「地獄」(3)

文字数 12,222文字

 紆余曲折あったが、俺の腹は満足したようだ。深雪が慣れた手つきで空になった食器を重ねて厨房に持って行く。一人になってようやく、俺はとんでもないことになっているんだったな、と思い出した。深雪という異質の存在が現れて、自分が地獄にいることを忘れていた……わけではないが、別の地獄に引っ越したような気になっていた。
 食洗機が動く音にがちゃがちゃと食器を重ねる音が続いて、しばらくした後、バックヤードかどこかに置いていたのだろう、薄いピンク色をしたヒョウ柄のコートを着た深雪が戻ってきた。
「代金は……」
 メニューに載っている写真よりもはるかに多い量だったが、ちゃんと正規の料金なんだろうな。
「三十五億兆円だけど、私の奢りよ」
 束ねた髪を解いて髪を留めていたゴムを手首にかけ、パチンと指を鳴らして彼女は言った。
「当然だな」
 内心では胸を撫で下ろしていたのは言うまでもない。席を立って鞄を背負い直す。
「店長、お疲れ様でっす!」
 二階に向かって、エプロンを外しながら深雪が叫ぶ。返事はない。エプロンを畳みもせずにくしゃくしゃに丸め、黒いリュックサックの中に詰め込んだ。
「うわ、すごい雨」
 彼女が引き戸を開けると、冷え切った空気が流れ込んだ。バケツをひっくり返したような雨、というのが正しい表現だろう。大した着替えも持っていないので、濡れると困るが、今はそうでもない。深雪の家で乾かして貰えばいいからだ。
「折りたたみ傘持ってるけど、走ろっか」
 え、と声が漏れた。傘があるなら使わない理由などないだろう。しかし深雪はやる気に満ちているようで、アキレス腱を伸ばして準備している。
「相合傘でちんたら歩くより、走っちゃった方が濡れないわ」
「そんなわけがないだろ」
 俺が言い終わるよりも先に、深雪はひとつの躊躇も見せずに土砂降りの中へと駆け出していた。悪あがきでしかないが、ジャケットのフードを被ってから後を追う。走りには自信があったが、その距離は離れも近付きもしない。小さい体のどこにそんな体力があるというのだ。いっそのこと、雪になってくれば楽なのに。ひっきりなしに冷たい雨が身を射る。折角、飯を食って体も温まったというのに、これでは元も子もない。
 不意に、深雪が走るのをやめた。フードは走り出した途端に風で脱げてしまった。水を吸った金色の前髪越しに、彼女の後ろ姿と赤信号が見える。その隙にスピードを上げてなんとか追いついた。久しぶりに全力疾走したからか、想像以上に息が上がっている。こんなことでは警察に追われても逃げ切れそうにないな。
「よく追いつけたね」
 余裕だ、と口では返したが体は嘘をつかない。屍喰症がどうのと言う前に、寒さで死んでしまいそうだ。彼女の濡れた黒髪は束になって、その額や赤くなった頬に張り付いている。浅く繰り返される二つの呼吸が白く染まる。
「ていうか、渡ればいいだろ」
 歩行者信号は赤を主張し続けているが、狭い横断歩道に車はひとつも通らない。動きを止めていると余計に寒いのもあって、俺はそう言った。
「子供が見てるから駄目よ」
 深雪の指先を目で追っていくと、向かい側の歩道に母親と手をつなぐ小さな女の子の姿があった。
「そんなこと気にするんだな」
 正直、意外だった。信号どころか高速道路ですら突っ切ってしまいそうな奴なのに、真っ当なことも言うんだな。
「誰かもわからない奴が決めたルールなんて私はどうでもいいけど、子供の前でいけないことをしてはいけないの」
 いけないこと、か。俺のやってきたことを知ったら深雪は一体どうするだろう。
「そういうのが、ロックンロールなのよ」
 前言撤回だ。
