第3話 京城府(けいじょうふ)

文字数 39,898文字

 夕暮れの白亜の庁舎に、薄い紅の帳が降りようとしている。
 朝鮮王宮殿からの帰途、本日附で朝鮮総督に遣わされると言う軍令部からの伝令が、一体どんな軍の意向を携えてやって来るのかを考えあぐね、奥平晃顕(おくだいらあきのり)海軍少佐は総督専用車両の助手席から、暮れ泥む総督府を見るともなしに見上げていた。
 大正九年の春から今日迄、此処京城(けいじょう)の地に朝鮮総督府附駐在武官として赴任して既に二年の月日を重ねていたが、東京に在る軍令部から京城に在任する朝鮮総督に対し、極秘裏に伝令が遣わされたことなど一度として無い。
 軍令部からは、「山下軍令部長ヨリ朝鮮総督ニ火急ノ要請有リ、内容ハ当日伝令ヨリ直に伝フルモノナリ。秘匿事項ニ附秘密厳守」と、自分宛に至急電を寄越したのみであった。
 通常の軍令であれば打電するか、秘匿内容のものでも封密書の遣り取りで事足りる。
 それに此処は戦地でも無いのだ。
 日頃から暗号電文を扱っている軍令部が、伝令とは・・・・・。

 そのようにして一時は軍令部に籍を置いていた奥平でさえ、軍令部の意図を図り兼ねていた。
 強いて言えば海軍閥とは言え軍務を外れて久しく、しかも親任官の斉藤朝鮮総督に対して軍令書を送る訳にもいかないからか。
 しかしだからと言って人を立てて迄秘匿事項の伝令などと、どう考えても解せないのだ。
 眉間に皺を寄せる奥平がふと気付けば、総督府は夕暮れの紅に染め抜かれ、尖塔部を頭に見立てるとまるで翼を拡げた巨大な鴇(とき)がそこに降り立ったかのようである。
 見上げているうちに、丁度反射光の具合で尖塔部に嵌められている窓が、こちらを見て嘲笑う眼のように垂れ下がって見えた。
『鴇にまで笑われてしまったか』
 そう胸中に呟く奥平が今し苦笑を噛み殺したのは、営門の前に立つ衛兵等に若気た顔を見せるわけにはいかないからである。

 やがて軋(きし)みを響かせながら開く営門を、奥平と斉藤朝鮮総督を乗せた総督専用車両が滑るように潜(くぐ)って行った。
 儀杖礼で迎える衛兵に、斉藤総督が窓を開けて応じる。
 直後黒いキャディラックの車体が、金色に輝くホイールを軋ませながら正面の車寄せに吸い
         ‐21‐

込まれて行く。
 停車し素早く降車した奥平は、抜かりない挙措で後部扉を開けた。
 軽く会釈をして車を降り立った人こそが、斎藤実朝鮮総督である。
 その口髭には、最早白いものがちらほらと混ざり始めていた。 
「そう言えば日露戦争の凱旋記念式典以来になるか。久しく会ってはおらんが、他ならぬ山下部長の頼みとあらば、少々の無理は聞かねばなるまい。とは言え・・・・・どうせ難儀な話だろう」
 言い終え苦笑する斉藤に目配せをした奥平が、軍帽を右手に後部扉を左手に持ちながら、車窓の向こうの運転席をチラと一瞥する。
「御言葉ではありますが閣下。今次山下部長の要請は、李王世子殿下御夫妻が御誕生あそばしたばかりの王子を伴なわれ、京城に御里帰りなさる際の王宮殿警護の要請だとか。故に御心配は無用かと」
 斉藤はポンと首を叩いて微笑むと、片手を挙げて応える。
「そうだったか。否、年を取ると物忘れが酷くてな。許してくれ」

 斉藤の言葉を運転手が聴き届けたのを確認してから後部扉を閉めた奥平は、キャディラックが動き出すと即興の言い繕に付き合わせたことを詫びた。
「御気遣い恐れ入ります閣下。仮令運転手とは言え、先程の者は警務局が採用した者でありましたから」
 口元を歪めた斉藤がチョッキのポケットから、懐中時計を取り出すと、手許を見るでも無く盛大に溜息を吐く。
「そう言えばそうだった・・・・・警務局採用となれば徹底して身元調査を行うからな。
 聴けばあの男、かなりの親日家だとか。
 日本語も朝鮮人とは思えん程流暢で申し分の無い男なんだが、そう言った男だからこそ何処かで朝鮮軍と通じている可能性がある。
 つまり君は軍令部から極秘の要請があるなどと言うことを、あの男には知られたくない。 
 と、言いたかった訳だろう?」
 奥平は軍帽を被り直すと一歩前へ踏み出し、斉藤の耳元で囁いた。
「はっ。恐縮であります。先程は王宮殿の警護の手配と申し上げましたが、実際の所自分も要請の内容については存じ上げません。
 分かっている事と言えば本日遣わされる伝令が、極秘裏に山下部長の要請を携えて来ると言うことだけであります。
 とは言え、軍令部の伝令が秘匿事項を携えて此処に遣わされると言う事実を、不用意に朝鮮軍と通じる者に聴かす訳にも参らず、あのような・・・・・何卒ご容赦を」
 斉藤は一歩退いた奥平に片方の手を上げて応え、もう片方の手に在る懐中時計を一瞥すると、漸くチョッキのポケットに収めた。
「もう早や一七〇〇(ひとななまるまる)か。
 しかし仮令軍令部長からの要請とは言え、電報か郵便で済まないものか・・・・・わざわざ
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東京の軍令部から京城まで伝令を遣わすなど大袈裟に過ぎる。 
 ま、第一線を退いた老頭児(ロートル)への要請なのだから、恐らく辞令か何かの類いなんだろうが。
 陸軍中央の連中はこの老頭児を、海軍の閑職にでも追いやるつもりなのかも知れん。
 そうであれば火急の要請などと理由を附けて、御大層に伝令を遣わすことも肯ける。
 私を穏健派と呼ぶ彼等はこの老頭児を総督に据えて、もはや朝鮮内の憤懣が沈静化したと感違いしている節が有る。
 軍令部も軍令部だ。大方参謀本部に鼻薬でも嗅がされて、陸将の何方かに総督職を返納するよう迫られたんだろう。
 従えば軍令部を参謀本部に統合して、大本営を一本化する話を取り止めにしてやるとでも言われて・・・・・」
 大本営一本化の取り止めと言う言葉に触発された奥平は、眦を決して斉藤の顔を正面に見据える。
「僭越ではありますが、軍令部が閣下に対しそのような非礼極まりない要請を強いるのであれば、自分がその伝令を東京に突き返してやります。
 そもそも閣下が南大門駅で暴漢に爆弾を投げ付けられたのは、閣下の総督御就任後一ヶ月も経たぬ間の事ではありませんか。
 寺内閣下、続く長谷川閣下と、陸将閣下の後を受けての閣下の朝鮮総督御就任であります。
 つまりはそれ迄の朝鮮内の溜まった憤懣を、閣下御一人に押し付けたのであります。
 言うならば朝鮮内の陸軍閥に対しての憤懣を、海軍閥である閣下がたった一人で御引き受けになられた。
 そもそも閣下が姜宇奎(かんうけい)なる暴漢に襲われた時点で、陸戦隊の一個中隊くらい寄越してもよさそうなものを、軍令部ときたら、事件発生から今日迄京城には梨のつぶてであります。
 兵の員数に於いて劣勢であるとは言え、この上参謀本部に対して弱腰な態度で臨むのなら、軍令部など必要はありません。
 第一親任官であらせられる朝鮮総督閣下に対する辞令であれば、大元帥陛下が御下命なすって然るべきであります。
 もしも軍令部がそのように非礼な人事を強いると言うのなら、自分は伝令と刺し違えてでも・・・・・」
 斉藤は奥平の言葉を遮るように片手を上げた。
「物騒なことを言うもんじゃない。誰かに聞かれでもしたらどうする・・・・・それにそんな話は、此処で立ってする話でもあるまい。
 それよりも部屋に戻って、その伝令に会うとしようではないか」
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「はっ」と返し脱帽敬礼を為した後、所在無さげに立ち竦む奥平。
 直後斉藤はやおら歩みを進めると、数歩進んだ処で立ち止まって奥平を振り返った。
「しかし陸戦隊一個中隊よりも、貴官のような海軍士官が一人だけでも居てくれるほうが、私に取っては余程安心と言うものだ。これからも宜しく頼む」
 振り返った斉藤の顔に、満更でもない笑みが零れていることに気付き、軍帽を被り直しながら奥平も口元を綻ばせる。
「御言葉恐悦であります」
 斉藤が再び前を向いて歩き出すと、奥平もその少し後ろで歩調を合わせた。
 総督府に足を踏み入れた二人は、急ぎ総督室に向かう。
 三階分の高さを誇る総督府のエントランスは、ドーム型を模した吹き抜け天井になっており、両側に切り込まれた数個の天窓からは
夕陽が差し込んで、モザイク調の大理石の床を薄紅に染めていた。

 リベラル派の急先鋒。
 米国公使館附駐在武官の経験もある斉藤は、そう言われて久しい。
 今日の斉藤は米国仕込みの着こなしで、三揃いを身に纏っていた。
 大理石をふんだんに使った豪奢でモダンな造りの中に在っても、総督府の偉容に圧倒されること無く、むしろそれ等を従えているかのように見える。
 彼の後ろを行く奥平は胸中にそんな感慨を抱き、自身が師とも仰ぐ、先の海軍大臣・斉藤実の背中を誇らしげに見ていた。

 先程の奥平の歯に絹着せぬ言葉に気分を良くしたらしく、総督室への道すがらも斉藤は殊の外饒舌である。
「しかし昌徳宮李王(しょうとくきゅうりおう/往時の純宗皇帝の日本での呼称)殿下も、殊の他お喜びであらせられた。
 翌月李王世子殿下と芳子妃殿下が、晋王子を御連れになり御帰郷の御予定とお伝えしたところ、早く晋の顔が見たいと御弟君の王子を、まるで我が子に御対面するが如き御喜びようであらせられた。
 昨年の八月に王子が御誕生あそばされてから、李王殿下におかせられては一度も御対面なすっておられない。至極尤もなことだ」
 奥平は自らも斉藤に微笑み返そうと思った刹那、脳裏を覆い尽す黒い影を払拭し切れず、苦い表情を刻みながら慈愛とも憐憫ともつかぬ言葉を口にする。
「ですが李王殿下の御気持ちを慮りますに、斯様な長きに亘り、朝鮮と日本で御親族が離れ離れに御暮らしあそばすのは、何とも御労しい限りであります」
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 奥平の言葉に行く手を遮られたようにはたと立ち止まった斉藤が、振り返って極小さな声で耳元に囁く。
「同感だ。しかし私も以前同じようなことを言って、『御労しいなどと、めったなことを仰るものではございません』と、政務総監に諌められたことがある」            
 耳朶を打った斉藤の言葉に、無意識で口を吐いて出た言葉とは言え、思慮が足らなかったことに思い至り奥平は唇を噛み締めた。
「悪くありました閣下」
「君が謝ることでは無い。そう思うのが人として自然である。
 が、それ以上は何も言うまい」
 斉藤はそうとだけ言葉を残し、再び踵を返して歩き出す。

 直後奥平は斉藤の背中を追いながら、東京の軍令部から朝鮮へ弾き飛ばされると知ったときのことを思い出した。
 自身の不幸を呪い、兵学校に入ったこと、海軍を志したことさえ後悔したあの頃。
 しかし今ならば言える。斉藤総督に仕えることが出来て、この朝鮮に来ることが出来て本当に良かった、と。

 朝鮮総督府に差遣されたその理由は・・・・
・。

 それは紛れも無く奥平が、米国流の自由主義に基く考え方を本分としていたせいであった。
 以前は斉藤同様米国公使館附駐在武官補佐官であった奥平が、往時身に附けた自由主義がその時は仇となったのである。
 その時奥平は国民の意思を尊重しない挙国一致の体制に異を唱え、戦争回避こそ至上の作戦と信じ、そのことを主張して止まなかった。
 既に三十も半ばを越えた海軍大卒の元軍令部員とあれば、本来なら既に中佐か或いは大佐へと昇進しており、然るべき部署へ配属されて当然であった。
 欧州に差遣されるならいざ知らず、大して必要の無い武官を置く朝鮮総督府附など左遷もいいところである。

 防御作戦と諜報を担当する軍令部第二局に在って、奥平のそうした言動が周囲の者に敬遠されるのは、当然と言えば当然であった。
 畢竟眼を掛けていた往時の軍令部長島村速雄海将も、奥平を軍令部から遠ざけるより外無くなり、已む無く斉藤にその身柄を委ねるよう決断を下すことになる。
 そのような状況を踏まえた上で島村軍令部長の申し出を快諾した斉藤が、奥平の朝鮮総督府着任の当日こう述べた。
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「貴官の信ずるところは、私の信ずるところである。
 自由と平等の理念に依って生み出される平和は、人類が欲するところであり、またそれが真理である。
 しかし理想と現実はほど遠い。それを如何にして実現させるか、この朝鮮で私と共に模索しようではないか。貴官を歓迎する」、と。
 それ以来奥平は斉藤の熱烈な信奉者となり、今となっては軍令部から朝鮮へと弾き飛ばされたことも、この上ない僥倖と受け止められるようになっていた。
 こうして斉藤総督の懐刀として過ごす日々も、多少の緊張を伴ないつつ毎日が充実しており、このまま駐在武官として一生を終えても悔いはないと思っているほどである。

