第2話 東京・赤坂

文字数 14,536文字

 霧雨に霞む西の空が群青に染まり始める頃、東京赤坂の内閣府迎賓館では、日韓両政府による非公式の会合の幕が切って落とされた。
 目的は間直に迫った「米朝核合意調印」に伴う、「北朝鮮の核完全廃棄の確認作業」に於ける日韓両政府の役割分担について話し合うことにある。
 単なる非公式の会合の会場として迎賓館を使用するのは、至極異例なことと言えよう。
 それだけ日本政府が韓国政府に対し、格別な待遇を以て招致しているという意思を示す為に他ならない。
 これは既に日米韓三ヶ国で取り纏められた内容を事前に確認する為の、言うならば食事会のようなもので、本来なら日本政府に取って今日2020年6月11日の「日韓親睦の夕べ」と名付けられた本会合は、その名の通り親睦を図るべく穏やかに議事が進行され、予定調和の結末を迎える会合になる筈だったのである。
 ところが議事が進行して間も無く、韓国側が「GSOMIAの再度の破棄」の提起、続いて「竹島領有権問題」について言及、その上「輸出規制の完全撤廃」と「従軍慰安婦問題・徴用工問題」の金銭的補償を含めた国家間に依る遡及的且つ迅速な解決無くして、この先の議事進行は不可能と息巻く予想外の攻勢に日本側も応戦せざるを得なくなり、話が有らぬ方向へと歪曲して行こうとしていた。
 到底今日一日では解決出来るとは思えない問題を提起し、議事の進行を阻もうとする韓国政府の意図は一体何なのか・・・・・。
 
 保護主義の台頭で全世界がバラバラになり、米国が世界警察の看板を下ろして以降、西側諸国の足並みは乱れる一方となった。
 英国の離脱したEUも米国同様自らのことで一杯であり、極東アジア情勢に資金を投入する余裕など何処にもない。
 それに反するように益々強権支配を強める中国共産党政府は一帯一路のスローガンの下、弱小国を借金漬けにするお決まりの手口で着々とアジア各地に地盤を築いていた。
 対北朝鮮・韓国についても同様、その影響力は計り知れない。
 これ程迄に共産主義国家の中国が発展を遂げると、西側のどの国の経済学者が想像し得たろう。
 覇権を得る為ならどんな手でも使う、それが中国共産党政府の遣り方であり、全世界共通の認識でもある。
 今年に入ってからと言うもの、国連安保理の手前表立っての制裁解除こそしていないが、石炭の輸入や海産物の洋上での背取りを始め、目立たない工事現場などでの就学ビザを使っての出稼ぎ労働者の受け入れなど、ありとあらゆる方面で北朝鮮への支援を加速させている。
         ‐5‐ 

 追加関税の掛け合いや、互いの国の企業をエンティティリストに加える米中の争いとは違い、こと朝鮮半島情勢に米中双方の思惑が絡めば物騒なことになり兼ねない。
 しかし今般の韓国政府の態度には明らかにその兆候が窺える。
 
 まさかこんなことになろうとは全くの想定外だった日本政府からは、財務大臣、外務大臣、防衛大臣、拉致問題担当大臣等政府の閣僚と、財務省、外務省、拉致問題担当省のそれぞれの政務次官、並びに自衛隊からは、統合幕僚長、加えて陸・海・空の三自衛隊の幕僚長とその副官等が列席し、その雁首を揃えていた。
 韓国側からも、企画財政部長官、統一部長官、外交通商部長官、国防部長官等政府の高官と、それぞれの長官政策補佐官、並びに韓国軍からは、合同参謀本部議長、加えて、陸・海・空、三軍の最高司令官たる陸軍参謀総長、海軍提督、空軍参謀総長とその副官等が列席し、図らずも両国の首脳陣は会議場の長テーブルを挟んで対峙する形を取っていた。
 元々が単なる非公式の親睦会の為日本の内閣総理大臣や韓国大統領の姿こそ無いが、顔ぶれはほぼ首脳会談もしくはそれ以上であることに違いはない。
 ところが「日韓親睦の夕べ」と銘打たれたこの会合が、最早親睦とは懸け離れた「闘争の夕べ」になろうとしていた。

 やがて韓国の任周永(イム・ジュヨン)外交通商部長官のコツと言うペン先でテーブルを叩く音が、日韓両国に依る舌戦の開始を告げるゴングとなる。

(我が国としては昨日国を発つ前に臨時の閣僚会議が開かれ、北の核廃棄での協力の前に貴国には我が国との外交関係の修復を先決事項として取り組んで戴きたい、と、そう決定したのです。 と、任長官は仰っています)

