第15話

文字数 10,565文字

二〇二〇年五月三日

 撮影のための運動とダイエット、アメリカの大学の勉強、小説執筆を同時にしていた時、狂う直前まで行った気がする。自ら立てた計画だけに集中して頑張る日々を過ごすことは、正しく狂える方法だと感じた。本質を扱うためには狂わないといけないと言った父の言葉も思い浮かび、疲れて辛くても狂いたくてより尽力した。特に、寝ないで29時間をずっと集中して頑張った時、もう一歩を踏み出したら狂いの領域に到達できそうだったが、なぜかその直前で終わった。日常があまりにも辛くて歯磨きと皿洗いが幸せな時間になる奇妙な感覚。惜しい。

二〇二〇年五月四日

 今月末から大学の休みだ。その時から達也と一緒に住み、食文化考察をすることにした。食べたいものを全部書いておこう。

二〇二〇年五月十八日

 撮影から感じたことが多い。写真と現実の乖離についての考察を終えた。

 写真の中にいる人が俺であると信じられないくらいに良く撮れた。そのため、詐欺を働いた気持ちになって精神的に苦しかった。これは本来の俺ではない、こういう存在は世の中にいないと。おそらく、現実の自分もその写真の中の男だったら良かったと思うからより辛かったのだと思う。それで、その写真館の友達に聞いた。加工された写真と現実の自分はどの程度の同一線上にあるのかと。友達は難しい質問だから答えにくいと言ってから話し続けた。他人が見て可笑しいと判断するのは2次的な問題で、1次的に本人が写真と現実の乖離を感じない地点を探すことが重要だ、そうしないと内面から崩れると言った。考えてみたら、これは写真だけでなく、着飾った自分の姿とそうでない姿の差、整形手術のようなことも含まれているのではないかと思った。

 それらの集合であるSNSを対象として考えてみることにした。俺の理屈では実際に会わないと存在を認められないとも解釈できるから、SNSの中にいる我々の存在は全てが虚構であることになる。俺の考えが時代に合わないことに気付いた。更に、存在を確認するために会うとしても、それはその瞬間に限った存在だけを見ることになる。過去と今の自分は違う。人は有機体で変化し続けるから体が違い、様々なことを経験していくことによって考え方も変わる。だとしたら、本来の自分の姿はないということになるのか。いや、本来の自分の姿というものは、過去の各瞬間と今の自分、そして、今の価値観に従って進んだ時の自分、つまり、現在の自分が追求している未来の自分を含めたものではないだろうか。要するに、これは実物と写真の乖離を考える時には合わない別の主題だったことが分かった。

 「現在の実物と記録としての自分、SNSの中にいる我々について」だけを考えてみた。なぜ写真に加工をするのか。現実世界の自分が不充分であるからだと思う。まるで、仮想世界のアバターを作るようにしているのではないだろうか。それを作る原動力は現実世界の劣等感。アバターと実物の乖離の大きさは現実世界の劣等感の大きさであるのだ。劣等感は人を動かす力になりうるから悪いものだとは思わない。人間なら皆んな持っているものであり、昔は生まれ付きの限界を認めて他の手段で努力することから劣等感を無くしていたが、現代では加工という技術を使えるようになっただけである。脚をより長く、顎のラインをもっと鋭く、肌を綺麗にすることなどは、こうなりたいという表現の一種になったのではないだろうか。しかし、現実世界と仮想世界が完全に分離されていたら乖離感はなかったはず。これもアノミーであるのだ。文化のカオス状態。俺がやってみた出会い系アプリもそうだった。アプリ上の写真は仮想世界の自分であるが、実際にアプリを使う人は現実の自分。マッチングできて会うことになったら、それは仮想世界で会った人同士が現実の相手と会うことになる。その二つの世界の隙間が乖離感を産む。もし、技術が発展してアバターの状態で目的を達成することができたら問題ない。だが、現在はそのような技術がない。したがって、まず自分が耐えられる程度の乖離感を測って基準を作ることが重要であるのだ。また、仮想世界でリアルな自分の姿を見せても苦しむ要素はある。写真の原本を載せても見る人はそれが加工した写真だと思うからだ。仮想世界には綺麗で格好良い人が多いのに、そこに自分だけがリアルな姿を載せると負け犬になる。リアリティーを追求してもジレンマから苦しむことになる。これらを分からずに載せると、現在の自分を把握できず釣り合っていない振る舞いをするようになり易い。すると、自分では理由が分からないまま他人からの評価が悪くなる。当たり前に受けられるはずだと思っていた待遇を欲しがりながらより暴れて益々人間性が落ちていく。こういうことは全て仮想世界を利用する時、現代の技術水準では避けることのできない乖離感と苦痛であるのではないだろうか。

