「大地獄」(2)

文字数 4,768文字

 直前のリハーサルを終え、一度楽屋に戻った。リハーサルと言っても俺は何もわからないので、音量のチェックも音合わせも何もかも深雪たちに任せた。ひとつのバンドの出演時間が十五分と、通常の半分だということもあり、今日は多くのバンドや地下アイドルが立ち替り舞台に立つ。「カルマ」は今日のトリ——つまり、一番最後が出番ということだ。客数はそれなりに多い。ぎゅうぎゅう詰めというほどではないが、前列は人で埋まるくらい。今のところ、計画は成功している。
 カレーを食べてから目眩がする。これから大勝負だというのに、薬の効果が薄まって切れかかっているのだろうか。
「顔色悪いよ。緊張してる?」
 深雪がスニーカーの紐をきつく結びながら、俺に問いかける。
「緊張は……そりゃあしてるに決まってんだろ。命が懸かってるんだからな」
 靴紐の具合を確かめるように、深雪が何度か足踏みをすると、カンカンと小気味いい音が響く。スニーカーらしからぬ音だが、今回ばかりはこれが正解だ。
「良かったじゃない。まだ懸けられる命があって」
 冗談なのか本気なのかわからない、いつも通りの口調。
「怖くないのか?」 
 どんな答えが返ってくるのかはわかっているが、あえて俺はそう聞いた。
「生きてるだけで、いつだって命懸けでしょう? 今更どうってことないわ」
 怖くない、とは言うと思っていたが、充分すぎる心構えに俺は苦笑した。ライブの準備は万端だが、計画の準備はどうだろう。秋也を見ると、トランシーバーを片手に、仲間と何やら連絡を取りながら俺に目配せをして、指でオッケーサインを作った。
「皆の者、そろそろ出番の時間ですよ!」
 額に時代錯誤なバンダナを巻いた夏央が、宣誓のポーズで高らかに言う。見るからに挙動不審だが、彼もまたメンバーだ。それなら大丈夫だろう。
「外のみんなも、アタシも準備オッケーよ。ぶちかましてやろうじゃない」
 秋也はトランシーバーを腰のホルダーに収め、にっこりと笑った。敵はもうここに目星をつけ、今まさに動いているだろうか。しかし、イヌガミも随分と追い詰められていたようだな。 
 夏央と秋也が先に舞台に上がり、扉の隙間から歓声と拍手が聞こえる。深雪は扉を押さえながら、片手で髪を解いて振り返らずに言った。
「英二、ありがとう」
 返事をする前に深雪は扉の向こうへ行き、俺も遅れて同じ場所へ向かう。
 地下にあるこのライブハウスへと繋がる階段は、まるで地獄に繋がっているかのようだった。上等だ。地獄だろうがなんだろうが、俺は生きてやる。
「今日はボーカルとして、スペシャルゲストを呼んでいます」
 深雪が喋ると、真っ暗なフロアがざわついた。俺の心も同じだ。皆、「ハザード」のボーカルが来ていると思っていることだろう。しかし違う。ここに立っているのは、紛れもない、俺なんだ。
「彼の名は——」
 MCが進むにつれ、観客の緊張と期待が高まっていくのがひしひしと感じられる。こんな、俺みたいなクズで悪かったな。クズなのも今日で終わりだ。終わらせてやる。
「エイジ」
 澄んだ声が俺の名前を——曲名を告げた瞬間、秋也が銃声のようなビートを刻みだす。照明が俺を捉え、同時に観客の驚いた顔が良く見える。そこにベース、ギターが続く。反響する爆音に鼓動が引っ張られる。片足でリズムを刻み、マイクスタンドに縋り付く。三……二……一……。心の中でカウントを取り、喉の奥から歌詞を引っ張り出す。

「俺には歌がある
 君には君がある
 俺には天国も地獄も
 何も無い」

 ネットカフェで聴いた曲を、今は自分が人前で歌っていると思うと変な感じだ。あの頃と変わったことといえば、俺がもう終止符を知っているということだろうか。
 期待を壊された人々は失笑を漏らしている。隣にいる友達とヒソヒソ笑ったり、そんな反応を見るに、案の定勘違いしていたようだ。しかし、小さくとはいえ俺のこともちゃんと書いていたのだから嘘はついていないはずだが。