 木崎彰典(きざき・あきのり)外務大臣はイヤホンの声に耳を傾けながら、苦渋を浮かべた表情て一頻り肯くと、次の話を促すようにして任長官に片手を伸べた。

(何かご意見があれば率直に仰って頂きたい。
と、任長官は仰っています)

 木崎はイヤホンを外すと、諦念を含んだ笑みの零れる顔で、首を巡らせて韓国側列席者の各々を一人ずつ見遣った。
         ‐6‐ 

「では率直に申し上げる。
 あなた方は一体何を望んでいるのですか? 
 事ここに至ってGSOMIAの再破棄だの竹島の領有権問題だの、あなた方の仰っていることがこの場で結論が出せるような問題じゃないと言う事は、あなた方が一番良くご存知の筈だ。
 確認致しますがこれは飽く迄も親睦の夕べであって、こんな風に我々が言い争う為の場ではありません。
 あなた方の話を聞いていると、この会合を潰して北朝鮮の核廃棄を出来ないようにしたいと思っているようにしか聞こえません。
 ひょっとして貴国が我が国と協力して北が核廃棄すると都合の悪い国が、そう言わせているのでしょうか?」

 木崎とは対照的に、真剣な表情でイヤホンに耳を傾けていた任長官が眉根を寄せて立ち上がろうとしたところに、隣席の高明善(コ・ミョンソン)統一部長官が、彼の耳元で何かを囁いた。
 耳打ちをした高は任長官の肩を軽く叩き、入れ替わるように立ち上がって日本側の列席者に一礼する。

(何かお互い誤解があるようですので、その辺りのお話は後程ゆっくりとさせていただけませんでしょうか。
 私共も現在国連総会に出席しております黄在石(ファン・ジェソク)大統領と連絡を取って、少々確認したいこともございます。
 少し時間を空けて新たに議事を進行すると言うことで、ご了承願えないでしょうか? 
と、高長官は仰っています)

 高が言い終えるや反駁の言葉をぶつけたいのか、激情を露にして立ち上がろうとする芹沢輝幸(せりざわ・てるゆき)防衛大臣。
 刹那彼の袖をグッと引いたのは、板倉茂樹(いたくら・しげき) 拉致問題担当大臣であった。
 こちらを振り返る芹沢と眼を合わせた板倉は、顎を振って抑制を促す。
 次いで入れ替わるようにして立ち上がった板倉は肥満気味の大臣達の中にあって、一人だけすらりとした体躯が厭味な程目立つ。
 笑みを湛えてすくと立ち上がる彼に、日・韓双方の列席者一同が皆一様に視線を向けた。

「高長官のお声掛りもあったことですし、そろそろ晩餐の時間とさせて下さい。
 本日はこの宴に、在日本韓国民団芸術院の皆様による韓国舞踊とパンソリ(太鼓奏者と歌手
         -7-

による物語性のある音楽)で、花を添えて戴くことになっています。
 お話し合いの続きはその後と言うことにして、どうぞ皆様大宴場のほうに。さあ、どうぞ」

 言い終えた板倉に目配せを送られた秘書は、機敏な動作で会議場の大扉を開いて韓国側の列席者に一礼する。
 ほっとした表情の高が片手を上げて板倉の秘書に応じると、向き直って当の板倉にも深く腰を折った。
 救われたと言う安堵感と、自身の胸中を見透かされてはいまいかと言う焦燥が綯い交ぜになり、高の口元が引き攣りながらも緩む。
 直後只一言、「感謝します」とだけ日本語で言葉を残すと、散会し三々五々大宴会場に向かう韓国側の列席者に紛れた。 
 木崎が梶本財務相を連れ立って早々とその後に続いたが、会議場の大扉の前で立ち止まると、二人は思い出したように芹沢・板倉の両人に振り向いた。
「私と梶本大臣は官房長官とジュネーブの総理への連絡がありますので、先に参ります。何かあるようでしたら、後程大宴会場でご報告致しますので、宜しく。では」
 木崎はそうとだけ言い残すと、芹沢と板倉二人の返事を待たずに、
梶本財務相共々早や会議場を後にする。
 