 胸中に感慨を巡らす奥平の前を行く、斉藤の為人(ひととなり)。
 彼はいったい、身分や階級で人を分け隔てすると言う事をしない。
 擦れ違う者は文官と言わず武官と言わず、日本人と言わず朝鮮人と言わず、その一人一人に対し等しく手を上げて応えて行く。

「しかしどうもこの総督府という処は殺風景な処だ。
 昌徳宮で李王殿下に御拝謁した後で、此処に帰ってくる度にそう感じる。
 特に今日に限っては格別にな。
 我々を待ち受けている者が、軍令部の海軍士官などでは無く、今し方李王殿下に御拝謁した際に見掛けた昌徳宮の美しい女官であったらと、痛切に願う」
 斉藤の発した軽口に応え、後ろを行く奥平が微笑み返した。
 秘書が三人居る部屋を通り抜けて総督室の前迄来ると、奥平が斉藤に脱帽敬礼をして一歩前に出る。

 開かれた扉の先には、第一種軍装を身に纏い胸に参謀飾緒を吊るした海軍士官が応接用の長椅子に着座し、二人を待ち受けていた。
 本庄忠道(ほんじょうただみち)海軍少佐である。
 総督室に斉藤が一歩足を踏み入れると、本庄は椅子を蹴って起立し、十度の敬礼を尽くした後柱時計を一瞥した。
「三月二十五日、現在時刻、一七一〇(ひとななひとまる)。
 自分は軍令部長附副官の本庄忠道であります。
 早速ではありますが、閣下に於かれましては御差し支え無いようでありましたら、軍令部からの閣下に対する要請を、今より受領戴」
 初めて対面する朝鮮総督の前で彫像のように硬直している本庄を認めると、軍帽を小脇に抱えたまま後ろに控えていた奥平が斉藤の肩口から顔を出す。
「本庄、貴様が伝令であったか。相変らず元気そうで、何よりだ」
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 そうした後肩に手を伸べてくる奥平の笑顔を見るや、久し振りの邂逅に安堵した本庄の表情が、雪解けに新芽が芽吹くように綻んだ。
「はっ。御久し振りであります」
「貴様も最早少佐か。時が経つのは早いもんだな」       
 肩口の階級章を認め、腹蔵の無い笑顔で自身の昇進を喜んでくれる元上官を前に、本庄も相好を崩していた。
「中佐殿こそ御変わり無く、何よりであります」 
 奥平もまた喜びはしたが、屈託の無い笑顔で自身のことを中佐殿と呼ぶ意図を図りかね、訝しげな眼で本庄の眼を見る。
「中佐殿・・・・・どういう意味だ?」
 小首を傾げる奥平に、本庄は一通の封筒を手渡した。
「御昇進おめでとうございます。本日附で奥平武官殿は中佐に御昇進なさいました。これは辞令であります」
「昇進だと? 何も聞いてはおらんが」
 呆気に取られる奥平に、本庄が突然警戒を孕んだ眼を向ける。
「事前に御伝えするべきかとも思いましたが、何分急なことでありまして、詳細は後程」
 言い終え本庄は奥平に向けたものと同様の眼で、事務机に向かって黙々と仕事をこなす書記官をチラと一瞥する。

 これは軍の最高機密である、この書記官に聞かれてはまずい類の。
 と、本庄の眼はそう語っていた。

 軍令部と言う特殊な機関に所属したことのある者であれば、それは等しく理解出来る眼の動きである。
 天皇の統帥権を輔翼し、軍略を司る海軍の最高機関たる軍令部。
 畢竟その機関に所属する士官の総てが、海軍の最高機密に拘る任務に就くことになる。
 以前のこととは言え、軍令部第二局で本庄と凡そ一年の間机を並べた奥平が、そのことに気付かぬ筈は無かった。 

 書記官から戻した本庄の視線が自身に向けられた刹那、その意を確信した奥平は、咄嗟に彼の差し出した封筒に眼を落とす。
 本庄が作為的に裏側を見せているのは明らかであった。
 〆を記された封印を見せるべく、裏向けたのである。
 一瞥した奥平は「そうか」と、わざと素っ気無く応じた。
 軍令部の発布した封密書が、単なる昇進の辞令で有ろう筈が無い。
 そこには秘匿すべき何等か重要な軍令が記されている筈であった。
 胸中に渦巻く後ろ暗い何かに畏怖の念を禁じ得ず、中佐昇進の報を手放しで喜べずにいる奥平が、苦い表情で封密書を受け取る。
         ‐27‐

 軍服の内ポケットにそれを納めた手が、我知らず湿り気を帯びていることに気付き、苦笑混じりに本庄を正面に見据えた。
 奥平の胸中を裏付けるかの如く、本庄の双眸から放たれた視線が
真っ直ぐにこちらを射ている。
                            
 斉藤はと言えば長椅子に深々と腰を掛けて、泰然とした面持ちで本庄と奥平の二人を見ていた。
「まあ二人とも掛けたまえ。本庄少佐は奥平武官とは古いのか?」
「はっ」と十度の敬礼を添えて応じると、何食わぬ顔で斉藤の斜向(はすむ)かいに腰掛ける本庄。
「中佐殿が軍令部第二局に在籍中、自分は新任の諜報担当補佐官でありました。中佐殿には自分が軍令部の右も左も分からない時期に、公私に渉(わた)って色々と御薫陶を賜りました」
 奥平も本庄の隣りに何気なく腰掛け、軍帽を膝の上に置いた。
 平静を装うようにして、対座する斉藤に笑顔を向ける奥平。
「閣下。実は本庄も第二局を経て軍令部長附副官の任に就く迄は、米国公使館附駐在武官補佐官を勤めておりました」
 米国公使館附と言う言葉の懐かしい響きに、斉藤は眼を細めながら本庄を見遣った。
「それは何とも稀有な巡り合わせだ。元駐米武官の揃い踏みだな」

 言われてみればそうである。
 ここに居合わせる三人は皆、それぞれ元駐米武官の経験があった。
 軍令部が他ならぬ本庄を遣わせたことに鑑みると、それは偶然では無く必然と考えるべきではなかろうか。
 そのことに思い至った奥平は、わざと大仰に膝を叩いてみせた。
「実に奇遇であります」

 再び繕った笑みを斉藤に投げ掛ける奥平の隣で、本庄も口元だけを緩め、嗤わない眼で奥平に射るような視線を向ける。
 次いで一つ息を吐くとやおら英語で話し出した。
「T h i s i s n o t c o i n c i d e n c e f a t e. T h i s i s n e c e s s a r y.(これは奇遇な巡り合わせなどではありません。これは必然であります)」
そう言うや本庄が、事務机に向かう書記官を再び横目でチラと窺う。
 続けざま怜悧な軍令部参謀の眼光を奥平に向けた。
「W e l l, C a n t h e p r i v a t e s e c r e t a r
‐y s p e a k e n g l i s h ?(時に、書記官は英語が話せるのでありましょうか?)」
「W h y t h i n g s a r e a s k e d ?(何故そのような
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ことを訊く?)」
 本庄に問うたつもりの奥平だったが、耳朶を打ったのは彼のそれとは違う声音・・・・・。

 斉藤のそれであった。
「B e c a u s e, i t i s a・・・・・.(何故ならば、それが書記官には秘匿すべき軍令であるから)」
 随分以前に駐在武官補佐官の任に就いていた折、米国で聞いた本場のそれと何等遜色の無い流暢な英語である。
 胸中に呟いた奥平は本庄と眼を合わせると、瞠目を禁じ得ず声の主である斉藤を同時に見遣った。
 口髭を撫でながら続ける斉藤。
「I s i t d i f f e r e n t ? (違うか?)」
 投げ掛けられた問いに、本庄が一つ頷く。
「Y e s, j u s t l i k e t h a t s i r.(はっ。その
通りであります閣下)」
 ややあって本庄から眼を逸らせた斉藤は、口に銜えた葉巻に火を点け直後ゆっくりと煙を吐き出した。
 紫煙の先に何事も無い様子で事務机に向かう書記官の姿を確認した斉藤が、米国流に肩を竦めながら本庄に応じる。
「W o r r i e s a r e n o t n e e d e d.
(心配はいらん。書記官は英語を話せない)」
 斉藤の言葉を受け本庄は内心ほっとしていたが、瞳の奥には未だ警戒の色を孕ませたていた。
「T h a n k y o u s i r・・・・・(ありがとうございます閣下。自分は先程の閣下の御言葉で安心致しました。しかしこのまま英語で話すのも何かと不便であります。恐縮ではありますが、念の為場所を変えてお話致したくあります)」
「I t u n d e r s t o o d.(了解した)」

 肯く斉藤にぎこちない笑みを浮かべた本庄は、英語での会話は無用とばかりやおら日本語に切り替えた。
「恐縮であります。
 しかし閣下の語学力には感服致しました。
 米国に居た頃に聞いた本場のそれと、何等変わりありません。
 閣下も駐米武官で居らっしゃったと聴き、つい懐かしさの余り英語で話したくなったのであります。
 しかし閣下の英語を拝聴した今となっては、臆面もなく自分の拙い英語を披露したこと、忸怩たる思いであります。何卒御容赦を。
 時に閣下、昌徳宮李王世子殿下(しょうとくきゅうりおうせいし
         ‐29‐

でんか)と方子妃殿下(まさこひでんか)が、王子を伴われて京城に御帰郷あそばすのを、知っておいででしょうか。
 王宮殿に於いて御成婚の式典に当たる、『勤見の儀(きんけんのぎ)』を古式に則って催される御予定だとか」
 一息に話す本庄が口元にだけ笑みを模り、嗤わない眼で斉藤を凝視する。
 斉藤はと言うと葉巻を燻らせながら、こちらも眉根ひとつ動かさずに泰然とした面持ちで応じた。
「そのことなら既に東京の宮内省から届いた書面であらましは分かっているが、伝えに来たのはそのことだったのね ?」
「はっ。御内儀(おなぎ)に参内された上原閣下と山下閣下には、畏れ多くも摂政宮殿下から、『李王世子一家の朝鮮迄の道中の無事を、何卒よしなに』との御意を賜ったそうであります。
 参謀総長の上原閣下にだけでなく、山下閣下にもであります。
 また山下閣下の方を一瞥された殿下は、『重ねて朝鮮に滞在中もよしなに。
 そう、朝鮮総督に伝へよ』と仰せられたとか。
 朝鮮総督の任に就かれる閣下が元海将であらせられるが故の、山下閣下への御下命と存じますが、誠に以て畏れ多い仕儀であります。
 公式な御宣旨でこそありませんが、是は勅命と同義であると心得て然るべきであります」
 応じる本庄の書記官を欺瞞させる為の言い繕いに、斉藤も奥平も苦笑混じりに肯く。
 如何に摂政宮殿下の御意と言えど、その程度の内容の宣旨を伝える為、軍令部がわざわざ伝令を立てることなど有ろう筈もなかった。
 内心でそう呟きながら葉巻を江戸切子の灰皿に押し潰すと、斉藤がゆっくりと書記官に向き直る。
「柴田君悪いが秘書に言って総督官房の庶務部から、書庫の鍵を持って来させて貰えまいか。本庄少佐に地下の書庫の蔵書を見せておきたい。
 王室の儀礼など詳細に記した、『朝鮮王室儀軌』を」

 事務仕事に集中していた柴田儀一郎書記官は黒髪を七三に分けた頭を擡げると、如何にも文官らしい丸眼鏡の奥で金壺眼を凝らした。
「閣下、御指摘の朝鮮王室儀軌ですが、『五台山史庫本』なる相当分厚い保管本であります。
 持ち歩くのには少々不便でありますし、また何分地下は黴臭いので、閣下御自身が書庫にお出になられるのは如何なものかと。
 もし宜しければ私がお持ち致しますが」
「いや、それには及ばん。
 本庄少佐にはその他にも、『正朝御製』など朝鮮王族の詩文も、後学の為に見せておこうと思っている。私も書庫へ同道するつもりだ」
         ‐30‐

 柴田の心遣いを無碍に断る訳にもいかず、咄嗟に辻褄の合う言い繕いをこじつけた斉藤が、ぎこちない笑みを本庄に向ける。
 意を察した本庄も、斉藤の言い繕いに加勢した。
「光栄であります閣下。自分は未だ朝鮮のことについて不勉強であります故、何卒書庫迄御同道戴き直に御指南を賜りますよう」
「そうしよう」と応じた斉藤は、傍らで固唾を呑んで見守る奥平の心中を察してか徐に表情を崩す。
「奥平武官も来てくれるか。この際兵学校時代に戻ったつもりで、三人して机を並べようじゃないか」
 水を向けられた奥平が、「はっ」と肯いて頤を解くと、他の二人もつられるように相好を崩した。
 漸くのこと重苦しい空気を払拭した総督室。
 遂には柴田の表情も綻び、丸眼鏡を背広の内ポケットに仕舞い込みながら、立ち上がって斉藤に一礼を返した。
「それでは仰せの通り書庫の鍵を取って越させましょう。少々御待ち願えますでしょうか」
 そう言い残して柴田が立ち去ると、居残った三人がそれぞれに安堵の溜息を吐く。

