孫様御立ちになって下さい」と釘を刺す声音で告げた。
続いて差し伸べられた宋永善のもう一方の手を、払い除けるようにして立ち上がった成は、「まさか、妻や息子も私と同じ目に遭わそうと言うんじゃないだろうな」と搾り出す。
「世孫様。誠に恐縮ではありますが、嬪宮(ピングン=朝鮮王朝の王位継承者の妻のことを呼ぶ尊称)様や王子様のことを、妻や子供と仰るのを今後は御控え下さいますよう。
これからは王族に相応しい御言葉使いを」
宋永善の噛んで含めるような言葉が、自らを始め妻子迄この地へ連れて来られる破目になった理由を、今はっきりと成に知らしめた。
それは・・・・・全身を駆け巡る自身の『血』に起因する。
「王族と言ったか?」
成の言葉を聴いた宋永善は、口元を歪め嘲笑を浮かべた。
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無論問い掛けて来る成に、拳銃を突き付けることは忘れない。
兵士達からは見えないよう襦の袖の中に上手く隠し持ち、その銃先だけを見せていた。
「はい。申しました。
王宮殿も建てる予定でございまして、満月台(マヌォルデ)遺跡の上に、昔のままの姿が再現される予定でございます。
元来太祖殿下(テジョチョナ=朝鮮王朝の始祖李成桂のこと)に依って遷都が為される前迄は、満月台の在る場所こそが朝鮮の都でありました。
尤も金正春と南朝鮮との取り決めで、今は工業団地の在る場所として有名でございますが」
言い終えた宋永善に顔を寄せ、眼光も鋭く睨め付ける成。
「開城(ケソン)か。そう言うことか。
首都を開城に移すつもりなんだな。
失脚させた金代表書記から担ぐ神輿を私に摩り替えたこの機会に。
私の身体に流れる血を利用して、大朝鮮公国とやらを捏造する。
それがおたくらの狙いか?」
吐き捨てた成の鋭い眼光は、未だ宋永善を捉えたままであった。
とは言えそうした父の胸の内など知る由も無い桂が、甘えるような仕草で成の腰に纏わり付いていく。
次いで成が桂に注意を促すよりも早く、眼下に居並ぶ兵士達が、
「王子媽媽(ワンジャマーマー=王子様)!」と口々に叫び、大歓声が波濤のように巻き起こった。
「とにかく前を御向きになり、兵士達に応えて下さいませ世孫様」
背後から突き付けられた銃先の動きに促されるまま、再び眼下に視線を転じる成。
仕方無く兵士達に向かって手を振り、背後の宋永善に請うてみた。
「分かった言う通りにする。私は従おう。
その代わり妻と息子は、日本に帰してやってくれないか」
背後からの冷徹な声音が成の耳朶を打つ。
「それは出来ない相談でございます。世孫様」
膠も無く答える宋永善を振り返り、「何故だ? 担ぐ神輿が必要ならば、私だけ拘束すれば事足りるじゃないか」と漸くここに到って反駁の声を上げた。
顎を振りながら嘆息を吐く宋永善が、少し後ろで黙って控える自称大将軍なる老年の男に目配せを送る。
二人は肯き合った後、「それは如何でしょう。ではその答えを、皆に訊いてみるとしましょう」と宋永善は成に対し微笑んで見せた。
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言い終えるや桂を素早く胸元に抱き上げた宋永善が、成から一歩横へ歩み出て兵士達を睥睨する。
途端に兵士達の、「李王家萬歳・萬歳・萬歳(イワンガマンセ!・マンセ!・マンセ!)」と言う大歓声が沸き起こり、横目でちらと成の表情を覗った宋永善は、冷笑を模った口元から白い歯を零れさせた。
今、桂は宋永善の腕の中に居る・・・・・。
つと、桂を抱く宋永善の意思に気付く成。
なるほど桂や美姫は、自身を此の地に縛り付ける為の担保。
それに何より家族ごと此処へ連れてくれば、拉致されたことを訴える係累は他に居ない。
成の両親も祖父母も既にこの世には亡く、そのような者が居るとすれば美姫の父母だけなのだが、在日二世の美姫の両親は祖国で余生を送ると言って、出身地である韓国の春川(チュンチョン)に終の棲家を得たばかりである。
こちらから連絡せずとも、一ヶ月やそこいらは何とも無い。
尤も宋永善を始めとしたこちらの人間は、そんなことは総て承知しているのであろうが。
そのことに思い至った成が胸中に舌打ちしてはみるも、自身に向けられている銃先は、やはり桂にも眼下の兵士等にも見えぬよう抜け目無くこちらを睨んでいる・・・・・何とも甘い自身である。
桂を膝元に降ろしながら、「はい。王子様も手を振ってみて下さいませ」と宋永善が片手を取り、一緒になって手を振って見せた。
やがて歓声の止んだ刹那の静寂に、桂の無垢な声音だけが響く。
「ほんとだ。みんな手を振ってくれてる。
ここじゃ僕って王子様なんだね。
お姉ちゃん、ここってなんて言うアミューズメントパーク?」
桂は楽しそうに問い掛けながら、宋永善を見上げていた。
そう言えば浦安のアミューズメントパークに連れていった際も、同じように喜んでいたのを覚えている。
蘇る記憶を辿りつつ、成は屈託無く微笑む桂を唯呆然と見詰めた。
やがて成の脳裏には直前の記憶、即ち釣り船と称するクルーザーを降ろされた後、自身の身に何が起こったのかも徐々に蘇って来る。
先ずは銃を突き付けられながら、岸壁に建てられた掘っ立て小屋に無理矢理押し込められた。
そして待ち受けていた人民軍と思しき軍服の兵士等に、強要されるまま龍袍へと着替えさせ
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られたのである。
その後眼下に兵士等を臨む、演壇に見立てたこの防波堤へ。
昨夜ツアーコンダクターの女の、「良い釣り場がありますので是非」と言う言葉のまま、美姫と桂との三人でクルーザーに乗り込んで夜釣りへと出掛けた。
それから・・・・・そう言えば、用意されていたコーヒーを飲んだ直後から記憶が途絶えている。
やはりあのコーヒーには睡眠薬が混入されていたのだ。
未だ引くことの無い、後頭部の疼くような痛みが何よりの証拠。
そう言えば美姫もコーヒーを。
そして桂はオレンジジュースを。
してみると、自身共々美姫や桂も眠らされたのだ。
只、掘っ立て小屋に連れて行かれた際は、妻の美姫は息子の桂と船室の中で眠っていた筈。
桂は起きて来たと言うのに、妻の美姫は未だ姿を見せない。
もしや妻の身に何か? と、言う厭な予感が成の脳裏を過ぎった直後、宋永善の桂に答える声が聞こえた。
「王子様、此処は大朝鮮公国と言う処でございます。朝鮮語で申しますと、テチョソンコングク(大朝鮮公国)になります。王子様も仰ってみて下さい」
「テ、チョ、ソン、コン、グク?」
言われるがまま宋永善の言葉をなぞる桂に、「そんな言葉を口にするのは止めなさい!
そんな名の国は存在しないんだ」、と、我に返った成が血相を変えて叱咤し、振り向きざまに宋永善を睨め付ける。
「息子に変なことを吹き込むな!」
怒りを露にして続ける成にも、宋永善は微動だにしない。
「変なこととは心外です」
「それよりも妻をどうした。
美姫を、妻を何処へやった。
君の答えようによっては只では済まさん!」
激情に駆られるまま上擦った声を出す成に対し、「ご心配なく。御婦人は支度に手間が掛かるものでございます。間も無く嬪宮様の方の準備も整うかと思われますので、もう暫く御待ちを」と宋永善が相変わらず抑揚の無い、淡々とした声音で応じた。
一刹那の後半べそをかく桂の、「ママあ!」と叫ぶ声が成の耳朶を打つ。
振り向いた成の視線の先には、いつもとは別人になった妻の姿が・・・・・。
朝鮮王朝の礼服と思しき装束を身に纏い、金の簪や髪飾りを挿して朝鮮式の引っ詰め髪を結
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っている。
宋永善の手を擦り抜け、「ママ。パパが怒ってるの」と瞳を滲ませながら駆け寄る桂を、美姫が緊(ひし)と抱き留める。
「あなた・・・・・」
慄然とする唇を言葉の形に動かしながら、美姫は桂の手を引き恐る恐るこちらに歩み寄って来た。
彼女の顫動する一方の手を、両の掌でぎゅっと握り締める成。
「心配するな。お前と桂はこの俺が守る」
成は自らに言い聴かせるように、美姫に告げる声の語気を強めた。
と、同時に、「嬪宮媽媽(ピングンマーマー)!」とまたも兵士等の歓喜の声が沸き起こった。
大歓声に気圧される両親の姿を目の当たりにして、子供なりに不穏な空気を感じ取った桂が、「パパぁ、ママぁ、ここはアミューズ
メントパークじゃないの?」と怯える声で問いつつ両親を見上げる。
返す言葉を持たない成と美姫は、唯二人で桂をきつく抱き締めた。
両側から二人に抱き締められた桂が、摺り落ちて来た翼善冠(イクソングァン)に顔を覆い尽くすようにして、遮二無二両親にしがみ付く。
桂の顔を遮る翼善冠を剥ぎ取った成が、「こんなものを息子にまで被せて、私達はあんたらの傀儡にはならんぞ」と吐き捨てた。
次いで成が、「こんなもの!」と桂の翼善冠を放り投げようとした刹那、何処かで聞いた声に耳朶を打たれる。
「邸下(チョハ)!」
今迄沈黙を貫いてきた例の大将軍であった。
何時の間にか側面に歩み寄り、「傀儡とはまた辛辣ですな」と続けながら、老人とは思えない力で成の手を掴む。
その手からゆっくりと子供用の翼善冠を剥ぎ取ると、「畏れ入ります王子様。直ぐにもう少し小さいものを御用意致しますので、それ迄はこれで御辛抱を」と再び桂の頭に被せ直した。
「何処まで人を虚仮(こけ)にしたら気が済むんだ。日本語が話せるのなら、何故今迄ぼーっと突っ立ってたんだ!」
眉根を寄せながら狂ったように声を上げる成に対し、「申し訳御座いません」と苦笑混じりに応える自称大将軍。
一つ咳払いをし噛んで含める声音で続けた。
「御怒りになられるのは御尤も。
しかし我々世代の朝鮮人は、皆等しく日本語が話せます。
長い間使ってはおりませんでしたが、もう何十年も前に朝鮮全土が日本の統治下に在った折に習得致しました。
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皮肉なことに、小さい頃刷り込まれた日本語は中々忘れることが出来ないようで、三つ子の魂百までとは良く言ったものであります。
申し遅れました。自分が大朝鮮公国(テチョソンコングク)は、禁衛営(クミヨン=李氏朝鮮時代首都防衛を行った軍営)の大将軍(テジャングン)、柳星来(りゅうせいらい)であります。