「意味わかんねぇな」
「意味なんてないわ。それか、あなたには理解できないだけよ」
 深雪は笑いながら、水たまりに足を突っ込んでばしゃばしゃと跳ねる。信号が青に変わって、割れた電子音が流れ始めた。
「もうすぐだから頑張って!」
 今度は遅れを取らないように、ほぼ同時に俺も走り出した。向かいから歩いてくる仲の良さそうな親子が、俺たちを奇妙な目で見ている。信号無視はしなくとも、変な影響を与えてしまいそうだ、なんてことを思った。
 踊るように軽快に走っていく深雪の後ろ姿を追ううち、この状況を少し楽しんでいる自分がいることに気が付く。その事実がなんだか苦しくて、人と話すことすら久しぶりだったから、楽しみを感じるハードルが著しく下がっているだけだ、と心の中で付け加えた。
 靴の中に水が入ってきて、ずぶずぶと音が鳴っている。足の指の感覚がない。コートが蒸して寒いはずなのに暑い。治りが遅い傷口に雨水が沁みて、ぴりぴりと痛む。雨に濡れたとき特有の嫌な臭いもする。早くシャワーを浴びたい。
 そんな愚痴を口に出さずに展開していると、深雪が大声で言った。
「あのアパートがゴールだから、それまで競争! 勝った方には、先にお風呂に入る権利が与えられます!」
 まさに今、欲していたものが賭けられた戦い。くだらない争いだが、不覚にも乗り気になってしまう。
 速度を上げるたび、踏み込んだときの水飛沫が大きくなる。どうせ全身ずぶ濡れだ。今更どうだっていい。
 歩幅のせいだろうか。スタート位置が近いのもあり、案外簡単に追い越せた。アパートの屋根の下に飛び込むと、タッチの差で深雪が入ってくる。
 肩で息をする姿を見て、僅かな優越感を抱く。そういえば、最後に他人に勝ったのはいつだっただろう。
「二回戦、やっとく?」
 負け惜しみなのか何なのか、水が滴る髪を掻き上げながら途切れ途切れに言う。化粧が溶け出して、目の周りが黒く滲んでいた。
 やだよ、と本音で答えて、手すりに頼りながら急な階段を上っていく後ろ姿を追う。二階建てのアパート……アパートの定義はわからないが、俺には廃墟に見えた。本当に人が住んでいるのだろうか、と疑いたくなるような風貌。錆びきった金属製の踏み板に足を乗せるたびに歪むような気すらする。
 廊下の柵は体重をかければ簡単に外れてしまいそうなほど頼りない。いくつか並ぶドアに備え付けられたポストからいくつもの広告物がはみ出している家もある。狭い廊下を移動して、一番奥のドアの前で止まった。
「寒い、寒い」
 深雪はその場で足踏みをしながら、握りこぶしほどの大きさの猫か熊か、動物のストラップがついた鍵をポケットから取り出して鍵を開けた。
「あ、散らかってるけど驚かないでね」
 前髪が掻き上げられて露わになった薄い眉が、気まずそうに顰められたのを俺は見逃さなかった。あまり酷いものであれば金目のものを探すのに時間を食うから困るが、女の一人暮らしの「散らかってる」など俺の部屋に比べればしれたものだろう。
 ドアが開かれた瞬間、その希望は打ち砕かれた。テレビで見たことがある。それに習って俗っぽい言い方をするなら「汚部屋」というのがぴったりだ。靴で溢れ返った玄関に、なぜか俺の膝くらいの高さもある招き猫がチューリップハットを被って鎮座している。靴を脱いで奥に進むと、玄関など序の口だと思い知らされた。なんだかよく分からない塊、が部屋中に散乱している。丸められた布の塊。乱雑に積み上げられた漫画本。ルールも床も存在しない。その証拠に、唯一空間のある安っぽい黒の折りたたみテーブルに山盛りになった灰皿と、太い縄で編まれたネットに包まれた大きな貝が置かれている。
