第7話 東京・赤坂

文字数 14,967文字

 十人掛けの白布を纏った丸テーブルが二十以上も設えられた大宴会場の中に、パンソリを謡うソリックン(パンソリの謡い手の意)の声が朗々と響き渡っていた。
 公の場に在っては女の艶も色香も、それら総ての性(さが)は、纏った純白の裳(チマ)と襦(チョゴリ)の内奥に封じ込めなければならぬ。

 パンソリとは、そう言うものか? 

 そうした板倉の疑問など何処吹く風と、舞台の上では官能的で透き通るほど肌の白い瓜実顔のソリックンが、その容姿とは裏腹に野太い声でパンソリを謡っていた。
 今日の為に民団が厳選して用意したソリックンなのであろう。
 一介のパンソリの吟じ手としては、余りに美しかった。
 日本人と言わず韓国人と言わず、会場を埋め尽くす男どもの視線を一身に浴びるソリックン。
 調子を取るのは唯独り傍らに座って太鼓を打つ、鼓手(コス太鼓奏者の意)と呼ばれる太鼓奏者の男のみ。
 鼓手の男のバチ捌きも中々なものだったが、哀しいかなやはり衆目の集まるところでは無いようだ。

 三つある大扉のうち、会場から見て一番左の大扉から二歩・三歩踏み込んだ処で、舞台の上の鼓手から会場の中へと視線を転じ、高長官は何処かと四方に眼を走らせる板倉。
 一頻り探してはみたが余りに騒然としていて、誰が日本人で誰が韓国人かさえ判別出来ないと言った有様だ。

 そうして眼を動かしながらも、首を捻ること頻りの板倉。
 どうしても釈然としないことがあったのだ。
 長官側の通訳だけでは心許無く、こちら側の通訳も同席させるよう秘書に申し付けたが、思いも寄らぬ答えが返って来たのである。
 あちら側の秘書にそのことを告げると、その必要はありませんと高(コ)長官が返答して来たのだそうだ。
 板倉自身は韓国語をカタコトしか出来ない。

 どう言うことだ・・・・・英語で話し合おうと言うことか?
         ‐124‐

 胸中に呟き尚も眼を凝らす板倉の耳朶を打ったのは、確かに聞き覚えの有る声であった。

「大変お待たせ致しました。お呼び立てして申し訳ありません」

 振り向きざま眼に飛び込んで来た流暢な日本語の声の主に、板倉は当惑を隠せずに怪訝そうな顔を向けた。
「高長官でいらっしゃいますか?」
「はい。初めまして、統一部長官の高明善(コ・ミョンソン)です。
こちらからお誘いしておいて、遅れて申し訳ありません。
 ジュネーブの黄大統領に二・三確認を取っておりましたので、少々時間が掛かってしまいました。どうかお許し下さい。
 先程私共から配膳部の方に、なるべく目立たない席を手配して欲しいと直接申し出まして、一番後ろの席の使用許可を戴きました。
そう言う訳ですので、ご一緒にあちらへ」
 最後方のテーブルに手を伸べる高の日本語が余りに流暢で、その場に棒立ちとなり覚束無い声を返す板倉。
「いや、そのぉ、先程散会する際にご挨拶戴いた時は聞き流してしまいましたが、今こうして長官の日本語をお聴きすると余りに流暢でいらっしゃるので、少々驚きました。
 まったく訛りが無くていらっしゃる」
 対する高は笑顔を添えて落ち着いた物腰で応じる。
「ありがとうございます。
 そう仰って戴くと自分の日本語に自身が持てます。
 しかし悲しいことですが、我が国では政治家が日本語を使うことに抵抗がありますので、今日まで日本語を使う機会に余り恵まれませんでした。
 久しぶりに日本語を使うものですから心配でしたが、板倉大臣に頂戴したお言葉で何やらほっと致しました」
 瞠目を禁じ得ない板倉は顎を左右に振りつつ感嘆の声を返す。
「いや、完璧な日本語でいらっしゃるので、まるで日本人同士で話しているような錯覚に陥ります」
 直後軽く会釈を返す高に促され板倉は高と共に席に着く。
 席に着くと間を置かず通訳が必要の無い旨板倉は秘書に告げた。
 肯き退く板倉の秘書同様、指示を受けた高長官の秘書も共に一つ前の席へと向かう。
 漸く大きな丸テーブルに、板倉と高の二人だけとなった。

