第10話 広島市中央部・福屋百貨店付近

文字数 6,342文字

 今朝も騎馬である。

 郊外の仮住まいを出る際、吉成(よしなり)が車を使うよう勧めて来たが、何時もの朝もそうするように、軍司令部との往還の車を吉成に譲ってやった。
 吉成は長靴(ちょうか)も履けぬない程、酷い水虫に苦しめられているのだ、車くらい譲ってやって然るべきである。
 仮令御附武官と言えど、仮初にも吉成は仕官学校の先輩なのだ。
 後輩に仕える先輩に対し、その程度の礼は尽くさねば罰が当たる。
 それに吉成は斜陽王族にしか過ぎぬこの私にも、まるで日本皇族に対するが如く忠心から尽くしてくれるのだ。
 感謝をせねば、罰が当たると言うもの。

 殿下と言う敬称で呼ばれる王公族とは言え、所詮私は日本に併合された朝鮮の公族なのだ。
 軽んじられて然るべきところを、しかし吉成だけは違うのである。

 日本へと渡海し学習院初等科に入学、そして陸幼、士官学校と進み、陸大迄卒業を果たすも、終始廻りからの疎外感は否めなかった。
 それがどうしたことか、吉成にはそのような隔たりを感じない。

 此処広島に居を置く第二総軍で、最高指揮所の教育参謀として職を全う出来るのも、総ては吉成のお陰なのだ。
 思い致せば総ての朝鮮人と日本人が、私と吉成のように分かり合えれば良いのであるが・・
・・・。
 と、馬上の雲硯宮李公偶(うんけんきゅうりこうぐう)は胸中に独りごちた。
 刹那陸大出身者を示す胸の天保銭が放った射光が、偶の眼に強く差し込む。

 天が我が眼(まなこ)に矢を射っているのだ。
 そう思わずにはいられない、と、胸中に自嘲する偶。

 ふと、先日の奥平少将との会見での話が脳裏を過ぎった。

 これはきっと、あの話に確信を持てなかった自身への報い。
         ‐154‐

 真珠湾攻撃から数えて早や四年、今年は昭和も二十年になった。
 電撃の大勝利を経たと言うのに、戦局は猖獗を極めるばかり。
 それなのに今日この八月六日も、眩いばかりの夏の陽光だ。

 遅くに失した・・・・・拭い切れない後悔の念に苛まれる偶。
 
 この蒼穹を最早晋王子は見ることが出来ないのだ。

「ワンジャマーマー(王子媽媽=王子様)」
「セジャチョハ(世子邸下=世子殿下)」

 と、声には出さず、偶は故郷の言葉を胸中にだけ刻む。

 もっと早くに手を廻していれば、晋王子を死なせずに済んだ。
 何故奥平少将の話を信用しなかったのか?

 世界を相手に始めたこの戦争は日本が始めた戦争であり、朝鮮の始めた戦争では断じて無いのだ。
 その為に朝鮮王族が死ぬ言われなど、決して無いのである。

 思えば晋王子に科せられた宿命は、自分などと比べ物にならぬ程過酷なものであった。
 僅か二十四年の生涯・・・・・否、表向きは生後九ヶ月での御逝去であるから、そこからすれば軍令部は、二十三年も王子の天寿を引き伸ばすことに成功したのだ。
 喜ぶべきことなのかも知れない。

 しかしそれも・・・・・最後に海軍軍人として、回天で特攻すると言う悲劇さえ無ければの話であるが。

 もう少し早くに手を廻していれば、せめて御命だけは・・・・・。
 幾ら悔やんでも悔やみ切れない、自身の不手際を。
 そして幾ら恨んでも恨み切れない、日本の始めた戦争を。

 自身は公族となったお蔭で、朝鮮から妻を娶ることが出来た。
 私も今年で三十三になる。
 息子は二人居るが、何れも日本の血は受け継いでいない。
 しかし直系の王族である世子殿下に於かれては、日本でも王族とされたのが仇となり、そんなことも許されなかった。
 また晋王子に於かれては、遂にその過酷な宿命を具現するに至る。
         ‐155‐

 とは言え御成婚の際は物議を醸したが、世子殿下と梨本宮方子女王との御婚儀は、日鮮融和を推し進める上に於いては至極道理だ。
 だとすればその架け橋とでも言うべき晋王子を、毒殺迄する必要が何処にあると言うのか?

