第6話 釜山港(ふざんこう)

文字数 16,663文字

 喧(かまびす)しい朝鮮語を遠くに聴きながら、奥平は数えるほどしか客の居ない船首側のデッキに立っていた。
 一等客室の在るこちら船首側に比べると、二等或いは三等客室の在る船尾側のデッキは人いきれでむんむんとしている。
 何時の間にか暮れなずむ夕陽は西空の彼方に消え入り、辺りを薄闇が包み込もうとする最中(さなか)、桟橋と船尾側のデッキとを
繋ぐ幾条ものテープが外灯に映え、眼下には銀の糸が織り成す瀧が流れを作っていた。
 さりとてさんざめく桟橋に、見送る者の一人さえも居ない身上。
 そして今日以降も長く続くであろう内地での孤独、秘匿任務。
 それ等の自身を待ち受ける宿命から逃れるように、奥平は横に立つ恵子の腕(かいな)の中に視線を転じた。
 その先で微笑む赤ん坊の屈託無い笑顔は、今この時も胸中を覆い尽くす奥平の懊悩を瞬時に消し去る。

「今、こっちを向いて笑った」

 奥平の腹蔵の無い声音が、漸く恵子の顔にも笑顔を取り戻させた。
 早暁京城府にある恵子の実家を発ち、南大門駅から列車に揺られて釜山(ふざん)駅に着いたのは既に夕刻。
 車中知っている者に会わぬかと警戒した恵子は、その間まったく口を開くこともなく、俯いて唯々この子を抱き締めるばかりだった。
 関釜連絡線のこの新羅丸に乗船して、漸く戻った笑顔である。

「きっと貴方に感謝しているんですよ、この子は」

 耳隠しに結った髪に薄桜の地の着物を身に纏ったその姿は、何処から見ても海軍士官の妻であり、つい先日迄昌徳宮で仕えていた尚宮には到底見えるものでは無かった。
 こちらを向いて微笑む恵子に、「やっと笑顔を見せてくれたな」
と奥平も白い歯を見せる。
「そんなことはありません。この子はいつも笑ってくれます。
 私が抱いてあげると、ぐずっていても直ぐに泣き止んでくれますし、私が笑えばこの子も。 ほら、笑った」
 そう言って微笑みながら赤ん坊を抱き上げて見せる恵子から眼を逸らせた奥平は、「否、この子じゃなくて、君がだ」と照れ臭そうに呟き
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再び自身の笑顔を映す恵子の瞳を見詰めた。
「はい、それはもう。今日生まれて初めて海を見たんですもの」
 明るく応じる恵子の声に耳朶を打たれた奥平は、この一ヶ月余りにも及ぶ過酷な日々が漸く報われる感慨を噛み締める。
 求婚を断られたその日に、摂政宮殿下の密勅拝命と言う切り札を繰り出して、直後同じ相手に承諾を得た男は、日本中で、否、この広い世界中何処を探しても自分以外居るまい。
 そのことに思い至り、しかし不謹慎であると胸中に叱咤した奥平は、零れそうになる笑みを寸での処で噛み殺した。
 然りながら朝鮮王宮の尚宮に米国式の求婚をすることになるなど、自分でなくとも誰が予測できたか。
 この稀有な体験は向後も自分しか出来ないであろうし、またそのことを己が矜持として何が悪いと開き直ると、やはり口元が緩むのを止められない奥平であった。

「斉藤総督からの密命を受領して戴きたく、王宮殿の何処か人目に付かぬ処で御会いしたい。
 世子殿下御帰朝に拘わる、至極重要な御役目である」
 と、奥平は恵子を呼び出した。
 今日が大正十一年五月十七日であるから、逆算すれば一ヶ月半も前の・・・・・あれは忘れもしない三月の晦日。
 春を迎えたと言うのに、未だ肌寒さに震える日の午後であった。

 恵子が指定して来た場所は秘苑の中にある小さな東屋で、芙蓉池と呼ばれる四角い池の中に立つ、芙蓉亭(ふようてい/プヨンジ)。
 大きな石を何層も積み重ねた上に立つ、瀟洒な庵であった。
 その昔科挙に合格した者を祝う、めでたい場所であったとか。
 李王殿下に御願いをして、その時間そこに誰も来ぬよう手配して貰ったらしい。
 梅が終わり桜の咲き始める、その少し前だったか。
 芙蓉亭からは、今を盛りとばかり枝一杯に真っ白な花を咲かす、一本の李の木が覗えた。
 その凛とした佇まいは、何処かしら恵子に似ている。      
 春の風に波打つ蓮池の緑に良く映えていた。
 白く咲き誇る李を背に、奥平はゆっくりと語り始めた。
「自分は以前駐米武官をしておりましたが、その際米国人を羨ましく思ったことがあります。あちらでは親の決めた相手で無くとも、或いは身分に開きがあっても、好き合う者同士が自らの意思を以て、自由に婚姻が出来るのです。
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何とも羨ましい話です」
「はい・・・・・」
 生返事はしたものの、斉藤総督からの密命があると聴いていた恵子に取って、奥平の話はやや拍子抜けするものであった。
 端的に密命の内容を訊く訳にもいかず、怪訝そうな顔を向けながらゆっくりと下座に腰を下ろす。
 奥平はと言えば腰を下ろすでも無く、恵子に背を向けて真っ白な花を凛然と咲かす李(すもも)に眼を奪われていた。
「我々東亜の国に於いては考えられぬこと。
 してみれば世子殿下に於かせられても、方子妃殿下に於かせられても、婚儀に臨まれた際の御心中や如何ばかりかと。
 御国の為と言えばそれ迄のことですが、理不尽と言えば理不尽。
 幸い殿下と妃殿下に於かれては王子も御誕生あそばし、実に仲睦まじい御様子。
 自分のような武骨者の穿鑿(せんさく)など杞憂に過ぎなかった
訳ですが、やはり世子殿下に於かれては妃殿下への P r o p o s e (プロポーズ)、所謂求婚の言葉など有っても良かったのでは」
 斉藤総督の密命から益々逸れて行っているようで、奥平の言葉に疑念を抱かざるを得ない恵子。
「求婚のことを、プ・ロ・ポーズ、と。
 その米国の習慣と総督閣下の密命とは、どのような拘わりが?」
 奥平は恵子の問いには答えず、尚も続けた。
「あちらでは己が慕う相手に、結婚をして欲しいと請うのです」
 小首を傾げた恵子か、「ですから、そのことと総督閣下の密命とは、どのような拘わりが」と強い声音で問う。