「自慢じゃありませんが、日本語なら通訳なんかより私の方がずっと上手いと思いますよ。
         ‐125‐

 我が国の通訳の日本語ときたら・・・・・否ぁ、酷いものです。
 訛っていてとても聴けたものじゃない。
 しかしだからと言って外交の場で通訳より流暢に日本語を話せば、彼等の立場がありません。
 彼等も外交部の人間なもので、変なところで気を遣います。
 尤も通訳を外したのはその理由だけではありませんが」
 高の意味ありげな言葉に、下手な通訳を外した訳の核心に出来るだけ早く触れたい板倉ではあったが、急がば回れ、と、自制を促すべくわざと核心から遠ざかる問いを投げ掛けた。
「以前早稲田に留学なすっていたとか?」
 話しを切り替えた板倉の意を受けて高が独白する声音で返す。
「ええ、ソウル大を卒業してから四年。
 次いで実家の大星(テソン)グループの日本支社に駐在員として三年、思い起こせば都合七年東京に居たことになりますか。
 その間に恋もしました。そして失恋も・・・
・・」
 言い終え苦い表情を見せる高。
 遠い過去に思いを馳せる高の瞳の奥、朧に浮かんだ件の恋の相手に凡その中りを付けた板倉は、逸らせた視線のやり場を舞台の上のソリックンに求める。
「やはりその日本人の女性とは、上手くいかなかったのですね」
 板倉の問い掛けに無言を返事にした高の視線もまた、台上のソリックンに向いていた。
 その視線をそよとも動かさず、答える高。
「もし上手くいっていたら、此処にいなかったかも知れません。
 それに統一部長官などと言う、面倒な職に就かなくても良かった。
 それはそうでしょう・・・・・日本人の妻を持つ韓国の政府高官など、存在のしようもありませんから」
 刹那ソリックンの謡声が板倉の頭蓋を突き通る。  
 大音声と言うのでも無く、がなり立てるのでもないソリックンの声音が、騒々しい会場の中を突き抜けてここ迄届いた。
 如何な発声法なのか不思議だ・・・・・。
 胸中に呟きながら、板倉がソリックンに定めていた視線を転じる。
 高もまた視線をこちらに転じていた。

 交錯する視線と視線。

 刹那高が弾かれたように言い放った。
「時間がありませんので、端的に申し上げます。
 貴国のI‐418の力をお借りしたい」
 言い終えた高は、凍り付き瞠目を禁じ得ないでいる板倉が口を開くよりも早く、懐から茶封
         ‐126‐

筒を取り出した。
「貴国の特定秘密であるI‐418の力を借りたいなど、不躾な申し出であることは百も承知です。
 しかしそれを承知で御願いしなければならないほど、事は急を要します。
 これは北に潜入している、我が国の国家情報院に席を置く諜報員が送って来たものです。
 今日から三日後の六月十四日付で貴国に送付される予定のものだそうですが、内容が内容なので通訳の手を通さずに私が直に日本語に直しました・・・・・どうぞ、ご覧になって下さい」
 高から便箋を受け取った板倉が、無言のまま一つ肯く。
 広げた便箋に眼を落とすと高の手のものであろう、存外に達筆な手でびっしりと文字が綴られていた。


          宣

 此の程我が大朝鮮公国は数十年に亘り、貴国と南朝鮮に拠ってその存在を隠蔽されて来た李王朝の正式な皇統であらせられる、李成(イ・ソン)皇帝陛下、並びに美姫(ミヒ)皇后陛下と世子である桂(ゲ)殿下の御三方を、貴国より解放することに成功した。
 また同時に日本から南朝鮮に対して不当に譲渡された、日本の先帝に拠って発布せらる、『李晋(イ・ジン)王子救命の勅書』の入手にも成功した。

 今日に到る迄朝鮮人民同志並びに人民軍同志は、金一族に依って蹂躙されその尊い命を虚しくして来た。
 加えて金一族は代々李王家の大いなる力を畏れるが余り、非礼にも朝鮮全土に悪政を布いた根源であるかの如く李王室を批判し、遠避け、不当に国是を操作した。
 その上今般逆賊金代表書記は恥知らずにも、朝鮮半島の統一と言う美名の下、我が国土を南朝鮮に売り渡さんと画策するに及んだ。
 然して逆賊の金代表書記は朝鮮人民軍の軍費を吸い上げ、自身と己が一族だけが米国でのうのうと暮らせるよう、国庫を私しようとしたのである。
 依って朝鮮人民同志と朝鮮人民軍は李(イ・ソン)皇帝陛下の御名の下、この卑劣な逆賊を粛清し、金正春の私した権限や国庫の一切を李成皇帝陛下に返上させるよう本日大英断を下した。

 今後朝鮮人民同志と朝鮮人民軍同志は、元来の高麗(コリョ)の時代より太祖殿下までが都
         ‐127‐

と定めし開城(ケソン)を首都とし、李成皇帝陛下と御一家を開城宮闕に御動座戴く決意を固めた。
 本日李成皇帝陛下の即位式を開城にて盛大に執り行い、その後速やかに全世界への建国の発布を執り行う。
 次いで李成皇帝陛下を我が国の新たな元首と定めると同時に、国号も是を大朝鮮公国と改め、朝鮮人民同志と我々禁衛営軍に拠る、希望に満ちた新たなる立憲君主国家を創建せんがことを此処に宣す。