朝鮮語(チョソングル)で、(リュソンネ)。
どちらで御呼びになって戴いても結構です」
兵士等の存在などまるで眼に入らぬと言った素振りの成が、大仰に頭を振りながら吐き捨てた。
「つい数日前まで主体思想(チュチェササン)を掲げていた社会主義の国が、禁衛営とはね
・・・・・まるで韓流時代劇だ。
懐古主義も度を越すと、それは茶番になる」
成の背後に張り付いていた宋永善が、苦笑混じりに押し被せる。
「果たしてそうでしょうか? 世孫様の仰るように我々が単なる懐古主義者であったなら、公国ではなく王国を立国しようとした筈」
背中に当てられた銃先の冷たさに一瞬ぴくりと眉が動いたが、直ぐに気を取り直した成は、眼下の兵士等を見遣って微笑んだ。
「どういう意味だ?」
言いながら美姫をちらと一瞥する。
見て取った美姫も成に倣い、ぎこちない笑みを湛え桂と共に兵士等に手を振った。
再び柳が流暢な日本語で耳元に囁く。
「では私から簡単に、御説明申し上げましょう。
ルクセンブルク、モナコなど、公国と呼ばれる国は総じて、王ではなく大公と呼ばれる貴族が君主の座に就きます。
また公国の殆どが、軍事に関して他に依存しています。
例えばモナコはフランスに依存しており、後継者の無い場合はフランスに合併されると言う特約条項まであるらしいのです。
要するに我々は単独での立国を潔しとせず、他国に軍事面の支援を求めた訳です。それも朝鮮時代から拘りのある隣国に」
中天を目差して昇って行く初夏の陽光に龍袍を貫かれ、成は全身の毛穴からじっとりと汗を滲み出させていた。
「なるほど、中国に依存するつもりか。
しかし中国もすんなりと認める訳にはいかんでしょう。
核開発を始め、大量殺戮兵器の開発を続けるあんた等のことを」
言い終え額の汗を拭いながら、皮肉めいた色の瞳を柳に向ける成。
「表向きは、そうとも言えるでしょうな」
じろとこちらを見て来る柳の、口元を歪めた横顔は宛ら鬼神のようであり最早瘴気さえ漂っ
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ていた。
ぎらと光るどす黒い双眸から放たれた眼光に気圧され、身震いを禁じ得ない成。
ややあって柳は一頻り声を上げて嗤い、成を正面に見据えた。
「可笑しくて、つい。失礼致しました世孫様。
しかし金一族に依る統治体制をアメリカが保証すると、中国は喉元にアメリカの刃が突き付けられることになります。
求心力を失った金一族が米朝核合意に及びアメリカの威を借りてこの国に居座るつもりでしたが、中国はそれを絶対に赦さない。
それが証拠に南朝鮮も我々を支援すべく、中国の言う通りに事を運んでおります。
こうして我々が決起出来たのも、彼等の確固たる後ろ盾があったればこそなのです」
核心を突く柳の言葉は至極尤もであると思う反面、同調する訳にも行かず、成は手当たり次第に反駁の言葉を並べる。
「だとしてもアメリカが黙ってはいない筈だ。
無論日本も。殊に日本には拉致問題の解決と言う宿願がある。
日本はアメリカだけでなく豪・英とも連合して対抗して来るぞ」
口角泡を飛ばして捲し立てる成の言葉を、何処吹く風と受け流した柳は後ろ手を組み鼻を鳴らした。
「軍隊を持たない日本が黙っていない、と?
彼等が拉致被害者と呼んで久しい元日本人、或いは離散家族と呼ばれる元韓国人も、我が国は立国後全員解放するつもりなのです。
日本が我が大朝鮮公国の立国を阻む理由が見当たりません。
何より今中東で対イランとの遣り取りで手一杯の米国に、我が国の立国を阻む余裕などないでしょう。
彼等には我々の行動を、座して見守るほか道が無いのですよ」
確信めいた声音で告げる柳をきっかりと見据え、顎を伝う汗を拭った成は呻くように反駁の声を上げる。
「あんた等は何の罪も無い人達を拉致し、蹂躙し、その上またその人達を人質に取って己が欲望を叶えんとしている。
最早それは餓鬼や畜生の所業だ。反吐が出る!
百歩譲ってあんたの言う通り日本には手出しが出来なくとも、あんた等と韓国との間に、休戦協定は未だ結ばれていない。
韓国がアメリカと中国を天秤に掛けて仮に中国を取ったとしても、背後に控える同盟国のアメリカが絶対に黙ってはいない。
仮に中国の後ろ盾があったとしてもアメリカを本気で怒らせた時、万に一つもあんた等の勝ち目は無い」
顎を横に振りつつ柳は慨嘆の溜息を吐いた。
「それはこちらから韓国に再度戦争を仕掛けたらの話でしょう。
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此の度は、逆に韓国には我々から休戦協定を持ち掛けます。
そしてそれこそ世界の見守る中で、日本や南朝鮮の拉致被害者と呼ぶ者達或いは離散家族と呼ぶ者達が解放されるのだとしたら、その際それを拒否することが、彼等に出来ますか?
仮に我が国の立国を拒絶したとして、彼等は何を得ますか?」
どこをどう突いても、周到な答えを問いにして返してくる柳。
眉根ひとつ動かさずに語る横顔には、この国の歴史と共に刻まれて来た無数の皺が犇めいていた。
この鉄面皮の老人に対抗出来得る、最後に残された唯一の光。
それは日本と韓国に射す、たった一条の希望の光でもある。
そして一世紀近く以前「日鮮融和」の美名の下、朝鮮王族の血と日本皇族の血が掛け合わされると言う、存在そのものに矛盾を抱えながら生まれて来た祖父の供養にもなる・・・・・。
胸中に呟いた成は日本人でも無く韓国人でも無い、在日韓国人と言う今の自身の立場にも重ねながら、「日米韓の三国の同盟関係は今も健在だ」と我知らず口を動かしていた。
苦笑しながら低く押し被せる柳。
「残念ながらそのうちの日本と韓国が今の状況では・・・・・。
日韓が互いに手を携えることなど、天地が引っくり返っても有りはしませんよ。
日米韓の三国の同盟など砂上の楼閣ですよ」
そうして柳は天を仰ぎ見ながら続けた。
「世孫様はどうあっても、我々を御認めになりたくはないのですね。
仰るように百歩譲って、日米韓の三国の同盟が今後強固なものに成るのだと致しましょう。
しかし犬と猿が罵り合いながら完成さすバベルの塔と、我が大朝鮮公国が立国されるのとでは、さて、どちらが早いのでしょう?」
唇を噛み締め立ち尽くす成。
反駁の口火を切ろうとした成が口を開きかけた刹那、聞き慣れた声が彼の耳朶を打った。
「あの・・・・・少し、宜しいでしょうか」
出し抜けに発せられたのは、他ならぬ美姫の声である。
為す術も無く、唯震える身体で桂を抱き締めることしか出来なかった彼女が、今は眦を決して柳を見据えていた。
「私達が王族として此処に居れば、ここに居さえすれば、拉致被害者や離散家族の人達は解放されるのですね?」
「勿論です嬪宮様。そのことは大将軍であるこの私が保証します」
我が意を得たりと相好を崩す柳を視線の端に捉えながら、成が美姫の視界の中へと飛び込ん
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で行く。
「何を言ってるんだ! 俺達はここに居るだけで、似非公国立国の片棒を担ぐことになってしまうんだぞ。
彼等が拉致被害者や離散家族の開放と引き換えに、日本と韓国を、否、世界を核の脅威に晒そうとしているのが分からないのか!」
「そのことと、私達との間に何の関係があるの?」
思いも寄らぬ美姫の言葉に不意を突かれ、凍り付いてしまった成は、「え?」と呻くように洩らすしかなかった。
「貴方の言ってることは、凄く正しいことだと思うわ。
でも私達に取っては世界が核の脅威に晒されるかどうかより、桂の命の方が大事なんじゃないの」
飽く迄も美姫の声音は冷静である。
「美姫、お前・・・・・」
二の句を継げないでいる成に、美姫が淡々と応じた。
「それに亡くなられたお継母様との約束があるのよ」
きっぱりと言い切る美姫を正面に見捉えた成が、「母さんとの約束?」と小首を傾げる。
美姫がより強く桂を抱き締めながら、搾り出すように告げた。
「お継母様が御危篤になって、病室で私と二人だけになったときに交わした約束が」
滲む寸前の瞳を成に向けながら、掠れた声音で続ける美姫。
「お継母様は、『自分の独断で強引に桂と名付けたことを許して欲しい』そう詫びるように仰って、何故その名を与えたかの理由も教えて下さったわ」
そう言えば桂と言う名は、太祖殿下(テジョチョナ)の御名から一字を戴いたものだと母が言っていた。
また自分の成と言う名も、太祖殿下から一字を戴いたものだとも。
二人の名を合せば太祖殿下の御名、成桂(ソンゲ)になる。
そうして成の脳裏に自身の名の由来を決して忘れてはならないと、
母が言い聴かせたときの記憶が蘇った。
「この尊い血筋を絶やさぬこと。
それが奥平の家に嫁いだ女の運命。
そのことをお継母様はお祖母様から、そしてまたお祖母様は、尚宮(サングン)でいらっしゃった恵子(ヘジャ)大お祖母様から言い継がれて来たらしいわ。
代々奥平の嫁は皆在日か、請われて韓国から海を渡って来た者。
そして在日三世の私にも、朝鮮の血が流れている。
だから私、そのとき私はお継母様に誓った。
『桂の命はこの血に懸けて、必ず私が守ります』って」
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美姫の声を借りて蘇った、母の声、そして祖母や曾祖母の声、それ等が失せ始めた眼前の風景の色を、徐々に取り戻させてくれる。
立ち尽くす成は、「美姫」と唯々妻の名を呼んだ。
「それに貴方の言う正しいことを行えば、私達の命諸共、離散家族や拉致被害者の命だって奪われる可能性があるわ。
先ずはその人達の命を守ることが、一番大事なんじゃないの。
日本人でも、そして韓国人でもある貴方には・・・・・いえ、英親王李垠邸下(ヨンチンワン・イウン・チョハ)の血を受け継ぐ貴方なら、そのことが誰よりも分かる筈」
そう重ねた美姫は、身動ぎ一つ出来なくなっている成の手を空いている方の手できつく握り締め、ざわつき出した兵士等を見渡す。
「さあ、貴方。覚悟を決めて」
きっぱりと言い切ると美姫は兵士等に向かって、握り締めたままの成の手を突き上げて見せた。
刹那、「萬歳・萬歳・萬歳(マンセ!・マンセ!・マンセ!)」
と再び兵士等の歓喜の声が沸き起こる。
そして兵士等を見据えたまま、歓声に紛れぬ程強い声音で告げた。
「きっと彼等が私達を守ってくれるわ!