 訝しがる恵子を正面に見据えた奥平は、視線を逸らさずにゆっくりと腰を下ろした。
「これから自分も、朴尚宮にプロポーズをしたいと思っています」
 何喰わぬ顔で告げる奥平に、恵子が半ば喰って掛かるように返す。
「中佐殿は私をからかっておられるのですか。
 そのようなことが仰りたいのなら、どうして総督閣下の密命などと仰って私を呼び出したのです」
 恵子が眉根を寄せながら問うて来るも、奥平は眉根一つ動かさずに返した。
「御察しの通り、総督閣下の密命と言うのは嘘です」
 言い終え軍帽を脱いだ奥平が、尚も平然とこちらを凝視して来る。
奥平と合わせていた視線を逸らせるや、恵子は徐に立ち上がった。
「中佐殿を見損ないました。
 貴方様だけは他の日本人と違って、朝鮮人を見下すような方ではないと思っておりましたの
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に。
 私のことをお妾にでも御所望とあらば、そのように仰って下さい。
 何故このように持って廻ったようなことをなさるのですか。
 総督閣下の密命などと偽りを仰せになるなど、言語道断です。
 馬鹿になさるのもいい加減にして下さい。失礼させて戴きます」
 吐き捨てるや立ち去ろうとする恵子の背中に、奥平が搾り出すように浴びせ掛ける。
「しかし世子殿下御帰朝に拘わる、至極重要な役目を御願いしたいと言うのは事実。
 また我々が密命を帯びていると言うのも事実なのです」
 言うや立ち上がった奥平は、部屋中の建具と言う建具を閉めた。
 そうして振り返ることも、声を出すことも出来ず、唯々凍り付くばかりの恵子に、元の席へと腰を下ろした奥平が低く押し殺した声音で告げる。
「但し、我等に密命を下されたのは総督閣下に非ず。
 畏れ多くも摂政宮殿下にあらせられる」
 直後懐に手を忍ばした奥平は恵子の背中を見据えながら、金の拵えに宝玉の散りばめられた短剣を取り出した。
 眼前の六角形に組まれた螺鈿の机の上に、ごとりと音をさせながら置く。
「是は朝鮮王朝の始祖である、太祖殿下(たいそでんか)御愛用の短剣にて、今は亡き李太王殿下が、先帝陛下に御献上あそばされたものであるとのこと。
 先日勅書と共に伝令の武官が、是を内地から携えて参りました」
            
 奥平の思いも寄らぬ言葉に、茫然となりながらもゆっくりと振り返った恵子は、一歩、また一歩と短剣の方に歩み寄って行った。
 次いで螺鈿の机の少し手前まで歩み寄ると、柄に飾られた王家の紋章が、燦然と光を放ちながら視界の中に飛び込んで来る。
 緻密な迄に細工の施されたそれは、朝鮮王族の化身であった。
 張り裂けんばかりに口を拡げた天翔ける黄金の龍が、恵子をきっかりと睨み据えている。 
 息を呑んだ恵子は翡翠色の裳の裾を曳きながら、一歩、また一歩と後退った。
 額の前で右の掌を左の掌の上に重ねると、立位からそのまま上半身を崩さずにしゃがみ込んで、その場に額を擦り付けるようにする。
 奥平に取っては生まれて初めて見る、朝鮮式敬拝(けいはい)の礼であった。