 拠って我等が大朝鮮公国の尊き肇国の日を、李王家と密接に関わって来た貴国と共に慶賀致したく、本親書を謹呈するものである。
 ついては本日より十日の後、我が大朝鮮公国は国際連合に対し立国の承認を得るべく、李成皇帝陛下の御名の下立国趣意書を提出するが、貴国は南朝鮮国と共に国際連合総長に対し、我が大朝鮮公国の建国に賛同の意を示して戴きたい。 
                     
 また我が大朝鮮公国の立国に貴国の賛同を得られるならば、貴国と南朝鮮国に拠る我が皇帝陛下を不当に拘束せる罪、並びに日本の先帝が発布した勅書を南朝鮮に譲渡せる罪を不問に付し、貴国への友情の証として、以下に掲げた約定を履行せんがことを此処に約す。


一、我が禁衛営軍に拠る宇宙開発に対して、米国と同盟を結ぶ貴国に於いては未だ賛同を得られずに居るが、今般大朝鮮公国の建国に貴国の賛同が得られた場合、同時に我々の考える平和的宇宙利用にも、賛同が得られたものとする。
 拠って今後我々が衛星を打ち上げる場合等、我々が平和的宇宙利用を目的とする総ての行為に於いて、その革新的宇宙開発技術、並びに打ち上げの日時・場所など総ての情報を貴国に開示するものとする。

 一、南朝鮮に拠って創建された『統一大橋(トンイルテギョ)』を見晴るかす開城宮闕の頂より、いずれ我が皇帝陛下は南北朝鮮の統一を御宣下なされ、その統一大橋を渡るべく御行幸なさることとなるが、その際統一なった全朝鮮公国の国賓として貴国皇帝たる今上天皇を、元来の漢陽(ハニャン)へと改めた現在の南朝鮮の都ソウルへと御招致し、我が皇帝陛下の御曾祖父でもあり、貴国王族でもあった英親王李垠(ヨンチンワン・イ・ウン)殿下、 並びに英親王妃李方子(ヨンチンワン・イ・パンジャ)妃殿下、李晋(イ・ジン)王子、李玖世孫(イ・グ・セソン)殿下の墓前に花を手向けら
         ‐128‐

れ、後顧の憂いを絶った後、貴国との恙無き友好を共に祝うものとする。

 一、金代表書記の不当な命令に依って本国に拘束されたる、元貴国籍の人民同志を全員解放し貴国に引き渡すものとする。

 以上の約定は我が大朝鮮公国の立国に貴国が賛同すると同時に、李成皇帝陛下の御名の下必ずや履行されるであろう。
 但し貴国に於いて我が国の立国に抗う発言や行動が確認された場合、以上の約定が履行されることは無く、大朝鮮公国人民同志並びに我等大朝鮮公国禁衛営軍同志は、李成皇帝陛下の御名の下、その身が砕け散り、血の一滴さえもが喪失するまで、南朝鮮と貴国とを相手に闘い抜くことになるであろう。
 またその場合の大朝鮮公国人民同志とは、元貴国籍の同志達も含まれることは言う迄も無い。

 然るに我々に闘いを挑むのであれば、それは貴国に取って乾坤一擲を賭す決戦となるであろうことを、深く心に刻んで戴きたい。
 しかしそのような懸念は杞憂に過ぎないであろうことを確信し、最後に大朝鮮公国と貴国、また我が国皇帝陛下と貴国今上天皇との今後の揺るぎ無い友好と互いの平穏を祈り、本宣言の最後に留め置くこととする。 
                                     以上

       二○二十年 六月十四日  

      大朝鮮公国 禁衛営軍大将軍
               柳星来

   日本国 須賀内閣総理大臣 殿


 柳星来の決起趣意書とも立国趣意書とも取れる文面に触れた板倉は、何故と言う思いに胸中を埋め尽くされていく。
 柳星来と言えば数年前金代表書記の恣意に依り失脚した、元朝鮮人民軍総参謀長である。

 何故柳星来は韓国が最も敵視する今上陛下を、国賓として御招致申し上げんとするのか?