 俺はなんだかよく分からない物体を足で避けて足の踏み場を作りながら移動したが、深雪は何の躊躇いもなく歩みを進めていく。
「荷物、その辺に置いていいよ。タオルはこれ使っていいから」
 カーテンレールに引っ掛けられたハンガーからバスタオルを取って俺に投げ渡し、別のタオルで自分の頭を拭いている。
「お風呂、そっちの奥だから勝手に使って」
 受け取ったバスタオルを広げてみると、ピンク色の髪のアニメキャラクターがプリントされていた。
「……先にシャワー浴びてこいよ」
 その間に通帳でも見つけ出して逃げればいい。
「え。本当にそんなこと言う人いるんだ」
 深雪は濡れそぼった上着を脱いで、空いたハンガーにかけて笑った。
「今時、恋愛小説でもそんなの無いよ」
 突っ込まれると自分でもそういう意味に思えてきて、途端に気恥ずかしさが込み上げてくる。
「いいから早く行ってこい」
 言われた通り「その辺」に鞄と脱いだコートを置き、ついでに靴下も脱いだ。
「案外、優しいとこあるのね」
 漫画でも読んで待ってて、と言い残した深雪がバスルームに消え、水音が聞こえてくるのを確認してから周囲を見渡す。これだけ汚くとも、さすがに通帳などの貴重品は戸棚や引き出しに保管しているはずだ。汚いからこそ、無くさないように気を配っているはず。様々なゴミが足の裏にくっ付いてくるのが不快だが仕方ない。俺はまず、部屋の片隅にある観音開きの押入れに目をつけた。
 扉の取っ手を引くが、立て付けが悪いのか開かない。団子状になっている衣類を蹴って足場を作り、腰を入れて思いっきり引っ張る。
 結論から言うと、俺が期待していたようなものはなかった。常識では考えられないが、災害用の非常持ち出し袋だけが眠るように存在していた。クソ、と舌打ちする気にすらなれない。出てくるのは溜息と苦笑いだけだ。ここから通帳を見つけ出すのは、宇宙の端はどうなっているのか、とか生涯考え続けても解けない問題を解こうとするようなものなのかもしれない。それに、深雪の頭の中は恐らく宇宙よりも複雑だ。
 次に、部屋で一番主張の強い大きな本棚に取り掛かる。その本棚の横に一本のベースが立てかけられていた。俺は楽器に詳しくないから、これが高価なのかどうか知らないが。
 例のごとく本棚の機能は失われている。漫画の単行本やファッション雑誌、CDに映画のDVD、かなりマニアックなエロ本。それらが一切の秩序を持たずに並べられて、いや、押し込まれたり積み重ねられたりしている。やけに目に止まるのは、格闘技関連の本が多いということだ。体術についてのものから、有名なプロレスラーのエッセイ本まである。
 直感でしかないが、ここも見当違いだろうな、と思いながらも足を踏み込んだ時。右足の裏に、ペキ、と嫌な感触があった。昔、自分の部屋で同じ感触を味わったことがあるからすぐにわかった。これは、CDケースを踏み割ってしまった時の感覚だ。恐る恐る下を見ると、予感は的中していた。俺が巡に「ハザード」の曲をコピーして渡した時のような、百円ショップでも売っている透明なプラスチックケースにヒビが入っている。見た限りではキラキラと光るCDの裏面に見た限り傷はなさそうだ。それにしても、何のディスクだろうか。深雪のことだから怪しい裏ビデオかもしれない。手にとって表面を見て、俺は驚愕した。寒さとは関係なく、体に緊張が走る。全身の血が滾って、心臓が大きく高鳴る。
「ハザード、エイジ……」
 確かめるように俺は呟く。雨音とシャワーの音がやたらとうるさく聞こえた。子供が書いたのかと思えるほどに雑で稚拙な字は、深雪が書いたものだろうか。音源になっていないはずの、伝説の最後の曲……。なぜこんなところにあるのか、中身が本当にハザードが演奏するものなのかも、何もわからない。でも、もしかすれば、曲を最後まで聞くことができるかもしれない。