 須臾の後奥平が令する声音で告げる。
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「来る四月、京城府に御帰朝あそばす晋王子に対し、その御血筋の証として是を授けるとの、摂政宮殿下の思し召しである」
 ゆっくりと顔を上げた恵子は、慄然とする唇で言葉を紡いだ。
「大変失礼を致しました。
 然しながらそのような大事を御話しなさる前に、何故米国での求婚の話などなされたのでしょうか?」
異国での求婚の話を聞かせる意図を計り兼ね、小首を傾げながら問うて来る恵子に対し、深く頭を垂れる奥平。
「申し訳ありません。単に御願いをして済むような話であれば、朴尚宮の仰るように、求婚の話などする必要は無かったのですが」
 言い終え奥平は懐から一通の書簡を取り出した。
 こちらを凝視して来る恵子から眼を逸らせ、二の句を継ぐ奥平。
「事はそう簡単ではないのです。
 考えてもみて下さい、摂政宮殿下が晋王子にこうした宝剣を御遣わしになるのであれば、それは内地で為さって然るべき筈。
 では、何故わざわざ此の地で御遣わしになられるのか・・・・・。
 是を御読みになって下さい」
 恵子を正面にと見据え書簡を取り出すと、奥平は両手を添えてそれを机上に差し出した。
「是は摂政宮殿下が我々に下された、密なる勅書の写しです」
 告げた後再び懐に手を忍ばせた奥平が、続けてもう一通書簡を取り出すと、恵子に最後通牒を突き付ける。
「誕生あそばしたばかりの晋王子の御命が狙われているのです。
 それを阻止する為、総督閣下には摂政宮殿下より密勅が下され、同時に自分には此の軍令が下されました。
 本来は封密書になったこのような軍令書を、部外者に見せることなど許されるものではないのですが、是を携えて参った者が朴尚宮にだけは見せても良いと。
 只、勅書の方は御持ちする訳にもいかず、代わりに写しを。
 そして是は、軍令書の本書です」 
 直後勅書の写しを読む恵子の面前に、軍令書が差し出された。
 空いている一方の手で、奥平から軍令書を受け取る恵子。
 二通を交互に読み進むうちに、恵子の顔からは見る見る血の気が失せて逝った。
 読み終えて全身の力が抜け落ち、手にしていた勅書の写しや軍令書でさえ持ち堪えることが出来ない。
 そうして恵子の掌を滑り落ちた二葉の紙片が、はらはらと当て所なく宙を彷徨った。

 瞠目を禁じ得ず、焦点の定まらないまま奥平を見遣った恵子は、
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噛み殺すような声で唯一言、「アイゴー(哀号)」と低く呻いた。
 そのまま前のめりに頽れてしまいそうな恵子を、躙(にじ)り寄った奥平が寸での処で肩口から受け止める。
 次いで空いた方の手で足下を弄り、二葉の紙片を拾い上げた。
それ等を懐に仕舞った奥平は、瞠目したままで呆然とこちらを見上げてくる恵子に、揺るがない声音で告げた。

「貴女を御守りしたいのであります。
 私のプロポーズを、何卒受け入れて戴きたい」

 荒い息を吐きながらも、奥平の腕の中で精一杯の力を腹に籠めた恵子が、掠れた声音で搾り出す。
「命に代えても晋王子を御守りする。
 それが亡き厳妃様より、一方ならぬ御恩を頂戴した私の務め。
 喜んでその御役目を承ります。
 ですからどうか、私への気遣いなど御無用に願います」

 恵子の身体は小刻みに顫動していた。
 よりきつく抱きしめた奥平が、恵子の眼と己が眼で接吻を交わす。

「きっと貴女はそう言うと思っていた。
 だからこそ、貴女を放っておく訳にはいかないんだ」

 ぎしぎしと華奢な身体から骨の軋みを響かせる恵子の耳に、奥平はそっと吹き込んだ。

「晋王子を御救い申し上げるには、貴女の力が必要だ。
 しかしこの作戦では、貴女が最も危険な立場に置かれる。
 陸軍と海軍が衝突することを避ける為とは言え、是をしくじれば、軍令部は本気で貴女を口封じの為に処断するつもりだ。
 それなのに自分が貴女にして差し上げられることと言えば、プロポーズの他には何も無い」

 軍服の袖を掻き毟るように奥平を引き寄せた恵子が、黒目の勝った切れ長の眼を滲ませる。

「少佐殿の御気持ちは嬉しゅうございます。
 それに貴方様を御慕いしたことが無いと申し上げれば、それは嘘になってしまいます。
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 しかし何と仰られようと私が朝鮮人で、貴方様が日本人であることは動かしようの無い事。
 そればかりは如何とも・・・・・」

「詰らんことを言うな。
 それ以上は何も・・・・・。
 黙って俺の妻になれ。
 もし何か不都合があったときは、俺がお前の代わりに責任を取る。
 晋王子の御命も、お前の命も、この俺に守らせてくれ、頼む。
 我が妻となり、生きて、共に生きて。
 そして晋王子と三人で内地へ行こう。
 それが我等二人に定められた、『運命』と信じて」 
                  
 奥平の言い放った言葉と、言葉と、言葉に、胸を貫かれた恵子は、滲む瞳から熱い雫を溢れるがままにさせている。
 頬を伝う雫を拭うことも忘れ、「ウンミョン(運命)」と搾り出した恵子は、「私で、私で宜しいのですか」と奥平の瞳に映る自身に問い掛けた。

「嗚呼、お前がいい。否、お前で無いと駄目だ」

 そうと応じた奥平に、より強く、よりきつく抱きしめられた恵子。
 無言のままきっぱりと肯いた。
 奥平の頬を何時の間にか濡らしていた雫も、果たして汗では無い。

「無論だ。頼むから俺に、婚姻の偽装などさせないでくれ」

 恵子は総てを委ねる声音で返した。

「どうか私を日本へ御連れ下さい。晋王子と共に」

 須臾の後芙蓉亭から見える李の花の色香が徐々に失せて逝き、面前で赤ん坊をあやす恵子の横顔に重なって行く。

 赤ん坊に対する嫉妬が半分と、こちらを向かせたい気持ちが半分、奥平は腕組みをしながら恵子の耳に吹き込んだ。
「しかし能く能く考えてみると、この子が居なければプロポーズは失敗していたんだろうね」
 恵子が微笑みを添えて返して来る。
「さあ、それはどうでしょう・・・・・」
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 直後出港を知らせる汽笛が噎(むせ)び、恵子の二の句を霧散させて逝った。
 やがて汽笛が止み、奥平がゆっくりと切り出す。
「まあ、そんなことはどうだっていい。
 今此処にこうして、お前とこの子が一緒に居るんだから」
 穏やかな声音で告げた奥平が微笑み、恵子が「はい」と肯く。