「クソ野郎が作った天国に
 君は旅立ってしまったね
 俺は道すらも間違えて
 こんなところへ来てしまったよ」

 その通りだ。叫べば叫ぶほど、鼓動と目眩を誤魔化すことができる気がして、俺は叫び続けた。
 フロアを後にする人、写真や動画を撮る人、携帯を見続けている人。誰一人として、これから俺に起こることを知らないのだろう。

「俺には歌がある
 君には君がある
 君の中に俺の歌があるならば
 それだけで今日を生き延ばせるんだ」

 視界の中でキラキラと光っているのは、自分の前髪が照明を反射しているものだろうか。それとも幻覚だろうか。

「君を天国に追いやる神なんて
 俺がいますぐ殺してやるから
 何も無い、だから身軽に飛べた」

 自分が書いたわけでもない歌が、自分の体の全細胞とリンクしていくようだ。こんな感覚の中で死ねるならば、死ぬのも悪くない。だが、それでも死ぬのは、死んで、誰かの決めた天国なんかに行くのはごめんだ。

「いま、いますぐに抱きしめるから
 強く、強く、ぜんぶ隠してやるから」

 徐々に、受ける視線が増えている、ような気がする。俺の判断能力は随分下がっているだろう。もう正気ではいられないかもしれない。しかし、その証明に、発せられる音が生きていく。すべての音が。

「クソ野郎が作った天国に
 君は旅立ってしまったね
 俺は地獄から歌い続けて
 落ちてくる涙を拭うんだ」

 どこまでが、自分の意思で発せられているのかなんて、もうわからない。不意に、後ろから強い衝撃を受けて掴んでいたマイクに鼻っ柱をぶつけた。何事かと思って見ると、片足を上げた深雪がにやりと笑っている。
 靴の裏に鉄板を仕込む改造をしておいたのは、あながち無駄ではなかったようだ。決して本気で蹴ったわけではないはずなのに背中が痛い。ぶつけた顔面はもっと痛い。ぼたぼたと鼻血が垂れる。だがこんなもの、イヌガミにやられたことに比べたら屁でもねぇ。
 ギターとベースの音が止み、ドラムだけが静かに時を刻んでいる。喉が切れたのか、鼻血が逆流したのか、血の味がする。意識が朦朧とする。まだ諦めるわけにはいかない。最初から、このステージに立ちさえすれば歌う必要はなかった。そんな当然のことにすら気付かずに、俺は叫ぶ。