 二人を見送った板倉は顎を伝う冷や汗を手の甲で拭い、大きく溜息を吐いた後で芹沢の顔を窺った。
「冷や汗を掻きましたよ芹沢さん。そんなに熱くならなくとも」
 芹沢も同様溜息を吐き、手の甲で顎を伝う汗を拭いながら返す。
「いや、助かりました。『この野郎すっ呆けるんじゃない』って、
吼える寸前でしたからね。余計に話を拗らせるところでした」
 板倉は席に着き直すと、苦笑混じりに肯いた。
「しかし芹沢さんの心中はお察ししますよ。
 今し方の韓国高官等のあの態度はない。
 始めからこの会合を潰そうとしているとしか思えません。
 北朝鮮の核廃棄のことなんてまるで眼中に無かった」
 立ち上がっていた芹沢にも、板倉が手を伸べて席に着くよう促す。
 芹沢が席に着くのを待って、板倉は自身の秘書に向かって顎をしゃくった。
 肯いた秘書が会議場の大扉を閉める。
 そうして中に残されたのは、板倉と芹沢それに二人の秘書官等。
 また防衛大臣が此処に留まっている以上、必ずその近辺に帯同していなければならない統合幕僚長並びに、陸・海・空三自衛隊の幕僚長と副官のみであった。
          ‐8‐ 

 今し方の緊張から解き放たれて漸く人心地ついた芹沢が、席に着くや武骨な臙脂色のタイを緩める。
 「今日の今日になって韓国側のあの態度は・
・・・・裏で中国と何らかの密約を交したとしか思えない。
 やはり中国は米朝合意をすんなり調印させたくないようだ」
 言い終え芹沢はペットボトルの水を一気に呷った。
 閣僚の中では若いと雖も五十代半ばの、年相応に突き出た腹にたっぷりと水を流し込む。
 同世代の板倉と対照的な外見は、何の手立ても講じなかったせいで肥るに任せてきた結果と言えば結果であったが、その太り肉で押し出しの効く体躯は、防衛大臣と言う役職には逆に好ましいものであるとも言えた。
「ええ、恐らくは・・・・・しかしこうは考えられませんか。
 北朝鮮内部で何かが起こった、と」
 言い終えた板倉もペットボトルの水を口に含む。
 そうして芹沢の顔を正面に見据えながら続けた。
「これは公安の外事二課長から伝えて貰った情報なんですが、最近確保した北の工作員の話しによれば、総ての工作活動に対して人民軍司令部から中止命令が下ったそうです。
 何でもその工作員は韓国に亡命した元人民軍幹部に会いたかったらしく、ソウル行きの便に搭乗する寸前で確保されたんだとか。
 活動資金も底を衝いていたんでしょうね・・
・・・その際使用したパスポートが余りにも雑で成田の通関で確保したんだそうです。
 呆気無く確保されたその工作員は縛に就く際も大した抵抗をしなかったらしく、あっさりと吐露したらしいんです。
『最早秘匿すべき任務も、忠誠を誓うべき国も無くなった』、と。
 この話から想像するに北朝鮮が核合意に賛同したのも、内部崩壊が始まっているせいなのかもしれません」
 言い終えた板倉が芹沢のそれとは対照的に、赤・青・緑と配色も鮮やかなレジメンタルのタイを緩める。
 板倉から一旦視線を逸らせた芹沢は、空になったペットボトルを秘書に向かって振って見せた。
「私もその説が最も有力だと思っています。
 一つの可能性としては米国の研究機関が提唱する、北の不平分子に依る金一族の体制転覆も考えられますがその可能性はどうかと。
 仮に金代表書記が暗殺されることになれば、北朝鮮国内は内戦状態に陥ります。
 そうなれば中国人民開放軍は北に軍事介入をする大義名分を得、彼等が北朝鮮全域を制圧してしまうかも知れない。
 それなのに先程の韓国高官等は、そんな不安をおくびにも見せなかた。
          ‐9‐ 

 やはり韓国は中国と何らかの密約を交し、米朝核合意の調印を繰り延べさせようとしていると見るのが妥当なところでしょう。
 それからこれは防衛省の情報本部から入った情報で、未だ未確認なのですが・・・・・統幕長例の北京からの情報を、板倉さんにもお伝えしておきたいんだが?」