 そうして笑顔で見詰め合う二人の眼下には、何時の間にやら帝海の士官、若しくは海兵と思しき十人ほどが終結していた。
 各々が儀丈用の軍装を着けている。
 客も疎らな一等のデッキが在る船首側の桟橋に、一体誰の為か?
 奥平が辺りを見廻したところで、儀丈の受礼者たる殿下閣下と呼ばれるような御仁は、その影すらも見当たら無かった。
 次いで反対側の船尾側も入念に見廻してみたが、やはり軍服を着た者とて自身の他には居ない。
 これはどうしたことかと啞然とする奥平の横、唐突に恵子が上擦った声を上げた。

「あの方は柴田さんじゃありませんか!」

 奥平の方に向き直って頻りに瞬きを繰り返す恵子は、「あちらの方です」と首を巡らせて儀丈隊の方を見遣り、「あの兵隊さん達の横に、ほら」と続けた。
 促されるままに恵子の視線を追った奥平が、儀丈隊の横で柴田と思しき丸眼鏡の男が手を振る姿に、見開いた眼を釘付けにされる。
「本当だ!」
 驚嘆の声を上げる奥平の視界の中、儀丈隊の一歩前で不動の姿勢を取る指揮官が、喰い入るようにこちらを見上げて来た。
 それこそ、柴田よりも良く見知った顔である。
「あいつめ・・・・・儀丈隊を編成したのは奴だったのか」
 低く呟いた刹那、奥平とこちらを向いた本庄の視線が交錯した。

 永遠と感じる一瞬を、二人は互いに微笑み合い、そして二人して脱帽敬礼を尽くす。
 この予期せぬ邂逅に際し、何故奥平は本庄に対して答礼で応じず脱帽敬礼で応じたのか。

 それは・・・・・。

 指揮官が本庄であるならば、それが誰の為に編成された儀丈隊なのか明らかだったからだ。
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 不動の姿勢を取ってこちらを真っ直ぐに見上げて来る本庄に、奥平の横に立つ恵子も一礼を返す。
 そうして奥平に向き直った恵子が瞳を滲ませながら、「貴方の為に来て下すったのですね」と訊いた。
 顎を振りながら、「いや」と応じた奥平は、「私では無い。今此処に居る人の中で、儀丈を受ける資格が有るのはたった一人だけだ」と続ける。
 惑う瞳で辺りを見渡した恵子は、「では、何方が?」と小首を傾げながら奥平に訊いた。
「儀丈礼と言うものは、一介の海軍士官如きにするものでは無い。
 それ相応の身分の相手にするものだ」   
 噛んで含める声音で応じた奥平が、合わせていた視線を恵子の眼から徐々に彼女の腕の中へと下して行く。 
 やがてこちらの視線を追っていた恵子の息を呑む音が、奥平の耳にも届いた。
 刹那視線を交錯させた奥平が、恵子にゆっくりと一つ肯く。

 この場で儀丈を受礼出来る唯一人の人物が、何方(いづかた)であるかを確信した恵子は、腕の中で微笑む赤ん坊の顔を本庄に向かって見せるようにした。
 無垢で屈託の無い赤ん坊の笑顔は、自身が積み重ねた総ての刻苦に報いて余りある喜びを抱かせてくれる。
 胸中に呟いた恵子は、ふと本庄や柴田と南大門駅で別れたときのことを思い出した。
 目立ってはいけないので御見送りはここ迄とだけ残し、本庄も柴田も総督府に帰った筈。
                      それなのに、何故その二人が、此処釜山港に居るのか。
 自分達と同じ列車に乗っていたのだろうか?
 或いは次の列車で追い掛けて来てくれたのだろうか?
 何れにしても彼等には、言葉に尽くせぬほどの恩顧を被った。
 それに今はこうして見送りまで・・・・・。
 二人の心遣いを思うと、今し瞳の奥から熱いものが溢れ出て来る。

 内地へ帰るこの子の為にと、今身に着けさせているフード帽の付いたベビー服やレースのケープなど、朝鮮では中々手に入り難いそれ等を用意してくれたのは本庄少佐であった。
 また徳壽宮(トクスグン)の石造殿(ソッチョジョン)を出た際に、意を汲んだ女官にこの子を抱かせて車に乗り込もうとしたところを桜
         ‐113‐

井御用取扱に呼び止められてしまい、危うく作戦が露見しそ
うになる危機を回避出来たのは、機転を利かせてくれた柴田書記官のお蔭である。
 そして晋王子逝去の責任を取る形で尚宮の職を辞し、王宮殿を去る私に対し、敢えて晋王子葬儀の日を新たな出発の門出として、内地へ向かうよう命じたのは斉藤総督であった。
 御自身は仮令爆弾を投げ付けられようと内地へは帰らず、御務めを最後迄全うしようとなさる閣下は、至極立派な御方だと思う。
 仮令朝鮮中の同胞が閣下のことを悪し様に言おうと、仮令この身が売国奴と同胞に罵られようと、そのことだけは胸を張って言える。

