第5話 神がデザインした現象 その3最終話

文字数 2,148文字

雨も風もぴたりとやんだ。
その瞬間、黒い大きな空気の壁が船の上を通り過ぎた。
実際には、低く垂れこめていた黒い雨雲に包まれていた状況から抜け出ただけだったのだが、大きな壁を通り抜けたという表現しかできないほどいきなり晴れている場所に出てきたのだった。
その黒い壁は、船の上を通り抜けてゆっくりと動いて移動している。
壁の向こう側が、低気圧の暴風雨圏内で、こちら側が台風の目の中にいるという位置になった状況だ。
通り過ぎて向こうに移動中の黒い壁は、本当に目が丸く形になっているように円筒形の巨大なスクリーンの形をして海面から天の上まで伸びていた。

黒い壁の上空では、大きな雷鳴が響いて雷が稲妻を光らせている。
暴風雨の中にいた時もドーンドーンと大きな雷鳴が鳴り、まばゆい光が雨の中にフラッシュしていたので、雷がそこら中に落ちて光り、真ん中に居ることは、解っていたが、豪雨にかき消され、音とフラッシュだけしか感じられなかった。

その稲妻も普段目にしている白色や黄色の稲光ではなく、ネオンサインのエメラルドグリーンという表現しかできない眩く強烈な明るい緑色だ。
そのエメラルドグリーンの稲光は、海に落ちていた。
海底から突き出ている大きな瀬の岩の頂上部に落ちて、その瞬間光が海底の瀬の稜線を走って四方八方に広がっていく。
夏の大輪の花火が夜空に大きく広がるように、海底で光の大輪が走っていく。
それが、船の上から大きなステージ上の画面を見ているように、海の中全体がグリーンに光り輝く。
船の上から見ていると自分が光だけに支配された異次元の世界に取り込まれたように思える。
そして、なんと海の中のグリーンの光に群れで泳いでいる大きな魚たちが黒い魚影となって見える。
この黒い大きなスクリーンに走るグリーンの光の映画がこの世のものとは思えないほどの美しさで目の前で展開している。

そして、雷が轟いていない静かな時は、なんと頭の頂上の天空に満天の星が広がっている。
嵐の真ん中にいながら、夜空の星が見えるのである。

ふと気が付いた。
船が浮いている海面が盛り上がっている。
目に見えている海面は、黒い円筒形の壁に囲われ出現したゾーンなのだが、気圧が低いのか、海面が凸レンズのように盛り上がっているのである。

その時、船のマストがビーンビーンと音を立てて震え始め、ランプとは別の色の青色に明るく光り始めた。
父親が、何事が起きているのかというような驚きの顔をした。
「セントエルモの火だ!」と、私が叫んだ。
「何か?そりゃあ」
「雷が来ているけん、電気が溜まって帯電現象で光ると。外国の人は、そげん言うとばい」
「ほう、そげんことば言うとか・・」
嵐の中のわずかな時間ではあるが、父と私は、そういう会話を交わした。

周囲は、真っ黒な巨大な円筒形の雨雲の壁
そこに轟いている雷と稲妻
そこから轟音を響かせ海に落ちる稲光
エメラルドグリーンの光が走り回る海底が光る様子
光の中に回遊する魚の群れ
空には、満天の星
帯電現象で音を出しながら光るマスト
それらのはざまで風一つ、雨一つ無い静寂
そしてまた突如として雷の轟音と光
海の上で、宇宙の中で居るのは、父と自分と一艘の船だけの世界

それらの日常とはまったくかけ離れた見たことの無いシーンが同時並行で起きている。
何もかもが信じられないほど美しい。
美しいという言葉では、表せないほど感動に打ち震える。
死に直面しているかもしれないという恐怖心よりもその美しさに見とれてしまい、自分の置かれている今を忘れるほどの体験をしている。
この崇高にして壮大なデザインは、決して人間が作ろうとしてできるものでは、無い。
やはり、神の手でしか実現できないものなのだろう。
心の中に充満する高揚と幸福感がそう思わせる。
嵐と戦って操船していた父も同じ感慨なのか、操舵室で座り込んで放心状態である。

「また来るぞ!」
その父の言葉で、ふと我に返った。
そうだ、まだ嵐が去ったわけではない。
“目”の中に居るということは、嵐の半分の後ろ部分を切り抜けなくてはならない訳だ。
再び風が吹き始め、雨が降り始め、そしてまた嵐の状態に突入した。
しかし、今度は、島の湾内だったので、前のように大きな暴風雨と大波ではなかった。
さらに、錨を二つも湾内に落として船を固定したような状態にして、風や波に流されないように防御策をしたので船の揺れも少し減った。
それでも父は、絶えず波の進行方向に向けて舳先を向ける操舵を予断なくしていなければならかった。
私は、何もすることがないので、甲板の中で雨に打たれた寒さで震えながらひたすら嵐が終わるのを待っていた。

疲れと波の揺れと風雨の音が絶え間なく続いていたので、少しうとうとと寝ていたのかもしれない。
「錨を上げろ、帰るぞ」と、父が起こした時は、風雨が和らいで、嵐の終焉の朝だった。

あれから半世紀・・
今でも事あるごとに思い出す。

あの嵐は、人生の中で、私にとって何だったのだろうかと。
死を意識した初めであったし、人間の力では如何ともし難い人知を超えたものがあることも知った。

やはり、ある種の神の啓示だったのだろうか。
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