 最初は俺が精神的に辛いから考察したのだが、書いてみると現代人が考えてみるべき重要な主題だと思った。尚又、世界の流れは日常の舞台が仮想世界に移る方向に行っているから。

 また、一般的な恋愛関係でなぜ女性が男性より優位にいて持て囃されるのかについても分かったことがある。女性の基準で普通の外見というのは、男性の普通の外見より、おしゃれなどの努力が物凄く必要な状態であった。男性もその程度の努力をしたら人気を得られると分かった。残念なのは、社会通念上、男性は特定の職種でない限り、女性と比べて自然におしゃれする限界があること。不公平ではあるが、これが現実だ。

二〇二〇年五月二十六日

 小説をほぼ書き終えて最初から読んでみた。3分の2の所までは満足できたのだが、嘘だらけの女性と付き合うエピソードが可笑しい。何が問題だろう。東京に住むことになるから出会い系アプリをやってみようかな。

二〇二〇年五月二十九日

 達也の部屋にきた。彼は今日から食文化体験を始めようと、出前アプリで色々注文した。やはり食べ物にこれほどお金を使うことは抵抗感があった。達也が返してくれた10万円と仮想通貨の収益があって良かった。節約せずにちゃんと学ぼう。金欠病を治そう。

 達也に俺が狂いそうになったことについて話した。すると、彼は俺が認識していなかった問題点を指摘してくれた。その狂いの領域に到達するまでの努力に、授業や課題や試験などの時間制限があるものが入っていたこと。そういうこと無しに一日中本人の意志でやらなければならないということだった。今回も認めることが恥ずかしかったが、正確な指摘に感謝した。参考にして時間制限がないことを狂うまでしてみよう。これを今年の目標にする。だが、退学して映画脚本を書いていた時にはなぜ狂わなかったのだろう。もう狂っていたのに気付いていないだけなのか?そうでないなら、努力の量が足りなかったのか?うーん、分からない。今からやってみて考えよう。

二〇二〇年五月三十日

 払うお金がない訳ではないが、食べ物にこれほどの支出があることは今も辛い。精神的に苦しい。こう生きてはいけないという抵抗感が強い。それで、収入より支出が大きくてもお金を稼いでいる事実があると楽になると思い、またウーバーイーツのバイトをすることにした。教えてくれる人がいる時に真面に学ばないと。

 最近、MBTIというものが流行っていると聞いた。出会い系アプリの相手との話題にできると思い、MBTI診断テストを受けてみた。結果はENFJ-A。特徴を読んでみたら合っていると思う部分が多くて面白かった。信頼性がどのくらいなのかは分からないが、確実に話題として使えるものだと思う。

二〇二〇年六月一日

 出会い系アプリに写真館の友達から貰った写真を載せた。マッチングが多くて怖い。明後日の昼に会うことにした。

二〇二〇年六月二日

 小説執筆、運動、若干の労働、美味しい食べ物、お酒。何だか幸せな一日だ。

二〇二〇年六月三日

 出会い系アプリの女性は、仮想世界と現実世界の俺のギャップに失望したようだった。それは俺も同じだったけど。相手が隠そうとしている本音がまんまと読めることが面白かった。散歩の後に挨拶をして家に帰った。ウーバーイーツのバイトをしてきてシャワーを浴び、小説を書いてから出前寿司とお酒を楽しんだ。

二〇二〇年六月四日

 達也が自作曲を出した。俺も嬉しくなって祝った。自分の創作物が社会に出る時にはどのような気持ちになるのかな。俺も早くその気持ちを味わってみたい。お祝いを言い訳に普段より贅沢な食べ物を注文した。

 明日は何を食べるか期待している自分が不思議だ。来ないで欲しかった明日を期待するようになると思わなかった。

二〇二〇年六月五日

 出会い系アプリで話していたタトゥーアーティストの女性と会った。今回も失望させるだろうと思って散歩をすることにしたが、1時間くらい日常会話をしてから自然にラブホに行った。セックスする時に彼女が愛情を込めていることが感じられた。写真と実物の違いに驚かなかったことと俺のどこが良かったのかが気になって連絡先を交換した。次に会ったら理由を聞いてみよう。これからは夜遊びの基準を変える。セックスまでした人とは連絡先を交換し、その理由を聞くことにしよう。