 恵子は今一度、腕の中の赤ん坊に視線を転じた。

  斉藤総督を始めこの作戦に拘わった彼等日本人は、皆この子の、否、朝鮮の恩人であり、決して倭奴(ウエノム)では無い。
 無論横に立って、腕の中のこの子に微笑む夫も。
 もしも彼等が居なかったら、今腕の中で微笑んでいるこの子は、今朝方の葬儀の終了後に清涼里(チョンニャンニ)の崇仁園(スンインウォン)で、永遠の眠りに付いていた筈の子。
 そう、この子こそが、紛う方なき正真の晋王子なのである。

 忘れもしない九日前、五月八日夜半のこと。   
 世子殿下の御世話をしたこともあると言う、古株の乳母が二人。
 その二人と自身を加えた三人で、交代して王子の御世話をする。 
 無論王子に牛乳を飲ませてさしあげる御役目は、自分がするように差配されていた。
 また晋王子の為にと用意された哺乳瓶はこちらの意を汲んだ女官が総て悉く処分し、色も、形も、大きさも、それと全く同じ哺乳瓶に安全な牛乳を入れたものとに取り替える。
 その際自分達朝鮮の者は斉藤総督の定めた符牒、「白くあれ李」を朝鮮語に直したものを使った。
            
 取り替えらえた哺乳瓶を配下の女官が、「フィゲ イッソラ=白くあれ」と私の耳に吹き込みながら手渡し、受け取った私が、「チャドゥ=李(すもも)」と応じる。

 朝から哺乳瓶を二度取り替えた後、愈々甲号第三を使用すべき時が到来した。

 夫や本庄少佐が調査した結果、両殿下御帰国の直前が怪しいと言うことになり、昨日からは
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取り替える前の哺乳瓶の牛乳を、拾って来た犬にそのまま飲ませている。  
 昼を過ぎて三度目に取り替えた哺乳瓶を差し出して来た女官が、血の気の失せた顔で、「フィゲ イッソラ=白くあれ」と私の耳に吹き込むや応じる声を待たずに、取り替える前の牛乳を飲んだ犬の息が間も無く絶えた旨続けて吹き込んで来た。

 やはり牛乳には毒が混入されていたのである。

 三本目の安全な哺乳瓶を受け取った私は、犬を懇ろに葬ってやるよう命じ、世子殿下御夫妻が徳壽宮に帰って来る時間を出来るだけ正確に伝えるよう、重ねてその女官に指示を出した。
 夜半世子殿下御夫妻が、昌徳宮(チャンドックン)での晩餐会を終えて帰って来る時が、甲号第三使用の起点となる。
 甲号第三はその頃合を見計らい牛乳に混入しなければならない。
 効能は約十五分の後には消えて無くなり、直ぐに元の元気な晋王子に御戻りになられるからだ。
 何度か服用して戴けば、それだけ効き目の表れている時間は延長されるが、回数を増やしてしまっては御身体に障るやも知れない。
 それ故出来得る限り少ない回数の服用で。と、申し出ておいた。
 何とか一回の服用で決め切りたい。
 かと言って、若しも衆目の面前で晋王子が御元気になられては、甲号第三を牛乳に混入したことが露見してしまう可能性がある。
 或いはまた暗殺に失敗したことを悟った敵が、再び晋王子の暗殺を企てようとするかも知れないのだ。
 だからこそ、甲号第三の効能が表れている僅かな時間に、桜井御用取扱と世子殿下御夫妻に晋王子が発病なさったと錯覚させ、且つ迅速に晋王子を安全な場所に御移し申し上げねばならない。
 無論作戦遂行に拘っていない、総ての者に気付かれぬようにだ。

 予てより夫や本庄少佐と取り決めた通り、作戦を実行に移す。
 今し世子殿下御夫妻の御乗りあそばした車が昌徳宮を出でて、間も無くこちら徳壽宮に両殿下御到着との旨報せが入って来た。
 手筈通り桜井御用取扱に晋王子の御様子がおかしいと、配下の女官に告げに行かせる。
 次に桜井御用取扱が晋王子の御様子を覗いに来る頃合を見計らい、取り替えられた五本目の安全な哺乳瓶の中に甲号第三を混入し、それを晋王子に御飲み戴くと言う手順を踏んだ。
『ソングハムニダ ワンジャマーマー=恐懼して御詫び申し上げます 王子様)』
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 小さく囁くような声を搾り出した私は、胸に抱いた晋王子に顔を寄せるようにして目礼する。
 甲号第三を混入した哺乳瓶を御口に近付けると、晋王子は元気良く吸い口に御取り付きあそばした。

 甲号第三の効果は覿面である。

 忽ち呼吸を荒くさせた晋王子は、まるで引き付けを起こしたかのような御様子となられた。
 そうして予め用意しておいた、隠元豆の餡と煮汁を混ぜ合わせた半液状のものを、晋王子の御口に垂れ流すようにして含ませる。
 青緑色の吐瀉物を、吐き出されたかのように見せ掛ける為だ。
 次いでそのまま晋王子を、揺り籠に御戻しする。

 丁度その時桜井御用取扱が、部屋へと駆け込んで来た。
 直後揺り籠の中で晋王子の常ならぬ御様子を見て取るや、狂ったような形相で部屋を飛び出して行く。
 やがて桜井御用取扱の床を叩く靴音が遠ざかって行き、それに代って車寄せに乗り入れようとする車のエンジン音が聴こえて来た。
 晋王子の御様子を桜井御用取扱から御聴きになり、両殿下が車飛び降りられたのであろう。
 ばたん、ばたんと、勢い良く扉の閉まる音が続いた。