 それも日本人と、朝鮮人の、双方が寄って集(たか)って。

 ところが首謀者である参謀本部の策謀を、そうとは悟られぬように回避し、軍令部が王子を救い出したと言うのだ。
 今上陛下が摂政をなさっていた際に、発せられた密勅を受けて。
 そんな途方も無い話を、即座に信じろと言う方がおかしい。
 調査をするうちに、十日、二十日と日が経ち、遂に調査を終えたのがこの昭和二十年七月の末。

 奥平少将の言う通り、彼の妻である恵子は確かに李王殿下附の女官を勤めた、朴恵子(パク・ヘジャ)に違い無かった。
 それに太祖殿下(テジョチョナ)の短剣を授かったと言う話も、士官学校以来の知己である侍従武官に手を廻し、裏を取ることが出来たのである。
 総てを知ったのはつい一週間前、それは何も知らぬ李晋(イ・ジン)王子が、海軍の軍人として特攻任務を完遂した後の話だ。

 沖縄に赴く直前であり、司令部では変に勘繰られる可能性もあるのでと、私邸を訪れて来た奥平少将。
 その奥平少将の開口一番言い放った言葉。

「ソングハムニダ ウニョングンママ(恐懼して御侘び申し上げます。雲硯宮殿下)」

 凍り付く全身。
 日本人が、しかも海軍の軍人が朝鮮語を、何故?
 訊けば妻に娶った朝鮮の女官、朴恵子に朝鮮語を教わったと言う。

 そして何故? 私に恐懼して謝罪するのか。

 元々は晋王子を救い出す為に仕組んだ欺瞞工作の為の婚姻を、真のものとして為した上、救出した晋王子をそのまま我が子として育てたのだそうだ。
 何とかして世子殿下に事態を御伝えするべく試みたが、他の誰にも知られずにそのことを御伝えする方途が何としても持てない。
         ‐156‐

 遂に今日迄真実を告げる機会を得ず、晋王子の海軍の軍人になりたいと言う希望も受け入れる外無かった。
 それに戦局がここ迄芳しく無くなると、表向きは奥平少将の息子である今の晋王子を、死なせぬようにと手を尽くすことも出来ない。
 故に世子殿下とは縁戚に当たる私を頼る外術が無く、知己を通じて吉成に連絡を取った奥平少将は沖縄に着任する直前、第二総軍参謀としての沖縄戦に対する御意見を拝聴したいと、尤もらしい理由を附けて私を訪ねられたのだ。

 そうして総てを吐露した後、瞳を滲ませる奥平少将。
 思えばあの時調査などせずに、奥平晋一と言う名の海軍士官を探し出し、何としても特攻を止めさせるべきであった。
 貴方は朝鮮王の血を受け継ぐ王子である。
 故に、その尊い命を虚しくしてはいけない、と。

 奥平少将もそのことを言えなかったのだそうだ。
 それもそうである・・・・・国の為に尽くしたいと言う息子に、
帝海の軍人を父と信じる息子に、どうしてそんなことが言えよう。
 そして自らも死を覚悟し、死地へと向かう奥平少将に言える筈も無い・・・・・死ぬな、などと言う言葉を。

 会見の後時を置かずして、奥平少将は沖縄の海に散った。
 不幸中の幸いと言うべきは奥平晋一たる晋王子が、戦死する前に晋次と言う忘れ形見を遺して逝ったことである。
 そのことだけは、何としても世子殿下に御伝えせねばならん。
 何としても・・・・・

 あれやこれやと胸中に思い描くうちに、早や福屋百貨店の前に差し掛かっていた。
 何処からか航空機のものと思しきエンジンの爆音が聴こえる。

 天を仰げば単機のB‐29の姿が在った。

 空襲警報は発令されておらず、また今日迄広島は殆ど空襲を受けていない・・・・・偵察飛行か?
 独りごちた刹那凄まじい閃光に辺りが覆れ、偶は跨っていた馬と従う二人の護衛憲兵諸共、車道の真ん中に弾き飛ばされる。