柳大将軍(リュ・テジャングン)にも彼等が必要なのでしょうけれど、彼等を従わせる為には先ず私達が必要な筈」
言い終え兵士等から成に転じた美姫の瞳の奥には、強靭な母の意志と力が宿る。
次いで宋永善に視線を転じた美姫は、「(クロッチヨ ソンサングン?(そうなんでしょう宋尚宮?)」と揺るが無い声音で問うた。
出し抜けに発せられた美姫の朝鮮語に、瞠目を禁じ得ない宋永善。
後退りながら、咄嗟に拱手(コンス)の礼を尽くした。
「イェー。ピングンマーマー(然様でございます。嬪宮様)」
初めて聴く美姫の朝鮮語が、成の心の琴線に触れる。
まるで本来の自身が何者であるか、気付けと言わんばかりに。
見る間に、現実が音を立てて押し寄せてくる・・・・・。
肩や胸に龍の縫い取りがある朝鮮王族の礼服の浅黄色が、それよりも白い美姫の肌を際立たせていた。
宋永善よりも強く、そして美しく見える妻を誇りに思いつつも、美姫の言い様はつまり柳の言いなりになることでもある。
無論桂の命以上に、大切なものなど有ろう筈も無いのだが。
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しかし拉致被害者や離散家族を盾に、そして核の脅威を矛にして極東アジアを、いやアジア・太平洋全域を席捲しようとしているに違いない柳の片棒を担ぐことなど、成にはとても容認出来ない。
ふと若い頃に立てた誓いを思い出した。
日本と韓国の和解である。
それは朝鮮王族として生まれながらも日本へと渡り、学習院初等科から陸軍士官学校そして陸軍大学へと進んだ、雲硯宮李公偶(うんけんきゅう・りこうぐう)の死を、本で知った際に立てた誓いだ。
広島に置かれた第二総軍教育参謀の李偶公は、司令部への出仕途上で原子爆弾に被爆し、翌日亡くなったのだと言う。
日本公族の身分のまま薨去した、朝鮮王族唯一の被爆者であった。
曽祖父の垠(ぎん)や祖父の晋さえも、日本王族として被爆する
などと言う理不尽の憂き目には遭っていない。
それを知ったとき、「二度殺し」と言う言葉が脳裏を過ぎった。
そうして自身の置かれた状況を李偶公に重ね合わせ、そのとき己が胸中に誓ったのである。
李偶公の死に報いたい。と。
口さの無い同胞から、「半豚蹄(パン チョッパリ=豚蹄とは足袋の先が豚の蹄に似ていることから、日本人を揶揄する時に使う言葉で、半分だけ豚蹄と言う在日同胞の揶揄に、韓国在住の韓国人が使う言葉)」と呼ばれる理不尽。
戦後親日のレッテルを貼られ、母国に帰国出来なくなった在日韓国人のことを、その意思に拘わらず総て兵役忌避で片付ける理不尽。
被爆した李偶公は、ここ迄日韓両国が啀(いが)み合うことを、果たして予期したであろうか・・・・・益してや曽祖父の垠や祖父
の晋に於いては。で、ある。
その上に今また、この身を柳に拘束される理不尽。
理不尽だらけの人生ではあっても、身体に流れる血の半分は大韓帝國王族から受け継いだもので、そしてまた半分は日本皇族から受け継いだものなのだ。
北の将軍様から受け継いだ血など、一滴も入っていない筈。
それなのに、どうして・・・・・今。
そうしてあれやこれやと、答えの出ない問いに無理に答えを出そうとして知恵を搾る成は、焦点の定まらない眼で遠くを見ていた。
‐73‐
やがて傍らに歩み寄った柳が、高々と掲げられた軍旗を指差す。
「世孫様あちらの軍旗を御覧下さいませ。
あの赤い星を囲んでいる白い縁取りは、何を表したものか御分かりになりますでしょうか?」
美姫と共に突き上げていた成の手は、何時の間にか拳に握り締められており、それを下ろしながら、「ん?」とだけ柳に応じた。
赤い星を囲んでいる白い縁取りを注視すれば、やはり円ではない。
軍旗を凝視する成に一瞥をくれた柳は、「あれこそが李王家の紋章、李(すもも)の花であります」と得意げに告げてにやと嗤った。
「李の花?」
「はい。あれこそが大朝鮮公国を表す、我々の決意の証であります。
あの軍旗こそが、我等禁衛営(クミヨン)の
・・・・・」
直後響いたバラバラと言う重低音が、柳の言葉を掻き消して行く。
近付いて来るヘリの羽音であった。
宋永善が自身の裳の太股の部分を、手で抑えるようにする。
次いで直近に迫るローター音に負けじと、大声で美姫に促した。
「嬪宮様、迎えのヘリが参りました。
風が下から舞い上がるかと思います。
唐衣(タンウィ=朝鮮王族の婦人用礼服)の裳が裾から巻き上がらぬように、こうして裳を手で御抑え下さいますよう」
言われるままに膝を片手で抑えた美姫が、令する声音で告げる。
「ありがとう。
では、この子を頼みます。宋尚宮」
「畏まりました。嬪宮様」
拱手(コンス)の礼から直った宋永善は、直ぐさま桂を胸元に抱き上げた。
見れば抱き上げられた桂の足が、上手い具合に宋永善の太股の辺りに在り、彼女の裳を抑える役目を担っている。
果たしてそれは宋永善の周到な考えに依るものか、それともそれ等を計算し尽くした上での美姫の配慮なのか。
何れにしてもよくまあこんな時に、裳が巻き上がらぬようになどと言う、些細なことを考えられたものだ。
それに既に主従関係が出来上がっているとでも言うような、美姫と宋永善とのやり取り。
まったく女ってのは・・・・・分からん。
顎を振りつつ胸中に呟いた成は、見るともなしに美姫を見遣った。
‐74‐
すると丁度美姫もこちらを覗い、胸中は察したとばかりに微笑む。
次いで裳を抑えながら歩み寄り、擦れ違いざま成の耳元に囁いた。
「宋尚宮だけど、そんなに悪い人じゃないわ。それに柳大将軍も」
舞い降りて来る大型ヘリのローター音が直近に迫ったせいで、美姫の声は成にしか聴き取れない。
「どうしてそんなことが分かる?」
怪訝そうな顔で苦笑混じりに問い掛ける成の声も、無論美姫以外の者には聴こえようも無かった。
振り向きもせず、「女の勘よ」とだけ背中で言い残す美姫。
そして誰よりも先に、降下するヘリの方へと向かって行く。
ダウンウォッシュの風に煽られて、被っている翼善冠が吹き飛ばされそうになるのを片手で抑え込んでいた成は、柳の方に視線を転じると、「まるで骨董品だな」と吐き捨てた。
昆虫の眼を思わせる幾枚にも仕切られたキャノピーに、所々塗装の剥げ落ちたカーキ色の機体。
全体的に大時代なフォルムは、とても現役で空を飛んでいるものとは思えなかった。
「Mи‐8(ミー・ヴォースイェミ)」
ランディングしてヘリの羽音も鳴りを潜めた頃、唐突に耳朶を打った柳の言葉は、初めて聴く音色であった。
何処の国の言葉かと暫くの間逡巡した成が、「ロシア製と言う訳か」と当たりを付けてみる。
「正確にはソビエト製です。西側ではミル8とか、或いはNATOのコードネームでは、Hip(ヒップ)とも申します。
もう既に三十年近く使ってはおりますが、それでも中々どうして頼りになる。さあ、参りましょう平壌(ピョンヤン)へ」
応じた柳は微笑み、Mи‐8の方に向かって手を差し伸べた。
促されるままMи‐8の方へと歩みを進める成の背後からは、やはり大音声で兵士等の歓声が追い掛けて来る。
カーゴドアの横で立哨する兵士の敬礼を受けMи‐8に乗り込むと、先に乗り込んでいた美姫とその横には宋永善が座っていた。
膝の上に乗せた桂と一緒になって、サイドウインドウ越しに外を覗き込んでいる。
輸送用大型ヘリの内部は二十人近く搭乗出来るように設計されているらしく、一番前の席に座る美姫等の直ぐ後ろには宋尚宮の部下と思しき女官が二人と、そのもう一つ後ろには護衛の兵と思しき軍装の男が4人ほど座っていた。
‐75‐
それだけの人数が乗っていても、空席が目立つほどである。
背後から差し伸べられた柳の手に促され、美姫の隣席に着いた。
刹那兵士等の大歓声が、ローター音を掻き消す勢いで耳に届く。
しかしそれよりも強く、窓側の宋尚宮が促した。
「嬪宮様はもう既に締めて御出でです。世孫様もシートベルトを」
使い込んでいるのが一目で分かるほど、色褪せて所々擦り切れたハーネスの留め具をガチリと填める。
やがて機体が浮上し、肩のハーネスに圧し掛かる上昇Gを受け止めた成は、Mи‐8の危なげなフライトに自身の運命を重ねていた。
堕ちてしまうのかも知れないな・・・・・。
自身に流れる血の宿命を示唆するかのようなMи‐8の激しい揺れに身を任せながら、成は無意識に笑みを模った口を動かした。
「日本に連れてかれた、曾爺さんと一緒か」
予想外の言葉に耳朶を打たれぴくりと肩を跳ねさせた美姫が、横に座す夫の顔を覗おうとして果たせず、唯々重ねた掌をぎゅっと握り締める。
成の言葉には気付かぬ素振りの柳は、懐から片仮名と漢字だけで綴られた古めかしい書簡の写しを取り出した。
やがて背後から成の面前にそれを差し出し、耳元に告げる。
「本来ならばこの書簡の原本は重要文化財か、或いは国宝の価値があるやも知れません。ところが全く日の目を見ることは無かった」
差し出されたそれを一瞥した成は、憮然とした顔を正面に戻した後、「一体何なんですそれは?」と背中で応じた。
柳が所在無さげに手を引っ込める。
「宜しいのですか? 御祖父様の暗殺を裏付ける証拠を御覧にならずとも」
柳の言葉を聴き、一転成は弾かれたように振り向いた。
「暗殺を裏付ける証拠?」
言い終えるや重ねられていた美姫の手を振り解くと、再び面前へと差し出された書簡の写しを毟り取る。
「これは・・・・・」
口籠る成に対し、眉根一つ動かさずに柳が押し被せた。
「日本の先帝が摂政の際、斉藤朝鮮総督に下した勅書です。
本来これは日本に在る筈のものなのです。
‐76‐
斉藤実の遺族か或いは何処かの博物館に」
「それをあんたが日本から盗み出したのか?」
成の言葉に片方の眉をぴくりと吊り上げる柳。
「盗み出すとは人聞きが悪い。
本来持つべき者の手に、返っただけに過ぎません。
それに返して貰ったのは、日本ではなく南朝鮮からです」
成は首を傾げるしかなかった。
「韓国から?」
怪訝そうな顔でこちらを凝視して来る成に、淡々と応じる柳。
「南朝鮮は数年前、日本から朝鮮王室儀軌を返還させました。
友愛党が与党だった時代の話ですが、しかし実のところ彼等が欲したのは儀軌などではなかった。
本当に欲したのは、この摂政宮の発した勅書の原本だったのです。
それなのに彼等は、儀軌と共に得たこの貴重な書簡を、大した防犯措置も施さずに、ソウルの博物館に保管していたと言う訳です」
言い終えた柳が苦笑とも、嘲笑ともつかぬ不敵な笑みを浮かべた。
大きく一つ肯いた成が、伏し目がちに問い掛ける。
「韓国政府は、それを盗み出す者が居るとは考えなかった。と?」
「恐らくはそう言うことかと。
ですから至って簡単な作業でありました。
南朝鮮にしてみれば極秘裏にこれを受け取った訳ですから、我々を始め第三者がこれに眼を着けるとは考えなかったのでしょう。
無論世孫様御存命の事についてもです。
封印されるべき史実が含まれていると言うのに、あんな御粗末なセキュリティでは・・・・
・」
成は柳の言葉をなぞるように問い掛けた。
「封印されるべき史実?」
「日本の天皇が、朝鮮の王子を救命したと言う史実です。
反日を国家思想の根幹とする彼等に取って、そんなことを公にする訳にはいかなかった。
それが故にこの書簡を、日本政府から剥ぎ取ったと言う訳です。
仮令第三者が欲しない書簡であったとしても、あんな手薄なセキュリティでは。
若し私が南朝鮮の政府高官なら、日本政府からこの書簡を受け取ったと同時に、破り捨てるか、或いは焼き払っていたでしょう。
朝鮮総督府の建物をぶち壊したように、跡形も無くね」
柳の言葉を聴きながら成はふと思い出す。
幼い頃に聴かせてくれた母の寝物語を。
‐77‐
日本の先帝陛下が、お前の御祖父様の命を救って下すったのだ。
お前の名乗っている奥平と言う姓もまた、先帝陛下の命に従って御祖父様を救い出した海軍士官の姓なのだと。
決して日本を恨んではなりません。
そして何時の日か日本と韓国が手を携えて、朝鮮半島の南北統一を成し遂げるものと信じていなさい。
仮令自分に出来ることが何も無くとも、心の中でそう祈りなさい。
それが曾御祖父様や、御祖父様の供養になるんだからと。
そんな母や祖母或いは曾祖母の思いも、若い頃に立てた自らの誓いも、総ては夢のまた夢。
日本の先帝が李王家の為に為した善意の史実を覆い隠したいほど、韓国は日本を忌み嫌っているのだ。
所詮日本と韓国は、敵味方でしかない。
そうして霧散する儚い夢の欠片を一通り胸中に拾い集めた成は、自身の顔から血の気の失せていくのを感じた。
「あんた等に取っても、所詮私は倭奴の血が混ざった混血の世孫なんじゃないのか?