 斉藤が怪訝そうな顔を本庄に向けた。
「しかし柴田君迄警戒せねばならんのかね。
 彼は根っからの文官で、軍令を聞かれたところで大した影響があるとは思えんが。
 貴官の託(ことづか)った軍令はそれ程機密を要するものかね? 
 まさか聖上(おかみ)から賜った密勅でもあるまいに」
 言い終えた斉藤が奥平と顔を見合わせて苦笑するが、本庄だけは口元をきつく結んだまま微動だにしなかった。
 やがて本庄が揺るが無い視線で斉藤と奥平を順に捉えると、大きく一つ肯いてみせる。
 奥平と斉藤二人の顔からは笑みが相殺され、蒼白となった顔を互いに見合わせた。
 瞠目した眼で本庄を見据え、「まさか・・・
・・そうなのか」と奥平が押し殺した声を搾り出す。
「先ずは地下の書庫へ。最高機密であります」と、押し被せる本庄。
 遠くを見る眼を向けた彼の視線の先には、執務机の後ろに掲げられた日章旗が在った。
 それを潮に黙り込んでしまった本庄。
 そして石のように固まって、身動ぎ一つ出来ない奥平と斉藤。

 どれ程の時が過ぎたであろうか、その場に訪れていた静寂を聞き知った声が覆すのであった。
         ‐31‐  

「柴田です。入ります」
 斉藤の、「お入りなさい」と言う声が発せられるのとほぼ同時に、ガチャリと把手の廻る音が室内に響く。
 あらぬ方向に視線を漂わす三人を尻目に、柴田が平然と総督室の中に入って来た。
「秘書が書庫の鍵を持って参りました。私が開錠させて戴きますので、閣下も皆さんも後に付いていらして下さい」
 そう告げて踵を返そうとする柴田の背中に、「いやそれはいい」
と即応した斉藤が、「それよりも奥平中佐の昇進祝いと、本庄少佐の歓迎会を兼ねて晩餐を共にしたい。手配をしてくれないか。
 無論君も交えた四人分の」と続けながら奥平に目配せをする。
 見て取った奥平は、「柴田さんの手を煩わせる程のことではありませんので、自分が」と告げながら勢い良く椅子を蹴った。
 次いで立ち上がった奥平が柴田に歩み寄り、「出来れば日本食が宜しいのですが」と続け彼の面前に手を伸べる。
 頻りに瞬きする柴田は、「で、ではそのように」と訥々と応じた。
 奥平が鍵を手にするのを認めた斉藤が、「宜しく頼む」と柴田に応じてからゆっくりと立ち上がる。
直後本庄も机上に在った軍帽を手に、勢い良く椅子を蹴った。
 奥平も本庄と同様、軍帽を手に斉藤の一歩前へ出る。
 また斉藤の後ろには本庄が続き、三人で地下の書庫へと向かった。

 地下に着くと、先頭の奥平が書庫の鍵を開けて電燈を点ける。
 三人で書庫の中に入ると、最後尾の本庄が内側から施錠をした。
 京城の三月は未だ春と呼ぶにはほど遠く、温突(オンドル=床暖房)の無い地下の書庫に入ると吐く息も白く滞り、三人の体温を以てしても中の空気は冷たく張り詰めたままである。

 先ずは奥平が暖炉の方に駆け寄り、素早く火を入れた。
 次に書庫内を一回りして他に誰も居ないことを確認した本庄が、軍帽を脱ぎ読書机の上に置く。
 そうして読書机を挟んで対峙する斉藤から奥平へと、順に視線を移した本庄は、十度の敬礼を為すと携えて来た風呂敷包みを解いた。
 やがて包みの中からは、菊花紋の象嵌が施された漆黒の文箱が現れ出で、斉藤と奥平が金縛りにあったように全身を硬直させる。
 刹那奥平も弾かれたように軍帽を脱ぎ、読書机の上に置いた。
 その様子を一瞥した本庄が、恭しく捧げ持った文箱に一礼を為す。
「中佐殿。閣下。畏れ多くも摂政宮殿下の勅命であります」
 本庄が言い終えた時、最早奥平も斉藤も最敬礼を尽くしていた。
 須臾の後本庄が文箱から勅書を取り出し、粛々と読み上げていく。 
         ‐32‐


          勅

 朝鮮之黎明ニ寄与シタル貴官之功績ヲ鑑ミ、後日勲一等旭日桐花大綬賞ヲ綬ケンガコトヲ此処ニ宣下ス。
 貴官之不惜身命之働キハ、我国一億国民之夙ニ知ル処デアリ、余ト国民之貴官ヘ之期待ハ日毎イヤ益スバカリデアル。
 朝鮮之国事ニ繁忙ヲ極メル貴官ヘ、以下ニ記シタル宣旨ヲ綬ケネバナラヌコトハ、誠ニ以テ痛哭之念ヲ禁ジ得ヌ事デハアルガ、生命之尊厳ト是ヲ全ウスル権利ハ何物ニモ変ヘ難ク、又貴官ヲ以テ此ノ任ニ当シムル事其ノ他ニ人ハ無シ。 
 依テ余ハ貴官ニ白羽ノ矢ヲ立ツルヲ決シタ。

 東京ニ於テ既ニ婚儀ヲ済マセタル、昌徳宮李王世子ト梨本宮守正王之長女方子之婚姻之儀二相当スル覲見之儀ガ、来ル大正十一年四月二十八日、京城之昌徳宮ニ於ヒテモ執リ行ハレル。
 然シテ其ノ機ニ乗ジ、二人ト共ニ訪朝シタル生後間モナキ王子晋ヲ排除センガ為毒殺ニ依リ弑シ、朝鮮之統治ヲ紊乱セシメントスル不貞之輩是有リト余ハ漏レ聞ク二及ンダ。
 余ハ事之真偽ヲ問ヒ質サンガ為、侍従武官長之内山小二郎ヲ呼ビ出シ、主謀シタル者之名ヲ問ヒ質シタル処内山ハ激シク慟哭シ、其レハ亡元老山縣有朋之遺命也ト訴ヘタリ。
 遺命トハ奇異也、如何ナル仕儀ニテ斯様ナル山縣之遺命ガ下サレル事ニ及ンダノカト再ビ問ヒ質スト、其レハ李王世子妃方子ガ不妊之疑ヒ是有リト診断サレタル事ニ端ヲ発シ、方子ガ王子晋ヲ懐妊シタル也、生前之山縣ハ其ノ誤診ヲ為シタル侍医ニ処罰ヲ与ヘタ上解任ニ及ンダ程デアリ、李王世子ニ不妊之婦女子ヲ嫁ガセ、李王家ヲ根絶セシメントスル山縣之謀ガ方子之王子晋之懐妊ニ依テ潰ヘタル上ハ、王子晋ヲ弑セシメンガ事已ム無シト判断シタル参謀本部之一
部参謀等ガ、是ヲ山縣之遺命ト称シタル事ニ拠ルモノ也ト訴ヘタリ。
 即チ是ハ、眞之山縣之遺命ニハ非ズ。
 是ハ山縣之名ヲ語リ今上陛下ト余ヲ謀ラントスル、参謀本部ニ巣喰ウ魑魅魍魎之仕業デアリ、又是ヲ看過スル参謀本部自身モ然リ。

 此等不貞之輩ハ朝鮮軍特務ニ命ジ、朝鮮宮中ニ於ヒテ職ニ就ク李王職官吏並ビニ女官等ニ対シ、日本皇族トノ混血児タル王子晋ハ純血ヲ守リタル朝鮮王朝之皇統トシテハ相応シカラズ等ト慫慂シ、山縣之遺命ト称シタル此ノ禍事ニ加担サセル心算デアルトノ由。
 此ノ陰惨極マリナイ禍事ハ、決シテ看過出来ルモノニ非ズ。  
         ‐33‐

 余ハ断固トシテ是ヲ阻止スルモノデアル。
 トハ雖モ只漠然トシタ山縣之遺命ナル風説ガ如キ話ヲ確タル証拠モ把握セラルノニ、参謀総長之上原勇作ヲ呼ビ出シテ参謀本部ニ巣喰ウ魑魅魍魎トハ誰何ト問ヒ質シタ処デ、一笑ニ附サレタ後眞実ヲ語リタル内山之悪戯ニ処断サルルヲ助長スルニ過ギナイ。
 依テ余ハ熟慮之上、貴官ニ以下之宣旨ヲ綬ケルモノデアル。

 此処ニ余ハ摂政トシテ今上陛下ニ成代リテ、朝鮮総督斉藤実ニ対シ勅命ヲ下スモノ也。
 先ズハ軍令部ト協力シ、何ニ変ヘテモ昌徳宮李王世子之王子晋ヲ、救命スルヲ第一義トス可シ。
 又山縣之遺命ト称シタ斯様ナル風説之如キ話ハ、貴官以外之朝鮮総督府内之官吏ハ元ヨリ、朝鮮之内外ヲ問ハズ貴官ト晋之救命ニ携ル海軍武官以外之者ニ是ヲ流布スル之一切ヲ禁ズ。
 加ヘテ晋ヲ救命スル任務モ同様是モ一切他言セズ、総テヲ秘匿シ軍令部作戦参謀之立案シタル作戦ニ従ヒ、貴官等ハ是ニ殉ズル可シ。
 次ニ陸軍部ト海軍部之衝突ハ、断固トシテ是ヲ避クル可シ。
 余ハ摂政也、図ラズモ陸軍ト海軍ガ衝突セル様ナ不祥事之発生シタル也、陸海軍ヲ統帥セラルル今上陛下ニ対シ奉リ、如何ニシテ是ヲ御詫ビ申シ上ゲル可。
 重ネテ申シ置ク、参謀総長、朝鮮軍司令官、此ノ禍事ニ加担セル李王職官吏並ビニ女官、是等総テヲ罰スル事等不可能ニ等シク、又余ハ事之真偽ヲ審ラカニスル事ヲ欲スルモノニ非ズ。
 余ハ晋之救命ヲ第一義ト欲スルモノ也。
 昌徳宮李王世子垠並ビニ王子晋ハ、皇室典範之定ムル処之大日本帝国王族デアリ、其ノ生命ヲ守ルハ余之摂政トシテノ責務デアル。
 昌徳宮李王世子ノ王子晋ヲ必ズ也救命ス可シ。               
                以上
           大正十一年三月吉日
            摂政 裕仁 璽
                 
 斉藤実朝鮮総督殿


 唐突に齎された密勅を四十五度の最敬礼の姿勢のまま聴いていた斉藤と奥平は、摂政宮殿下の御宸襟を悩ませている底知れぬ闇の正体を垣間見、まるで瘧に冒されたかのように四肢を震えさせた。
         ‐34‐

 本庄が文箱に勅書を納めるのを待って、奥平と斉藤が顔を上げる。
 勅書の納まった文箱を押し戴くようにして本庄から受け取った斉藤は、眼前の読書机の上に音も立てずにそろりと置いた。
 直後席に着く斉藤を見届けた奥平も、恐ず恐ずと隣席に着く。

 膝の上の文箱に施された菊花紋を見るともなしに見遣った斉藤が、吐息と共に搾り出すような声音で問うた。
「本庄少佐、この御筆跡は確か殿下の?」
「はっ。御察しの通り、書記官を通さず摂政宮殿下御自ら筆を執られたとの由。畏れ多くも山下閣下を御召しになり、御内儀にて殿下より直々に賜ったものであります」
 噛んで含める声音で告げる本庄に対し、「やはりな」と返した斉
藤は汗ばんだ手で懐の葉巻を取り出すも、「そうか、此処は書庫だったな」と苦笑混じりに呟き、もう一度懐に仕舞った。
 様子を覗っていた本庄が、立ったまま斉藤に十度の敬礼を為す。
「申し訳ありません閣下。
 このような場所で勅書を御渡しする御無礼を、どうか御許し下さい」
「貴官が謝ることでは無い。それに殿下の御宸襟を悩ます参謀本部の策謀を阻止しようと言うのだ。密勅の内容は寸分たりとも外部に漏らしてはならん。このような場所で受け取るのこそ相応しい。
 惟みるに帝国政府の誤った統治が民族間の歪みを生み、斯く陰惨な策謀を生むことになったのだ。とにかく事は深刻である」
 独りごちるように呟き、「本庄少佐、先ずは掛けたまえ」と続けながら片手を伸べる斎藤。
                   
