第10話火 球、火の玉、火魂、人魂

文字数 3,149文字

火球、火の玉、火魂、人魂・・・・そのいずれも全部をこれまで幾度か体験して来た。

火球(かきゅう)は、天文学的な呼び名で隕石や宇宙のゴミなどが地球に到達する際に、大気圏内で燃えて流れる現象

火の玉(ひのたま)は、自然発光現象の光の玉で、沼地や山奥などで散見されることから動物の死骸の骨などの中の成分であるリンが気化発生して発火したものとされる。
少しスピリチュアルな要素が絡んでくると鬼火などと言う場合がある。

火の魂(ひのたま)、または人魂(ひとだま)といい、自然現象とは違って、どちらかというと人の生き死にや霊的な情実などが絡んだ場合は、この表現が使われる。

これらの現象を全部体験した人間としての感想から言えば、先の2つは、ほぼ純粋な自然現象として科学や化学で説明できるだろう。
しかし、3つ目の火の魂(ひのたま)だけは、古くから伝承として伝わっているように、現代科学でも説明できない“何か”が存在するとしか言えない。

私は、物理学や電気理論、数学などの基礎的な論理と事象の検証と確証いう仕事で長年仕事をしてきた人間である。
なので、スピリチュアルな理論を展開することは、もっとも避けなければならないはずであるが、それでもこの現象だけは、どうしても明確なロジックになりそうもない。
“何か”が、何であるか・・・
それが判らないのにこの話をするのは、つじつまが合わないが、その事象が発生した時間の前後と周りの環境などは、説明できる。
とりあえず、体験した3つの火の玉を聞いてもらおう。

火球
九州の佐賀県の一番西の果ての漁師村で生まれた私は、15歳で家を出るまでは、当然のごとく漁師の息子として生活をしていた。
腹をすかせた子供は、自分のおやつすら自分で釣りや潜りに行って魚や貝を採ってきて食べていたような典型的な漁師村だった。
夏になると魚が活動する夜に釣りをすることが多く、釣竿を持って海辺に釣り糸を垂らしているのが、日常だった。
夜釣りの時は、流れ星をほぼ毎日観ることができた。
今でこそ流星群という言葉が知れ渡っているが、多い夜などは天空に小雨が降っているかのように流星が群れで発生しているのも珍しいことではなかった。
そして、時々、流れ星では説明できないような大きな明かりの塊が流れることもある。
それも夏の夜空に響き渡るような大きな音を立てながら流れる場合もある。

ある時、夜釣りをしている私の頭上を背後から大きな音をたてて火球が流れた。
村の海を隔てた対面側は、長崎県の島だったが、私の頭の上から突如出現したかと思うと、対面の島の向こうまで本当に打ち上げ花火のように火の帯を引きずりながら消えていった。
その時は、火球とは思わず、飛行機が燃えて落下したと思ったぐらいの大きな音と光のショーだった。
時間がたってから、隕石だなと思った。
少しも人魂のような恐怖心がなかったのであるが、こんなに大きいものは初めてだったのでかなり驚いた。

火の玉
中学生まで住んでいた漁師村は、海に向かって突き出ている半島だったので、前は海、そして後ろは山という地形だった。
通っている中学校は山の一番上に位置していたので、半島の各地に点在する各村々の小学校を卒業した生徒たちは、全員その山の上の一つの中学校に歩いて通学していた。

その中学校からの帰り道は、なだらかな丘があったり、畑があったり、ため池があったりというのどかな農村地帯だった。
部活などで遅くなって帰る道すがらの特にため池の近くでは、水分が多いからか、動物の死骸などから発生した自然の燐ガスが燃えている発光現象に遭遇することがあった。
最初のころは、スピリチュアルな物語を思い起こすので、怖かったが何度も遭遇すると格段感動も恐怖心も感じることがなくなっていた。
発光の色が燐(リン)特有の青い色なので人は、余計にスピリチュアルに感じるのだろう。