 新しいペットボトルを秘書から受け取り、芹沢が一気に飲み干す。
 先程の激情に走らんとする自身を押し止めてくれた返礼と、公安外事二課からの情報を開示してくれた板倉への返礼も兼ねて、芹沢は自衛隊制服組の長(おさ)、海野正臣(うんのまさおみ)統合幕僚長に白羽の矢を立てた。
 水を向けられた海野が、芹沢の一つ向こうに座る板倉の方にゆっくりと視線を移した。
「今確認を取っておりますので、未確認情報の域は出ておりませんが、先日北京の駐在防衛官から受け取ったものでありまして、中国共産党本部の党員である現地の協力者から得た情報ですので、まず間違いは無いものと思って戴いて結構です。
 内容は中国東北部の吉林・遼寧の両省に於いて北朝鮮人民の就労先と居住先を提供すべく、大規模な工業団地を建てると言う計画を韓国政府に仄めかしているようです。
 無論其処には韓国財閥企業を最優先で誘致するらしく、この所冷え込んでいる中韓関係を一気に払拭して余りある事案です。
 但し米朝核合意の調印が為され、米国を始めとする西側諸国が金一族に依る支配体制を認めればその計画は白紙になるらしく、米朝核合意を退け新たなる中韓関係を築こうと、頻りに韓国政府に言い寄っているらしいのです。
 規模も実に高城(ケソン)工業団地の数百倍と言うとてつもなく大規模なものらしく、その事から察するに米朝核合意を為そうとする金一族が求心力を失ったと判断したのか、兎に角中国に取って今迄とは逆に金一族が邪魔な存在になったのではないかと思われます。
 つまり金一族を見限った中国は韓国を抱き込んで、朝鮮半島への支配力を強める方向に舵を切った、と」
                 
 眉根ひとつ動かさずに告げる海野。
 彼から芹沢に向き直った板倉が口元を歪め、自嘲とも諦念とも取れる笑みを浮かべた。
「中国は韓国を抱き込んで朝鮮半島を属国化する気なのでしょう。
 しかしたとえ金一族の求心力が低下したとしても、北を見限ってて韓国に乗り換えるとは、とても・・・・・」
 芹沢も板倉に呼応するように否定的な笑みを浮かべる。
         ‐10‐ 

「その逆もまた然りですよ。
 まさか米国と中国を天秤に掛けて韓国が中国を取るとは思えないのですが、しかし現況から察するに韓国は中国を取ったとしか思えない。
 何故そんなことになったのか、その真相が読めません」
 板倉が言い終えると、潮が引けるように誰もが口を閉ざし、暫時沈黙だけが会議場を覆うこととなった。

 コツ、コツ、コツ、コツと外廊下の床を叩く靴音だけが響く静寂。

 そこに居る者達は皆その靴音に耳を傾けていたが、それが今自分の居るこの会議場に入ってくる者の靴音であると、確信を持っているのは僅かに海野ただ一人であった。

 靴音が一瞬止まり会議場の大扉が開くと、皆の視線がそちらに集中する。
 ダークグレイのスーツに身を包んだ男が、大扉を開けて中へと入って来た。
 男は後ろ手で大扉を閉めるや不動の姿勢を取り、皆の射るような視線に対して十度の敬礼で応じた。
 敬礼を解き海野統幕長の元へと足早に歩み寄ると、男は再び十度の敬礼を為し暫時その場に控えた。 
 男がその場に控えた理由は、(隣りに座って居らっしゃる大臣方にもお伝えしますか)、などと軽々しく訊けないこの場の状況を察しているのだと言うこと、また自身の携えて来た情報が緊急で重要な機密事項であると言うことを、無言で海野に伝えんが為である。
 見て取った海野は男に一つ肯いてから、芹沢と板倉の二人を交互に見遣った。
 そうしてそこに控える男が、防衛省情報本部・本部長の藤堂昌親(とうどうまさちか)であることを告げる。
 次いで座ったなり藤堂を見上げた海野は、噛んで含める声音で令した。
「宜しい。芹沢大臣と板倉大臣のお二方にも状況をご報告申し上げるように」
                      続けざま苦笑交じりに吐き出す海野。
「それにしても、本部長の君が直に此処まで来るとはね」

 そもそも情報本部の本部長自身が直に伝令に立つことなど、異例中の異例であった。
 十度の敬礼を添えて、「はっ」と応じた藤堂が直ぐさま告げる。
         ‐11‐ 

「此処もワイファイ環境は整っているらしいのですが、内容が内容でありますので、傍受防止の為メールでの伝達を避け、自分が直接お届けに上がりました」
 小脇に挟んだタブレット端末を胸前に持ち直した藤堂は、汗ばんだ手で操作した。
 首筋にも玉のような汗を光らせ、機密事項を露にさせたタブレット端末を差し出しながら、低く押し殺した声音で搾り出す。
「ソウルからの至急電であります。機密事項になりますので、御確認の後本至急電をこの場で消去致します」
 一つ肯いた海野は、「宜しい。了解した」ときっぱりと応じながらタブレット端末を受け取った。
 海野に十度の敬礼を返し、「現在時刻は一八時五五分です」と時間の単位を省略せずに、自衛官らしからぬ如何にも警察からの出向組を思わす口調で返す藤堂。
 その刹那芹沢は海野に目配せを送った。