 何故立国される大朝鮮公国は、王国では無く公国なのか?
         ‐129‐

 考えられる所以は三つ。

 一つは拉致被害者の命を利用し、日本の経済的支援と核開発容認を取り付けんが為。
 今一つは中国を拠り所とするも、表面上は天皇家を尊ぶことに依って日本に擦り寄り、天皇家を忌み嫌う韓国と日本を分断せんとする謀計を成就させんが為。
 そして今一つは大朝鮮公国に依って朝鮮半島の南北統一を為し、大韓民国と言う国家を排除せんが為・・・・・。

 次いで板倉の脳裏を過ぎったのは、国際連盟に承認されることも無く滅び去った砂上の楼閣、満州帝国の在りし日の姿であった。
 柳のやろうとしていることは、日本帝国の迷走が手繰り寄せた幻
の満州帝国立国の再現である。
 それこそ日本帝国が清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀をして満州国皇帝と為し、日本帝国の傀儡とした手法そのままではないか。
 山海関の東を本拠地にした事から関東軍と称した満州駐留の日本国軍は、往時絶大な権勢を揮いその慢心から流血と酸鼻を呼んだ。
 今また開城(ケソン)を首都にした防衛軍を禁衛軍と称し、李王家末裔を傀儡とすることに依って、柳星来が「大朝鮮公国」と言う名の「大朝鮮帝国」を立国せんと目論んでいる。

 惟(おもん)みるにこの流血をも辞さない柳星来の決起も、また彼と言う人格そのものも、総ては日本帝国植民地支配の圧政が歪曲に歪曲を重ね、彼の血の中に齎した所産なのだろうか。
 そこ迄考えて漸く書面から顔を上げた板倉は、便箋を握り締めた自身の手が汗で湿り気を帯びていることに気付いた。

 出し抜けに耳元で囁いた高の声に、板倉が身体を硬直させる。
「どうか他言無用に願います。一応我が国の国家機密ですので、他国の大臣にそのことをお伝えしたことが公になると・・・・・」
 言いながら大仰に自身の首を掻くふりをする高に、「内容は概ね把握しましたから」と告げ板倉は折り畳んだ便箋を返した。

「軽い冗談ですよ。どうぞお持ちになっていて下さい。
 貴国が我々の計画に協力さえして下されば、そんなものはただの落書きに変わる」 
 板倉に告げた途端緩めていた口元をぎゅっと結び直した高が、黒い瞳の奥から生硬い光を放
         ‐130‐

つ。
「我が民族の日本帝国植民地時代に於ける侵略も、従軍慰安婦問題も、或いは独島(トクド)の領有権問題に見る両国の不毛な争いも、消す事は出来ないまでも・・・・・現政権のあなた方閣僚の決断一つでそれ等総ての障害を乗り越えて、両国の相互理解と両民族の揺るぎ無い友情を築くことが出来る」       
 高が言い終えた刹那、聴き慣れない旋律が板倉の耳朶を打った。
 韓国語で綴られる詞の意味こそ分からないものの、七色の声を響(どよ)もすソリックンの謡声に暫し心を奪われる。
 見て取った高は板倉の方を見るともなしに見遣り、まるでソリックンの刻む旋律に合わせるように低い声音で続けた。
 
「これは興甫歌(フンボガ)と言う演目でしてね。
 日本の昔話風に申し上げれば、『鶴の恩返し』と『舌切り雀』を合わせた物語とでも言うところでしょうか」
 転じた視線をソリックンへと向け、凝視するや動かない高の視線。

「長官、そろそろI‐418を必要だと仰る訳を教えて下さい」

 やおら口を開いた板倉の方に視線さえ向けない高は、問いにも答えず、「何故民団がパンソリの演目を、この興甫歌にしたかご存知ですか?」と問い返した。
 大きくひとつ息を吐き、無言で顎を振る板倉。
 対する高は微動だにもせず、自問に押し被せるようにして続けた。

「優しく正直者の弟が雀を助け、乱暴で放蕩者の兄が雀の足を折る。
 弟は助けた雀から恩返しの金銀財宝を贈られて幸せになるが、反対に兄は罰が当って不幸のどん底に陥る。と、まあ、そんな話です。
 反日を大儀と仰ぐ議員の曰く、弟を我が国に、兄を貴国に喩え、我が国の高官等に気分良くパンソリを観て貰うようにとの、民団側の配慮だとか・・・・・哀しい限りです。
 そうして貴国の閣僚にはそうと分からぬよう、我々に対してだけ反日の意思を伝え、そして阿ろうとする在日同胞の歪んだ愛国心。 
 またそれを当然の如く受け入れてほくそ笑む、反日議員の猥褻さ。
 何故貴国と我が国はこんなことになってしまったのか・・・・・。
 こんなままで良い筈は無い。そう思われませんか?
 今こそ我々は手を結ぶべきなのです。
 否、何としても我々は手を結び、今北で起こっているクーデターを阻止しなければならない」