 促されるまま着座した本庄を見据え、斉藤は尚も続けた。
「ところで殿下は勅書に、『晋王子ヲ弑スル事ヲ、余ハ漏レ聞ク二及ンダ』と御記しあそばしていらっしゃったが、御内儀(おなぎ)に出入りする侍従武官の噂話でも御耳にされたか?」
「恐らくはそのようなことと思われます。勅書には御記しあそばしておられませんでしたが、先日侍従武官の任を解かれた陸軍将校等が現在待命中とのこと。内山侍従武官長の機転で、摂政宮殿下の御側近くから遠ざけるようにされたものと聞き及んでおります」
 答える本庄に、「臭い物には蓋と言う訳か」と押し被せる斉藤。
「はっ。今次作戦完遂の障害にならぬようにとの御配慮で」
 伏目がちにこちらを見上げる本庄に、「今次作戦完遂?」と小首を傾げながら斉藤が問い掛けた。
「今次、『晋王子救命作戦』の完遂であります」
 息を呑むもしかし続けざまに、「そうであった」と斉藤が応じる。
「はっ」とだけ返した本庄が、続いて奥平に視線を転じた。
「時に少佐殿。先年、徳寿宮李太王(とくじゅきゅうりたいおう=宗皇帝の往時日本に於ける
         -35-

呼称)殿下が薨去(こうきょ)あそばしたのにも、参謀本部が絡んでいるという噂を御存知でありますか?」
 出し抜けに告げた本庄に、奥平が当惑の色を宿した瞳を向ける。
「否、初耳だ。一介の駐在武官が知るところでも無いだろう。
 脳出血での薨去と聞いているが」
 本庄が大きく頭を振る。
「山下閣下から御伺いしたのでありますが、参謀本部が朝鮮軍特務に命じて宮中典医の安商鎬(あんしょうこう)を脅迫せしめ、徳寿宮李太王殿下を毒殺したと言うのが事の真相であると。
 斉藤閣下の前任の長谷川閣下が朝鮮総督の頃の出来事でありまして、往時の政務総監の任に在ったのは、御承知の通り山縣有朋公の御継嗣山縣伊三郎公爵閣下でありました。
 有朋公が先月御逝去あそばしたばかりの今、その御遺命であると言う参謀本部の創作は、言い得て妙と申しましょうか」
「言い得て妙か・・・・・確かにな」
 嘆息を漏らす奥平に、本庄が搾り出すような声音で押し被せる。
「ところが首謀者が果たして誰かは、依然として藪の中であります。
 それに・・・・・真相を知らぬ方が良いと言うこともあります。
 例えば今次作戦に於いて、件の毒殺計画が帝国政府の総意であり、またそれが純潔を汚されたくない朝鮮側の総意でもあったとすれば、我
々は日本と朝鮮の双方を敵に廻さなければならんのですから」
「知らぬが仏と言う訳か。何れにしても参謀本部の策謀を、軍令部が阻止する破目になった。そう言うことなんだろう?」

 伏し目がちにこちらを覗う奥平に、本庄はゆっくりと一つ顎を振りながら上半身をずいと前に突き出した。             
「自分も本件のことを山下閣下から御聞きした当初、『これは参謀本部の軍令部に対する鞘当であります。敢えて受けて立つ必要は無いと心得ますが』、と、そう具申したのでありますが、山下閣下は言下にこう仰いました。
『事はそんなに単純では無い』と。
 実のところ摂政宮殿下が先ず初めにこの勅命を下されたのは、侍従武官長に対してだそうであります。
 然るに侍従武官長はこう仰ったのだそうです。
『事此処に至っては、辞職の上一命を以て償うより外無く。誠に以て慙愧の念に堪えねども、以降は軍令部に御下命賜りますよう』
 そう御進言申し上げた後、恐懼して辞去しようとなさったのだそうですが、殿下が自刃はならぬと御諫言あそばされた由。
 委細は伏せおくようにと侍従武官長に厳命の上、殿下直々に山下閣下を御召しになられたとか」
 本庄が言い終えるや、瞑目していた斉藤がはたと眼を見開く。
         ‐36‐

「つまりこう言うことか・・・・・陸将である侍従武官長が摂政宮殿下の御意に従えば、参謀本部を裏切ることになる。
 逆に参謀本部の意思に沿うよう殿下に意見具申奉ると、その策謀を是(ぜ)とすることになる。
 かと言って、陸海軍の衝突を助長することがあってもならん。
 そこで侍従武官長は軍令部に遺志を託し、自決に及ばんとした」
 肯く本庄を尻目に、腕組みを解いた斉藤は尚も一息に続けた。
「私も同じ立場だったとすれば、同様の行動を執っていたであろう。
 或る意味侍従武官長こそ、被害者なのやも知れん。
 しかし何とも馬鹿げた話だ。
 李王家を根絶せしめんとするつもりなら、端から世子殿下と方子女王の御婚姻など必要無かったではないか。
 今更晋王子を弑しようなど誰が企図したのか知りたくも無いが、首謀者等の考えていることが私には全く理解出来ん。
 その上朝鮮の官吏や女官等まで加担するとは・・・・・日韓併合とは何であったのか。また日鮮融和の真意とは何なのか」
 眉間に皺を寄せながら搾り出す斉藤に、大きく一つ息を吸って峻烈な眼光を向ける奥平。
「閣下、僭越ではありますが一つ宜しいでしょうか」
「何か?」
「首謀者が仮令山縣閣下の亡霊であろうと、仮令参謀本部の重鎮であろうと、摂政宮殿下の御宸襟を悩ます斯く悪質な策謀を看過する訳には参りません。
 断固として阻止すべきであり、自分は摂政宮殿下の勅命に報ずることこそ、正義を全うするものであると信じます」
 奥平の言葉を聴いた斉藤の瞳が、みるみる決意の色に覆われた。
「良く言った奥平武官。
 私も貴官と同感である。
 首謀者は晋王子の御身体に、日本と朝鮮両民族の血が流れていることが気に喰わぬようだが、命の重みには日本人も朝鮮人も無い。
 それに何にも益して、晋王子は日本王族にあらせられる。
 こうとなれば晋王子を何としても御救い申し上げ、必ずや摂政宮殿下の御意に沿い奉らん。
 奥平武官、本庄少佐、供に勅命に殉ずる可し」  

 斉藤の低い声音に耳朶を打たれた奥平が、勢い良く椅子を蹴る。
「既に覚悟は出来ております。閣下」
 十度の敬礼で応じる奥平に続いて、本庄も椅子を蹴った。
 奥平同様十度の敬礼を添え、「無論自分もであります」と答える。
 無言を返事にした斉藤は、只々唇を噛み締めていた。
 やがて口髭を震わせながら、独りごちるように言葉を紡ぐ。
         ‐37‐

「日韓併合後、李王家とその王族は日本王公族と御成りあそばした。
 然るに両民族の架け橋とでも言うべき晋王子を弑しようとする。
 そのような禍事を企む輩が跋扈する今、抗日運動を力で抑え付けようとするなど火に油を注ぐようなものだ。
 考えてもみよ、併合したからと言って朝鮮人が日本人になるか?
 互いの国の文化や言葉を尊重しておれば、朝鮮人を新附日本人にしてしまおうなどとは考え無かった筈。
 それ等は総て日本人の思い上がりだ。
 その思い上がりが、斯く禍々しい策謀を生んだのだ。
 このままでは何時か我々日本人は、朝鮮人に唾を吐き掛けられることになるだろう。
 何としても桜は桜であり、李(すもも)は李なのだ。
 純白の李を桜色に染め替えたところで、桜にはならぬ。
 斯様な不粋を無理強いするなど、下衆の輩がすることだ」

 十度の敬礼の後不動の姿勢で斉藤の言葉を拝聴していた本庄が、腰を屈め恐る恐る声の主の顔を覗き込んだ。
「桜と李でありますか?」
 本庄の問い掛けも耳に入らぬ様子で、斉藤はそよとも動かない。
 代って噛んで含める声音で奥平が応じた。
「つまりだ、我々海軍が桜に錨を、陸軍が桜に星を戴くように、我が国の国花は桜だ。
 対する李王家の御紋章は李(すもも)。
 日本を桜に、朝鮮を李に喩えておられる。
 同様に五弁の花弁を持つ花とは言え、李と桜では色も匂いも違う。
 如何に純白の李を桜色に染め替えようとも、それは飽く迄桜色の李であって、桜では無い。
 李を李として愛でず、無理に色を染め替えて桜にしようとする愚を、閣下は下衆と仰ったのだ」
「そうでありましたか」
 肯く本庄に合わせた視線を下へと転じ、着席を促す奥平。
 先ず自らが着席して見せ、本庄の着席を待った。
 恐ず恐ずと着席する本庄から視線を転じ、奥平が第一種軍装の居ずまいを正して斉藤を正面に見据える。
「閣下に爆弾を投げ付けた姜宇奎も、今や抗日運動家等の間では朝鮮の為に命を投げ出した英雄と称えられております。
 御就任後閣下は朝鮮内の安定的な治安構築の為、一部民族運動の要求を受容なさいましたが、帝国政府の基本的統治政策たるや、武断支配こそ諦めたものの、依然としてフランスを範とした同化主義に拠るものであります。
         ‐38‐

 これは閣下の御考えになられる政策に沿うようでいて、実は真っ向から異を唱えるものであり、正に閣下の仰られる李を桜に染め替える下衆の所業かと。
 朝鮮の文化や習慣を無視し、朝鮮人を無理矢理日本人にしようとする斯く理不尽な植民地支配は何れ破綻を来たします。
 それに何より・・・・・このままでは閣下が、またぞろ抗日運動家の標的にされてしまうやも知れません」
 斉藤は伏せていた顔を上げると、強い語気で言い放つ奥平に対し苦笑混じりに応えた。
「しかしな奥平武官、私は的にされても良いと思っている。
 私が的になることで、帝国政府の閣僚や陸軍中央の幕僚等が自らの過ちに気付くのであれば、それはそれで充分に価値のあることだ。
 この誤った朝鮮の統治を終わらせることが出来るのなら、私は喜んで抗日運動家の的になろう。
 仮令こんな老頭児であっても、朝鮮総督なのだ。
 私が死ねば内地も朝鮮も、少しは変わるだろう」
 書庫の心許無い灯りが斉藤の半面を照らし出し、胸中の慨嘆を浮き彫りにする。

「閣下。僭越ではありますが、軍令部の末席を汚すものとして言わせて戴きますと、その答えは否であります」
 自身が口を開くよりも早く斉藤に応じた本庄に、奥平は当惑と憤慨が綯い交ぜになった瞳を向けた。
「本庄、貴様何を・・・・・」
 口を挟もうとする奥平を一顧だにもせず、双眸からは軍令部参謀の怜悧な眼光を放つ本庄が、揺るが無い声音で押し被せる。
「帝国政府にしろ、参謀本部を始めとした陸軍中央にしろ、朝鮮の文化や習慣を認めようなどとは微塵も思っておりません。
 朝鮮人を日本人に出来ると穿き違えて久しく、統治の基本政策が誤りであるとは夢にも思っていない筈。
 日本人が朝鮮人を蔑視し、また朝鮮人が日本人を仇のように憎む。
 この構図は博文公(はくぶんこう)が初代韓国統監の任に就かれた際に、最早始まっていたと言えるのではないでしょうか。
 帝国政府や陸軍中央からすれば、如何に梨本宮家の血を受け継いでおられようと、晋王子は飽く迄朝鮮人の血を受け継ぐ鬼子であり、また李王職に就く者や王宮殿の女官等からすれば、如何に李王家の血を受け継いでおられようと、やはり晋王子は日本人の血を受け継ぐ鬼子にしか過ぎないのであります」
 言い放ち斉藤に向けていた視線をこちらに転じた本庄に、奥平は京城に赴任して先ず最初に知ることになった朝鮮語を漏らした。
         ‐39‐

「倭奴(ウエノム=日本の小さい奴原の意。侮蔑の言葉)」
「は?」
 ぽかんと口を開けこちらを凝視する本庄に、苦笑だけを返す奥平。
 直後本庄が再び問い掛けた。
「中佐殿、今し方のはどう言う意味の言葉でありますか?」
「倭奴とは朝鮮人が日本人のことを嘲って呼ぶ言葉だ。
 倭奴の『倭(ウエ)』とは日本のことで、つまり日本語で言う『倭国(わこく)』の『倭(わ)』のことだ。
 また奴(ノム)とは小さい奴原と言う意味らしい。
 総じて『日本の小さい奴原』と言う意味の朝鮮語だ。
 晋王子に於かせられては李王家の御血筋であらせられるものを、朝鮮の者にさえ倭奴の血を受け継ぐ鬼子と思われているとは」
 奥平が言い終えるや、やおら腕を組み慨嘆の言葉を漏らす斉藤。
「その日本の小さい奴原の首魁が、私と言う訳だ」
 押し被せるように「閣下」と搾り出した奥平には応じず、斉藤は一転毅然とした表情で本庄に向き直った。