 応じた海野が手にしたタブレット端末の画面を、二つ隣に座る板倉にも見えるよう隣席の芹沢の前に置く。
 その動きに呼応するように、板倉が座ったまま椅子のローラーを滑らせ少しだけ身体を芹沢の方に寄せた。
 その後三人は無言のまま、卓上に置かれたタブレット端末の画面を覗き込む。


       至  急  電   
              
 令和二年六月十一日・現在時刻、一七五五。
 同、一六三○、協力者より電有り。

 韓国統一部並びに国家情報局による金代表書記に対する交信が突然不能となったが、原因は不明。引き続き協力者に調査を依頼す。
 
 
 同、一六五○、協力者より電有り。

 韓国国立中央博物館に所蔵されていた一通の書簡と一冊の冊子が何者かの手に依って盗難された事件を隠蔽すべく、韓国国家情報院に拠って韓国内外の新聞・雑誌・テレビなど、総てのマスコミに対し報道規制が掛けられたとの情報を受ける。
         ‐12‐ 

 窃取されたその二点の史料は、日本統治時代の史料を保管していた史料室内の金庫から盗み出されたものであること、重ねてそれ等の史料は一般公開されていない所蔵品であり、犯人が計画的にその二点の史料のみを窃取したものであることが判明している。
 それ等は常時同博物館・史料室の金庫内に保管されているもので、本日同館学芸員に依る一六○○の閉館前点検時、その消失が判明。
 尚、史料室の金庫内に保管されている所蔵品は、職員に依って日毎点検される為、昨日の一六○○の閉館前点検時にはそれ等が金庫内に存在した旨確認されており、本盗難事件の犯行時刻は昨日の一六○○より、本日一六○○の二十四時間内であることが特定される。
 その際本事件と金代表書記に対する交信が突然遮断された件との関連性の有無について、引き続き協力者に調査を依頼す。
  

同、一七一○
 協力者より電有り。
 韓国国立中央博物館から窃取された史料の所蔵目録には、書簡の
方が、「摂政宮裕仁殿下の密勅」、また冊子には「大日本帝國海軍
・軍極秘戦闘詳報」と、漢字表記で記載されていた旨情報を受ける。
 また目録には両史料とも二○十一年十月末日入手と記載が有るの
みで、本来なら記載される筈の入手先の記載が一切無く、その他の
詳細についても一切不明であるとの情報も重ねて受ける。
 
 
 同、一七三○。

 同博物館の館内監視カメラに映った犯人を確認したいと、警察の頭越しに国家情報院の職員と名乗る男等数名が来館。
 本盗難事件の犯人は北の工作員である可能性が高く、これは国家機密に相当する事件であるから、犯人が特定出来る迄この事件についてくれぐれも口外せぬよう、その場でこれは「大統領命令」であるとして、博物館館長並びに居合わせた博物館職員等は通達を受けたとの情報を受ける。
 また史料盗難程度の事件で国家情報院が動くものでは無く、その後報道が韓国内外を問わず一切為されていないことからも、この盗難事件と前述の金代表書記との交信遮断が関係していることは、最早疑うべくも無いとの情報分析が成り立つ。
 統一部や国家情報院の動きから考えて、北朝鮮政府或いは軍の内部で何らかの異変が起こった可能性が大である。
 尚、本件について引き続き協力者に調査を依頼す。 以降新情報を入手次第電送る。
                                     以上
         ‐13‐ 

    大韓民国日本大使館附駐在防衛官
          小笠原裕行一陸佐
             
 情報本部 藤堂本部長殿 


 緊急電を読み終え画面をスクロールさせていた芹沢の手が止まるのと、板倉のタブレット端末に向いていた視線が上げられ、芹沢の視線と交錯したのはほぼ同時であった。
 刹那二人が絞り出すような唸り声を上げたのも、ほぼ同時である。
「どう言うことだ! 」
「なにが起こったんだ! 」

 芹沢と板倉の尋常ならざる声。
 そして射るような視線。
 同時に海野は、陸上・海上・航空の三自衛隊幕僚長とその副官等の視線をも一斉に浴びた。
 それ等から逃れるように眼を背ける海野。
 その頬には一条の汗が伝っていた。

 やがて背後から藤堂の手がすっと伸びて来て、芹沢の手にするタブレット端末を掴んだ。
「宜しいでしょうか」
 藤堂の冷静な声音に芹沢と板倉が無言のまま肯き、海野も片手を上げて応じる。
 ひとつ肯いた藤堂は、タブレット端末の画面上に在る至急電を即座に消去し、十度の敬礼を添えると、「では後ほど」とだけ残して
何食わぬ顔でその場を後にした。