用済みになれば、私達家族を切り捨てるつもりなんだろう!」
半ば吐き捨てるように言い放った成の言葉に、まったく耳を貸す素振りを見せない柳が低く押し被せる。
「だからこそ世孫様は、我が大朝鮮公国の君主と成られるのです」
息を呑む音をローター音に掻き消された成を見据え、にやと嗤った柳はやおら軍帽を脱いで続けた。
「御分かりになりませんか?
我々が日本と南朝鮮の分断を、延いてはその背後に控える米国を交えた三ヶ国の分断を謀ろうとしていることが。
正にそれこそが、我々と志を一つにする中国の欲するところ」
噛んで含める声音で耳元に告げて来る柳の瞳が、禍々しくも耀う。
たじろぎながらも、成は我知らず問い掛ける声を荒げていた。
「どう言うことだ。何が言いたい!」
益々口元を歪めて嗤う柳。
白髪の下でぬらと煌めく双眸からは、最早妖気さえ漂っていた。
「つまりは日本皇族の血を受け継ぐ世孫様を君主に戴くことで、我が国と日本とは縁戚関係になるのです。
しかしそれに反して混血の朝鮮王族の即位を認めない南朝鮮は、永遠に君主を失うことになると同時に、我が国と国交を結んだ日本ともその後接点を失うことになる。
‐78‐
それに加えて離散家族と拉致被害者の帰還と言う大義名分を下に、我国の立国を認めてしまうことになるであろう日本や南朝鮮を、果たして米国はそのままにしておくのでしょうか。
我々の持つ核の力の排除を、一時的にでも断念せざるを得ない状況に陥った米国は、必ずや日韓双方に相応の罰を与えるでしょう」
そう耳元に告げて来る柳の双眸は、今、何処を見ているのか。
それが自身以外の何かであると言うことしか知りえない成は、当惑の色を宿した瞳を向けた。
「それで柳大将軍、あんたの望みは何だ?
富か権力か」
言い終えた成の向けて来る視線を、射返す柳のその双眸の奥には、寂寥(せきりょう)と高潔が綯い交ぜになった色が潜む。
「さて、どうなのでしょうか・・・・・」
果たして柳の双眸には、自身の未来など映ってはいなかった。
ふと脳裏を過ぎる予感・・・・・。
彼の望みが適い用済みとなった自身が、金正春と同じ運命を辿ることになるのではないか。
そのことに思い至った刹那愕然として言葉を失った成は、震える膝を掌で抑え付けた。
どうとも前を向けず、俯き加減になる成。
そのせいか腕に嵌めたG・ショックが、視界のど真ん中に飛び込んで来た。
ふと見遣れば2020・6・9とデート表示が為されており、その直ぐ下の時刻表示も正確に時を刻んでいる。
そしてその横のセコンド表示も、言わずもがな遽しく進んでいた。
今し方船室で目覚めた時と同じ現を、自身は今、生きているのだ。
ふいにこちらへと掌を差し出し、重ねて来る美姫。
そして重ねられた掌を、成がその上からぎゅっと握り締めた。
美姫の隣では宋永善に打ち解けた様子の桂が、何やら言葉を交わして楽しそうに窓外を見入っている。
つられてふと窓外に視線を走らせてみた。
走らせた視線のその先には、果てしなく続く緑の帯が見える。
恐らくあれは・・・・・中国と北朝鮮の国境に沿って流れる、鴨緑江(アムノックカン)の流れであろう。
成は咄嗟に閃いた直感に従い、脳裏に朝鮮半島の地図を拡げた。
‐79‐
緑の帯を鴨緑江とすれば、眼下に拡がる街並みは中国と国境を接する、平安北道(ピョンアンブクド)の何処かの街。
次いで反対側の窓外に眼を遣ると、大海原が拡がっていた。
左側には陸地が、右側には海が見える。
どうやらヘリは、沿岸沿いに南へと進路を取っているらしい。
だとすれば今し方迄自分達が居た港は、新義州(シニジュ)の街にほど近い、龍川郡(リョンチョングン)の何処かの港と言うことか。
直接北に入らせるのでは無く、国境付近の中国の街まで来させてから北に誘いこむ。
何故そのことに気付かなかったのか。
中国を後ろ盾にする柳なら至極簡単なこと。
そうしてあれやこれやと考えを巡らすうちにも、鴨緑江は徐々に後ろへと遠ざかって行く。
視界から消え入りそうになる鴨緑江を悄然と眺めながら、成は我知らず胸中に呟いていた。
北から南へと向かうヘリの行き先が、何故ソウルではなくて平壌(ピョンヤン)なのだろうか・・・・・。
と、そんなことを幾ら呟いてみても、答える声など届く筈もない。
それでも、もしや・・・・・と、耳を澄ませては見たが、聞こえてくるのは機体の軋む音とローターの響きだけであった。
‐80‐
右肺の少し上、臓器の無い場所に当てあられている生硬い感触は命を奪わないまでも、いざとなれば動けなくなる程度の激痛を与える覚悟はあるのだと、言わずもがな物語っている。
首だけをそっと巡らせてみた。
どくんと一つ心臓の音が鳴ったのは、肩口から視界に飛び込んで来た女の顔が余りにも整っていたせいである。
向こう側が透けて見えるのでは無いかと思うほどに白い肌は、朝鮮式に引っ詰めた黒髪に良く映えている。
長身ですらりとした体躯のその女は、翡翠色をした裳(チマ韓服のスカート)と襦(チョゴリ=韓服の上着)を身に纏い、双眸から放つ射るような視線で振り向く成を牽制した。
「畏れ多いことではありますが、私は世孫(セソン)様の身の回りの御世話をするよう仰せ付かりました、宋永善(ソン・ヨンソン)
でございます。
以降私のことは宋尚宮(ソンサングン)と御呼び下さいますよう」
口元にだけ笑みを浮かべた宋永善は、流暢な日本語でそう告げた。
時代錯誤も甚だしく自らを宋尚宮と称するこの女は、何時ぞやにニュース番組の特集で見た、「何とか隊」と呼ばれる北の最高権力者を慰める為の女達の一人か。
否、今の今迄、この女の気配には全く気付かなかったのである。
彼女が何処にいて、何処から忍び寄って背後を取られる不覚を取ったのか、軍事教練の経験など無い成には全く見当も付かなかった。
それに日本人かと思わせる程流暢な日本語。
やはりこの女の出所は、朝鮮人民軍なのかと成が胸中に呟いた刹那、「世孫様は前を御向むきになり、右手を挙げて兵士達に微笑んで下さいませ」と耳元で無機質な声がした。
無視を決め込んだ成が薄ら笑いを浮かべると、宋永善もにやと嗤い、背中に突き立てた銃先の動きを強め前を向かせようとする。
事ここに至っては反駁の言葉も思い付かず、成は彼女に促されるまま前を向いて片手を挙げた。
‐61‐
「チョハ(邸下)!」
成の挙げた手に呼応して歓喜の声を上げたのは、防波堤の下で控える夥しい数の兵士達。
手に、手に、小銃を掲げて成に応えた。
最早この状況は旅の途中に立ち寄った、アミューズメントパークのアトラクションと呼べる範疇に収まるべきものでは無い。
つい数日前、民団(在日本韓国民団)職員の金山と言う男に請われるまま日本を発ち、本来『中国の朝鮮族を訪ねて』と言う招待旅行に来ている筈の自分が、何故今こんな破目に陥っているのか。
ふとこの偽招待旅行を勧めて来た金山の柔和な丸顔が脳裏を過ぎり、正真の民団職員だと言う確認を取っていないことに歯噛みしてみたが、そのようなことも今となっては総て後の祭りだ。
学生マンションを経営している都合上、韓国からの留学生を世話してくれる民団との付き合いは欠かせない。
差し出された名刺に民団某と言う文字が書かれていれば、立場上一も二も無く耳を貸してしまうのは当然だ。
その上旅費を要求するでも無く、「選ばれた民団員の方に、ご家族で無料招待旅行を」と言う誘い文句の書かれたチラシを携えて来た男を、いったい誰が北の工作員と思うだろう。
今更ながら自身の愚かさには愛想が尽きる。
とは言え兎にも角にも現況を確かめねばと思い直した成は、前を向いたままで宋永善に問い掛けた。
「では宋尚宮に訊ねます。今し方着替えさせられた私のこの黒い韓服や頭に被せられた冠ですが、一体これには何の意味があるのです。
そしてまたこれは、何の騒ぎですか?」
「恐れながら申し上げます。世孫様が今御召しになっておられます龍袍(ヨンポ=王族が着用する大礼服)並びに翼善冠(イクソングァン=朝鮮王や王世子等が政務のときに被る頭頂部に二つの角がある黒い冠)は、朝鮮王族のみに着用が許されたもので、世孫様の仰った『韓服』には些か問題が御座います」