 ファンに流せば、かなりの値がつく——。下衆なことを思う自分への嫌悪をすぐに打ち消す。自己正当化なんて慣れたものだ。これほどの罪を犯してきたんだ。もう今更どうだっていい。
「俺には天国と地獄すら、何も無い」
 不意に「エイジ」のメロディーが口をついて出た。
「なに見てんの?」
 ぼんやりしていたせいか、びくりと体が跳ねた。振り向くと、タンクトップにボクサーパンツ姿の深雪が立っていた。化粧が落ちたせいか、より一層幼く見える。狭い部屋なので、距離は程近い。
「いや……」
 彼女は立ち尽くす俺の手の中にあるCDを見ると、ふっと笑った。
「『エイジ』か。ネットじゃ色々言われてるみたいだけど」
 決して馬鹿にするような感じでもなく、懐かしむような、思いを馳せているような、俺にはそういう風に見えた。
「私はこの曲好きよ。あなたと同じ名前だしね」
 俺からCDをぱっとひったくり、団扇のようにちらちらと動かした。
「聞きたいの?」
「なんで、CD持ってんだ」
 聞きたい。だが、素直にそう求めることはできなかった。代わりにそう問いかけた。深雪はまた視線を上に向けて思索する素振りを見せる。
「『ハザード』のボーカルが私の兄貴だからよ」
 また根拠もない冗談でも言っているのだろう、と思って俺は鼻で笑った。そして、くしゃみが二回出た。
「風呂、借りるな」
 彼女を一瞥することもなく、今度は足元に気をつけながら風呂に向かう。
「嘘だと思ってるんでしょ。一緒に写ってる写真だって沢山あるんだからね」
 喚き声を無視して軽い戸を開け、ユニットバスに足を踏み入れる。カビまみれだったらどうしようか、と心配していたが水回りは普通だ。濡れた服を床に脱ぎ捨て、肩に掛けていたバスタオルは洗面台の淵に置いた。
 小柄な深雪ならまだしも、俺には足を伸ばすスペースすら確保できないだろう狭い空の浴槽に立ち入って、カーテンを閉めてからシャワーのハンドルを回す。丁度いい温度の湯と、そこから立ち上る蒸気に包まれて心地いい。
「あ! ケース割れてる!」
 外からバタバタと音が聞こえる。しまった、謝るのを忘れていた。
「ごめん!」
 風呂の中から声を張り上げると、しばらくの沈黙の後、低音の笛のような大きな音が聞こえた。どこで聞いたか、と問われたら返答に困るが、俺はこの音を知っている。武将が戦に行く時なんかに吹く法螺貝の音だ。なんなんだ、一体。
 困惑していると、突然バスルームの扉が開いた。
「着替え、ここに置いておくから」
 てっきり怒られるのかと思っていたが、深雪の声色は普通だった。ピンク色のパッケージの甘ったるい匂いがするシャンプーで髪を洗いながら、俺は聞く。
「なんだよ、さっきの音」
「法螺貝よ」
 カーテンを開けて、赤いジャージを着た深雪が顔を出す。どきりとして、ぬるぬるした床に足を取られて滑りそうになる。
「開けんなよ」
 半目を開けてカーテンを引っ張る。気をつけていたつもりだったが、垂れたシャンプーが目に入った。
「はいはい、ごゆっくり」
 ドアの開閉音が響いた。全く、遠慮を知らないやつだ。初対面の俺を家に入れた時点で言えることだが、若い女ならもう少し気をつけてほしいものだ。もし俺が危ないやつだったらどうするんだ。
 上を向いて瞬きをすると、ぷつぷつとシャワーのヘッドから水滴が落ちるのが視界に入る。
 ——「ハザード」のボーカルが私の兄貴だからよ。