 黒煙の上がる只中何とか立ち上がろうとするも、背中に走る激痛がそれを許さない。
         ‐157‐

 軍帽は何処かへと吹き飛ばされており、胸に吊るした参謀懸章はこの一瞬で燃え尽きたのか最早燻っていた。

 背中を突き通るような激痛が走る。
 何とか軍刀を杖に立ち上がると、それは島病院の辺りであった。

 屹立する巨大で真っ黒なキノコ雲が見える。

 これが噂に聞く連合軍の新型爆弾か・・・・
・。
 そうと呟き第二総軍の司令部迄は何としても辿り付かねばと、偶は自身を叱咤した。
 いつもより、かなり遅れている筈である。
 今が一体何時頃なのか確認せねばと、懐中時計に手を伸ばした。
 然るに見れば、八時十六分きっかりで針が止まっている。

 使い物にならない懐中時計はその場に捨てて、軍刀を頼りに長靴を引き摺り引き摺り、どうにか本川橋の橋脚の下迄辿り着いた。

 見れば、煮え滾る川面に自身の姿が映っている。
 どうやら軍服は焼け爛れたのか消失しており、知らぬ間に何か全く異質な装束を身に纏っていた。
 何故だか炎には焼かれておらず、誰かが私の手を曳いている。
 誰だろう? この娘は・・・・・。

アリラン アリラン  アラリヨ)

この歌は、私の手を曳くこの娘が歌っているのだろうか。

 この娘は誰だ? 
 どうしたのか・・・・・私もかなり幼い。

 これは、夢か・・・・・。

 するとこの歌は日本に来て間も無く、学習院初等科で何度も歌わされた君が代か? 
 否、どうやら君が代では無いようだ。

 アリラン コゲロ ノモガン(=アリラン峠を越えて行く)

 ならばこれは、士官学校で歌った歩兵の本領であろうか?
         ‐158‐

 否、どうやら歩兵の本領でも無い。
 それはそうだ。そんな歌を、この娘が歌う筈は無いのである。
            
 ナルル ボリゴ ガシヌン ニムン(=私を捨てたあの方は)

 それに、この歌は日本語では無い。

 そうだ! この歌は、これは日本に来る前に聴いた朝鮮の歌だ。

 思い出した・・・・・この娘は雲硯宮(ウニョングン)の水刺間(スラッカン=厨房)で働いていた、常民(サンミン=李氏朝鮮時代の農民或いは平民)の娘ではないか。

 シプリド モッカソ パルビョンナンダ(=十里も進めずに足を痛める)

 歌の上手な娘であった。
 そうして娘が、姉のように手を曳いてくれた記憶が蘇る。
 自分よりも少し年上で、よくこの歌を聴かせてくれた。
 当初は身分が違うからと手を繋ぐことを辞去したが、私が手を出すと怖ず怖ず手を出して来たのである。
 それからは皆に内緒ですよと釘を刺しながら、何度か私の手を曳いて、この・・・・・アリランを歌ってくれた。

アリラン アリラン  アラリヨ  

 アリラン コゲロ ノモガンダ(=アリラン峠を越えて行く)

 チョンチョンハヌルエヌ ビョルド マンコ(=群青の空には数多の星)

 ウリネ ガスメン クムド マンタ(=私達の胸には数多の夢)

 歌が止んだと思うや、聞き慣れぬ男の声が耳朶を打つ。
「どうなさいましたか?」
見れば軍属と思しき男の姿が在った。
「君は軍の者か、町の者か?」
「町の者です。家が無事か見に帰るところでした」
 男との他愛のない会話の後ふと視線を川面に移せば、自身の煤だらけになった顔が映っている。
         ‐159‐
           