返答を受けた成が怪訝そうな顔で振り向くと、宋永善は怜悧な眼光を向けながら、今一度背中に突き立てた銃先で前を向くよう促す。
銃先に促されるまま再び前を向いた成は、胸中に『韓服』の何が問題なのだろうかと呟き、同時に『北鮮』の事を『北韓』と言う呼び方をするのは、北の人間に取って大層な侮蔑になるらしいと言う記憶が蘇り、「つまり韓国の服を意味する『韓服』と言う言い方に問題がある。
‐62‐
ならばこれを、朝鮮服と言えば良いと?」と応じた。
「はい。今後はそのように」
そうして抑揚の無い平坦な声で応じる宋永善と言い、先程から少し後ろで唯微笑んでいるだけの大将軍と名乗る老年の男と言い、一体彼等は何者でこれは何事なのか。
たった一つだけ思い当たる節が有るには有るが・・・・・しかしそんな馬鹿な、と、成が胸中に呟くよりも早く宋永善は言い放った。
「このように兵士が盛大に歓声を上げておりまのは、世孫様を我が『大朝鮮公国(だいちょうせんこうこく)』の新しい君主として御迎えすることが出来たからでございます。
何と申しましても世孫様は英親王邸下(ヨンチンワン・チョハ)の血を受け継ぐ、李王家直系の子孫であらせられる訳ですから」
思い当たる節を見事的中させた成の膝が、がくがくと嗤い始める。
刹那聞き慣れた幼い声に耳朶を打たれ、成は兵士達の見守る前で為す術も無く膝から頽(くずお)れてしまった。
「パパ。これから写真撮るのぉ。これって何のコスチューム?」
成同様に肩や胸に金糸で龍の縫い取りの施された、子供用の黒い龍袍を身に纏った桂(ケイ)が、屈託の無い笑顔で胸に描かれた金色の龍を、両手で抱き上げるようにして駆け寄って来る。
膝立ちになっている成の背後で、兵士達の目に留まらぬよう咄嗟に六四式拳銃(人民軍採用の国産拳銃)を後ろ手にした宋永善が、「世孫様御立ちになって下さい」と釘を刺す声音で告げた。
続いて差し伸べられた宋永善のもう一方の手を、払い除けるようにして立ち上がった成は、「まさか、妻や息子も私と同じ目に遭わそうと言うんじゃないだろうな」と搾り出す。
「世孫様。誠に恐縮ではありますが、嬪宮(ピングン=朝鮮王朝の王位継承者の妻のことを呼ぶ尊称)様や王子様のことを、妻や子供と仰るのを今後は御控え下さいますよう。
これからは王族に相応しい御言葉使いを」
宋永善の噛んで含めるような言葉が、自らを始め妻子迄この地へ連れて来られる破目になった理由を、今はっきりと成に知らしめた。
それは・・・・・全身を駆け巡る自身の『血』に起因する。
「王族と言ったか?」
成の言葉を聴いた宋永善は、口元を歪め嘲笑を浮かべた。
‐63‐
無論問い掛けて来る成に、拳銃を突き付けることは忘れない。
兵士達からは見えないよう襦の袖の中に上手く隠し持ち、その銃先だけを見せていた。
「はい。申しました。
王宮殿も建てる予定でございまして、満月台(マヌォルデ)遺跡の上に、昔のままの姿が再現される予定でございます。
元来太祖殿下(テジョチョナ=朝鮮王朝の始祖李成桂のこと)に依って遷都が為される前迄は、満月台の在る場所こそが朝鮮の都でありました。
尤も金正春と南朝鮮との取り決めで、今は工業団地の在る場所として有名でございますが」
言い終えた宋永善に顔を寄せ、眼光も鋭く睨め付ける成。
「開城(ケソン)か。そう言うことか。
首都を開城に移すつもりなんだな。
失脚させた金代表書記から担ぐ神輿を私に摩り替えたこの機会に。
私の身体に流れる血を利用して、大朝鮮公国とやらを捏造する。
それがおたくらの狙いか?」
吐き捨てた成の鋭い眼光は、未だ宋永善を捉えたままであった。
とは言えそうした父の胸の内など知る由も無い桂が、甘えるような仕草で成の腰に纏わり付いていく。
次いで成が桂に注意を促すよりも早く、眼下に居並ぶ兵士達が、
「王子媽媽(ワンジャマーマー=王子様)!」と口々に叫び、大歓声が波濤のように巻き起こった。
「とにかく前を御向きになり、兵士達に応えて下さいませ世孫様」
背後から突き付けられた銃先の動きに促されるまま、再び眼下に視線を転じる成。
仕方無く兵士達に向かって手を振り、背後の宋永善に請うてみた。
「分かった言う通りにする。私は従おう。
その代わり妻と息子は、日本に帰してやってくれないか」
背後からの冷徹な声音が成の耳朶を打つ。
「それは出来ない相談でございます。世孫様」
膠も無く答える宋永善を振り返り、「何故だ? 担ぐ神輿が必要ならば、私だけ拘束すれば事足りるじゃないか」と漸くここに到って反駁の声を上げた。
顎を振りながら嘆息を吐く宋永善が、少し後ろで黙って控える自称大将軍なる老年の男に目配せを送る。
二人は肯き合った後、「それは如何でしょう。ではその答えを、皆に訊いてみるとしましょう」と宋永善は成に対し微笑んで見せた。
‐64‐
言い終えるや桂を素早く胸元に抱き上げた宋永善が、成から一歩横へ歩み出て兵士達を睥睨する。
途端に兵士達の、「李王家萬歳・萬歳・萬歳(イワンガマンセ!・マンセ!・マンセ!)」と言う大歓声が沸き起こり、横目でちらと成の表情を覗った宋永善は、冷笑を模った口元から白い歯を零れさせた。
今、桂は宋永善の腕の中に居る・・・・・。
つと、桂を抱く宋永善の意思に気付く成。
なるほど桂や美姫は、自身を此の地に縛り付ける為の担保。
それに何より家族ごと此処へ連れてくれば、拉致されたことを訴える係累は他に居ない。
成の両親も祖父母も既にこの世には亡く、そのような者が居るとすれば美姫の父母だけなのだが、在日二世の美姫の両親は祖国で余生を送ると言って、出身地である韓国の春川(チュンチョン)に終の棲家を得たばかりである。
こちらから連絡せずとも、一ヶ月やそこいらは何とも無い。
尤も宋永善を始めとしたこちらの人間は、そんなことは総て承知しているのであろうが。
そのことに思い至った成が胸中に舌打ちしてはみるも、自身に向けられている銃先は、やはり桂にも眼下の兵士等にも見えぬよう抜け目無くこちらを睨んでいる・・・・・何とも甘い自身である。
桂を膝元に降ろしながら、「はい。王子様も手を振ってみて下さいませ」と宋永善が片手を取り、一緒になって手を振って見せた。
やがて歓声の止んだ刹那の静寂に、桂の無垢な声音だけが響く。
「ほんとだ。みんな手を振ってくれてる。
ここじゃ僕って王子様なんだね。
お姉ちゃん、ここってなんて言うアミューズメントパーク?」
桂は楽しそうに問い掛けながら、宋永善を見上げていた。
そう言えば浦安のアミューズメントパークに連れていった際も、同じように喜んでいたのを覚えている。
蘇る記憶を辿りつつ、成は屈託無く微笑む桂を唯呆然と見詰めた。
やがて成の脳裏には直前の記憶、即ち釣り船と称するクルーザーを降ろされた後、自身の身に何が起こったのかも徐々に蘇って来る。
先ずは銃を突き付けられながら、岸壁に建てられた掘っ立て小屋に無理矢理押し込められた。
そして待ち受けていた人民軍と思しき軍服の兵士等に、強要されるまま龍袍へと着替えさせ
−65−
られたのである。
その後眼下に兵士等を臨む、演壇に見立てたこの防波堤へ。
昨夜ツアーコンダクターの女の、「良い釣り場がありますので是非」と言う言葉のまま、美姫と桂との三人でクルーザーに乗り込んで夜釣りへと出掛けた。
それから・・・・・そう言えば、用意されていたコーヒーを飲んだ直後から記憶が途絶えている。
やはりあのコーヒーには睡眠薬が混入されていたのだ。
未だ引くことの無い、後頭部の疼くような痛みが何よりの証拠。
そう言えば美姫もコーヒーを。
そして桂はオレンジジュースを。
してみると、自身共々美姫や桂も眠らされたのだ。
只、掘っ立て小屋に連れて行かれた際は、妻の美姫は息子の桂と船室の中で眠っていた筈。
桂は起きて来たと言うのに、妻の美姫は未だ姿を見せない。
もしや妻の身に何か? と、言う厭な予感が成の脳裏を過ぎった直後、宋永善の桂に答える声が聞こえた。
「王子様、此処は大朝鮮公国と言う処でございます。朝鮮語で申しますと、テチョソンコングク(大朝鮮公国)になります。王子様も仰ってみて下さい」
「テ、チョ、ソン、コン、グク?」
言われるがまま宋永善の言葉をなぞる桂に、「そんな言葉を口にするのは止めなさい!