 頭の中で深雪の声が蘇った。冗談とばかり思っていたが、冷静になって思えばやたらに真面目なトーンだったような気もする。他人を利用する、金にする、そんなことばかり考えて生きているうちに、誰に対しても真剣に向き合えなくなっている。あと二日だ。深雪のバンド「カルマ」のライブがある日、俺は死ぬ。発症すればすぐに警察に捕まって、病院に搬送されるだろう。そうなれば身元も、俺がやってきたことも、すべてバレる。闇金業者、イヌガミも俺の居場所を知ることになるだろう。両親も巻き込むことになるかもしれない。
 考えられる限りの最悪が、一遍に起こることになる。ついでに「カルマ」のライブもボーカル不在だ。それは最初から引き受ける気など無かったが。
 深雪を脅して、裏ルートで薬を購入させるか? 駄目だ。薬を買うとなれば、理由を話すか酷い目に遭わせて言うことを聞かせることになる。騙す、というのも手だが少しでも嘘に怪しいところがあれば彼女は納得するまで突っ込んでくるだろう。なんだかんだとその案に反論するのは、罪のない彼女をこんなことに巻き込むわけにいかないと自分でもわかっているからだ。通帳が見つかってしまわなくて良かったのかもしれない。
 なにより、うまくやって薬が手に入ったとしても、その薬にも限りがある。そうなればまた同じ状況に陥るだけだ。少しばかりの延命に過ぎない。
 一千万円をイヌガミに払うしか解決法は無い。月にいくらかの取り立てなら、困窮はするだろうが逃亡生活はしなくて済んだだろう。……なぜ、イヌガミはそうしなかった? それが普通の取り立て方のはずだ。一千万円なんて一気に吹っかければ、多くの債務者は早々に諦めて首を括ってしまうだろう。俺のように両親がいる、だからそのために、なんて考える人間ばかりじゃないはずだ。今になってようやく、そんな簡単な疑問が溢れ出してきたが、答えが出たところできっと状況が変わるわけでもない。
 終わらない思考を停止させるように、シャワーのハンドルを回した。思えば、ずっと同じことを考え続けている。それなのに、答えを提出する期限は残りわずかだ。俺も巡のように頭が良ければ答えを出せたのかもな、と頭によぎったが、巡もそれができなかったから消息不明になったのか。
 置いていたバスタオルで髪や体を拭く。女物のシャンプーを使ったせいか、痛みきった髪が少しだけましになっている。着替えを置いておく、とは言っていたが、深雪が着ているサイズの服を俺が着れるとは思えない。かといってびしょ濡れの服をもう一度着る気は起きないし、全裸で出て行くわけにもいかない。一応、水色のカバーが付けられたトイレの蓋の上に置いてある服を手にとって広げる。
 心配は杞憂に終わった。黒地に有名な洋楽バンドのロゴが入ったトレーナーも、灰色のスウェットもぶかぶかだ。下着は悪趣味で毒々しいパイソン柄のボクサーパンツだったが、サイズに問題は無い。
 濡れた服を片手に持ってタオルで髪を拭きながら風呂場を出ると、深雪が何やら、がさごそと床のものをひっくり返している。どうやらテーブルの上に置かれたCDプレイヤーのコンセントを刺そうとしているようだ。
「パンツ履けた?」
 こちらを見ずに聞いてくる深雪に、ああ、と返事をする。
「それだけ私のだから気がかりだったんだけど、それなら良かったわ」
「……服はお前のじゃないのか?」
「秋也のやつよ。サイズが合わなくなっちゃったからってくれたけど、それなら私に合うわけないじゃんね」
 秋也……少し考えて、焼肉屋で言っていたドラムの奴か、と思い出す。随分大柄なやつなんだな。
「まず、聞いてみてよ」
 何を聞くのかはすぐにわかった。「カルマ」の曲だろう。
「明日はちょっと特殊なライブで、尺が十五分しかないの。だから三曲しかできないんだけど、春翔がいないとなればラッキーよね」