 第一は小説のために嘘だらけの女性を見つけること。

二〇二〇年六月六日

 例のウイルスが世界的な災禍となってアメリカに行けなくなった。秋学期は現地で学びたかったのに、その時までに制限が解除されるのかな。

二〇二〇年六月七日

 出会い系アプリで話していた年上の社会人の部屋に行った。会ったこともないのに早速の宅飲みは怖かったが、ウイルスで外に出掛けたくないという意見で納得した。こういう遊びにはいつもリスクがあるし、メッセージのやり取りが面白かったし、ウイルスに感染したらアメリカに100%行けなくなるから。彼女は真面目に働いている人だったから小説の資料として不適格だと思って失望した。彼女も俺の実物を見て失望した気配があったが、なぜかお酒を飲んでセックスをした。

二〇二〇年六月八日

 昨日やってから連絡先は交換したのだが返信がない。アプリのマッチングも解除されている。失望したのにセックスした理由を聞きたかったけど残念だ。俺の実物に失望して一晩限りにしようとしたが、本人の部屋だから逃げる所がなくて、連絡先交換を断れなかったのかな。酔っ払って性器の調子があまり良くなかったし、セックスが早めに終わったけど、これが原因なのかな。今の自分は少し可笑しくなった気がする。タトゥーの女性の時にはお酒を飲まなかったのに3~40分くらいで終わった。自分の性的な能力でなく、他の側面で認めてもらいたくなったのかな。変な気持ちだ。

 仮想通貨の損失が出始めた。健太は暫く様子を見た方が良いと言った。

二〇二〇年六月九日

 達也が文化を学ぶためには旅行も重要だと誘った。そういえば、最後の旅行が高校の時の修学旅行だ。他に住まいから離れた時は目的とやるべきことがあった時のみ。語学留学をしていた時も思い出がない。旅行すると楽しいのかな。お金が沢山かかりそうなんだけど。行くかどうかは保留。

二〇二〇年六月十日

 タトゥーの女性と会った。俺に好意を持った理由は話し合って良かったからだった。また、実物が写真とは違っても男らしいセクシーな雰囲気があると言った。目がどうかしているのかな。出会い系アプリでは、楽しく遊ぶ姿を見せられず、相手に興味を持っていない状態でもないから、異性が俺を魅力的だと感じる要素があまりないと思うのだが。タトゥーの女性とはお酒も飲まなかったし。まあ、好みは人それぞれだろう。この女性は正直な人だから小説資料としては不適格だ。

 仮想通貨の損失を埋めるためにバイトの時間を増やすことにした。

二〇二〇年六月十一日

 健太はまた中近東に行って派遣勤務をすることになった。ビジネスビザだから海外に行けるのかな。健太は派遣勤務が本社勤務より給料は高いけど、業務の重さも暮らしも辛くて行きたくないと言った。だが、家族を支えることだけを考えて行くとも言った。いつも通りに心から応援すると答えた。

二〇二〇年六月十二日

 今回は俺から健太に連絡して仮想通貨について質問をした。すると、家族以上の関係だと思っていた彼に見下された。海外派遣や家の事情や長時間飛行の疲労などの様々なストレスがある時だから理解はする。だが、人間はそういう時になってこそ本能により近くなる。これは本音とは違うことだと分かっている。本能が理性に勝った状態では、自分も知らぬ間に内面に陣取っていた社会の一般的な基準が出る。俺は自分の現状を知っていて人から無視されることには慣れていたが、健太の言葉から情けない俺の姿を認識することは辛くて悲しかった。また、人間は社会的な動物であるため、多数の意見から産まれた通念が正しくないことだとしても、それがそのまま体内に入ってくることを許すしかない現実が悲しかった。それが独りでは生きていけない人間の本能であるから寂しくて切なかった。

 もし、社会的であろうが金銭的であろうが、俺が一般的な基準での成功を収めていたら、今日のような感情を覚えることはなかっただろう。なぜ人が名声と高い地位とお金を欲しがるのか分かった。

二〇二〇年六月十三日

 最近は幸せを感じる日が多かったが、昨日から気力が出ない。小説の資料収集として女性と会うこともやりたくない。

 達也と沖縄に行くことにした。

二〇二〇年六月十五日

 旅行は良かった。日常からの解放、普段より美味しい物を食べること、新しい場所と経験。何一つ楽しくないことが無い。お金は沢山かかったけど、また行きたい。

 旅行先で達也と写真を撮っていた時、俺たちのカジュアルな服装を見て若いと思ったのか、後ろからあるカップルの皮肉る声が聞こえてきた。
「そんなにバッチリして写真撮るって、俺にはもう無理無理」
「そうだね、若いからできるんだね」
「そうそう、去年まではギリギリ大丈夫だったけど、来月が入社して2年ピッタリだよ、マジで疲労が取れなくなってさ」
「それ分かる分かる」
 会話の内容も外見も20代半ばに思える人たちだった。今更だけど、自分の情熱がないことを歳のせいにする人が多いと実感した。