 言い終えた高を見詰める板倉の瞳からは、峻烈な眼光が放たれた。
         ‐131‐

「I‐418になら、それ等問題の解決を託せると?」

 無言で肯いた高が、再び台上のソリックンに視線を戻す。
「どうやらパンソリの演目が切り替わったようです。
 二番目のこれは春香歌(チュニャンガ)と言って、妓生(キーセン)の娘と両班(ヤンバン)の息子の身分を越えた恋の物語りで、興甫歌のように別段民団側には秘めた意思は無いようです
が、この演目の意思こそ今の我々に必要なものではないでしょうか。
 身分も、過去の恩讐も総て捨て去り、互いに手を取り合う。
 それこそ今正に、我々がしなければならないところです」

 なる程言われてみれば、先程とは少し異なる旋律が刻まれていた。
 演目の変化など高に言われなければ、韓語(ハングル)を解さない板倉には気付きようもないことである。
 とまれ春香歌の話には触れず、「同感です」とだけ板倉は返した。
 次いでひとつ肯いた高が、徐に切り出す。
「その為には、貴国の特定秘密I‐418が必要なのです。
 先ずはI‐418に搭載されている、貴国純国産の統合打撃戦闘機ブルストームで、東岸の舞水端里(ムスダンリ)と、西岸の東倉里(トンチャンリ)発射基地を叩く。
 そうしておいてもし仮に他の発射基地、もしくは反乱軍が潜水艦から弾道ミサイルを発射した場合、I‐418に搭載されている最新鋭のスタンダードミサイルで迎撃をして戴く。
 否、失敬、あれは公に発表されていない貴国の軍事機密でしたか。
 その日本の開発した軍事機密SM‐Xなら、北がアメリカから拉致した技術者に開発させた新型の弾道ミサイルでも、これを打ち落とすことが出来る筈です」

 高の言葉に瞠目を禁じ得ない板倉は、呻くような声で問い返した。
「軍事機密のSM‐X迄ご承知なんですか!」
 存外に高い声の板倉に、高が辺りを一通り見回しながら人差し指を立てて口に当てるふりをしてみせる。
 そうして他の誰からも視線を注がれていないことを確認した上で、高は板倉にそっと耳打ちした。
「諜報員の情報によると、北は我が国を始め西側諸国配備の従来のSM‐3では、迎撃不可能な多弾頭ミサイルを持っています」

 大きくひとつ息を吐いた板倉は、「やはり多弾頭の核ミサイルですか」と小声で返し、手の甲で額の汗を拭いながら続けた。
「否、しかし我々のSM‐Xのこと迄ご存知だとは・・・・。
         ‐132‐

 今後は我が国も情報の取り扱いには、もう少し注意が必要だと言うことですね。
 兎にも角にももしもの事態に備え、I‐418は既にスタンバイしてあります。
 只・・・・御存知だとは思いますが、I‐418もSM‐Xも専守防衛を旨とする自衛隊が、それ等を所有していること自体我が国の法の範囲を越えています。
 長官は私などより余程我が国や北の情勢にお詳しいようですが、もしこのことが米国に露見したら、我が国だけでなく貴国も立場を危くすると言うことをご承知の上で仰っておられるのでしょうか。
 特にSM‐Xは米国との共同開発で、未だ実物が完成していることを米国に報告していない我々閣僚、否、日本政府自体が、下手をすると詰め腹を切らされることになってしまいます」
 板倉の言葉を聴いてにやと嗤い、訳知り顔で一つ肯いた高。
「そのことならご心配なく。
 間も無く大臣にその米国の意思を伝えるべく、或る人から連絡が入ることになっています。
 板倉大臣もご存知の方かと思いますが」
 言い終えた高に怪訝な表情を向け、「と、申しますと」と板倉が小首を傾げた刹那、背後から彼の秘書が耳打ちした。
「大臣、米国大使館から御電話が入っております。
 至急お伝えしたいことがあると、大使御自身から直接」
 無言のまま一つ肯いた板倉は、秘書の差し出すスマートフォンを受け取った。

(お久しぶりです。板倉大臣)

 耳に飛び込んで来た流暢な日本語を話すその声は、聞き知ったジョン・キング大使のものである。
 一般には知日派の平和主義者とされているが、実のところは現職のクランプ大統領の意を汲んで、関税交渉などでもかなり強硬な姿勢で向かって来る手強い大使だと聞き及んでいる。
 前職で女性大使のカレン・ランディ氏とは、百八十度違う人物である。
 板倉は大きくひとつ深呼吸をした。
 そうしてスマートフォンにゆっくりと吹き込む。
          
「これはキング大使、どうもご無沙汰を致しております」

(こちらこそご無沙汰を致しております。
         ‐133‐

 大使公邸での晩餐会以来となりますね。
 その後如何お過ごしですか?)
 韓国人の高に勝るとも劣らぬ、まるでネイティブかと思わせる流暢な日本語に板倉は舌を巻くばかりであった。