 本当に俺に歌わせるつもりでいる。その証拠に深雪の目はキラキラと輝いていた。
「今のところ『アンデッド青春』と『ZERO』の二曲をやろうと思ってるんだけどもう一曲が……」
「勝手に話を進めるな」
 濡れた服の処理もせずに立ったまま、俺は呆れて深雪の言葉を遮った。
「あ、ごめん。コートは空いたハンガーに干して、他は洗濯機入れちゃっていいから」
 こちらを見て察したのか、CDケースを選別する手を止めて言った。洗濯なんてされたら限りのある着替えが減ってしまうが、その時は今の服を代わりにすればいいか。俺はその言葉通りに動き、部屋の真ん中に敷かれた布団の上に腰を下ろした。途端にどっと疲れが押し寄せてくる。
「続けていい?」
 こちらを気遣って、というよりかは形式的に深雪が言った。
「どうぞ」
 適当に返事をする。
「もう一曲が決まってないのよ。さっき言った二曲は比較的歌詞も簡単だから、明日一日練習すれば英二にもできるだろうけど……」
 深雪は上を向いた。考え事をするときの癖なのだろう。
「ま、それは明日みんなと相談するとして、まずは決まってる曲を聴きこんでもらうことにしますか」
 CDをディスクトレイにセットして蓋を閉じる姿を見て、俺は気付く。
「……『エイジ』をやればいいだろ」
 再生ボタンを押そうとする深雪の動きがぴたりと止まる。その後、はっきりと俺のほうを見てこう言った。
「アリかも」
 座椅子につけていた尻を浮かせて身を乗り出し、俺の頬を両手で挟む。乾いていない髪が顔に張り付いて冷たい。
「兄ちゃんの曲をやるのは、なんかムカつくけど、英二がエイジを歌うのなんてちょっとカッコいい。みんなにも連絡しておくわ」
 真っ直ぐに俺を見つめる深雪の口角がニヤリと上がる。まだ「ハザード」のボーカルが自分の兄だと主張しているのは疑わしいが、言ってみるもんだ。ただ聞いてみたい、と言ったのでは「ライブを成功させたら」とかはぐらかされて聞けないというのがオチだ。我ながら良い嘘だと思った。
 深雪の両手が頬を離れて、勢いよくテーブルの上に置かれていた携帯電話を取った。画面に素早く指を滑らせている。突然、ちらりと俺を見たかと思うと、またニヤリと笑った。
「信じてない、って顔してる」
 出会った時のような、芝居掛かった適当な言い草だが今回は当たりだ。そのまま画面に視線を戻し、画面を操作する。
「ほら、これ。兄貴と撮ったの」
 一枚の写真が表示されている。深雪の隣で屈託なく笑うのは、ライブに出演している時の鋭い雰囲気はなくなっているものの、紛れもなく「ハザード」のボーカルだった。
「先月、兄ちゃんたちの牧場に行った時の写真よ。信じてくれた?」
 細い指が画面を撫でると、画像が切り替わる。そこにはボーカル以外のメンバーが写っているものもあった。全員が共通してタオルを首に掛け、汚れたオーバーオールやツナギを着ている。兄貴だということを証明するには証拠不十分だが、何らかの深い関わりを持っているのは確かだった。その中にひとつ、特に気になることがある。
「牧場って何だよ」
 素直にそう聞いた。深雪もまたあっさりと答える。
「バンドやめて北海道で牧場やってんのよ。メンバー四人で」
 ギャグ漫画みたいに、後ろにひっくり返ってしまいそうだった。あの「ハザード」が牛やら豚を育ててる? なんてお笑い種だ。
「大変だけどすごく楽しいって言ってたわ。私のバイト先——『スペクタクル』も兄ちゃんの牧場から仕入れてるのよ」
 じゃあ俺はさっき「ハザード」の育てた牛を食べたってことか? 脳が理解することを拒否していた。俺の青春が砕けてしまう気がしたからだ。