「倭の小さい奴腹と蔑むこと大いに結構。
 それで朝鮮内の憤懣が少しでも和らぐのならば。
 しかしだ。日本に対する憤懣を晋王子に向けるなどは言語道断。
 益してやその朝鮮の憤懣に乗じ、李王家の御血筋を根絶せしめんとする参謀本部の策謀を黙って看過など出来ようか。
 先ずは私の預かるこの朝鮮に於いて即刻本件に加担する者を捕え、日本人と言わず朝鮮人と言わず、それ等の者総てを断罪に処す」
 きっぱりと言い切る斉藤から眼を外さず、口元を結び直した本庄。
「閣下の仰せ御尤もであります。
 然り乍ら今次作戦に於いて、参謀本部の知るところとなるような、目立つ動きは御控え戴きたくあります。
 何度も申し上げて恐縮ですが、もし我等の動きが露見し彼等と事を構えるようになれば、陸海軍の衝突にも繋がりかねません。
 それに軍令部の調査では、彼等が毒を用いて晋王子を弑せしめんとしていることの、裏は既に取れております。
 つまりは毒殺を阻止しさえすれば、事は足りるものかと」
「ん・・・・・と、言うと?」

 怪訝そうに小首を傾げる斉藤に、本庄は唯々十度の敬礼を返した。
 そうして軍服の胸元を弄って赤い薬包を取り出すと、無言のまま読書机の上に置いて見せる。
 机上に置かれた薬包を手に取った奥平は、「解毒剤を使うつもり
か?」と探るような眼を本庄に向けた。
        ‐40‐

 顎を振り、「そうではありません。それにどのような毒を用いるか迄は、分かっておりません」と低い声音で応じる本庄。
 次いで携えて来た包みの中から、表題に『無呼吸潜水ニ関ワル薬剤之研究甲号第三』と記された冊子を取り出した。

「これは軍令部の依頼を受けた、海軍軍医学校の薬剤科研究室に於いて此の程開発された、新しい薬剤について記したものであります
が、甲号第一、第二と開発され、未だ不十分な結果しか得ることが出来なかったのに対し、この甲号第三と言う薬剤の開発に至り、漸く当初我々が望んでいたものに近い結果が得られたのであります。
 尤も当初の想定とは違う効能が同時に現れることが判明し、一旦この新薬の開発は留保されたのでありますが、今次晋王子救命作戦に使用すれば、非常に有効であるかと思われるものであります」

 噛んで含めるように言ったつもりの本庄であったが、全く要領を得ないと言った表情の奥平と斉藤。
 二人を交互に見遣りそれも尤もと肯いた本庄は、「御存知のことと思いますが、艦隊勤務の経験が有れば誰もが最も恐れること、それは乗艦する艦艇の沈没であります」と続けた。
 言い終えるや椅子を蹴って立ち上がった本庄が、壁際の黒板へと向かう。
 黒板の前に立った彼は、白墨を手に甲号第三について説き始めた。


 一、敵艦ニ攻撃サルル艦艇ニ乗艦セル海兵等之内、水雷若シクハ爆撃ノ衝撃ヤ爆風ニ因ッテ直接死亡スル者ト同数カ、或イハ其レ以上ニ、艦内デ気絶スルカ艦外ニ投ゲ出サレルカシテ、海中ニ沈ミ行ク艦艇ニ巻キ込マレタ結果、窒息死ニ到ラシムル者ガ相当数イル。
 其之為是ヲ何トカ回避スル事ガ出来無ヒモノカト開発シタル薬剤ガ、此之甲号第三也。

 二、此之甲号第三ハ服用シテ忽チ効能ヲ発揮スルモノデ、其之後約十分カラ十五分之間ハ、摂取スル酸素之量ガ皆無デアッテモ、海中デノ生存ガ出来ル事ガ確認サレル。    
              
 三、但シ効能ガ表レルト同時ニ、運動ニ拘ル神経ガ痙攣スル事モ確認サレル。
 即チ是ガ甲号第三之正式採用サレ無ヒ理由デアル。         
 服用後暫時呼吸ガ停止シ、運動ニ拘ル神経ガ総ジテ痙攣シテシマフ為、服用者ハ思フヤウニ自ラ身体ヲ動カス事ガ出来ズ、宛ラ引キ付ケヲ
         ‐41‐

起コシタカノヤウナ状態トナッテシマフノデアル。
 依テ是ヲ有事之際ニ海兵ガ服用シテモ、薬之効力ガ切レテ意識ガ戻ル迄ハ自力デ水面ニ浮上スルコトガ出来ズ、仮令意識ヲ回復シテ身体ヲ動カス事ガ可能トナッテモ、其之際海兵ガ艦内ニ取リ残サレテイルカ或イハ海中深ク在レバ、是ヲ服用スル意味ヲ為サナイ。  


 身振り手振りを交え漸く説明を終えた本庄に、奥平が問い返す。
「この薬を晋王子に?」
 薬包を掌の上に乗せて見せる奥平に、本庄は無言のまま肯いた。
 やおら腕組みを解き、閉じていた眼をかっと見開く斉藤。
「つまりは参謀本部の手の者が晋王子に呑ませようとする毒と、その薬とを摩り替えると言うことか?」
 本庄は問い掛ける斉藤に首を巡らせると、ゆっくりと一つ肯いた。
「この甲号第三を服用した海兵を自分は見ておりましたが、服用後即座に呼吸を停止し、まるで全身が痙攣を起こしているようでした。
 その顔たるやまるで色を失い、唇などは紫に変色しておりました。
 危篤状態と言われれば、それは確かにそのような状態であったと。
 やがてその海兵が水泳場に放り込まれた際、危険を感じた自分が直ぐに引き揚げるべく部下等と共に水際へと駆け寄ると、存外に早く浮かび上がって参りまして、けろっとした顔をしておりました」
 言い終え再び着座した本庄が、奥平の掌の上の薬包を一瞥しながら続ける。
「この甲号第三を使用すれば、参謀本部の手の者に晋王子の毒殺に成功したと、錯覚させることが出来るかと」
 じろと本庄を覗った斉藤の瞳は、煌々と底堅い色に輝いていた。
「良い手かも知れん。参謀本部の連中に毒殺が成功したと思わせることが出来れば、同じ策謀を巡らすことは二度と無いだろうからな。
 それに晋王子を御救い申し上げたことに、軍令部が関与していることの隠蔽も出来る。
 畢竟海軍と陸軍が衝突する火種も消えると言う訳だ」

 斉藤の言葉を胸中に噛み締め、奥平が掌の上の薬包を机上に置く。
「つまりこの薬を服用した晋王子が危篤状態に陥ったと見せ掛け、借り物の遺体と晋王子とを摩り替える。
 そうしておいて、借り物の方の遺体を荼毘に付す。違うか?」
 無言のまま肯いた本庄は、眦を決して奥平を正面に見据える。
「仰る通り借り物の遺体を使う作戦を立案しました。
 遺体の手配は既に軍令部より総督府病院の小児科医長に協力を仰いでおりますので、作戦遂行の期日迄には入手出来るものかと」   
         ‐42‐

 言い放つ本庄の向けて来る視線が、一瞬ぎらと鈍い光を帯びた。
 次いで奥平が苦笑混じりに問う。
「どうも気に掛かるな・・・・・総督府病院の小児科医長の口から、作戦の内容が漏れると言うことは無いのか?」
 問われた本庄はにやと嗤い、確信めいた声音で答えた。
「小児科医長は総督府病院の次期院長の椅子を御望みのようでしたので、そのように。
 ですので現院長には、海軍軍医学校長の椅子を御用意致しました。
 丁度学校長が勇退なさる時期を迎えましたので、現院長には今の報酬の倍額での転籍を御承知戴きました」
 笑みを掻き消した奥平が、本庄の方へずいと身体を寄せる。
「なるほどな。院長まで取り込んだと言う訳か。しかし世子殿下御夫妻には、この作戦の内容をどう御伝えするつもりだ?」
 本庄は奥平の射るような視線を、底堅い瞳で受け止めた。
「両殿下に対しては真に心苦しい限りでありますが、作戦遂行上ここは秘匿する以外に手は無いかと」
 本庄の言葉に瞠目を禁じ得ない奥平。
「しかし俄か仕立ての借り物の遺体など、両殿下が御抱きになれば、晋王子でないことなど一目瞭然ではないか」 
 こちらを凝視して来る奥平に、本庄は諭す声音で応じた。
「両殿下が借り物の遺体を御抱きになられることはありません。
 一旦甲号第三を服用した本物の晋王子を御抱きになられますが、両殿下が晋王子の異変に御気附きになった後、直ぐ様傍らに控える御附女官が晋王子を抱き上げ侍医の許へ。
 無論この女官は我々の意を汲んでおりまして、ほんの十分程で元の健やかな王子に戻られますが、その姿は御見せ致しません。
 また両殿下が借り物の遺体に御対面なさるのは約三日程時を経た後で、三日の間は両殿下に対して面会謝絶と言うことで通します。
 つまり両殿下が借り物の遺体に会われるのは、侍医等があれやこれやと手を尽くした後と言うことになります。
 両殿下の手元に息絶えた借り物の遺体が戻っては来ますが、それは顔を腫らせて冷たくなってしまった赤子。
 無論両殿下は近くから見ることはなさいますが、こちらの意を汲んだ女官が借り物の遺体を御抱きになるのを阻止します。
 果たして動転なさっておられるであろう両殿下が、見るだけでそれを借り物の遺体だと御気付きあそばすでしょうか?」

 言い終えた本庄が奥平から斉藤へと視線を転じる。
「閣下も御承知のこととは存じますが、皮肉なことに世子殿下は陸軍中尉にあらせられます。
         ‐43‐

 勅命により参謀本部の企てた策謀から、軍令部が晋王子を御救い申し上げますなどと、何とすれば御注進出来ましょう」
 呻くような声音で続けた本庄の言葉が血の臭いを喚起し、書庫の黴臭さと混ざり合って饐えた臭気を醸した。
 ややあって斉藤が押し被せるように搾り出す。               
「致し方無かろう。世子殿下には救命作戦を完遂した後、時機を見て晋王子の無事を御伝えするしかあるまい」

 言い終え慨嘆の溜め息を吐き出す斉藤を視界の端に捉えながら、奥平は本庄を正面に見据えた。
「看護婦や助手の協力者の選定は小児科医長に任せるとして、肝心の御附女官の協力は得られているのか?」 
 伏目がちに奥平を伺う本庄。
「その・・・・・最も重要な役目を荷う御附女官でありますが、検討の結果候補者は居るのですが、未だ接触は果たせずにおります」
「無理もあるまい。やれ参謀本部だの軍令部だのと言ったところで、彼女等には何の関係も無い話だ。
 李王殿下以外の者の御下命に従えるものでは無かろう。
 第一軍令部に朝鮮語を話せる者が居るのか?
 益してや日本語を話せる女官などそうそう
・・・・・」
 と、そこ迄延べた奥平の脳裏を、或る女官の姿が過ぎった。
 そこから先の言葉を呑み込む奥平。

 本庄の言によれば、この作戦の鍵を握る者は明らかに協力者たる御附女官である。
 つまりは借り物の遺体と晋王子を摩り替える役を担う者が、最も重要な役割を担うと言うことだ。
 そして日本語が話せ、李垠に忠誠を誓える者でなければならない。
 そのように順序立てて考えると、役目を果たせる者は独りだけだ。
 李垠の生母である、亡き厳妃(げんぴ)附の最高尚宮(王族の側近くに仕える、最高位の女官に与えられる尊号)に仕える侍女を務めた経験があり、日本語が堪能なあの女官しか居ない筈である。

 本来なら王族の後宮になって然るべき美貌と才智の持ち主であり、また厳氏一族に連なる名家出身のあの女官・・・・・。
 しかし彼女の実家もまた、この期の没落した両班(りょうはん/ヤンバン=李氏朝鮮時代の貴族)の御多分に漏れず、朝鮮王朝の権威の失墜と伴に凋落の一途を辿ったのであった。
 厳妃を頼って、女官となる外に生きる術が無かったのであろう。
 彼女は生前厳妃が創立した『淑明女学校(しゅくめいじょがっこう』の出身であり、以前は
         ‐44‐

李王職にあった父と親交のあった日本人の商家で、幼い頃より日本語を学んだと言う経歴を持つ。
 それが故に厳妃亡き今は、昌徳宮で日本語通辞の尚宮(しょうきゅう)として仕えていた。
 まだ三十を少し過ぎたばかりの、朝鮮随一の美貌の女官でもある。

 そうして彼女のことに思いを馳せる奥平には、内心に秘めるものがあった。
 決して、決して、決して彼女に今回の作戦に拘る任務を負わせることなどあってはならない・・・・・とてつもない危険を伴なう。
             
 胸中に言い聴かせながら眼を閉じると、美しい挙措で翡翠色の裳(しょう/チマ=韓服のスカート)の裾を曳く彼女の姿が、瞼の裏に浮かび上がって来る。
 刹那奥平は始めて彼女と出会った、秘苑(ひえん/ピウォン=朝鮮王宮・昌徳宮の庭園の名称)の風景の中に取り込まれていった。
 紅葉や楓の、燃え立つような紅が晩秋を彩る秘苑の直中へと。