人玉、人魂(ひとだま)
やはり、一番怖いのは、人魂だ。
自然現象としても化学現象としても説明できない“何か”を感じるし、光る物が目の前に現れるという厳然とした事実があるのに、その理論も実態も説明できないというのは、余計に恐怖心が湧く。
中でも私の体験上で一番不思議な、これこそスピリチュアルな出来事だというものを経験したことがある。
ただ、残念ながらそれをここで取り上げることは、できない。
不幸な事件で亡くなった人の魂に触れることになるのと、死者の尊厳を興味本位だけで題材にしたように思えるので、書かずにおこう。
ひとつだけ言えるのは、発光現象でありながら、あきらかに人間の精神が関与した魂の部分からそのような現象に昇華した何かであるということは、間違いがない。
また、それ以外の物理や化学では説明は、できないと断言もできる。

それでは、このスピリチュアルな日常という読み物にならないので、別の題材を代わりに紹介してみよう。
それは、UFO・・つまり、未確認飛行物体のことである。
「未確認飛行物体(UFO)」という言葉が登場するのは、1947(昭和22)年の「ロズウェル事件」からとされている。
多くのSFやドラマなどで度々取り上げられているので、ほとんどの人が知っている出来事だけど、日本でその言葉が知られるようになるのは、1970年代以降になる。

私が、小学高学年の時だから1964年の話になる。
夏の夜、近所の子供たちが集まって夕涼みがてらたわいもないお喋りをしていた。
夏だから怪談話が一番人気だった。

そこに通りかかった、Aというお婆さんが、珍しく子供たちの話の中に入って来て、奇妙な話を始めた。
そのお婆さんは、村の一番山の上に一人で住んでいて、普段もあまり村人たちと交流がなかった。
昔の小さな漁師村だから特別除け者にされるとかいうものではなく、ただ一人暮らしで静かに生きている人というような生活スタイルだったにすぎない。

お婆さんは、「あんた達さ、婆ちゃんの家の上の一番山のてっぺんに広い原っぱがあるのを知っとるだろう?」と、子供たちに話しかけた。
「知っとるよ。草の生えとるだけで何もなか原っぱたい」
子供たちも時々山の頂上などで遊んでいるので、全員が知っていた。
「その原っぱに夜時々ものすごく大きな盆のような形のした機械みたいな物が飛んでくるとよ。花火のような光をきらきらさせて真っ直ぐ降りて来て、何もしないですぐまた飛んで行くばってん、ありゃ何かね?」
「そりゃ、何かい?」子供たちが聞き返した。
「婆ちゃんが判らんけん聞いていると・・・村の人たちに話しすると頭のおかしい人と思われるけん、あんたたち子どもなら知っとるかねと思って聞いてみたとさ」
「婆ちゃん、そりゃ、空飛ぶ円盤かもしれん」と、私が答えた。
「空飛ぶ円盤そりゃ何ね?」
私は、当時発売されたばかりの少年漫画誌に載っていた、空飛ぶ円盤という宇宙人の乗り物が地球に飛んできていることを婆ちゃんに話した。

「宇宙人て言ったら、人間じゃなかというわけね。おお、怖い!さらわれるかもしれんけん、もう見に行かんようにせんばいかんね・・・ばってん、本当に綺麗ばい。原っぱの昼のように明るくなるけんね」
それだけ、話すると婆ちゃんは、また山の上の自宅に帰って行った。

ひょっとして婆ちゃんは、子供達を喜ばせるために、UFOのことを知っていて、そのような話をしたのかもしれない。
しかし、村の社会ともある程度隔絶したような生活をしている婆ちゃんが、その年代でまだ日本中の人が話題にしたこともないUFOのことなどを知っているはずがない。
そして、そのUFOの姿形や様子などを話しする時のリアリティは、とても作り話をしているとは思えなかったことをはっきりと記憶している。
婆ちゃんが観たものは、おそらく本物のUFOだったのだろうと私は、思っている。

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