「地獄」(1)

文字数 1,759文字

 早朝、五時。宿泊プランに指定されている七時まではまだ時間があったが、あのまま狭い個室に閉じこもっていると気が狂いそうだったので早めに外に出た。料金を払うと全財産の半分がなくなり、財布の中には血の付いた千円札と小銭がほんの少し。これからどうすべきか、思考を働かせようとした途端、二月ど真ん中のひやりとした空気が頬を撫でた。リュックサックのように背負ったボストンバッグが背中を温めてくれるのがせめてもの救いだが、それでもやはり、厳しい寒さに身震いが走る。……ネットカフェを出る前に用を足しておいてよかった。
 もうこの街にはいられない。あの男を噛んでしまった以上、早くここを去る必要がある。しかしあの野郎、所持金三千円で買春しようとしていたのだから驚きだ。それとも、もう少し様子を見てコンビニで金を下ろすのを待てばよかったか? いや、あまり金額が多いと、特に銀行から金を下ろした後ともなると足がつく危険性が高くなる。……終わったことを考えるのは止そう。
 金を盗むのに悪人を狙うのは、ただ自分を許す理由が欲しかっただけだ。悪い奴ならば噛んで、感染させて意識が混濁しているうちに財布から金を抜いても罪悪感が軽くて済むから。深夜に公園でリンチ行為を働いていた二人組、繁華街で無知な観光客にぼったくりを目論む違法な客引き、そしてこの前の、まだ中学生だろう女の子に声をかけてホテル街に向かっていた男。
 そいつらの家族のこととか、大切な人のことを考えていないわけではない。考えてしまえば自分が死ぬしかなくなる。他人を犠牲にしてまで俺には生きる価値があるのだろうか。直接的にではなくとも、誰だって他人を踏み台にして生きているだろう。何かと理由をつけて自己正当化しても、沢山の人を傷つけてきた事実は無くならない。もっと俺の頭が良ければ巡のように屍喰症の研究なんかをして、完治させて罪を償って——。
 何かに軽くぶつかった。大した勢いじゃないが、衝撃が肩から首の傷に伝わって脈打つのを感じた。
「すみません」
 無駄な面倒は遠慮したい。軽く会釈して通り過ぎようとした瞬間。
「どこ見て歩いてんだよ、コラ」
 相手の男は酔っぱらっているようで、手に持ったビール瓶を大きく振りかぶった。無駄な動きが多い。その一撃を、反射的に片腕で受け止める。
「テメェこそどこ見てんだよ」
 細身の体に黒い合皮のジャケット。坊主に近い短髪。どうやら喧嘩慣れしていないようだ。武器を使っている割に、力の入れかたが下手で痛みも感じない。瓶には中身が残っていたようで、飛散したビールが俺の上着を濡らす。
「すみません、じゃねえだろ」
 呂律が回っていない。通報は困るので、酔っ払いと喧嘩している場合ではない。人気の無い朝方の路地裏。金になりそうもない相手だが……。
「悪ぃ」
 聞こえるかどうかもわからない、口の中で謝罪を呟いてから相手の腹に膝蹴りを入れた。くぐもった声を上げた赤髪の男が、地面に突っ伏して倒れる。路地と言っても、もたついていては大通りから充分に見える位置だ。顔を覚えられる前に、早めに仕事を終わらせるしかない。
 薄い肩を掴んで顔を上げさせジャケットを下ろすと、冬だというのに中にはタンクトップしか着ておらず、すぐに白い肌が見えた。
 この場所なら、命に直接的な影響を与えず効率的に記憶や判断力を狂わすことができるとイヌガミが言っていた。それ以前に、身をもって体感している。
「は、何も無いな。クソ野郎が」
 歯を立てようとした時、男がうわ言のように呟いた。どきりとして体の動きが止まりかけたが、自分を説得するようにして食らいつく。
 ぶち、と嫌な感触が脳に響き、口内に鉄の味が広がる。この感覚には慣れたくもない。
 痛みか、怒りか、もっと他の感情にか、不気味な光を宿していた目からは次第に光が失われ、程なくして気を失った。ズボンのポケットからはみ出している長財布から中身を抜き取る。二万三千円。俺はそこから二万円を拝借した。目覚めた時に帰りの電車賃すらなければ、こいつは交番かどこかにでも駆け込むだろう。
 ……財布ごと盗めば足がつきやすくなるだろうから、などという根拠もない戯言は、冷酷になりきりたくない自分が作り上げた建前かもしれない。
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