「まあ、何とかやっておりますよ、大使」

 板倉の在り来たりな二の句にキングが口早に押し被せる。
(それは何よりです。
 さて前置きは切り上げさせて貰うとして、早速本題に入らさせて戴きます。
 先程御取次ぎ戴いた秘書の方に申し上げた至急の用と言うのは、他でもありません。
 今大臣のお隣りに座って居らっしゃる高長官からの要請でして、端的に申し上げます。
 クランプ大統領もペンタゴンも、既に貴国の特定秘密のことは承知しております。
 その上で申し上げますが、I‐418を至急出撃させて下さい。
 否、日本の現行法で言うと、出撃ではなく出動になりますか。
 と、申しましても、既にその準備は御済みかも知れませんが)

「こちらの動きなど総て御見通し、と、言う訳ですか?」

 問い返す板倉の皮肉った言い廻しには何の反応も示さず、キングは尚も揺るが無い声音で核心を衝いてくる。
(I‐418を使っての作戦の概要は、先程高長官から御聴き戴いた通りです。
 この件について貴国が主導権を握ることは、韓国の黄大統領にも内諾を戴いております。
 クランプ大統領さえ良ければ。と、仰っていました。
 そのことより大臣が御心配なさっておられるのは、ブルーストームやSM‐Xを始めI‐418の存在が公になることなのでしょうが、それも総て自衛隊ではなく駐留米軍のものだと公表すれば、杞憂に過ぎなくなるのでは?
 つまりブルーストームもSM‐XもI‐418も、総て我が国が他国に先駆けて開発に成功し、我が国から借り受けていたと言うことにしておけば良いのです。
 そうしておけば日本の責任は免れることになります)

「なる程。我が国の開発した技術を無償で貴国に差し出せ。と?」
         ‐134‐

 板倉の反駁とも取れる問い掛けの言葉に、嘲笑とも、失笑とも取れる嗤い声を小さく漏らす。
(その辺りはどう取って戴いても結構ですが、我々も全くの無償でとは申しません。
 防衛装備移転三原則の成立以来、そう言った類のものでも貴国は輸出することが出来る筈です。
 無論I‐418を始めブルーストームもSM‐Xも、発注は三崎や川菱など日本企業に為されるでしょうから、それ等の対価は支払われることにります。
 但し知的所有権の部分は、我が国が頂戴すると言うことになりますが、貴国に取っては所謂ノックダウン方式での輸出と言うことになりますか)

 キングの隙の無い言葉に板倉は反駁する気力さえ失せ、唯、拳を握り締めるばかりだった。

『これを開発した三崎や川菱を始め日本企業に、為すがまま泣き寝入りしろとは言えまい。
 彼等を黙らせる為の代償も考えねばならない。
 これが戦後の日本と言う国の、有りの儘の姿なのだ。
 しかしだからと言って、拒否する訳にもいかない。
 邦人拉致被害者の生命が懸かっているのだ。
 無論キングはそれも計算の上なのだろうが・
・・・・』
 そう胸中に呟き、板倉はぎゅっと口元を結んだ。
 
「仰りたいことは承知致しました。
 お察しの通り既にI‐418への出動命令は発動されています。
 恐らく明日未明には、日本海の海中深く潜航しているものと思われますが、最後に一つだけお訊ねしたい」

 言わずもがなと分かってはいても、訊かずには居られない。
 板倉は搾り出す声音でその先を続けた。

「もし・・・・・もし我々が、この作戦に失敗した時は?」

(我が国は一切何も知らなかった。
 日韓の二ヶ国だけで行ったことらしく、同盟国として遺憾に思う。
報道官のコメントは、そう言ったところに落ち着くでしょうか)

 予測通りの返答。
         ‐135‐

 報道官のコメントは、そう言ったところに落ち着くでしょうか)

 予測通りのの返答。

 それが米国流の遣り方。
 自分達は何も傷付かないし、損もしない。
 総ては日本人に背負わさせれば良い。
 そう、同盟国と言う美名の下に跪く、植民地の民達に。
 そんな風にしか聴こえない、キングの一言一句。

 スマートでクール?
 否、残酷で冷徹、とも言う。

 戦後七十余年続けられて来た、米国式植民地政策・・・・・。
 一セントも償還することの無い、日米安保条約と言う保険の掛け金を支払わせる見返りに、被植民地人が猫の額ほどの土地に起居することを許すと言う間接的植民地政策。
 そうした制度の矛盾や自身の置かれた立場を忘れ、それ等総ての臭い物に蓋をして見て見ぬふりを決め込み、そこから脱却する方途の一切を見失ってしまった日本と言う国家全体の不実。
 その不実を犯し続けて来たツケを支払うべき時が、今、来たのだ。