そんな名の国は存在しないんだ」、と、我に返った成が血相を変えて叱咤し、振り向きざまに宋永善を睨め付ける。
「息子に変なことを吹き込むな!」
怒りを露にして続ける成にも、宋永善は微動だにしない。
「変なこととは心外です」
「それよりも妻をどうした。
美姫を、妻を何処へやった。
君の答えようによっては只では済まさん!」
激情に駆られるまま上擦った声を出す成に対し、「ご心配なく。御婦人は支度に手間が掛かるものでございます。間も無く嬪宮様の方の準備も整うかと思われますので、もう暫く御待ちを」と宋永善が相変わらず抑揚の無い、淡々とした声音で応じた。
一刹那の後半べそをかく桂の、「ママあ!」と叫ぶ声が成の耳朶を打つ。
振り向いた成の視線の先には、いつもとは別人になった妻の姿が・・・・・。
朝鮮王朝の礼服と思しき装束を身に纏い、金の簪や髪飾りを挿して朝鮮式の引っ詰め髪を結
‐66‐
っている。
宋永善の手を擦り抜け、「ママ。パパが怒ってるの」と瞳を滲ませながら駆け寄る桂を、美姫が緊(ひし)と抱き留める。
「あなた・・・・・」
慄然とする唇を言葉の形に動かしながら、美姫は桂の手を引き恐る恐るこちらに歩み寄って来た。
彼女の顫動する一方の手を、両の掌でぎゅっと握り締める成。
「心配するな。お前と桂はこの俺が守る」
成は自らに言い聴かせるように、美姫に告げる声の語気を強めた。
と、同時に、「嬪宮媽媽(ピングンマーマー)!」とまたも兵士等の歓喜の声が沸き起こった。
大歓声に気圧される両親の姿を目の当たりにして、子供なりに不穏な空気を感じ取った桂が、「パパぁ、ママぁ、ここはアミューズ
メントパークじゃないの?」と怯える声で問いつつ両親を見上げる。
返す言葉を持たない成と美姫は、唯二人で桂をきつく抱き締めた。
両側から二人に抱き締められた桂が、摺り落ちて来た翼善冠(イクソングァン)に顔を覆い尽くすようにして、遮二無二両親にしがみ付く。
桂の顔を遮る翼善冠を剥ぎ取った成が、「こんなものを息子にまで被せて、私達はあんたらの傀儡にはならんぞ」と吐き捨てた。
次いで成が、「こんなもの!」と桂の翼善冠を放り投げようとした刹那、何処かで聞いた声に耳朶を打たれる。
「邸下(チョハ)!」
今迄沈黙を貫いてきた例の大将軍であった。
何時の間にか側面に歩み寄り、「傀儡とはまた辛辣ですな」と続けながら、老人とは思えない力で成の手を掴む。
その手からゆっくりと子供用の翼善冠を剥ぎ取ると、「畏れ入ります王子様。直ぐにもう少し小さいものを御用意致しますので、それ迄はこれで御辛抱を」と再び桂の頭に被せ直した。
「何処まで人を虚仮(こけ)にしたら気が済むんだ。日本語が話せるのなら、何故今迄ぼーっと突っ立ってたんだ!」
眉根を寄せながら狂ったように声を上げる成に対し、「申し訳御座いません」と苦笑混じりに応える自称大将軍。
一つ咳払いをし噛んで含める声音で続けた。
「御怒りになられるのは御尤も。
しかし我々世代の朝鮮人は、皆等しく日本語が話せます。
長い間使ってはおりませんでしたが、もう何十年も前に朝鮮全土が日本の統治下に在った折に習得致しました。
‐67‐
皮肉なことに、小さい頃刷り込まれた日本語は中々忘れることが出来ないようで、三つ子の魂百までとは良く言ったものであります。
申し遅れました。自分が大朝鮮公国(テチョソンコングク)は、禁衛営(クミヨン=李氏朝鮮時代首都防衛を行った軍営)の大将軍(テジャングン)、柳星来(りゅうせいらい)であります。
朝鮮語(チョソングル)で、(リュソンネ)。
どちらで御呼びになって戴いても結構です」
兵士等の存在などまるで眼に入らぬと言った素振りの成が、大仰に頭を振りながら吐き捨てた。
「つい数日前まで主体思想(チュチェササン)を掲げていた社会主義の国が、禁衛営とはね
・・・・・まるで韓流時代劇だ。
懐古主義も度を越すと、それは茶番になる」
成の背後に張り付いていた宋永善が、苦笑混じりに押し被せる。
「果たしてそうでしょうか? 世孫様の仰るように我々が単なる懐古主義者であったなら、公国ではなく王国を立国しようとした筈」
背中に当てられた銃先の冷たさに一瞬ぴくりと眉が動いたが、直ぐに気を取り直した成は、眼下の兵士等を見遣って微笑んだ。
「どういう意味だ?」
言いながら美姫をちらと一瞥する。
見て取った美姫も成に倣い、ぎこちない笑みを湛え桂と共に兵士等に手を振った。
再び柳が流暢な日本語で耳元に囁く。
「では私から簡単に、御説明申し上げましょう。
ルクセンブルク、モナコなど、公国と呼ばれる国は総じて、王ではなく大公と呼ばれる貴族が君主の座に就きます。
また公国の殆どが、軍事に関して他に依存しています。
例えばモナコはフランスに依存しており、後継者の無い場合はフランスに合併されると言う特約条項まであるらしいのです。
要するに我々は単独での立国を潔しとせず、他国に軍事面の支援を求めた訳です。それも朝鮮時代から拘りのある隣国に」
中天を目差して昇って行く初夏の陽光に龍袍を貫かれ、成は全身の毛穴からじっとりと汗を滲み出させていた。
「なるほど、中国に依存するつもりか。
しかし中国もすんなりと認める訳にはいかんでしょう。
核開発を始め、大量殺戮兵器の開発を続けるあんた等のことを」
言い終え額の汗を拭いながら、皮肉めいた色の瞳を柳に向ける成。
「表向きは、そうとも言えるでしょうな」
じろとこちらを見て来る柳の、口元を歪めた横顔は宛ら鬼神のようであり最早瘴気さえ漂っ
‐68‐
ていた。
ぎらと光るどす黒い双眸から放たれた眼光に気圧され、身震いを禁じ得ない成。
ややあって柳は一頻り声を上げて嗤い、成を正面に見据えた。
「可笑しくて、つい。失礼致しました世孫様。
しかし金一族に依る統治体制をアメリカが保証すると、中国は喉元にアメリカの刃が突き付けられることになります。
求心力を失った金一族が米朝核合意に及びアメリカの威を借りてこの国に居座るつもりでしたが、中国はそれを絶対に赦さない。
それが証拠に南朝鮮も我々を支援すべく、中国の言う通りに事を運んでおります。
こうして我々が決起出来たのも、彼等の確固たる後ろ盾があったればこそなのです」
核心を突く柳の言葉は至極尤もであると思う反面、同調する訳にも行かず、成は手当たり次第に反駁の言葉を並べる。
「だとしてもアメリカが黙ってはいない筈だ。
無論日本も。殊に日本には拉致問題の解決と言う宿願がある。
日本はアメリカだけでなく豪・英とも連合して対抗して来るぞ」
口角泡を飛ばして捲し立てる成の言葉を、何処吹く風と受け流した柳は後ろ手を組み鼻を鳴らした。
「軍隊を持たない日本が黙っていない、と?
彼等が拉致被害者と呼んで久しい元日本人、或いは離散家族と呼ばれる元韓国人も、我が国は立国後全員解放するつもりなのです。
日本が我が大朝鮮公国の立国を阻む理由が見当たりません。
何より今中東で対イランとの遣り取りで手一杯の米国に、我が国の立国を阻む余裕などないでしょう。
彼等には我々の行動を、座して見守るほか道が無いのですよ」
確信めいた声音で告げる柳をきっかりと見据え、顎を伝う汗を拭った成は呻くように反駁の声を上げる。
「あんた等は何の罪も無い人達を拉致し、蹂躙し、その上またその人達を人質に取って己が欲望を叶えんとしている。
最早それは餓鬼や畜生の所業だ。反吐が出る!
百歩譲ってあんたの言う通り日本には手出しが出来なくとも、あんた等と韓国との間に、休戦協定は未だ結ばれていない。
韓国がアメリカと中国を天秤に掛けて仮に中国を取ったとしても、背後に控える同盟国のアメリカが絶対に黙ってはいない。
仮に中国の後ろ盾があったとしてもアメリカを本気で怒らせた時、万に一つもあんた等の勝ち目は無い」
顎を横に振りつつ柳は慨嘆の溜息を吐いた。
「それはこちらから韓国に再度戦争を仕掛けたらの話でしょう。
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此の度は、逆に韓国には我々から休戦協定を持ち掛けます。
そしてそれこそ世界の見守る中で、日本や南朝鮮の拉致被害者と呼ぶ者達或いは離散家族と呼ぶ者達が解放されるのだとしたら、その際それを拒否することが、彼等に出来ますか?
