「現実」

文字数 1,497文字

 イヌガミは捕まった。撃たれた警官二人も、春翔も秋也も、ついでにあの部下も全員無事だった。それもそうだ、巡の知り合いには有能な医者が沢山いるそうだから。
「し、しかし英二殿! 拙者の演技、よく見抜けましたなあ。流石ですぞ!」
 「カルマ」の影響もあってか、深雪のバイト先である「スペクタクル」は大繁盛だ。俺たちはそこの二階にある座敷に集まり、祝杯をあげていた。ここの階段を上る時、ようやく俺は生きているのだと実感した。
「さっきから何回その話するんだよ……」
 あのライブの翌日夕方ごろ、速報が発表された。巡はテレビに引っ張りだこで、あちこちで会見して回っている。俺はようやく家に帰り、心配をかけたことを両親に叱咤され、わざとらしい白衣に身を包んだ巡を画面越しに見ていた。
「オレは、まだ納得いってないからな」
 春翔が鉄板の上の肉をいじくり回しながら、ブツブツと言う。銃弾を全身に受けながら突っ込んで行った時の威勢は見る影もない。
「その話も何回するんだよ……」
 あの夜のことで「カルマ」の知名度が上がったことが気に入らない様子の春翔がまた失踪しないか、そんな心配はする必要はなさそうだ。その証拠にと言っては何だが、深雪の家に春翔の書いたノートが四冊も増えていた。事件は公にはなっていないが、外に追い出された他の客が色々と言っているらしい。他の場所で拘束され人質にでもされているだろうと思っていたが、イヌガミは他の仲間を連れていたわけではなかったようだ。無関係の観客に危害が及ばなかったのは何より。それから、巡がテレビのインタビューで「カルマ」のことを好意的に話したのも大きかった。酷い目には遭ったが知名度が上がったことで春翔の作った歌が注目されているのも確かだということが、俺は嬉しい。
「英二くん、ちゃんと野菜も食べなきゃダメよ」
「それも何回目だ?」
 なぜか俺は秋也に気に入られたようで、さっきから彼の手によって自動的に肉やら野菜やらが皿の上に運ばれてくる。秋也は「可愛いものが好き」だそうだが、果たして。
「ねえ、まだ主役は来ないの?」
「その話も……」
 深雪に言いかけた時、座敷を分けている襖が開いた。
「ごめん、遅れました」
 わっと歓声が上がる。画面越しじゃない巡の顔を見るのも、あの夜以来だ。
「ヒーローは遅れて登場するものよ」
 飄々と深雪が言い、座布団を叩いて着席を促す。
「……それでは! ええと……」
 各々がグラスを掲げ、それを察した春翔が乾杯の音頭を取ろうとして言い淀む。
「もう、何?」 
 深雪が唇を尖らせて、春翔を見た。
「こういうのって、ナントカを祝して……みたいなこと言うだろ? なんだろうなって」
 困ったように言う春翔に、俺たちは全員同時に考え込んだ。色々ありすぎて、複雑すぎて、一概にどう言えばいいのか、誰にもわからないのがおかしくて誰からともなく笑い始める。
「いいんじゃない? みんなそれぞれ、勝手に祝福すれば」
 彼女の言葉に同意して、俺たちはそうすることにした。
「……そっか。それでは! みんなそれぞれ勝手に祝して! 乾杯!」
 そのまますぎるな、と言いたくなったが、まあいいだろう。みんなが何を祝福したのかは知らないが、俺は心の中で生きていることを祝福した。
「あのう。『カルマ』の皆さんにお願いがあって、無理なら遠慮しますが……」
 控えめに右手を上げながら鞄の中を漁る巡を見る。
「サイン、してください」
 嫌な思い出が蘇って、う、と声が漏れたが、取り出された色紙と油性ペンを見て安堵した。どうやら俺が書くものではなさそうだ。
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