 これが実際の自身の姿か・・・・・。
 だとすれば、やはりあの歌も、あの娘も夢であったか。

 そう胸中に呟いた時、軍属の男が私の身体を抱き起こしてくれた。
 そしてそのまま、十六貫もあるこの身体を背負ってくれる。

 その刹那頭の中は真っ白になった。
 そのまま気を失う。

 次に気が付いた時、傍らに立つ者の長靴が見えた。
 どうやらうつ伏せに寝かされているようである。
 訊けば此処は、似島(にのしま)の海軍病院だと言う。
 やはりそれは吉成の声であった。
 どうせ吉成のことだ、言ってやらねばずっと立っている筈だ。

「私は大丈夫だ。それより、休め」
 令する声音で言ったつもりが、思いの外吉成は抗って来る。
「いえ、自分の傷は浅いのであります。此処に居させて下さい」
 吉成らしい返事だ。
「その足で立っているのは辛かろう」
 そう言って足下を指差してやれば、泣きじゃくる声を出す吉成。
「殿下、殿下、殿下・・・・・」
 と、叫ぶ吉成の声を聴いて私は悟った。
 自身の命の灯火の消え行くことを。
 そして奥平少将の頼みを、叶えてやれぬことを。
 どうにもこの身体では、あの途方も無い話を吉成に伝えることも出来まい。

 これで世子殿下にお伝えすることが出来なくなった。
「ソングハムニダ セジャチョハ(恐懼して御侘び申し上げます。
世子邸下=世子殿下)」
 と、こうなってしまえば、胸中に御詫びするしかないのである。

 しかしそう悲しむことばかりでは無い。
 やっとこれで朝鮮に帰ることが出来るのだから。
 今思えば妻の賛株(チャンジュ)や、息子の清(チョン)を朝鮮に疎開させておいて良かった。
 それにしても帰郷することを疎開とは全く奇異な言い様である。
 そう思い嗤おうとしてみたが、表情を作ることも叶わぬようだ。
 嗤うことさえ出来ぬとは、何とも情けない。
         ‐160‐

 何れにしても故郷に帰り、賛株や清に会える筈だ。
 只、生きて会いたかったのだが・・・・・。

 ああ、また、あの娘が歌っている。
 どうやら迎えに来てくれたらしい。

「少しだけ、待ってはくれないだろうか?」
            
 娘に請うてみた。
 せめて、一つ、一つくらいは、死に逝く私の言い分を聞き届けてくれないだろうか。
 果たして娘は私の前で立ち止まった。
 
「自分がこの新型爆弾の犠牲になるのは、致し方の無いことである。
 仮令朝鮮公族と言えど、私は帝国陸軍第二総軍の教育参謀なのだ。
 しかし二度と、二度と、この新型爆弾は落とさないで欲しい。
 そこが日本であろうと、朝鮮であろうと、如何な場所であろうと、
止めて欲しい・・・・・こんなものを落とす悪魔の所業だけは」

 自然と口から漏れ落ちた言葉に、娘は笑顔を作るのみであった。
 聞き届けてくれるのであろうか? 
 それとも・・・・・嗚呼。  

 もう、行かねば。
 娘が歌い始めた。
 
 アリラン アリラン  アラリヨ

 アリラン コゲロ ノモガンダ(=アリラン峠を越えて行く)  

 ジョギ ジョサニ ベッドゥサニラジ(=あそこ、あの山が白頭山だけど)        

 ドンジ ソッダレド ッコンマヌ ピンダ(=冬至であろうが、
師走であろうが、花ばかりを咲かす)

 昭和二十年八月七日払暁、雲硯宮李公偶は薨去した。
 次いで偶の最後を看取った御附武官の吉成弘中佐もこれに殉ずる。
 偶の死の直後病室の前の芝生に鎮座し、ピストルで自身のこめかみを撃ち抜いたのであった。
 そして李偶公の薨去から一週間後の、昭和二十年八月十四日終戦前夜のことである。
         ‐161‐





のことである。

 戦争と言う悪魔は、李晋だけで無く彼を救い出した最後の日本人さえも、平然と死出の旅へと連れ去って行くのである。

 本庄忠道中将が、切腹して果てたのである。

 それは摂政宮殿下、即ち昭和帝の李王家に対する真の大御心を証明する確かな証拠が、また一つ歴史の闇の中に霧散していった瞬間でもあった。

         ‐162‐
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