 しかしだからと言ってキングの言葉に抗う術は無い。

「了解致しました。
 拉致問題担当大臣として、そのことに依存はありません。
 この後至急閣僚にも本事案に関する貴国の意思を伝達した上で、須賀総理に了解を得、キング大使の御提案に則って事を進めたいと存じます」

(賢明な御決断に感謝致します。
 このままの状態で我々が何も介入出来なかった場合、米朝核合意も儘ならないまま北のクーデターを座視してしまった愚かな政権、と、言うレッテルを貼られてしまうところでした。
 クランプ大統領に成り代わり感謝の意をお伝え致します。
 ところで先程の御質問に対する回答に、今ひとつ言葉を付け加えさせて戴けば、日本が失敗をすることなど有り得ない。
 即ち、作戦を失敗した時はなどと言う質問は愚問かと思います。
 また私はそう確信致しております。
 そして米朝核合意の実現こそが、極東アジア並びに朝鮮半島を安定させる唯一の方途と確信
         ‐136‐

致しております。
 貴国と我が国と韓国の三ヶ国で連携を密に取り合い、お互いに最善を尽くしましょう)
            
『お互いに最善を尽くす?
 そっちは何もせずに、高見の見物を決め込むだけではないか』
           
 そうして胸中でキングの型通りの懐柔の言葉に辟易しつつも、こちらは苦笑することさえ許されぬ立場と自身に言い聴かせ、板倉は服従するにしかずと開き直った。

「御言葉胸に刻みおきます。では、また後日」

(では)

 キングが言い終え通話の途切れる音を聴いた板倉が、スマートフォ
ンを秘書に返したその刹那。

 耳朶を打ったのは、哀切な三味の音であった。

 気付かなかった・・・・・そう。

 韓国民団の主催するパンソリが、何時の間にか日本の津軽三味線の公演時間に切り替わっていたことを。
 女性の社会進出を謳う日本政府の計らいなのか、或いは女性大統領を擁する韓国政府に足並みを揃える為か、舞台の上では女性演者に依る津軽三味線の一丁弾きが演奏されていた。

 何処かで聴いたこの旋律は、確か・・・・・じょんがら節だ。

 パンソリのソリックンとは打って変わって、上下共黒の紋付袴姿の出で立ちで、それが演者の長く艶々した黒髪に映え何とも艶かしく、奏でる三味の音と相まって扇情的な空気を漂わす。
 そうした場の空気を吸い込み、次いで吐く息と共に自身の惑乱を吐き出した板倉は、一度瞑った眼をきっかりと見開いて高に向き直った。

「我々がI‐418を米国に差し出し米朝核合意を実現させる。
 そうして金一族の体制保証に依る北朝鮮の安定を促す。
 あなた方の意思をそのように受け取って宜しいのでしょうか?
         ‐137‐

 我々としてはその確認が取れなければ腹を括れませんので」 

 板倉を捉える視線をそよとも動かさず高が即応する。
「先ずは現体制の安定が第一です。
 それに我が国に依る朝鮮半島の統一と言う重大事の前に、我々にはどうしても為さなければならない、もうひとつの重大事が控えていますから。
 朝鮮半島の統一はそのことを成し遂げてからでも遅くは無い」

 言うや自虐的とも取れる苦笑を模る高の口元を、見るともなく見遣った板倉は怪訝そうに小首を傾げた。
「もう一つの重大事とは、もしかして貴国財閥の解体ではないかとも思いましたが、しかし韓国一の大星財閥が御実家である貴方の口から、まさかそのような言葉が飛び出すとも思えない」
 何故なのか、遠くを見る眼で言葉を紡ぐ高。

「そうでしょうか?
 財閥出身だからこそ、分かることもある。
 特に私は、早くから実家を飛び出ましたから・・・・・。
 今の私だからこそ言えるのです。
 財閥を解体せねば我が国の未来は閉ざされてしまう。
 それが私も含め黄大統領と意志を共にする者の総意なのです」

 瞠目を禁じ得ない板倉が、高を見据えながら訥々と告げた。
「IMFの言葉さえ聞かなかった韓国財閥出身の貴方がそんなことを仰るとは・・・・・。

 しかし長官の御実家を始めとして、貴国財閥は中国とも上手くやって来た筈。
 もし財閥解体を進めるとなれば、その中国との良好な関係に罅が入ってしまうのでは?
 そうなった場合中国への対応はどうなさるおつもりですか」
 口元を結び、決然とした声音で返す高。
「朝鮮半島の安定に害を為す者は、たとえ昨日の友であっても明日の敵です。
 言う事を聴くから、自国の利益になるから、などと言う陳腐な理由でクーデター政権の後押しをしようとする中国とは、手を組むつもりはありません。
 先程外交問題で会議を中断して見せたのは、中国に対するカモフラージュです。
 この迎賓館の中にも中国のスパイは何人か潜んでいますからね。
         ‐138‐