 直後に両殿下のものであろう二つの靴音が徐々に近付いて来て、最後に部屋の扉が開かれる音が響く。
 部屋に駆け込んで来られるなり、方子妃殿下は揺り籠の中に両の腕を差し伸べられた。
 そうして晋王子を抱き上げられると、その小さな御口から流れ出た青緑色の吐瀉物を、御自分のドレスの袖で汚れるに任せて御拭き取りあそばす。  
 直ぐさま首を巡らされた方子妃殿下は、少し遅れて部屋へ飛び込んで来た桜井御用取扱に、上擦った声で御命じになられた。

「とにかく御医者様に晋を看て戴かなくては。
 随行の小山待医だけで無く、総督府病院からも御医者様に来て貰って下さい!」

 桜井御用取扱が、「承りました」と返して部屋を駆け出て行くのも、夫や本庄少佐と作戦遂行前に話し合った通りの展開である。
 また苦しそうに御顔を歪める晋王子が御出であそばすのは、やはり慄然となさる方子妃殿下
         ‐116‐

の両の腕(かいな)の中であった。

 なるだけ早くに、方子妃殿下と晋王子とを御離しせねばならない。

 そしてこれも従前の取り決め通り、私は方子妃殿下に意識して冷静な声で御進言申し上げた。
「畏れ入ります妃殿下様。御医者様が来られる迄の間、若宮様に於かせられては、横になられていた方が宜しいかと」
 聞き慣れた日本語の発する方へと、反射的に振り返られた方子妃殿下は、「そうね」と肯いた後はっとして瞠目を禁じ得ず、「貴女は朝鮮の女官でいらっしゃるの?」と続けざまに御訊きになる。
 拱手(コンス)の礼を尽くした後、「はい。妃殿下様」と答えた私は、伏し目がちにも噛んで含める声音で続けた。

「申し遅れました。妃殿下様。
 日頃は昌徳宮にて日本語通辞を致しております、私は朴尚宮(ぼくしょうきゅう)でございます。
 世子殿下の御母上様であらせられる、亡き厳妃様には一方ならぬ御聖恩を被りました。
 世子殿下御帰朝に際し、若宮様御世話係を仰せ附かったと言うのに、御聖恩に報じるどころか此度のこの不始末で御座います。
 御侘びの申し上げようも御座いません。
 この失態の罰は、若宮様が元の御健やかな若宮様に戻られましてから、如何様にも御受けする所存で御座います。
 然りながら、今は若宮様の御身第一。
 先ずは若宮様を、御安静にして差し上げるのが宜しいかと」

 言い終えるや、深く頭を垂れながら両の腕を差し出す私。
 顎を左右に御振りあそばし、「貴女の責任ではありません」と返された方子妃殿下は、両の腕の中で未だ常ならぬ御様子の晋王子を私へと御渡しになり、「御願いします」と縋る声音で続けられた。
 晋王子を受け取った私は、『ソングハムニダ、マーマー/恐懼して御侘び申し上げます。妃殿下様)』と胸中にのみ許しを請い、「我が命に代えましても」とそれだけは偽りのない
声音で申し上げる。
 丁度その時医師等に連絡を終えた桜井御用取扱が、ばたばたと靴音を立てて部屋に駆け戻って来た。
「小山侍医は間も無く、総督府病院からも程なく医師が参ります」
 両殿下に報告する桜井御用取扱の声を背中で聴いた私は、顔を上げてきっかりと方子妃殿下を見据える。
         ‐117‐

「先ずは若宮様を来客用の寝所へ御連れ申し上げます。
 直ぐに白布で周りを囲わせ清潔を保ちますので、そちらに。
 御医者様が見えられましたら、直ぐに御通し下さいませ」
「分かりました。では、そのように」
 方子妃殿下が肯くと、私は晋王子を御抱き申し上げたまま頭を垂れ、来客用の寝所へと踵を返そうとした。   
 その刹那、朝鮮語で令する声が響く。 

「プタケ パクサングン=頼んだぞ、朴尚宮」

 世子殿下であらせられた。

「イェーチョハ=畏まりました。世子様」

 足を止めて世子殿下の方に向き直り、深くゆっくりと目礼を返す。
 次いで顔を上げた私の眼前には、頽れそうになっておられる方子妃殿下を、世子殿下が肩口から御支えあそばす光景が在った。

 そのような両殿下の御姿を目の当たりにしても、『ソングハムニダ チョハ。ソングハムニダ マーマー。/恐懼して御侘び申し上げます、世子様。
 恐懼して御侘び申し上げます、妃殿下様)』と胸中でしか御許しを請うことが出来ない自らの非力。
 それ以上に日本と朝鮮の救いようの無い不和を呪いつつ、私は唯々唇を噛み締めて踵を返した。

 来客用の寝所に着いて医師団を待つ間に、甲号第三の効き目が薄れて来たのであろう元の御健やかな晋王子が、揺り籠の中で私に向かってにっこりと微笑まれる。
 直ぐに配下の女官にそのことを報告するよう命じ、医師団の許へと走らせた。
 伝言を受け取った医師団が石造殿に着いて両殿下に謁見すると、伝染病の疑いがあるかも知れないので、直ぐにでも総督府病院へ晋王子を御連れしなげなければならない旨、総督府病院長が進言する。
 早急に用意を済ませ、両殿下を始め私も皆総督府病院へ。
 配下の女官が晋王子を御抱きし、医師団が囲い込むようにして車寄せへと出でた。