 藤堂の背中を遠い眼で見送った海野が、芹沢の方を見遣る。
「二○十一年十月に執り行われた、『朝鮮王室儀軌(ちょうせんおうしつぎき)』引渡しのことを覚えておいでですか」
 言い終えた海野は焦点の定まらないまま、板倉に視線を転じた。
 茫然とした様子の海野を、芹沢の肩越しに見るとも無く見遣りながら板倉が応じる。
                 
「友愛党政権の時代に韓国に引渡した書簡のことですか? 
あの頃野党だった我党は引渡しに反対したんですが、友愛党がそれを押し切ってそそくさと引き渡してしまった。」
 苦笑を禁じ得ない芹沢は少し口元を歪めた。
「そう言えば・・・・・そんなこともありましたね。
 仰るようにあの当時の友愛党は、我党の逆手を取っては喜んでい
         ‐14‐ 

ましたから」
 独りごちるように告げるや、芹沢は鈍い光を帯びた視線を海野に向けた。
「しかし我国の引き渡した朝鮮王室儀軌は、元々朝鮮総督府から宮内省に移管されたものであって、軍が略奪した都監儀軌(とかんぎき)をフランス政府が一部返還したのとは意味が違う。
 その際我党がそのことを指摘すると、『返還』するのではなく飽く迄、『引き渡す』のだとして友愛党は韓国の要求に応じたんです。
 そうして友愛党は韓国政府が望む文化財の引き渡しを通じて、彼等に擦り寄ろうとした・・
・・・。
 しかしそれが今し方の至急電の報に、何か関係があるのですか?
 盗まれたのは摂政宮裕仁殿下の密勅と、軍極秘戦闘詳報とありましたが、それ等の書簡と朝鮮王室儀軌の引渡しとに、何か因果関係があるとでも?」
 海野は芹沢の問い掛けに「はい」とだけ応じ、陸幕長を隔てた一つ隣の席の、今泉希美(いまいずみのぞみ)海上幕僚長を見遣った。

 今泉希美、彼女こそ自衛隊史上初の女性幕僚長である。
 正に女性の社会進出を促す民自党の政策に沿って、今の時代に生み出された特殊な幕僚長であった。
 その存在は有事法制を睨み、或る種広告塔としての役割も果たしている。
 しかし彼女が幕僚長になったもう一つの理由は、全く別のところにあった。
 そのことには往時の自衛隊全体の装備再編が絡んでいる。
 政権が友愛党に移行し、陸上自衛隊にのみ員数を集中させることを容認していた民事党の票田確保の為の所謂陸自贔屓の慣習を一掃すべく行われた装備再編。
 陸上から削減した予算を、海上と航空の装備拡充に充てる。 
 当然海上も友愛党政府に歩調を合わせるべく、民自党寄りの幕僚から友愛党寄りの幕僚へと、幕僚長を始めとした主要ポストを一新した。
 海上としては予算拡大の絶好の機会となるのであるから当然のこととも言えるが、その際前任の海上幕僚長が往時の航空統合幕僚長をも巻き込み、簿外予算を含む莫大な特別予算の獲得と引き換えに
支払った「或る対価」が、今泉希美海上幕僚長誕生の端緒となったのである。

 そしてそれと引き換えに彼等が獲得した特別予算が、友愛党の凋落に因って当初の思惑通りの期間に消化出来なくなると、獲得した予算を
         ‐15‐ 

緊急に消化しなければならないと言う、「誤算」が生じた。
 無論獲得した予算を返上すると言う策も有るには有るが、そのような策は既に生まれて来た子の堕胎手術を医師に請うようなもので、東日本大震災を経た政権末期の友愛党閣僚にしても、海上・航空・統合の幕僚長等にしても、皆が皆その選択肢は無い。

 やがて民事党が再び政権与党に返り咲くときがやって来た。

 果たせるかな民自党の政権復帰は、往時の陸上を除いた自衛隊がそうした誤算を抱えたまま為されることになったのである。
 その際誤算を招いた引責と、またそのこと自身の隠蔽を目的として、前任の海上・航空・統合の陸上を除いた自衛隊の幕僚長、或いは幕僚監部の幕僚等が多数退官し、再び新しい顔ぶれに入れ替わることとなった。
 幸いその際自衛隊を去った彼等は皆、川菱重工や三崎重工と言った防衛産業の中核を荷う企業へと天下る。
 しかしそれもやはり、誤算に因って齎された福音のお陰だった。
 当然の帰結としてそれ等の事案に直接関与しなかった者の中から、次期海上・航空、或いは統合幕僚長が選出されることとなる。
 加えて事が露見せぬように、その事案に蓋をする役目も附されて。