「必要なもの何一つ見つからない部屋で
 君だけは変わらずに笑っていておくれ」

 滲みだすのは汗か涙か。俺は、俺を信じた深雪を悲しませたく無かっただけ。そんなことをただぼんやりと思う。そして、ぐらつく意識は捉えた。
 ——巡だ。温度を上げるフロアの隅に一人、明らかに場違いな、おどおどした、どうしたらいいのかわからない、そんな態度の巡がいる。
 もし幻覚ならば、俺の幻想が見せたものならば、巡は拳を振り上げて、この曲に身を任せていただろう。そうじゃない。後ろの方でウーロン茶の入ったプラスチックの容器を持ってこちらを見ているのは、紛れもなく巡だ。
 次第に盛り上がっていく演奏と観客。それを端に、俺は動けずにいる。「二曲目、始まってる」と深雪が耳打ちをしてくれたが、歌詞を紡ぐ余裕がない。
「どうして」
 歌詞ではない、俺の独り言を拾ったマイクを置いて、ステージから飛び降りた。何事だ、と驚く観客を掻き分け、巡の細い肩を掴む。
 どうしていなくなったりしたんだ、とか、なんでこんなところにいるんだ、とか、色々あったけれど……。
「生きてて、良かったよ」
 巡も、俺も。いつの間にか演奏は止んでいて、俺の声だけが静まり返った部屋の中に響いていた。
「……英二、ごめん」
 巡は絞り出すようにそう言った。こういうとき、どうやって謝罪すればいいのかわからないのは俺もよく知っている。
「……薬が、屍喰症の完治薬が完成したんだ」
 連日研究したせいだろうか、やつれた瞳の奥に、確かな光があった。ざわつきが広がっていく。
「金も、全部きっちり返せる。それで、英二が許してくれるとかは思ってないけど」
 全身から力が抜ける。薬の効果が薄れてきたせいか、安堵のせいか、どちらにせよ、俺は巡の服を掴んだままずるずると崩れ落ちた。
「なんつうか、さすがだなあ」
 許すも許さないも、最初から恨んでなどいなかった。安直な言葉と笑いは、心から生まれてきたものだ。
 ——安心するのは早い。わかってる。目の前で笑うこいつは誰だ。身体の内側を絞られるような不快感。痛み。床に落ちる血液は俺の血だ。ぐらり、と意識が遠のくのを、無理矢理引き戻す。引き戻せない。
「英二! だめだ、発症したのか? そんな……」
 やめろ。やめてくれ。近付かないでくれ。誰のことも傷つけたくない。目の血管が切れたのか、見るものが赤く滲んでいく。でも、巡が生きていて良かった。これで皆救われる。あとは俺がいなくても計画通りに事は進む。ここには警官もいる。俺はすぐにでも確保され、もしかしたら射殺されたりして。生きて帰りたい。でも、俺が死んでも全て終わるならそれでいいかもな。
 膝に、何か軽い物が落ちてくる感覚があった。これは——錠剤のシートだ。誰かがそれを拾い上げ、俺の口に小さい粒を捻じ込む。俺は反射的にそれを嚥下した。何を飲まされた。誰に? 回らない頭で考えている時、後方から声がした。
「勝手に伝説にしてんじゃねえぞ! 死んじゃいねえだろうな! おい!」
 薬のシートを片手にしゃがみ込んでいるのは巡。その肩を支えに立ち上がって振り向く。マイクに向かって叫ぶ、赤い髪の青年。一目見てわかった。春翔だ。
「オレはさ、よくわかったよ。ここに立たなきゃオレは誰のことも愛せない。ここにいることがオレそのものなんだ。譲らねえぞ!」
 そうか、春翔も屍喰症だったか。だから薬を。——あれ? 春翔が戻ってくる、なんていうのは台本になかったぞ。巡のこともだが。
「春翔、それ、嫉妬じゃない?」
「春翔殿、嫉妬じゃないですか?」
 深雪と夏央の声が被さる。続いて、笑い声も。
 そうかもな、と照れたように言ったあと、ぽつぽつと言葉を零す。
「季節とか時代っていうのはさ、何回も繰り返すもんなんだ。どうしようもなくなって、もう終わりだって、今までだってずっと、何度も思ってきた。だけど——違う、だから、春は何回だって来るんだ。生きていれば、ずっと巡り続けるもんなんだ、オレがおっさんになっても」
 瞳の充血を、溢れ出す涙が洗い流していく。
「そのうち良いことがある、なんてことは言えない。でもさ、でも、生きてればオレは、ここに立てるから。立つから。ここにいることがオレだから」
 ごめん、と春翔は観客とメンバーに謝って、マイクスタンドからマイクを抜いた。
「もし誰にも、どこにも居場所がないなら来てくれよ。金がないならタダで良いから。頼りにならないけど、オレが居場所になれたら、とか……」
 何かを察したように、深雪が腰を落としてベースでリズムを刻み始める。
「辛気臭くなっちゃったな。ごめん。英二! ありがとう。絶対また会おうな。『アンデッド青春』!」
 その後、曲が始まることはなかった。春翔の後ろに隠れていて見えなかったが、秋也がトランシーバーを構えて青ざめているのが一瞬だけ見えた。
 破裂音。爆音を浴びていたせいだろうか、いまいち音に現実味が感じられない。入口の扉から入ってくる男の姿を見て初めて、それがドラムの音ではなく銃声だと理解できた。先程とは打って変わって、フロアには悲鳴が反響する。
「まわりくどいけど、しゃあないなあ」
 ——イヌガミ。なんで……。
「全員、外に出ろ!」
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