 昌徳宮の北半分を占める秘苑は一万坪を超える広大な敷地を有し、朝鮮造園芸術の極みとでも言うべき独特の趣を持つ庭園である。
 参内時の御供で昌徳宮迄出向き、斉藤が李王殿下に謁見している間の手持ち無沙汰に宮中を徘徊している時のこと、奥平は紅葉の美しさに誘われ我知らず秘苑に足を踏み入れていた。
 ふと首を巡らして見遣った先に、翡翠色の女官服が紅葉の葉陰の中に見え隠れしている。
 季節外れの新緑が芽吹いたかのようであった。
 翡翠色の女官服だけが鮮やかな緑を附けている。
 後ろ姿だけしか見えなかったが、挙措の美しさからして女官の中でもかなり高位の位置を占める者であることが窺い知れた。
 初めて見る、それが彼女の姿・・・・・。

 然るにその直後下卑た日本語に耳朶を打たれ、現実に引き戻された奥平は、足を止めて眉を顰める破目に陥った。
「言う通りにせんか。
 それとも貴様、着ている服を脱がされたいと
でも言うのか?」
「ですから私は何も・・・・・」
 軍袴を穿いた将官らしき警務官が彼女を呼び止め、何やら声を荒げて詰問しているようである。
 応じる女官の日本語が朝鮮人とは思えぬ程流暢であったことも、更に奥平を惹き付けることとなった。
         ‐45‐

 警務官の発した声の様子から、遠目にもその男が邪な眼で彼女を見ているだろうことは想像に難くない。
 警務官の死角を探りながら、肩の階級章が見える処までそっと近付いてみた。
 どうやら少尉らしい。        
 自分より階級が下であったことに胸を撫で下ろしながら、奥平は警務官の背後へと靴音も立てず一気に廻り込んだ。
 同時に警務官を隔て彼女を正面に見る。

 刹那思わず息を呑んだ。

 中心で梳き分けた髪を、ぴたりと後ろに引っ詰めた艶やかな黒髪。
 雪のように透き通った白い肌に、黒目の勝った切れ長の瞳。
 美しさとはこう言うことを言うのか・・・・
・非の打ち所が無い。
 視界の中へ唐突に見知らぬ男が割り込んだせいで、心なしか彼女の頬が引き攣っている様子が見て取れた。
 もう一人現れた日本人を見て、当惑しているのであろう。

 我に返り釘付けとなっていた視線を彼女から警務官の背中へと転じた奥平は、大きく一つ息を吐くと居丈高な声で背後から問うた。
「自分はこの者に、総督閣下の急なる御用の向きを伝えに来た。
 貴官はこの者に何の用か?」
 振り向きもせず、「何だと!」と背中で声を荒げる警務官。
 振り向きざま誰何(すいか)の声を上げようとし、唇を「誰か」の「誰」の形に作ったものの、そこに在ったのは詰襟軍服を着た海軍士官である。
 声を上げることも出来ずに口を閉じた警務官は、奥平を凝視した。
 この京城の地で海軍の詰襟軍服を見掛けることなど滅多にない。
 居るとすればそれは、影の如く総督に付き従う駐在武官である。
 そのことに思い至った警務官は、一歩後退り挙手の敬礼で応じた。
「悪くありました武官殿。
 武官殿とは知らず無礼な口をききました。
 御許し下さい。
 自分は昌徳宮の警護を仰せ付かっている柿崎少尉であります。
 この女官を不審に思いましたので、詰問致しておりました」
 そう言い終えて不動の姿勢を取る警務官の、拳一つ高い位置から見下ろす視線で奥平が睨め附ける。
「そうか。それはご苦労であった。
 では、以降は自分が引き継ぐ故、貴官は警護の任務に戻られよ」
 警務官の背が低いと言う訳ではないのだが、彼よりも上背のある奥平に上から下へと睨め附けられれば、それはかなりの圧力だった。
         ‐46‐

 警務官がじりじりと後退る。
「はっ。しかし・・・・・」
 言い淀みながらも何か言いたげな警務官に、奥平は押し被せた。
「しかし、何か? 先程も総督閣下の急なる御用の向きと言った筈。
 貴官には総督閣下の御用より他に、何か優先する任務があるのか。
 それに、どうやら相棒が見当たらんようだが」
 一通り辺りを見廻した後、奥平が怪訝そうな視線を投げ掛けると、警務官がその視線から逃れるようにしてあらぬ方向を見遣る。
 警護の任務に就く際は、必ず二人一組で行動するものだ。
 たった独りで女官に詰問する警護の任務など、有ろう筈も無い。
 警務官はその場限りの言い逃れを見破られたことを悟った。
 頬に一条の汗を滴らせながら再び挙手の敬礼を返し、「自分は警護に戻ります。では」と言い置き逃げるようにして立ち去る。

 徐々に遠くなって行く警務官の背中に目掛け、彼女の侍女が怨嗟の言葉を吐き出した。
「ウエノム/倭奴(倭の小さい奴原め)」
 無論当時の奥平にその言葉の意味は分からない。
 しかし今にしてみればそれこそが、朝鮮赴任後に初めて覚えた朝鮮語であった・・・・・。

 振り返り何かを言おうとした侍女に対し、咎めるような口調で言い放つ彼女。
「クロハンマルル マレソヌン アンデムニダ!(そんな言葉を、口にしてはなりません!)」
 侍女は申し訳なさそうに頭を垂れて彼女に応じた。 
「イェー ママニム(はい。尚宮様)」
 直後彼女の許に歩み寄った侍女が、不安げに眉を顰めて問う。
「ママニム/媽媽任 クェンチャシムニッカ?=(尚宮様、大丈夫でございますか?)」
 問い掛ける侍女に無言を返事にした彼女は、奥平に向き直った。
 胸の前で手を合わせて腰を折る、拱手の礼(きょうしゅの礼/コンスの礼=朝鮮式の立礼)を尽くす。
 続いて今し方彼女に叱責された侍女も、少し後ろで同様に拱手の礼を尽くしていた。

「恐らく侍女殿は先程の警務官に悪態を吐いたのだろうが、あのように礼儀を弁えん者はそんな風に言われて当然だ。
 自分が君の立場でも、同じようなことを言った筈。気遣いは無用。
 と、そのように、貴女の侍女殿に伝えては貰えませんか?」
         ‐47‐

 言い終え苦笑する奥平と眼の合った彼女が、再び深く腰を折り拱手の礼を尽くす。
「侍女がはしたない口をききましたのに、そのように御優しい言葉を頂戴するとは、何と申し上げて宜しいのやら。
 御心遣い痛み入ります。侍女になり代わり御礼を申し上げます。
 先程の御言葉は後程侍女に伝えおきます。
 時に、先程仰っておられました、総督閣下の御用の向きとは?」
 流暢な日本語を話す彼女の面差しが直視出来ない程美しく、奥平は伏目がちに鼻面を擦りながら応じた。
「それなのですが、そのようなことは閣下より仰せ付かっておりません。
 口から出任せを言った迄であります」

 奥平の恍けた言いように堪え切れず、女官服の袖口で口元を覆い隠すようにして、「まあ、そうだったのですか」と微笑む彼女。

「その・・・・貴女が御困りのようでありましたから」

 独白するように告げた奥平は、軍帽を脱いで頭を掻きながら彼女の様子を覗った。
 すらりとした体躯に見合う彼女の高い身長は、その黒目の勝った瞳を捉えるのに、奥平をしても首を僅か下に動かすだけで事足りる。

 奥平の視線と彼女の視線が濃密に絡み合った。

 そうして頬をうっすらと桜色に染めていく、奥平と彼女の二人。
 やがて交わしていた視線を逸らせた彼女が一転、元の凛然とした高位の女官たる顔を奥平に向け直した。
「本当にありがとうございました。
 申し遅れましたが、私は朴恵子(パク・ヘジャ)と申します。
 日本語では、朴恵子(ぼくけいこ)と言うらしいです。
 昌徳宮附の尚宮(サングン)を勤めますが、日本語ではこれを尚に宮と書き、尚宮(しょうきゅう)と称します。
 所謂王宮殿に仕える女官の役職のことでございます。
 私は主に昌徳宮で、日本語通辞を致しております」
                      恵子(ヘジャ)の礼を尽くした自己紹介を受け、奥平も脱帽したままで十度の敬礼を尽くし自らを名乗る。              
「尚宮殿。で、ありますか。
 自分は総督府附駐在武官で、帝国海軍少佐の奥平晃顕と申します。
 今後総督閣下の御用で、そちらに伺うこともあろうかと思います。
 どうぞ御見知りおきを」
        ‐48‐

「帝国海軍・・・・・で、ございますか?」
 怪訝な表情を向ける恵子に、「は?」と応じた後奥平は軍帽を被り直し、「そうか尚宮殿には、海軍の軍人に余り馴染みが無いのですね」と続け微笑んだ顔に白い歯を零れさせた。  
「はい。御恥ずかしい話なのですが、私は今日迄海軍の方は元より、軍艦の一隻さえ見たことが無いのでございます。
 尚宮は生涯この身を李王家に捧げ奉るもの。
 それ故私は王宮殿に勤めてから此の方、海へはおろか都の外にさえ出たことがございません。
 御召しの制服も、今日始めて眼に致しました。
 せめて海を見に釜山(ふざん/プサン)くらいへは、一度行ってみたいと思っているのでございますが」   

 遠い眼をして淋しげな表情でそう語る恵子は、奥平の眼前に在る。
 只、これ程間近に居る恵子が、何とも遠い存在に感じられた。
 直後奥平は恵子が朝鮮王宮に仕える女官であり、自身が帝国海軍の軍人であることの現実に改めて思い至り、その距離の隔たりに悄然として首を項垂れるばかりとなった。
「そうでありましたか。海を見たことさえ・・
・・・」
「はい」
 そうとだけ応じて俯いてしまった恵子に、艦隊勤務の折に見た光景を昔語りに聴かせる奥平。
「ならば一度御見せしたいものであります。水平線に沈み行く夕陽や、或いは昇る陽を。それはそれは、美しいものであります」
 再び顔を上げ奥平と視線を合わせて微笑む恵子。
「そうなのですか。海とは美しいものなのですね」
「はい。時には嵐で時化るときもありますが、そんな荒々しい海もまた海が海たる所以であります。
 自分はそんな海が大好きで、帝国海軍に志願致しました」
 一つ肯いた恵子は、その後黙り込んでしまった。
 恵子もまた、奥平との間に距離を感じてしまったのである。

 艦隊勤務の時の話などするのではなかった。
 そうと胸中に呟く奥平も、また恵子も、再び互いに視線を逸らす。
 やがて視線を戻した奥平と恵子。
 そうして見詰め合う二人の間を、冷たい秋風がひゅうと音を立てて吹き抜けて行った。

「これは・・・・・私としたことが、つい話し込んでしまいました。
 足を御止めして、真に申し訳ありません」
         ‐49‐

「いえ。自分こそ失礼を致しました。では」
 言い置き立ち去ろうとして果たせなかった奥平が、「尚宮殿、一つ教えて戴きたいことがあります」と振り向きざまに問い掛ける。
「何でしょうか?」
 応じる恵子の後ろで様子を覗う侍女を、奥平はちらと一瞥した。
「先程侍女殿が言った朝鮮語。あれは日本人に対する悪口だと思うのですが、どう言う意味の言葉なのか教えて戴けませんか?」
 奥平の問いには答えず、「先程は御容赦戴けたかと思っておりましたが、やはり武官様には御立腹なさっておられるのですね」と訝る声音で問い返す恵子。
「否、誤解しないで戴きたい。自分は日本人があなた方朝鮮の人達にどう思われているのか、それを知っておきたいだけなのです」
 真摯な眼差しで訊ねる奥平に、恵子は伏目がちに惑う瞳を向けた。
「それは困りましたね。とても武官様に御説明出来るような言葉ではございませんので」
 恵子の戸惑いを見て取った奥平が一転、戯けた口調で請い直す。
「構いません。
 凡その見当はついておりますから。
 そうですね、自分が思うに・・・・・例えば、『馬鹿野郎』とか、或いはそうですね、『糞野郎』とか。
 そんな意味の言葉ではありませんか?」
 奥平の言い様に堪え切れなくなった恵子は、再び女官服の袖口で口元を覆い隠すようにした。
 次いで覗き込むように奥平を見遣り、「申し訳ありません。つい可笑しくて」と微笑む恵子。
「こちらこそ申し訳ない。
 一度知りたいと思うと、どうしても知りたくなる性分でして。何卒宜しく」
 言い募る奥平に、「では、一つだけお願いがあります」と恵子は人差し指を立てながら釘を刺す声音で告げた。
「はっ。何なりと仰って下さい」
 苦笑混じりに恵子に向って軽く腰を折る奥平。
「私から聞いたと言うことは、どうか御内密に願います」
 眉根一つ動かさずに告げるも、恵子の口元の辺りは綻んでいた。
 奥平も恵子同様笑みを浮かべた顔で、「それはもう。尚宮殿の御命令は遵守致します」と挙手の敬礼を添えて応じる。
 奥平の言い様や仕草に堪え切れず頤を解いた恵子は、「分かりました。致し方ありません。御教え致しましょう」と返し一通り辺りを見廻してから、「こちらへ」と声を潜めて続けた。
 誘われるまま恵子の後を追い、奥平も背後の木陰に移動する。