仮に我が国の立国を拒絶したとして、彼等は何を得ますか?」
どこをどう突いても、周到な答えを問いにして返してくる柳。
眉根ひとつ動かさずに語る横顔には、この国の歴史と共に刻まれて来た無数の皺が犇めいていた。
この鉄面皮の老人に対抗出来得る、最後に残された唯一の光。
それは日本と韓国に射す、たった一条の希望の光でもある。
そして一世紀近く以前「日鮮融和」の美名の下、朝鮮王族の血と日本皇族の血が掛け合わされると言う、存在そのものに矛盾を抱えながら生まれて来た祖父の供養にもなる・・・・・。
胸中に呟いた成は日本人でも無く韓国人でも無い、在日韓国人と言う今の自身の立場にも重ねながら、「日米韓の三国の同盟関係は今も健在だ」と我知らず口を動かしていた。
苦笑しながら低く押し被せる柳。
「残念ながらそのうちの日本と韓国が今の状況では・・・・・。
日韓が互いに手を携えることなど、天地が引っくり返っても有りはしませんよ。
日米韓の三国の同盟など砂上の楼閣ですよ」
そうして柳は天を仰ぎ見ながら続けた。
「世孫様はどうあっても、我々を御認めになりたくはないのですね。
仰るように百歩譲って、日米韓の三国の同盟が今後強固なものに成るのだと致しましょう。
しかし犬と猿が罵り合いながら完成さすバベルの塔と、我が大朝鮮公国が立国されるのとでは、さて、どちらが早いのでしょう?」
唇を噛み締め立ち尽くす成。
反駁の口火を切ろうとした成が口を開きかけた刹那、聞き慣れた声が彼の耳朶を打った。
「あの・・・・・少し、宜しいでしょうか」
出し抜けに発せられたのは、他ならぬ美姫の声である。
為す術も無く、唯震える身体で桂を抱き締めることしか出来なかった彼女が、今は眦を決して柳を見据えていた。
「私達が王族として此処に居れば、ここに居さえすれば、拉致被害者や離散家族の人達は解放されるのですね?」
「勿論です嬪宮様。そのことは大将軍であるこの私が保証します」
我が意を得たりと相好を崩す柳を視線の端に捉えながら、成が美姫の視界の中へと飛び込ん
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で行く。
「何を言ってるんだ! 俺達はここに居るだけで、似非公国立国の片棒を担ぐことになってしまうんだぞ。
彼等が拉致被害者や離散家族の開放と引き換えに、日本と韓国を、否、世界を核の脅威に晒そうとしているのが分からないのか!」
「そのことと、私達との間に何の関係があるの?」
思いも寄らぬ美姫の言葉に不意を突かれ、凍り付いてしまった成は、「え?」と呻くように洩らすしかなかった。
「貴方の言ってることは、凄く正しいことだと思うわ。
でも私達に取っては世界が核の脅威に晒されるかどうかより、桂の命の方が大事なんじゃないの」
飽く迄も美姫の声音は冷静である。
「美姫、お前・・・・・」
二の句を継げないでいる成に、美姫が淡々と応じた。
「それに亡くなられたお継母様との約束があるのよ」
きっぱりと言い切る美姫を正面に見捉えた成が、「母さんとの約束?」と小首を傾げる。
美姫がより強く桂を抱き締めながら、搾り出すように告げた。
「お継母様が御危篤になって、病室で私と二人だけになったときに交わした約束が」
滲む寸前の瞳を成に向けながら、掠れた声音で続ける美姫。
「お継母様は、『自分の独断で強引に桂と名付けたことを許して欲しい』そう詫びるように仰って、何故その名を与えたかの理由も教えて下さったわ」
そう言えば桂と言う名は、太祖殿下(テジョチョナ)の御名から一字を戴いたものだと母が言っていた。
また自分の成と言う名も、太祖殿下から一字を戴いたものだとも。
二人の名を合せば太祖殿下の御名、成桂(ソンゲ)になる。
そうして成の脳裏に自身の名の由来を決して忘れてはならないと、
母が言い聴かせたときの記憶が蘇った。
「この尊い血筋を絶やさぬこと。
それが奥平の家に嫁いだ女の運命。
そのことをお継母様はお祖母様から、そしてまたお祖母様は、尚宮(サングン)でいらっしゃった恵子(ヘジャ)大お祖母様から言い継がれて来たらしいわ。
代々奥平の嫁は皆在日か、請われて韓国から海を渡って来た者。
そして在日三世の私にも、朝鮮の血が流れている。
だから私、そのとき私はお継母様に誓った。
『桂の命はこの血に懸けて、必ず私が守ります』って」
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美姫の声を借りて蘇った、母の声、そして祖母や曾祖母の声、それ等が失せ始めた眼前の風景の色を、徐々に取り戻させてくれる。
立ち尽くす成は、「美姫」と唯々妻の名を呼んだ。
「それに貴方の言う正しいことを行えば、私達の命諸共、離散家族や拉致被害者の命だって奪われる可能性があるわ。
先ずはその人達の命を守ることが、一番大事なんじゃないの。
日本人でも、そして韓国人でもある貴方には・・・・・いえ、英親王李垠邸下(ヨンチンワン・イウン・チョハ)の血を受け継ぐ貴方なら、そのことが誰よりも分かる筈」
そう重ねた美姫は、身動ぎ一つ出来なくなっている成の手を空いている方の手できつく握り締め、ざわつき出した兵士等を見渡す。
「さあ、貴方。覚悟を決めて」
きっぱりと言い切ると美姫は兵士等に向かって、握り締めたままの成の手を突き上げて見せた。
刹那、「萬歳・萬歳・萬歳(マンセ!・マンセ!・マンセ!)」
と再び兵士等の歓喜の声が沸き起こる。
そして兵士等を見据えたまま、歓声に紛れぬ程強い声音で告げた。
「きっと彼等が私達を守ってくれるわ!
柳大将軍(リュ・テジャングン)にも彼等が必要なのでしょうけれど、彼等を従わせる為には先ず私達が必要な筈」
言い終え兵士等から成に転じた美姫の瞳の奥には、強靭な母の意志と力が宿る。
次いで宋永善に視線を転じた美姫は、「(クロッチヨ ソンサングン?(そうなんでしょう宋尚宮?)」と揺るが無い声音で問うた。
出し抜けに発せられた美姫の朝鮮語に、瞠目を禁じ得ない宋永善。
後退りながら、咄嗟に拱手(コンス)の礼を尽くした。
「イェー。ピングンマーマー(然様でございます。嬪宮様)」
初めて聴く美姫の朝鮮語が、成の心の琴線に触れる。
まるで本来の自身が何者であるか、気付けと言わんばかりに。
見る間に、現実が音を立てて押し寄せてくる・・・・・。
肩や胸に龍の縫い取りがある朝鮮王族の礼服の浅黄色が、それよりも白い美姫の肌を際立たせていた。
宋永善よりも強く、そして美しく見える妻を誇りに思いつつも、美姫の言い様はつまり柳の言いなりになることでもある。
無論桂の命以上に、大切なものなど有ろう筈も無いのだが。
‐72‐
しかし拉致被害者や離散家族を盾に、そして核の脅威を矛にして極東アジアを、いやアジア・太平洋全域を席捲しようとしているに違いない柳の片棒を担ぐことなど、成にはとても容認出来ない。
ふと若い頃に立てた誓いを思い出した。
日本と韓国の和解である。
それは朝鮮王族として生まれながらも日本へと渡り、学習院初等科から陸軍士官学校そして陸軍大学へと進んだ、雲硯宮李公偶(うんけんきゅう・りこうぐう)の死を、本で知った際に立てた誓いだ。
広島に置かれた第二総軍教育参謀の李偶公は、司令部への出仕途上で原子爆弾に被爆し、翌日亡くなったのだと言う。
日本公族の身分のまま薨去した、朝鮮王族唯一の被爆者であった。
曽祖父の垠(ぎん)や祖父の晋さえも、日本王族として被爆する
などと言う理不尽の憂き目には遭っていない。
それを知ったとき、「二度殺し」と言う言葉が脳裏を過ぎった。
そうして自身の置かれた状況を李偶公に重ね合わせ、そのとき己が胸中に誓ったのである。
李偶公の死に報いたい。と。
口さの無い同胞から、「半豚蹄(パン チョッパリ=豚蹄とは足袋の先が豚の蹄に似ていることから、日本人を揶揄する時に使う言葉で、半分だけ豚蹄と言う在日同胞の揶揄に、韓国在住の韓国人が使う言葉)」と呼ばれる理不尽。
戦後親日のレッテルを貼られ、母国に帰国出来なくなった在日韓国人のことを、その意思に拘わらず総て兵役忌避で片付ける理不尽。
被爆した李偶公は、ここ迄日韓両国が啀(いが)み合うことを、果たして予期したであろうか・・・・・益してや曽祖父の垠や祖父
の晋に於いては。で、ある。
その上に今また、この身を柳に拘束される理不尽。
理不尽だらけの人生ではあっても、身体に流れる血の半分は大韓帝國王族から受け継いだもので、そしてまた半分は日本皇族から受け継いだものなのだ。
北の将軍様から受け継いだ血など、一滴も入っていない筈。
それなのに、どうして・・・・・今。
そうしてあれやこれやと、答えの出ない問いに無理に答えを出そうとして知恵を搾る成は、焦点の定まらない眼で遠くを見ていた。
‐73‐
やがて傍らに歩み寄った柳が、高々と掲げられた軍旗を指差す。
「世孫様あちらの軍旗を御覧下さいませ。
あの赤い星を囲んでいる白い縁取りは、何を表したものか御分かりになりますでしょうか?」
美姫と共に突き上げていた成の手は、何時の間にか拳に握り締められており、それを下ろしながら、「ん?」とだけ柳に応じた。
赤い星を囲んでいる白い縁取りを注視すれば、やはり円ではない。
軍旗を凝視する成に一瞥をくれた柳は、「あれこそが李王家の紋章、李(すもも)の花であります」と得意げに告げてにやと嗤った。
「李の花?」
「はい。あれこそが大朝鮮公国を表す、我々の決意の証であります。
あの軍旗こそが、我等禁衛営(クミヨン)の
・・・・・」
直後響いたバラバラと言う重低音が、柳の言葉を掻き消して行く。
近付いて来るヘリの羽音であった。
宋永善が自身の裳の太股の部分を、手で抑えるようにする。
次いで直近に迫るローター音に負けじと、大声で美姫に促した。
「嬪宮様、迎えのヘリが参りました。
風が下から舞い上がるかと思います。
唐衣(タンウィ=朝鮮王族の婦人用礼服)の裳が裾から巻き上がらぬように、こうして裳を手で御抑え下さいますよう」
言われるままに膝を片手で抑えた美姫が、令する声音で告げる。
「ありがとう。
では、この子を頼みます。宋尚宮」
「畏まりました。嬪宮様」
拱手(コンス)の礼から直った宋永善は、直ぐさま桂を胸元に抱き上げた。
見れば抱き上げられた桂の足が、上手い具合に宋永善の太股の辺りに在り、彼女の裳を抑える役目を担っている。
果たしてそれは宋永善の周到な考えに依るものか、それともそれ等を計算し尽くした上での美姫の配慮なのか。
何れにしてもよくまあこんな時に、裳が巻き上がらぬようになどと言う、些細なことを考えられたものだ。
それに既に主従関係が出来上がっているとでも言うような、美姫と宋永善とのやり取り。
まったく女ってのは・・・・・分からん。
顎を振りつつ胸中に呟いた成は、見るともなしに美姫を見遣った。
‐74‐
すると丁度美姫もこちらを覗い、胸中は察したとばかりに微笑む。
次いで裳を抑えながら歩み寄り、擦れ違いざま成の耳元に囁いた。
「宋尚宮だけど、そんなに悪い人じゃないわ。それに柳大将軍も」
舞い降りて来る大型ヘリのローター音が直近に迫ったせいで、美姫の声は成にしか聴き取れない。
「どうしてそんなことが分かる?」
怪訝そうな顔で苦笑混じりに問い掛ける成の声も、無論美姫以外の者には聴こえようも無かった。
振り向きもせず、「女の勘よ」とだけ背中で言い残す美姫。