 それに日和見的などっち付かずの状態が得をすると言う、財閥主導の物の考え方ではこの先の時代を乗り越えることは出来ない。
 言い方を替えるならば、最早これからの韓国と言う国家の舵取りを、財閥に任しておくことは出来ない。
 そう言うことです。
 私が言うのも可笑しな話しですが、大韓民国が真の先進国の仲間入りを果たす為には、総ての富と人材を独占して来た財閥と言う名の皇帝を排除する必要があるのです。
 やはり皇室は貴国のように国家の象徴でなければならない。
 この作戦に成功した暁には、戦後朴正煕政権が英親王李垠世子殿下を御迎えした際に設立された、旧皇室事務総局を復活させます。
 そして今北に捕らわれている李成氏を奪還し、新たに大韓民国国王としてソウルで即位式を挙行するつもりでおります」

 どのような言葉を紡ごうと、それは愚に過ぎないと板倉は悟った。
 そうして無言を返事に代えた板倉をじっと見据える高。
「日本帝国の敗戦に依って日本政府も韓国政府も、米国の顔色を伺いながらの国の舵取りを強いられて来た。
 その意味で、両国は全く同じ立場。
 正に兄と弟と言っても過言ではありません。
 それに反日も嫌韓も・・・・・総ては米国の意思。
 そう取れば総ての辻褄が合って来るのが、何とも可笑しいじゃありませんか。
 その米国が高みの見物をすると言ってくれている今、これをピンチと取るかチャンスと取るかは我々次第。
 我が国は朝鮮半島の安定と財閥の解体を、そしてそのことに依り真の自由と平和と平等を得る。
 貴国に於かれては、何よりも優先される拉致被害者の救出を成し遂げる・・・・・」
 次いで高が二の句を継ごうとしたその時、顎を振った板倉の低く押し被せる声が、それを遮った。

「いえ、そうではなく我々がこの作戦を遂行する真の意味は、全く別の所にあります。
 貴国同様米国の顔色を窺いつつ、自身では何もしなかった、否、出来なかった我が国も、愈々自身の力で事を為さなければならない
時がやって来たのです。
 我々はI‐418を以てして、自身の力で北のクーデターを鎮圧しなければならない。
 それは誰の為でもなく、日本人自身の為、日本と言う国家の為。
         ‐139‐

 そして延いては、日本が日本であり始める為に」

 無言のまま肯いた高が椅子を蹴って、片方の掌を板倉に差し出す。
 そして掌と掌とを重ね合わせながら告げた。
「忘れないうちに御伝えしておきます。
 我が軍の海軍提督から、貴国の海上幕僚長への伝言です。
『ハミョンドェンダ』
 為せば成ると言う意味の言葉ですが、何でも先年失った部下の口癖だったとか・・・・・。
 北の攻撃に合って撃沈された、哨戒艇の乗組員だったそうです。
 その提督の部下と貴国の海上幕僚長とは、旧知の間柄だとか。
『良い部下を亡くした。今後はあのような悲劇の起こらぬよう、互いに最善を尽くしましょう』
 そう伝えて欲しいと」
       
 高の久し振りに口から漏れた韓国語が、板倉の脳内に何度も響く。
 まるで津軽三味線の哀切な響きに呼応するかのようだ。

『漸く三味の音が聴こえて来る余裕が出来たか』
 胸中に呟いた直後、板倉はきっかりと高を見据えながら返した。

「伝言は高長官から、今泉海上幕僚長に直にお伝え下さい。
 公にはしておりませんが、実のところこの迎賓館の地下の一室には、司令部に出来る程の高度な通信機器が整っております。
 無論セキュリティも万全。
 芹沢防衛大臣を始め自衛隊の四幕僚長もそこに控えています。
 最早ソウルへ帰っている時間など無いのではありませんか。
 宜しければそちらへ。
 皆首を長くして私と高長官を待っている筈です。
 しかしもしかして、その地下の施設迄ご存知なのでは?」

 漸く頤を解き、声を上げて笑う高。
「まさか、そこ迄は知り得ていませんよ」

 見て取った板倉は笑顔を添えてひとつ肯き、急仕立ての地下の司令部へと誘(いざな)うべく、片方の手を大扉へと伸べた。
 足早に大扉へと向かう板倉の少し後ろ、ふと何かの気配に気付き振り返る高。
 果たしてそこには、ガーデンライトを浴びた窓外の紫陽花の花々が、こちらを向いて微笑んでいる姿が在った。
         ‐140‐
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