 しな垂れ掛かる紅葉の葉を映し出す恵子の瞳を面前にした奥平は、我知らずそこに宿る紅に
         ‐50‐

見入ってしまった。
 刹那交錯しそうになった奥平の視線を正面に受け止め切れなかった恵子は、逸らせた視線を傍らに控える侍女の方に転じる。
 そうして彼女に目配せを送られて小さく肯いた侍女は、落葉の吹き溜まりで深紅の絨毯を敷いたようになった通り道の先を、右へ左へとこちらへ来る者が現れないか首を巡らせて一心に様子を覗った。

「まあ、大体は少佐殿の仰ったようなことです。
 古来朝鮮では日本のことを、『ウエグック(倭国)と呼んでおりまして、ウエノム(倭奴)とは、その倭国のノム(奴)と言った、日本人を悪く言う言葉です。
 少佐殿を前にして大変申し上げ難いのですが、日本語に直しますと、『日本の小さな奴原』と言う意味の言葉になります」 
 
 物憂げな口調で告げて奥平を振り仰いだ恵子の表情からは、最早先程迄の笑みは掻き消えている。
 同様に恵子の瞳の中の奥平からも、既に笑みは消え去っていた。

 何故恵子が朝鮮王宮の尚宮で、自身が帝海の軍人なのか。
 何故恵子が朝鮮人で、自分が日本人なのか。

 胸中に身の不幸を呪いつつ、「貴女に取っても、自分は日本の小さな奴原なのですか?」と訊ねようとして果たせなかった奥平は、只々、言葉を失った口が無為に動くのを止められなかった。
 瞳の滲む前に、この場を去らなければ。
 そうと心を決めた奥平は、何とも情けない自身が映る恵子の瞳を捉え直し、「そうですか。ありがとう。勉強になりました」と無理に微笑みながら告げた。
 脱帽敬礼の後、「では」と踵を返した奥平の背中に向かって、恵子が、「あの」と今にも消え入りそうな声を投げ掛ける。
 一転彼女は確信めいた強い声音で、「奥平武官様。日本人の皆が皆、そうだと言う訳ではございません」と重ねた。
 振り向きざま被り直した軍帽の鍔に手を掛けたまま、「ならば、良いのでありますが」と応じた後直ぐさま踵を返す奥平。
「少なくとも武官様だけは、その限りではありません」
 恵子の羞んだ声を背中で聴いた奥平は、閉じかけていた胸をひと揺れさせた。
 漸く笑顔を取り戻す奥平。
         ‐51‐

 直後振り向きもせず、「ありがとう」とだけ背中で返し、紅に染められた落ち葉の絨毯を踏み拉きながらその場を後にした。
               
 皮肉なものである。
 恵子とは駐在武官としてあれからも何度となく会ったが、それ以降彼女は二度と奥平に朝鮮語を教えようとしなかったし、また奥平の方からも朝鮮語を教えて欲しいとは言わなくなってしまった。
 今にして思えばそれが朝鮮に着任してから此の方、奥平の覚えた最初で最後の朝鮮語である。
 「ウエノム(倭奴=日本の小さい奴原)」
 今一度その言葉の形に、口を動かしてみた。                
 記憶の中に閉じ込められている、深い紅に彩られた秘苑。
 今正に奥平はその直中に居た。
然るにどうしたことか、薄闇の底から自分を呼ぶ声がする。

「中佐殿・・・・・中佐殿。封密書の開封を」
 そうと促す声が耳朶を打った刹那、夥しい量の紅葉の葉が頻々として面前に落ちて来て奥平の視界を塞いだ
 思う間に秘苑の色や匂いが失せて逝く。
 閉じていた瞼をゆっくりと開けてみた。
 開けた視界のその先には、自身を正面に見据える本庄が居る。
 大きく一つ息を吐いた奥平は、意識野の中に残る恵子の残像を振り払いつつ、「そうだったな」と自身に言い聴かせるように応じた。

 覚醒仕切らぬ奥平に、夢の中から引き摺り出した本庄が重ねる。
「先程最も重要な役割を荷う、世子殿下の御附女官の候補者について未だ我々が接触を果たせずに居ると申しましたが、本作戦の遂行上中佐殿から直接その候補者の女官に作戦の内容を御伝え戴き、了承を得るのが筋かと思いましたので、敢えて我々の方では接触を果たさずに居る次第であります。
 然りながらその女官を世子殿下京城滞在中の御附女官とすることは、既に我々の意を汲んだ李王職の者から推挙済みであります」
 言い終えた本庄の底堅い瞳を、奥平が揺るが無い視線で射返す。
「その候補者とは、朴尚宮のことであろう」
 問い掛けるも黙ったまま肯く本庄に、尚も奥平は詰め寄った。
「それより、妙なことを言ったな。俺から作戦の内容を伝えて了解を得るのが筋とかどうとか、それは一体どう言う意味だ?」
「朴尚宮は世子殿下の御生母、亡き厳妃殿下附の最高尚宮に仕える侍女を務めた経験が有り、厳妃殿下亡き後は昌徳宮で日本語の通辞を兼ねて、昌徳宮李王殿下附尚宮として仕えているそうであります。
         ‐52‐

 尤もそのようなことは、中佐殿も御存じかと・・・・・」                       
 長々と煮え切らない言葉を並べる本庄に、奥平が苛立ちの色を露にした表情を向ける。
「奥歯に物の挟まったような言い方をするな!」
 押し被せる奥平の語気の強さに、本庄は思わず視線を逸らせた。

「ですから中佐殿、自分は封密書の開封をと先程から申し上げております。総てはその軍令書に記載してあります」
                
 無言のまま肯き椅子を蹴って立ち上がった奥平は、不動の姿勢を取ると懐から懐中時計を取り出して時刻を確認する。
「現在時刻一七五五(ひとななごおごお)、軍令部より下された封密書を開封する」
 奥平がそう告げるや、本庄も椅子を蹴って立ち上がった。
 奥平に十度の敬礼を返し、無言のまま本庄も不動の姿勢を取る。
 そうして二人より少し遅れて立ち上がった斉藤も、彼等と同様に帝海の軍人らしく不動の姿勢を取った。

 封密書を開封すると通常の中佐任官の辞令である一枚と、もう一枚文頭に、「発・軍令部、宛・奥平晃顕駐在武官」と記された軍令
書が同封されている。
 やがて軍令書を読み始めた奥平の眉根が、見る間に寄せられた。
 次いで顳顬(こめかみ)から滲み出した数条の汗が頬を伝う。
 口元を歪めた奥平は、「理不尽な」と呻く声音で独りごちた。
 素知らぬ顔の本庄を睨め付けた奥平が、低い声音で言い放つ。
「これは作戦と言う名の蹂躙だ。
 そこ迄する必要が有るのか。 
 否、それよりその権限が軍令部にあるのか。
 どう言うつもりなんだ? 本庄作戦参謀」 
 本庄は嘆息を吐いた直後、「他に何か良い策があるのであれば、御聞かせ願えますか?」と膠(にべ)も無く問い返した。
 反駁の言葉を思い付かない奥平が、軍令書と共に両の拳をぎゅっと握り締める。
 ややあって静観を決め込む斉藤に視線を転じた。
「閣下、一枚は自分を中佐に任官する旨の辞令であります。
 然るにもう一枚の軍令書にはこう在りました。
 現在李王殿下附尚宮である朴尚宮を本作戦の工作要員とし、後に内地に渡海せしめ、武官との婚姻を偽装す可し。
以て参謀本部への欺瞞工作と為す、と。
 また晋王子養育係の任に朴尚宮を当たらしむる可し。
 軍令部の用意した内地仮御殿にて、表向きは武官と朴尚宮の子として、数年間晋王子を御養
         ‐53‐

育す可し、と。
 斯なる軍令が記されておりました。
 そして最後に、詳細は差遣した本作戦の作戦参謀本庄忠道少佐に照会せよ。とも」
 言い終えた奥平が再び視線を本庄に戻し、軍令書を握り締めたままで両の拳を読書机に叩き付ける。

 やがて片手を伸べた斉藤が、本庄と対峙する奥平に水を向けた。
「奥平武官。まあ、座らんか」
 斉藤に促されるも、「はっ。然しながら」とだけ返す奥平。
 再び本庄に向き直り、噛んで含める声音で問い糾した。
「もし朴尚宮がこの作戦への協力を拒否したらどうする。
 もし彼女が李王殿下や世子殿下にこの件を注進し、事が公になった場合、彼女をどうするつもりだ?  
 そして仮にこの件を彼女が引き受けたとして、若ししくじれば」
 奥平の射るような視線を、軍令部参謀の峻烈な眼光で射返す本庄。
「言う迄も無いことであります」
 そうとだけ奥平に返した本庄は、斉藤に一礼した後腰を下ろした。
 本庄が口を開くよりも早く、「やはりな。始末するつもりなんだな」と奥平が吐き捨てる。
 にやと嗤った本庄は、尚も立ったままで居る奥平を振り仰いだ。
 「さて、そんなことになって、その女官を始末するだけで事足りれば良いのでありますが。
 元軍令部参謀の中佐殿には、総て御分かりの筈。
 そんなことになれば軍令部と参謀本部が真っ向からぶつかることになり、摂政宮殿下の御意に沿い奉るどころか、陸軍と海軍の戦にもなり兼ねないことを」と応じる。
 その冷静な声音に抗うように頭を振り、奥平は反駁の声を上げた。
「だからと言って、何の罪も無い彼女をこの作戦に巻き込み、彼女の人生を取り上げても良いと言うことにはならんだろう」
 再び椅子を蹴って立ち上がった本庄が、口をへの字に結んで奥平に顔を寄せる。
「他に策が有ると仰るのであれば、どうぞこの場で仰って下さい。
 何か良策を御持ちなのですか? そうであるなら、さあどうぞ」
 黙り込む奥平に、本庄が尚も言い募る。
「無いのであれば・・・・他にどう仕様も無いことなのであります。
 我々の方でも中佐殿と朴尚宮とが、総督府と王宮殿の互いの窓口になられていて、御二人が入魂になさっておられることも充分承知致しております。
 無論、それが飽く迄職務遂行の上に於いてであることも。
          ‐54‐

 故に我々は、未だ直に朴尚宮への接触を果たしてはおりません。
 何卒中佐殿から協力が得れるよう、朴尚宮を説得して戴きたい」
「他に候補者は居らんのか?」
 縋るような眼を本庄に向けた奥平は、がっくりと肩を落として椅子に身体を沈めた。
「そのような者が居ると仰るのなら、此処に御連れ戴きたい。
 他に人が居ないことも、中佐殿が誰よりも御分かりの筈」
 本庄の言葉を上の空で聞き流した奥平が、斉藤を正面に見据える。
「閣下。閣下から軍令部に対し、他の策を模索するよう仰って戴く訳には参りませんでしょうか?」
 悲痛な面持ちで搾り出す奥平に、斉藤は諭す声音で応じた。
「奥平武官。貴官の気持ちは良く分かる。
 然しながら参謀本部を敵に廻そうと言うのだから、彼女の力無しで叶う事とは思えん」 
 最後通牒を突き付ける斉藤に対し、何か言いたげな素振りの奥平。

 しかし奥平が口を開くよりも早く、本庄は勢い良く椅子を蹴った。
 そのまま不動の姿勢を取る。
「僭越ではありますが閣下。
 シーメンス事件以降、閣下が朝鮮総督に御就任あそばしてから現在に至る迄の経緯の中で、自分が立てた『或る一つの仮説』を、今此処で中佐殿に御説明申し上げたいのですが、宜しいでしょうか?
 実は本作戦を立案するに際し、それ等の事象を時系列に沿って調査したところ、そうとしか考えざるを得ないと思い至ったもので」
 許しを請うた本庄は無言で肯く斉藤を視線の端に捉えながら、瞳の中心では真っ直ぐに奥平を射抜いていた。
                 
「十年前シーメンス事件で閣下が海軍大臣を辞任なさったのは、閣下御自身の責任には非ず。
 閣下は連帯責任を取られたに過ぎません。
 自分はそもそもあの事件を公に露見するよう画策したのは、陸軍謀本部では無いかと考えております。
 そして三年前、予備役で待命中の閣下に下された朝鮮総督の職。
 重ねて就任後未だ一ヶ月も経たぬ内の南大門駅にての、姜宇奎なる暴漢による閣下の暗殺未遂事件。
 それ等総ての出来事が、彼等に依る策謀だとしたら・・・・・」
 本庄の言葉に瞠目を禁じ得ない奥平が、低い声音で搾り出す。
「本庄、貴様何が言いたい?」
 問いには答えず、視線だけを奥平に注ぎ続ける本庄。
「中佐殿、不可解とは御思いになりませんか?
 就任間も無い斉藤閣下がどのような人物かなど、抗日運動家等の知るところでは無い筈。
         ‐55‐