 未婚のまま年を重ねて海自に居残ったが為、内部の重要な事案に携わることがなかった往時の海上幕僚監部唯一の女性海将。
 そして彼女はその事案の発端となる、或る対価を携えていた三代前の海上幕僚長の実の娘でもあった。

 その人こそが、現今泉希美海上幕僚長である。

 往時就任したばかりの海野陸幕長が、新たに統幕長に任官されたことも、今泉海幕長誕生の真相に遠からずと言ったところである。 
 それ等の偽らざる真相を、また或る対価とは何で、その後に生じた誤算が齎した福音とは何なのかを、今自らの口を以て語るべきかどうか逡巡した海野は、我知らず希美を見据えていた。

 海野の視線を視界の端に捉えながら、会議場の窓外に拡がる庭園を見るともなく見ていた希美。
 やがて一滴の汗が頬を伝い、握り締めた拳の上に滴り落ちた。

 海上幕僚長として、今この場に居る自身の運命を呪う・・・・・。
          ‐16‐
 
 そう胸中に呟く希美を嘲るが如く、窓外の紫陽花は微笑んでいた。
 雨に濡れそぼちながら、尚もガーデンライトのスポットを浴びて群青の闇の中に漂い、そして耀う。
 まるで自身の誕生石であるサファイアのように、蒼く、瑕瑾無く。

 今思えば休暇の度にソウルまで訪ねて行った、あの飾り気の無い簡素な彼の部屋が、女としての終の棲家であった。
 漢江(ハンガン)の緩やかな流れを、何度も、何度も、そして何度も飽きるまで二人で眺めていたあの頃。
 少し遅咲きではあったが、人並みに女としての幸せを掴むことが出来た、あれが最後の時間。

 日韓海上合同演習で安弘稙(アン・ホンシク)と知り合って三年。
 退官して韓国人になることを決意した、二十代最後の年であった。

 二十数年前のあの事故さえなけば、・・・・
・。

 彼が生きていてくれれば、今頃ソウルの何処かで韓国軍族の妻として、一韓国人の妻として暮らしていたのであろうか。
 韓国海軍将校であった弘稙が航海長として、あの哨戒艇にさえ乗っていなければ・・・・
・。
 希美はそうして胸中に燻り続ける思いを噛み締めながら、窓外の紫陽花に向けていた視線を、握られた左の薬指へと落としていった。
 未だに外すことが出来ずにいる婚約指輪の、サファイアの蒼へと。 
             
 次いでポケットから取り出した白いハンカチで、手の甲に滴り落ちた汗を拭い、そして頬から項(うなじ)にかけてべっとりと纏り付いている汗を拭き取った。  
 汗を拭い去った直後、胸中に描かれていた弘稙の笑顔が色を失くし始め、替って或る情景がうっすらと像を結び始める。

 一刹那の後脳髄に突き刺さるような衝撃を覚えた希美の身体は、身じろぎ一つ出来ないほど凍り付いていた。
 芹沢防衛相の口から、摂政宮殿下の密勅、軍極秘戦闘詳報、と言う言葉が飛び出したこと、また北の工作員によるそれ等史料の窃取と言う言葉が飛び出したことを重ね合わせると、彼の地で何が起こったのか、見えてくる情景か・・
・・・一つだけある。
 希美の胸中でうっすらと結んでいた像は、最早鮮明な映像となって網膜の裏側に映し出されていた。
 それ等史料を利用して、北の内部に金一族を退けようとする者が現れたのだ。
         ‐17‐

 もし自分の推測に間違いが無ければ、それはクーデターの前兆。

 仮にそうとなればそのような事態は、何としてでも回避するよう力を尽くさなければならない。
 しかし日本人なら小学生だって知っている、自衛隊には先制攻撃が出来ないことを始め、その軍事行動に於いて制約があることを。
 そしてそのことが、自衛官としての譲れない一義に繋がっていく。
 自分達がどんな時にも、どんなことがあっても犯したことのない、「一人も殺さない、殺させない」と、言う一儀に。
 その一義こそが何としても死守せねばならない自衛官の本分であり、また希美自身にもそのことを全うして来たと言う矜持があった。

 ところが中国や韓国はどうか? と、言うと、そうは行かない。
 彼の地で起こったクーデターを支援するつもりかも知れない。
 血の雨が降ろうと自国の利に叶うのなら、どんな手でも使うのであろう。
 彼等に言わせれば、「一人も殺さない、殺させない」と言う自衛官の矜持も、平和呆けした日本人の戯言にしか過ぎない。
 しかし希美としては、戦死者が出ることだけは避けねばならない。
 たとえそれが中韓の、譲れない意思であったとしてもである。
 将来有事法制が施行されるのだとしてもその意志だけは貫かねば。
 と、そう胸中に誓った希美は、海野が向けて来る射るような視線をしっかりと受け止めた。