 辺りを飛び惑う真っ白なミンドゥルレ(=たんぽぽ)の冠毛が蒼い月の光に映え、宛ら季節外れの粉雪が舞い降りてきたかのような情景を、今も鮮明に記憶している。
         ‐118‐

 月光の蒼とミンドゥルレ(=たんぽぽ)の冠毛の白が織り成す寂寞を、豈(あに)図らんや晋王子の笑い声が切り裂いた。

 しまった・・・・・。

 と、思ったものの時既に遅く、配下の女官から少し離れた場所で、別の車に御乗りあそばそうとしていた両殿下はまだしも、直ぐ後ろを歩いていた桜井御用取扱が思わず。と、言った様子で立ち止まっ
て、「今のは?」と私に問い質す。
 直ぐ前を歩いていた私は、振り向きざま自らの身体を楯にして、「何でしょうか?」と今正に車へ乗り込もうとしている、配下の女官を含めた一団を覆い隠した。
「今、若宮様の御声が聴こえたような」
 前を覗き込もうとする桜井御用取扱の口から零れ落ちた言葉に、早鐘を打つ自身の鼓動の音を聴きながらも、「空耳でしょう。苦しんでおられる若宮様が、そのような」と返す。
「いや、しかし、ちょっ、ちょっと待って下さい」
 桜井御用取扱が叫ぶようにして私を押し退けて、前へ。
            
 万事休す。
 此処で御健やかな晋王子を桜井御用取扱に見られてしまえば、両殿下も総ての事情を御承知になってしまうのだ。
 それでは、何もかもが水泡に帰してしまう・・・・・どうすれば。

 と、私が逡巡するよりも早く、丸眼鏡を掛けた背広姿の男が桜井御用取扱の前に立ちはだかった。
「桜井御用取扱で居らっしゃいますね?」
 微笑みながらも、揺るが無い声音で問い掛ける男。
「そうですが、何か? 今、その、取り込んでおりまして」
 眉間に皴を寄せる桜井御用取扱に気後れすることも無く、男は眉根一つ動かさずに応じる。
「承知致しておりますが、こちらも緊急の用なのです。
 総督閣下からの伝言を携えて参りました。
 先程総督府病院より、若宮様急病との報せを受けましたので、念の為東京帝大の三輪博士に御越し戴くよう手配を致しましたのですが、若宮様が現在どのような御様子でいらっしゃるのかを確認し、博士に御伝えせねばなりません。
 その為総督府より参上した次第でございます。
 申し遅れました。私は、書記官の柴田と申します」
         ‐119‐

 計ったような時機に飛び出して来るや、有無を言わせずに斉藤総督の伝言を告げて来る柴田書記官に視界を塞がれ、桜井御用取扱は晋王子の姿を見失ってしまった。

 彼が話している間は、身を捩っても前方を覗い知るには至らない。
 話の途中でタイヤの削れる音が響いた直後、鼻を衝くゴムの焼ける焦げ臭い匂いが漂うに至り、漸く桜井御用取扱は晋王子を御乗せした車が走り去ったことを知った。 
 差し出された名刺を受け取りながら、「然様でございますか」と返した彼が為す術も無く、柴田書記官の肩越しに走り去った車の、後ろ姿さえ見えない大漢門(テハンムン)を見遣る。

「朴尚宮、やはり私の聴き違いだったのだろうか」
 惑う声音で告げてから、大きく一つ息を吐いた桜井御用取扱は、諦念を宿した瞳をこちらに向ける。
 お蔭で早鐘を打っていた鼓動も、漸く鎮ったようだ。
 拱手の礼を尽くすべく胸に当てた両の掌にも、今し方の激しい脈動は伝わって来ない。
「そうであれば良いものをと願う御気持ちが、若宮様の御健やかな笑い声となって、幻を聴かれたのやも知れません。
 御心中御察し申し上げます。では、私は両殿下の御傍に」
 桜井御用取扱にそう告げるや、顔を上げて立ち去ろうと踵を返す私の背中に、「白くあれ」と唐突に符牒を浴びせ掛けて来たのは、誰あろう柴田書記官であった。 
                      ぴたりと足を止めた私の方を見るとも無く見遣り、丸眼鏡の縁を擡げた彼は、「まるで、李のようです。たんぽぽの冠毛がこんなに白かったとは」と続けてから桜井御用取扱を正面に見据え、そのたんぽぽの冠毛が舞い降りた片方の掌を差し出して見せる。 
                     
 小首を傾げ、「はぁ?」と怪訝そうな声で応じる桜井御用取扱に、諭す声音で柴田書記官は告げた。            
「総督閣下が仰せになっておられました。
 李王家の御紋章は李の花であるとか。
 真っ白な李の花は、一片たりとも散らせてはならん。
 そして汚させてはならん。
 李は白くあらねばならぬ。と。
 また若宮様を、何としても御救い申し上げねばならんのだ。と」
         ‐120‐