そして誰よりも先に、降下するヘリの方へと向かって行く。
ダウンウォッシュの風に煽られて、被っている翼善冠が吹き飛ばされそうになるのを片手で抑え込んでいた成は、柳の方に視線を転じると、「まるで骨董品だな」と吐き捨てた。
昆虫の眼を思わせる幾枚にも仕切られたキャノピーに、所々塗装の剥げ落ちたカーキ色の機体。
全体的に大時代なフォルムは、とても現役で空を飛んでいるものとは思えなかった。
「Mи‐8(ミー・ヴォースイェミ)」
ランディングしてヘリの羽音も鳴りを潜めた頃、唐突に耳朶を打った柳の言葉は、初めて聴く音色であった。
何処の国の言葉かと暫くの間逡巡した成が、「ロシア製と言う訳か」と当たりを付けてみる。
「正確にはソビエト製です。西側ではミル8とか、或いはNATOのコードネームでは、Hip(ヒップ)とも申します。
もう既に三十年近く使ってはおりますが、それでも中々どうして頼りになる。さあ、参りましょう平壌(ピョンヤン)へ」
応じた柳は微笑み、Mи‐8の方に向かって手を差し伸べた。
促されるままMи‐8の方へと歩みを進める成の背後からは、やはり大音声で兵士等の歓声が追い掛けて来る。
カーゴドアの横で立哨する兵士の敬礼を受けMи‐8に乗り込むと、先に乗り込んでいた美姫とその横には宋永善が座っていた。
膝の上に乗せた桂と一緒になって、サイドウインドウ越しに外を覗き込んでいる。
輸送用大型ヘリの内部は二十人近く搭乗出来るように設計されているらしく、一番前の席に座る美姫等の直ぐ後ろには宋尚宮の部下と思しき女官が二人と、そのもう一つ後ろには護衛の兵と思しき軍装の男が4人ほど座っていた。
‐75‐
それだけの人数が乗っていても、空席が目立つほどである。
背後から差し伸べられた柳の手に促され、美姫の隣席に着いた。
刹那兵士等の大歓声が、ローター音を掻き消す勢いで耳に届く。
しかしそれよりも強く、窓側の宋尚宮が促した。
「嬪宮様はもう既に締めて御出でです。世孫様もシートベルトを」
使い込んでいるのが一目で分かるほど、色褪せて所々擦り切れたハーネスの留め具をガチリと填める。
やがて機体が浮上し、肩のハーネスに圧し掛かる上昇Gを受け止めた成は、Mи‐8の危なげなフライトに自身の運命を重ねていた。
堕ちてしまうのかも知れないな・・・・・。
自身に流れる血の宿命を示唆するかのようなMи‐8の激しい揺れに身を任せながら、成は無意識に笑みを模った口を動かした。
「日本に連れてかれた、曾爺さんと一緒か」
予想外の言葉に耳朶を打たれぴくりと肩を跳ねさせた美姫が、横に座す夫の顔を覗おうとして果たせず、唯々重ねた掌をぎゅっと握り締める。
成の言葉には気付かぬ素振りの柳は、懐から片仮名と漢字だけで綴られた古めかしい書簡の写しを取り出した。
やがて背後から成の面前にそれを差し出し、耳元に告げる。
「本来ならばこの書簡の原本は重要文化財か、或いは国宝の価値があるやも知れません。ところが全く日の目を見ることは無かった」
差し出されたそれを一瞥した成は、憮然とした顔を正面に戻した後、「一体何なんですそれは?」と背中で応じた。
柳が所在無さげに手を引っ込める。
「宜しいのですか? 御祖父様の暗殺を裏付ける証拠を御覧にならずとも」
柳の言葉を聴き、一転成は弾かれたように振り向いた。
「暗殺を裏付ける証拠?」
言い終えるや重ねられていた美姫の手を振り解くと、再び面前へと差し出された書簡の写しを毟り取る。
「これは・・・・・」
口籠る成に対し、眉根一つ動かさずに柳が押し被せた。
「日本の先帝が摂政の際、斉藤朝鮮総督に下した勅書です。
本来これは日本に在る筈のものなのです。
‐76‐
斉藤実の遺族か或いは何処かの博物館に」
「それをあんたが日本から盗み出したのか?」
成の言葉に片方の眉をぴくりと吊り上げる柳。
「盗み出すとは人聞きが悪い。
本来持つべき者の手に、返っただけに過ぎません。
それに返して貰ったのは、日本ではなく南朝鮮からです」
成は首を傾げるしかなかった。
「韓国から?」
怪訝そうな顔でこちらを凝視して来る成に、淡々と応じる柳。
「南朝鮮は数年前、日本から朝鮮王室儀軌を返還させました。
友愛党が与党だった時代の話ですが、しかし実のところ彼等が欲したのは儀軌などではなかった。
本当に欲したのは、この摂政宮の発した勅書の原本だったのです。
それなのに彼等は、儀軌と共に得たこの貴重な書簡を、大した防犯措置も施さずに、ソウルの博物館に保管していたと言う訳です」
言い終えた柳が苦笑とも、嘲笑ともつかぬ不敵な笑みを浮かべた。
大きく一つ肯いた成が、伏し目がちに問い掛ける。
「韓国政府は、それを盗み出す者が居るとは考えなかった。と?」
「恐らくはそう言うことかと。
ですから至って簡単な作業でありました。
南朝鮮にしてみれば極秘裏にこれを受け取った訳ですから、我々を始め第三者がこれに眼を着けるとは考えなかったのでしょう。
無論世孫様御存命の事についてもです。
封印されるべき史実が含まれていると言うのに、あんな御粗末なセキュリティでは・・・・
・」
成は柳の言葉をなぞるように問い掛けた。
「封印されるべき史実?」
「日本の天皇が、朝鮮の王子を救命したと言う史実です。
反日を国家思想の根幹とする彼等に取って、そんなことを公にする訳にはいかなかった。
それが故にこの書簡を、日本政府から剥ぎ取ったと言う訳です。
仮令第三者が欲しない書簡であったとしても、あんな手薄なセキュリティでは。
若し私が南朝鮮の政府高官なら、日本政府からこの書簡を受け取ったと同時に、破り捨てるか、或いは焼き払っていたでしょう。
朝鮮総督府の建物をぶち壊したように、跡形も無くね」
柳の言葉を聴きながら成はふと思い出す。
幼い頃に聴かせてくれた母の寝物語を。
‐77‐
日本の先帝陛下が、お前の御祖父様の命を救って下すったのだ。
お前の名乗っている奥平と言う姓もまた、先帝陛下の命に従って御祖父様を救い出した海軍士官の姓なのだと。
決して日本を恨んではなりません。
そして何時の日か日本と韓国が手を携えて、朝鮮半島の南北統一を成し遂げるものと信じていなさい。
仮令自分に出来ることが何も無くとも、心の中でそう祈りなさい。
それが曾御祖父様や、御祖父様の供養になるんだからと。
そんな母や祖母或いは曾祖母の思いも、若い頃に立てた自らの誓いも、総ては夢のまた夢。
日本の先帝が李王家の為に為した善意の史実を覆い隠したいほど、韓国は日本を忌み嫌っているのだ。
所詮日本と韓国は、敵味方でしかない。
そうして霧散する儚い夢の欠片を一通り胸中に拾い集めた成は、自身の顔から血の気の失せていくのを感じた。
「あんた等に取っても、所詮私は倭奴の血が混ざった混血の世孫なんじゃないのか?
用済みになれば、私達家族を切り捨てるつもりなんだろう!」
半ば吐き捨てるように言い放った成の言葉に、まったく耳を貸す素振りを見せない柳が低く押し被せる。
「だからこそ世孫様は、我が大朝鮮公国の君主と成られるのです」
息を呑む音をローター音に掻き消された成を見据え、にやと嗤った柳はやおら軍帽を脱いで続けた。
「御分かりになりませんか?
我々が日本と南朝鮮の分断を、延いてはその背後に控える米国を交えた三ヶ国の分断を謀ろうとしていることが。
正にそれこそが、我々と志を一つにする中国の欲するところ」
噛んで含める声音で耳元に告げて来る柳の瞳が、禍々しくも耀う。
たじろぎながらも、成は我知らず問い掛ける声を荒げていた。
「どう言うことだ。何が言いたい!」
益々口元を歪めて嗤う柳。
白髪の下でぬらと煌めく双眸からは、最早妖気さえ漂っていた。
「つまりは日本皇族の血を受け継ぐ世孫様を君主に戴くことで、我が国と日本とは縁戚関係になるのです。
しかしそれに反して混血の朝鮮王族の即位を認めない南朝鮮は、永遠に君主を失うことになると同時に、我が国と国交を結んだ日本ともその後接点を失うことになる。
‐78‐
それに加えて離散家族と拉致被害者の帰還と言う大義名分を下に、我国の立国を認めてしまうことになるであろう日本や南朝鮮を、果たして米国はそのままにしておくのでしょうか。
我々の持つ核の力の排除を、一時的にでも断念せざるを得ない状況に陥った米国は、必ずや日韓双方に相応の罰を与えるでしょう」
そう耳元に告げて来る柳の双眸は、今、何処を見ているのか。
それが自身以外の何かであると言うことしか知りえない成は、当惑の色を宿した瞳を向けた。
「それで柳大将軍、あんたの望みは何だ?
富か権力か」
言い終えた成の向けて来る視線を、射返す柳のその双眸の奥には、寂寥(せきりょう)と高潔が綯い交ぜになった色が潜む。
「さて、どうなのでしょうか・・・・・」
果たして柳の双眸には、自身の未来など映ってはいなかった。
ふと脳裏を過ぎる予感・・・・・。
彼の望みが適い用済みとなった自身が、金正春と同じ運命を辿ることになるのではないか。
そのことに思い至った刹那愕然として言葉を失った成は、震える膝を掌で抑え付けた。
どうとも前を向けず、俯き加減になる成。
そのせいか腕に嵌めたG・ショックが、視界のど真ん中に飛び込んで来た。
ふと見遣れば2020・6・9とデート表示が為されており、その直ぐ下の時刻表示も正確に時を刻んでいる。
そしてその横のセコンド表示も、言わずもがな遽しく進んでいた。
今し方船室で目覚めた時と同じ現を、自身は今、生きているのだ。
ふいにこちらへと掌を差し出し、重ねて来る美姫。
そして重ねられた掌を、成がその上からぎゅっと握り締めた。
美姫の隣では宋永善に打ち解けた様子の桂が、何やら言葉を交わして楽しそうに窓外を見入っている。
つられてふと窓外に視線を走らせてみた。
走らせた視線のその先には、果てしなく続く緑の帯が見える。
恐らくあれは・・・・・中国と北朝鮮の国境に沿って流れる、鴨緑江(アムノックカン)の流れであろう。
成は咄嗟に閃いた直感に従い、脳裏に朝鮮半島の地図を拡げた。
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緑の帯を鴨緑江とすれば、眼下に拡がる街並みは中国と国境を接する、平安北道(ピョンアンブクド)の何処かの街。
次いで反対側の窓外に眼を遣ると、大海原が拡がっていた。
左側には陸地が、右側には海が見える。
どうやらヘリは、沿岸沿いに南へと進路を取っているらしい。
だとすれば今し方迄自分達が居た港は、新義州(シニジュ)の街にほど近い、龍川郡(リョンチョングン)の何処かの港と言うことか。
直接北に入らせるのでは無く、国境付近の中国の街まで来させてから北に誘いこむ。
何故そのことに気付かなかったのか。
中国を後ろ盾にする柳なら至極簡単なこと。
そうしてあれやこれやと考えを巡らすうちにも、鴨緑江は徐々に後ろへと遠ざかって行く。
視界から消え入りそうになる鴨緑江を悄然と眺めながら、成は我知らず胸中に呟いていた。
北から南へと向かうヘリの行き先が、何故ソウルではなくて平壌(ピョンヤン)なのだろうか・・・・・。
と、そんなことを幾ら呟いてみても、答える声など届く筈もない。
それでも、もしや・・・・・と、耳を澄ませては見たが、聞こえてくるのは機体の軋む音とローターの響きだけであった。
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