「がっかりだな……」
 複雑な感情をトータルした結果、その言葉に落ち着いた。途端に深雪が勢いよく立ち上がり、半身が埋もれているクマのぬいぐるみの顔面に携帯をヒットさせた。
「がっかり? 何が?」
 小さな体から放たれる恫喝ともとれる問いに怖気付くほど、俺は弱っていない。
「だってそうだろ。伝説のバンドが揃ってほのぼのと牛の世話してるだと? ファンに何も言わずに急に辞めて、どういうつもりだ?」
「どういうつもりか、なんて本人にしかわからないじゃない。答えがないなら、あんたが考えたことが真実よ。言っとくけどね、昔っから兄ちゃんたちは農業をやりたがってたんだから。雇ってくれる牧場主が見つかったから夢を叶えただけの話。やりたいことをやるのに理由が必要だなんて、部外者だから言えるのよ」
 間髪入れずに深雪は捲し立てた。
「熱くなりすぎだろ、俺はただ……」
 言い淀む。自分でも、そこに何が繋がるのかわからない。
「ただ、何? 兄ちゃんに音楽の才能があったのなんて、ただの偶然よ。『ハザード』ってどういう意味か知ってる? 偶然って意味なのよ? あんたたちファンは、そりゃ悲しいかもしれないわ。でも、自分の好きな人が好きなことをするのに、何が悲しいの?」
 俺は、ただ……。
「無責任だと思っただけだ。それならそうと言って辞めればいい。お前のとこのボーカルも、急に飛んじまうなんて無責任だろ」
 彼女の火に油を注ぐために言ったわけではない。俺は素直に、正直に言っただけだった。
「無責任? 責任を感じてるから考えてやったことでしょう? 「ハザード」が牧場やりたいから辞めます、なんて言えば英二はどう思ったの? 兄ちゃんが、せめてファンの間だけでも「ハザード」らしく居続けられるようにって。春翔も同じよ。誰よりも重い責任を感じているから、考えているから……」
 深雪はそこで大きく息を吐き、頭をがしがしと掻き毟った。
「……ごめんなさい」
 座り直してから呟き、前髪を掴んで項垂れている。
 深雪もまた、何か、俺には知り得ない責任を抱いているのだろう。いや、それは責任と呼ぶより、愛情かもしれない。もしかしたら、春翔とは恋人と言える間柄なのだろうか。俺なんかより当然、深雪は春翔や「ハザード」のことを思っている。それなのに、いくら正直なことだとしても酷いことを言ってしまった。
「俺のほうこそ、ごめん」
 自分に都合のいい嘘だけを吐いて、傷つけるようなことは正直に言う。そんな意味を含んだ謝罪だった。自分の状況も、通帳を奪って逃げようとしていたことも、ボーカルなんてやる気がないということも言えないままで。
 巡は、どうしていなくなったのだろう。何も告げずに。俺が「彼は死んだ」と思えばそうなるし、「俺を捨てて逃げた」「最初からそのつもりだった」と思えばそれが正解なのだろうか。どうしても、良い方向の正解が見つからない。
「エイジをやるのは名案だと思う。そうすれば、お客さんもちゃんと聞いてくれて、話が広がれば春翔も戻ってくるかも……。なんて……」
 落ちた髪を払って、深雪は飄々とした顔を上げ、前に落ちてきた髪を払った。
「さあ、そうと決まれば喧嘩してる場合じゃないわ。時間がないもの」
 時間がない、のは俺も同じだ。こんなところで油を売っている場合じゃない。それはもう、痛いほどにわかっているはず。けれど……。
「ほら、笑って笑って!」
 いつの間にか深雪が隣に座っていて、目の前には俺と彼女の顔が映った画面があった。
 歪な笑顔を作り終わる前に、シャッターが切られる。写りを確認している深雪は、俺と同じシャンプーを使っているはずなのに良い匂いがした。