 例えば何者かが、抗日運動家等に偽りの情報を流したとします。
 斉藤閣下が先代の長谷川閣下よりも、尚武断色の濃い人物だとか。
 或いは朝鮮の抗日運動家を皆殺しにするつもりだとか。
 結果、討つ可し新総督と・・・・・それならば辻褄が合います」
 奥平はどくんと跳ねる、自身の心臓の音を聴きながら問うた。
「貴様が今言った事の裏は取れているのか?」
 やはり微動だにしない本庄であったが、今度だけは即応する。
「確たる証拠はありません。先程も飽く迄、『或る一つの仮説』と申し上げた筈」
 より峻烈な光を放つ眼で奥平を見据えた本庄は、淡々と続けた。
「但しその仮説は、そう考えざるを得ないものであるとも」
 本庄の一連の言葉は、その仮説を裏付けるものでは決して無い。
 しかしまた裏腹に、それ等の言葉が確信めいて聞こえ、奥平は喉の奥でごくりと一つ唾を呑み下した。
 刹那峻烈な光を放っていた本庄の眼が、一瞬ぎらと鈍く光る。
「仮に爆弾で斉藤閣下が御命を落とされるような事態が出来しても、陸軍中央に取っては、それは飽く迄海軍閥の朝鮮総督が落命したに過ぎんのであります。
 前任の長谷川陸将閣下が落命なさるのとでは、意味が違う。
 中佐殿、考えてもみて下さい・・・・・歴代の朝鮮総督や統監で、爆弾を投げ付けられた陸将閣下が一人でも御出でになられましたか。
 そして斉藤閣下が着任して間もないあの当時は、総督警護の兵の殆どが憲兵だったのですから、手を緩めようと欲すれば彼等の匙加減で如何様にも出来た筈。
 また朝鮮総督に対して爆弾を投げ付けたことを理由に、誰憚ること無くその事件に加担した抗日運動家等を一斉に処断出来ます。
 現に事件に関与した姜宇奎を始めとする抗日運動家等は、皆断罪に処されているではありませんか。
 彼等に取ってこれ程都合の良いことは無い。
 そうして考えれば、抗日運動家等を焚き付けたのが、参謀本部の仕業だとする『仮設』は、そう言わざるを得ないのでは? 
 或いはシーメンス事件から斉藤閣下の暗殺未遂事件迄、総てが参謀本部に依る策謀であると言う『仮設』も、肯けるのでは?」

 本庄の言葉に苦々しく口元を歪めた奥平が、斉藤に視線を転じた。
「そうであるならば、参謀本部を糾弾せねばなりません! 」
 閉ざしていた瞼をゆっくりと開けた斉藤が、噛んで含める声音で奥平に応じる。
「それでは陸軍と海軍の戦になる。先程本庄少佐もそう言った筈」
「かと言って看過する訳にも参りません」
         ‐56‐

 押し被せるように返して来る奥平の二の句を、斉藤は視線に籠めた膂力だけで跳ね返した。

 一瞬の寂寞が書庫の薄暗い灯りの中に、疑惑の波紋を拡げる。
「奥平武官。貴官には伝えていなかったが、私は今し方本庄少佐が述べたようなことは、総て承知の上で朝鮮総督の任に就いた」
 言ったきり口を閉じた斉藤の瞳には、固い意志の色が見て取れた。
 そうして斉藤の言葉が頭蓋を突き通り、呆然として瞠目を禁じ得ない奥平に対し、本庄が最後通牒を突き付ける。
「閣下が総督の任に就かれた時と同様、自分も陸軍中央の思惑を甘んじて受け入れた上で今次作戦を立案しました。
 それは陸海軍の戦を避ける為、延いては無駄な血を流さぬ為、その為には何としても朴尚宮の協力が必要なのであります」 

 本庄の尤も過ぎる言い様に対し、反駁の言葉さえ思い浮かばない奥平は、無意味と知りながらも空疎な質問を返す外無かった。
「そこ迄分かっていて、軍令部は閣下の為に何もして差し上げず、尚も朴尚宮を危険に晒し、その人生迄奪おうと言うのか? 」
 本庄が鬼神の如き形相で、こちらを振り仰ぐ奥平を睨め付ける。
「それでは敢えて申し上げます。
 軍令部に何の権限が有ると仰るのです。
 元軍令部参謀の中佐殿なら、朝鮮の統治に対して軍令部が口を差し挟める立場で無いことは御承知の筈。
 また陸軍省は言うに及ばず、外務省、内務省を始めとする帝国政府総ての省庁に通じ、自らを大本営の意思そのものと公言して憚ら無い参謀本部に対し、軍令部に何が出来ると仰るのですか!」
 咄嗟に椅子を蹴った奥平であったが、彼の膝は崩れ落ちんばかりに嗤っていた。
 その慄然とする身体を辛うじて支えていたのは、朴尚宮への眞を
貫くと言う揺るぎ無い決意。

 それは奥平自身に果たせる、たった一つの眞であった。

「分かった本庄・・・・・貴様の立てた策に従う。しかし一箇所だけ今次救命作戦の内容に、変更を認めて貰いたい」
 抗っていた奥平が一転そう言い放つと、書庫の中には本庄の息を呑む音だけが響き、その場の凍て付くような空気を震わせる。
 顳顬から頬へと伝う一条の汗が、氷点下とも思える空気に冷やされ、氷の粒が頬を滑り落ちる感覚を覚える本庄。
         ‐57‐

 そうと思う間に、己が汗の床に滴り落ちるぼとりと言う音を聴いた本庄が、「何処でありましょうか?」と低く搾り出した。
「朴尚宮との婚姻偽装の部分だ」
 掠れた声音で答える奥平に反して、ほっと一つ安堵の溜息を吐いた本庄が、口元には笑みさえ浮かべながら婚姻偽装の詳細を述べる。
「そのことなら御心配には及びません。
 朴尚宮並びに彼女の実家にもそれ相応の手当が支給されます。
 御承知かとは存じますが、彼女の実家は厳妃殿下に連なる家柄にして、父は元李王職にあった両班(りょうはん)。
 故に晋王子の救命を第一義とする今次作戦に、家族の賛同を得るのは困難なことでは無いと思われます。
 また婚姻は飽く迄参謀本部を欺瞞する為の戸籍操作にしか過ぎず、晋王子を朴尚宮と中佐殿の子と為すと申しましても、御住まいになる仮御殿に朴尚宮が養育係として入るだけのことで、実際に夫婦になる訳ではありません。
 故に中佐殿も、決められた日に仮御殿へと御訪問戴くだけで結構。
 重ねて作戦完遂時には、戸籍も総て元通り戻して差し上げますので、中佐殿は唯慣れ親しんだ軍令部に戻るだけと、そう御考え戴いて結構です」
 一息に言い終えた本庄は、より一層明るく表情を綻ばせた。
 裏腹に暗い笑みを模った口元を蠢めかせる奥平。
「慣れ親しんだ軍令部に戻るか・・・・・皮肉なもんだ。
 しかし本庄、俺は貴様に婚姻偽装の内容をどうして欲しいと言いたかった訳では無い。
 俺は婚姻偽装自体を、為す必要が無いと言いたかったんだ」
 本庄は頭を振りつつ強い語気で反駁した。
「いやしかし、念には念をと申します。
 参謀本部だけでなく、李王職の人間さえもがこの策謀に加担しているのであります。
 彼等双方を欺く為には、どうしても晋王子を内地にて御養育申し上げる必要があるのです。
 ですから・・・・・」
 次の刹那本庄の二の句が、奥平の押し被せた言葉に霧散して逝く。
「そうでは無く、私と朴尚宮は真の婚姻を為すのだ」
             
 半ば口を開けて呆然と立ち尽くす本庄に、奥平は更に念を押した。
「それが私の朴尚宮に果たすことの出来る、唯一つの眞である」

 やがて斉藤が本庄の方を見るとも無く見遣り、ぼそりと呟く。
「軍人は信義を重んずべし。と、諭されたようだな本庄少佐」
         ‐58‐

 聴き慣れた言葉で我に返った本庄は、首を巡らせ斉藤を見据えた。
「軍人勅諭でありますか」
 苦笑混じりに応じる本庄に一つ肯き、斉藤が勢い良く椅子を蹴る。
「作戦に変更を認むる」
 揺るが無い声音で令する斉藤に、本庄は十度の敬礼を尽くしながら、「はっ」と返した。
 次に辛うじて不動の姿勢を取る奥平に、令する声音で問う本庄。
「奥平武官、宜しいか?」
 向けられた視線を正面で受け止めた奥平が、背筋をぴんと張った。
「自分は朴恵子と婚姻を為し妻とすること、並びに妻恵子をして今次救命作戦に協力させる旨の軍令を受領致しました」
 きっぱりと告げ十度の敬礼を尽くす奥平に一つ肯くと、本庄は令する声を書庫の中に響かせた。
「過日軍令部に於いて、『忠一号(ちゅういちごう)』と命名されし今次救命作戦は、斉藤朝鮮総督を司令官と定め、先刻認められた通りに作戦内容を変更し、本日只今附で発動する」
「はっ」
 令する本庄に再び十度の敬礼を返した奥平が、次いで斉藤に向き直ると、軍令部参謀時代に使い込んだ低い声音で具申する。
「閣下。今次救命作戦忠一号の符牒を賜りたくあります」
「符牒、で、あるか?」
「はっ。王宮殿には大勢の人間が出入りをしております。
 作戦遂行時、誰が味方で誰がそうでないかを判別する為にも、是非とも符牒を賜りたくあります」 
 奥平がそう告げるや、本庄が呼応するように押し被せた。
「自分も符牒は決めておいた方が宜しいかと」

 斉藤は奥平と本庄を一瞥しただけで、二人から逸らせた視線を何処に向ける訳でも無く、唯、彷徨わせる。
 その視線の先に、遠く海を越えて内地を、帝都を、そして宮城を、殺風景な書庫の中しか見えぬ両の眼で射抜こうとしていた。
 遥か遠くを見るその双眸からは、贖罪を請う聖者の如き輝きが解き放たれ、陽の光に代わって薄暗い書庫の中を満たしてく。
「忠一号は摂政宮殿下の御意に異を唱える陸軍参謀本部、延いては帝国政府を戒んが為に発動されたものである。
 彼等は純白の李を桜色に染め替えんとするだけでは飽き足らず、染められぬとあらば根元からその李の木を引き抜き、剰え命脈を絶ってでも桜にせんと策謀を巡らせる。
 我々は何としてもそれを阻止し、摂政宮殿下の御意に沿い奉らねばならん。
         ‐59‐

 断じて李の花を散らせてしまってはならんのだ。
 依って一方が『白くあれ』と問えばもう一方が『李(すもも)』、と、応える。
 以上符牒はそのように定むる」

 須臾の後奥平の口からも、「白くあれ、李」と言う復誦の声が上がった。
 本庄も斉藤に十度の敬礼を返し、「作戦参謀戴きました。復誦致
します。符牒は『白くあれ、李』」と奥平に続く。
 無言のまま肯く斉藤の、寄せていた眉根が徐々に開かれて行った。
 また奥平と本庄の二人も、各々の表情に安堵の笑みが兆すのを互いに見て取る。
 刹那閉じられた扉の向こうで、「入っても宜しいでしょうか」と聞き知った声がして、三人に兆した束の間の笑みを霧散させた。

 声に呼応するように扉の方を振り返った拍子に、奥平の視線の端に秘匿すべき黒板の文字が過ぎる。
 咄嗟に本庄を見遣り、黒板の方に向かい顎をしゃくった。
 見て取った本庄が無言のまま奥平に一つ肯き、次いで黒板に駆け寄ると、甲号第三について記した文字を黒板消しで素早く拭い取る。
「晩餐の手筈が整いましたので、御報告に参りました」
 柴田のものであろう声が書庫の扉を通して響いた時には、靴音も立てずに忍び寄った本庄が、既にその扉の前に立っていた。
 奥平に目配せをした本庄が、肯き合った後素早く扉に手を掛ける。

 開かれた扉の向こうには、柴田の眼前に立つ本庄と読書机の前に立つ奥平、そして着座する斉藤の姿が在り、皆あらぬ方を見ていた。
 やがてその場に流れる不穏な空気を嗅ぎ取った柴田が、異物に他ならぬ自身の存在に気付き、開口一番切り出すつもりであった筈の、
「自分にも英国への留学経験がありました」と言う言葉を呑み下す。
 そのことを隠すつもりも無かったが、自身のことを英語が話せないと断じる斉藤の言葉を聴き、柴田は敢えて総督室の中での会話に入らなかったのだ。
 その際の謝罪をするつもりが、此処で再び口を閉ざす不実を繰り返し、慄然とする唇を噛み締めつつ書庫の中への一歩を踏み出した。
 そうしてたった今唇が震えているのも、書庫に温突(オンドル)が無いせいなのだと楽観出来ぬ自身に嘆息を吐き出す。
同時に柴田の胸中には、文官の身でありながら何か途轍もない変事に巻き込まれるのではないかと、或る種確信めいた予感が芽吹く。
 とは言え突然垂れてきた前髪を掻き分けてはみたものの、変事の正体が一体何なのか、その隙間から垣間見えるものは何も無かった。
         ‐60‐
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