 一頻り肯いた桜井御用取扱は、滲む瞳を向けながら柴田に返す。
「閣下がそのような御言葉を・・・・・。
 先程の私はどうか致しておりました。
 若宮様の元気な御声を聴いたなどと埒も無いことを。
 どうか、御許しになって下さいませ」
 次いで桜井御用取扱は、ゆっくりとこちらに視線を転じた。
「朴尚宮にもすまなかった」
 悄然と謝罪の言葉を紡ぐ桜井御用取扱に顎を振って、「いいえ」とだけ返す私。
 そうして柴田書記官に視線を転じ、釘を刺す声音で告げた。
「閣下の御言葉、胸に刻みおきます・・・・・『白くあれ李』、と。
 そして若宮様は、必ず御救い申し上げます。
 そう私めが申し上げていたと、総督閣下に御伝え下さいませ」
 言い終え踵を返す。
 晋王子を追うべく病院へと向かう車へ乗り込もうとしたとき、無言のまま肯く柴田書記官の姿が、視界の只中に飛び込んで来た。
 刹那視線が交錯し、にっこりと微笑み合ったのだが・・・・・。

 それ以来柴田書記官とは会っていない。
 後から夫に聞いたところによると、柴田書記官が英語を話せると言うことを、当初夫も本庄少佐も知らなかったのだそうだ。
 事情を知らない本庄少佐は、伝言が秘匿すべき軍令であると言う説明を、柴田書記官の面前で英語を使って話したらしい。
 結果柴田書記官も今回の作戦に巻き込まれることになったのだが、総督閣下だけが彼の事情を知っていて、その上で閣下は彼が英語を解さないと嘯いたのだそうだ。
 今にしてみれば笑い話であるが、あのとき柴田書記官が石造殿に居なかったら、と思うと・・・・・ぞっとして足が竦む。
 果たして斉藤閣下はこうなることを予見しておられたのだろうか。
 どちらにせよ、それだけ彼を信頼しておられたと言うことだ。

 一夜明けた五月九日早暁、どうしても晋王子に御会いになりたいと仰って譲らない世子殿下御夫妻。
 御二人に怪しまれないようにする為には、今一度だけ晋王子に甲号第三を服用してから、御会い戴くより他に手は無かった。
 そうして甲号第三に依って引き付けを起こされた晋王子に、両殿下を御引き合わせする。
 その際晋王子が御口から、茶褐色の固形物を吐き出しておられるように偽装した。
 その茶褐色の固形物は、欧州のチョコレートと言うお菓子を使って模したそうであるが、
         ‐121‐

それは本庄少佐が内地より手配したらしい。
 御救い申し上げる為とは言え、そのような姿をなすった晋王子と両殿下を御引き合わせしたことは、真に心痛の限りであるが、粉骨砕身作戦完遂の為に努力する本庄少佐や柴田書記官の姿を前にしては、それも必然と胸中で両殿下に恐懼するしかなかった。

 その後総督府病院から御連れした晋王子と、私は今共に在る。

 今し腕の中の若宮様の顔を覗き込んでみた。
 笑顔でいらっしゃる。
 他にはどうすることも出来なかった自身の非力も、腕の中で微笑む若宮様のように、きっと両殿下も笑って御許し下さるだろう。
 いつか若宮様と両殿下が、親子の御対面を果たされる日には。
 あれやこれやとここ数日間の出来事を思い返しているうちに、何時の間にやらぽつぽつと降り出した糠雨が頬を濡らしていた。

 腕に抱く若宮を濡らしてはならじと、デッキに張り出した手摺を握る奥平の傍から、その身体を一歩退かせる恵子。

 直後、「捧ぁげーっ銃ーっ!」と言う号令が辺りに響いた。
 胸前に捧げ持った軍刀を、拝むようにしてから振り降ろす本庄。
 次いで後ろに控える海兵達が空砲を撃ち鳴らした。

 それまでは辺りが騒がしく、儀丈隊に眼を向ける者もまばらだったが、船尾側の二等や三等のデッキで手を振る乗船客、或いは桟橋で見送る者達も皆が皆一斉に奥平と恵子に視線を向ける。
 彼等は殿下閣下と呼ばれる御仁か、或いはそれに等しい身分の御仁が乗っておいでなのかと思っている筈。
 そうと察した奥平は、直ぐさま本庄に答礼を返した。
 まさか恵子の腕の中で微笑む赤ん坊が、晋王子であると気付く者は居るまいが、念には念をと言う。
 傍目には軍服を着た奥平への儀丈と見えた筈だ。
 降り出した糠雨が呼び込んだのか、辺りが霧に包まれていく。

 須臾の後、「立ぁてーっ銃ーっ!」と言う号令と共に本庄が納刀すると、その声に呼応するが如く続けざま新羅丸が霧笛を鳴らした。
 そうして船首を外洋に向けるべく後ろ向きに離岸した新羅丸が、旋回しながら深い霧の中に船体をゆっくりと溶け込ませて行く。

 やがて見送る本庄や柴田、或いは儀丈隊も霧の中へと呑み込まれて行った。
         ‐122‐

 そうした中デッキの上で、何時まで経っても答礼の手を下ろそうとはしない奥平。
 見兼ねた恵子が、諭す声音で請うた。
「旦那様そろそろ中へ。この子が風邪を引いてしまいますほどに」
 恵子の船室へと促す言葉を聴くも、奥平は微動だにしない。
「君はその子と先に中へ。私はもう少しこのままでいる」
 逡巡しつつも先には戻れない様子の恵子が、「でも」と不安気に二の句を継いだ。

 それでも尚、霧で何も見えない先に向かって答礼を崩さない奥平が、やはり微動だにせずに背中で告げる。
「気にせずに中へ。私がこうしているのは、見えるからなんだ。今も本庄や柴田さんが、手を振ってくれているのが」、と。

         ‐123‐
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