 静寂がその場を包み込む中、希美は深く息を吸い込む。
 
 こと此処に至っては、互いに反日嫌韓を孕む国民感情に一喜一憂するそれぞれの国の政治屋達が、何を考えてどう動こうがそんなことは希美の知ったことでは無かった。
 北で出来してしまったのであろうクーデターと言う凶事から、何を措いても先ず守らなければならないものは、邦人の拉致被害者と南北何処を問わず朝鮮半島に住まう無辜の民の生命である。
 そうして希美は、「一人も殺さない、殺させない」と言う一儀を、今一度深く胸に刻み込んだ。

 彼等がクーデターを起こす為の大義名分、或いは担ぐべき神輿。

 それを裏付ける為の証拠にもなる、前任の海上幕僚長の支払った或る対価とは何なのか、そ
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してそのことに因って生じた誤算が何なのか、またその誤算が齎した福音とは何なのかを、今正に語らんとする海野の口を閉ざさんが為、希美は伏目がちだった顔を上げ勢い良く椅子を蹴って立ち上がった。
 次の動作で海野に対し十度の敬礼を為した後、黒目の勝った瞳を海野から順に芹沢そして板倉へと向けていく。
 希美は震える指先を両の拳の中に封じ込め、背筋をピンと伸ばしながら眦を決して決意の程を示して見せた。

「今し方より芹沢大臣と板倉大臣のお二方、また統合幕僚長との間でお話されている案件は、NSC(国家安全保障会議)の保護する特定秘密に指定されております。法規上国家安全保障局の許可無く、今この場でその案件を議論することは如何なものかと。
尤も幕僚長と大臣のお二方は、その限りではありませんが」

 希美のNSC或いは特定秘密と言う言葉に、その場に居る皆の息を呑む音が響く。

 芹沢の秘書が徐に立ち上がると、まるで予め与えられた台本を諳(そらん)じる役者宛ら、小気味良い声で精妙な台詞を読んだ。
「では我々は大臣方より先に晩餐会のほうに」
 そう言うや彼は、直ぐさま視線を自衛隊の各副官等に移す。
「もし宜しければ皆さん方もご一緒にどうぞ。私がご案内します」
 彼の言葉を潮に、それぞれの幕僚長の後方に着座していた副官等も皆一斉に立ち上がり、膝の上に置かれていた制帽を小脇に挟んだ。
 統幕長附副官を始めとして他三自衛隊の幕僚長附副官の総勢四名は、各々の上司を窺うように、各幕僚長に対し十度の敬礼を為した。
 自身に対して肯く四人の幕僚長を確認したそれぞれの副官等は、その場を後にする芹沢と板倉両大臣の秘書の後に続く。
 唯一人希美附の女性副官である金城遥(きんじょうはるか)二等海佐だけが、何か言いたげに暫くその場に控えていたが、顎をしゃくる希美に促された後再び十度の敬礼を為すと、諦念の色を宿した瞳を向けながら他の副官等の後を追った。

 二人の大臣と四人の幕僚長だけになってしまった会議場内の空気は、より静謐さを増して閉塞感を募らせる。
 そんな中その場に居る者総ての視線が自身に集中していることを受け止め切れず、希美はその覆いかぶさって来る息苦しさから逃れるようにして、窓外の庭園へと視線を移した。
 こちらを向いて微笑む紫陽花の中に、ふと弘稙の笑顔を垣間見る。
         ‐19‐

 ハミョンドェンダ(為せば成る)

 苦しい時、悲しい時、或いはまた挫けそうになった時、彼から何度も掛けられた励ましの言葉が、ぐいと背中を押すのを感じた。

 眼を瞑ってから、静かに息を吐き出す。

 呼応するように、真っ白な第一種夏用制服の左胸に附した夥しい数の防衛記念章と、右胸に吊るした儀礼用の金の飾緒が共にゆっくりと上下した。
 口元を結んだ希美は再び海野の方に向けてかっと眼を見開く。
 決然とした声音であった。

「では統幕長。自分から大臣お二方に、I‐418(アイ‐よんひとはち)の詳細をご説明申し上げますが、宜しいでしょうか?」

 そうしてI‐418と言うコードネームを聞いた海野は、ドクンと一つ脈を打った心臓の音を聞きながら、希美に対してゆっくりと肯いた。

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