「今日はとにかく、明日やる三曲だけ聞いて覚えて」
 俺の隣に座ったまま、腕を伸ばして再生ボタンを押した。
 ザー、と砂嵐を極限まで激しく誇張したような雑音が流れる。何が何やらわからない、乱暴な音の交わり。それらの調和を取る、歪んだギターソロ。男の叫び声。メロディ、歌詞が始まっているようだが、一つとして聞き取れない。
「これ、ライブ音源。どう?」
 床や天井、部屋に内包されたあらゆるものを震わせる。より正確に言えば、溜まった空気をどこか遠いところへ流していく、そんな音だった。震えているのは自分の鼓膜でしかなく、受けた印象は比喩でしかないことはわかっている。
「良いけどさ、歌詞が聞き取れねぇんだけど」
 深雪が別の方向に手を伸ばして、枕の横に建設されている本の塔から一冊のノートを抜き取って投げ渡してきた。パラパラと捲ってみると、歌詞が書かれたノートのようだ。それよりも彼女は、こんな部屋の中で何がどこにあるのか把握しているのか。
「十三ページ目かな。今かかってる『アンデッド青春』の歌詞は」
 ノートにページ数が書き込まれているわけではないので、最初のページから数えていって目当てのものを見つけ出した。共通して見られるのは、ごちゃごちゃとした言葉や絵が書き込まれているということ。無秩序に見えるそれは「無秩序」という一つの秩序に統一されている。
 筆圧の高い、力強い文字。ところどころ漢字が間違っていたり、ぐしゃぐしゃと塗り潰されてはいるものの、解読できないほどではなかった。
 カチリ、とライターの音が隣で聞こえ、煙の匂いが漂ってくる。
 自分の血を拭った指で平らな地面を強く擦っているような声。俺の頭が悪いからか、適切な感想が見つからない。ただはっきりと言えるのは、「青春パンク」の名に恥じないな、ということだけだった。
 ……さっきから体が痛い。風邪をひく前によく似た痛みだ。これも屍喰症の症状のひとつなのだろうか。それも末期の。猛烈な眠気に襲われて、後ろに寝転がる。深雪が怒るかと思ったが、特に何も言ってこなかったのでそのまま瞼を閉じた。
 暗闇の中で、破壊音にも近い音楽に気分を集中させる。俺の想像する「正解」に飲まれてしまわないように。いや、もうとっくに飲まれてしまったんだろうな。曲が変わった気がするが、相変わらずの破壊音だ。こいつらは、何を壊しているんだろうか。俺が「破壊音」と捉えただけならば、俺の何かを壊してくれるんだろうか。遠くで雨の音が不規則なビートを刻む。

「今まで人を騙したり
 悪いことばかりしてきたね
 それでも僕は知ってるよ
 あなたの言葉は悪くない」

 それが歌詞なのか、雨音なのか、幻聴なのか。もうわからない。
 青春、ってなんだったんだろう。高校の頃に付き合ってた彼女をバイクの後ろに乗せて海を見に行ったことだろうか。そのあと、当然のように振られたんだけどさ。先輩に寝取られてたなんて知らなかったんだ。
 成績が下がったから外出禁止だと親に言われていた巡が二階の窓から垂らしたロープを伝って降りてきて、一緒に「ハザード」のライブを見るために電車で一時間かけて東京へ行ったことだろうか。
 なんにせよ、俺には何も残っていない。青春なんて、今思えばどこにもなかったのかもしれない。
 心地の良い微睡みの中で、誰かの手が俺の頭を優しく撫でている。誰の手だろう。ああ、久しぶりに、安心して眠ることができそうだ。
 どうせ死ぬなら、このままいなくなってしまいたい。いっそ最初から何もなかったみたいに、消えてしまえれば楽なのにな。
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