 達也が日常を営むことがどういうことなのか教えようと、気を遣ってくれていることが伝わった。俺は確実に人に恵まれている。

二〇二〇年六月十六日

 義務のような感覚で出会い系アプリの女性と会った。資料にできるような女性を見付けるまではセックスしないことにした。それで、最初から散歩をすることにした。嘘に慣れていない人だったから家に帰ってマッチングを解除した。

二〇二〇年六月十七日

 達也がセックスをしてきたと言った。過去の愛からできた傷の影響で、近付いてくる女性も遠ざけてきた彼にとっては長足の進歩だった。トラウマを克服できたのかと嬉しくなって聞いた。
「彼女できた?」
「さあ、そんな感じなのかまだ分かんない。でも、その子猫飼ってるけど、猫がめっちゃくちゃ可愛い、名前は豆腐で、犬みたいに懐いてる」
 達也が写真と映像を見せてくれた。性格が良い真白な美猫だった。猫好きでない俺もこのような猫なら飼いたいと思うくらいの可愛らしさが伝わった。だが、聞いたのは相手との関係だったのに、達也は猫の話しかしなかった。その達也の態度から本音を引き出すためにわざと意地悪く冗談を言った。
「それで、久々だったから、ゴムの付け方忘れたんじゃない?」
「ピル飲んでるから中に出してもいいって、でもお腹に出した」
「好き?」
「まだ分かんないって」
 達也に過去の記憶から自由になって欲しかったのだが、彼もそれができなくて辛そうだったからもう聞かないことにした。

二〇二〇年六月十八日

 出会い系アプリの女性と散歩をした。この人も不適格。

 小説を書く時間が減っていき、バイト時間が増えていく。体は疲れるが、精神は楽になる。達也と美味しい物を食べる時が一日の中の幸せな時間になった。真面にしているのは食文化考察しかない気がする。小説執筆も頑張っているのだが、書き手として伸び悩む。

二〇二〇年六月十九日

 昼にウーバーイーツのバイト、家に帰って運動してシャワー、小説執筆して夕方には出会い系アプリの女性と散歩。今回の女性は嘘に慣れている気がしてまた会えるかと聞いた。
「彼氏いるから今日じゃないと遊べない」
 だったら今日は遊べるということなのかと思ってマッチングを解除した。浮気は駄目だ。揉め事に巻き込まれるのも結構だ。また、俺が探している嘘だらけの女性は彼氏がいることも隠す人。なかなか見付からない。

 達也は豆腐の飼い主と連絡を続けている。

二〇二〇年六月二十日

 何を食べるか考えること、豆腐の新しい写真と映像を見ることが1日の楽しみになった。猫はとても可愛らしい生き物だった。

二〇二〇年六月二十一日

 達也が豆腐の飼い主の部屋に泊まってくると言った。恋愛しているのかな。今は聞きたくても我慢しよう。

二〇二〇年六月二十二日

 出会い系アプリの女性と散歩。この人は真面目で駄目だ。

二〇二〇年六月二十三日

 来月もアメリカに行けなくなった。また胃液が逆流した。

二〇二〇年六月二十四日

 出会い系アプリの女性と散歩。この人は品がないから不適格。小説の主人公がこのような人と付き合う訳がない。

二〇二〇年六月二十五日

 食文化考察を終えた。

 まず、28日間の体験から感じたこと。日常を楽しんだら自然にやるべきことに入ろうとする努力の量が減った。簡単に書くと普段より怠けた。時間と体力的に余裕があるのに、運動もしない日が増えた。その結果、何かを頑張る行為から生じる苦痛が減った。そうだとしても楽になったとは言えない。新たな出来事で苦しめられた。世界には人間に平和を与えてくれない法則があるのではないかと思ったことがある。それを他の方向で考えてみた。人はある時期に決められている最低限の苦痛の量があるのではないかと。その時期と期間と苦痛の量は人それぞれ。その量を自発的な苦痛で満たさないと、事件・事故や人間関係や健康問題などで満たされるのではないだろうかと思った。俺の場合は仮想通貨の損失、健太からの見下し、逆流性食道炎の悪化、労働で感じる辛さの増加、美味しい物を食べる時と猫の写真を見る時以外は無気力で憂鬱な気持ちになることなどがあった。

 俺は文化を楽しむことが逃れられない労働と日常の反復の中で小さな慰めだと感じた。このような暮らしを営むと消費というものが理解できる利点もあった。何事もやったことのある人が上手だから、消費もやってみた人がより賢明にできる。同じ金額を使っても質の良い瞬間を過ごせるから、同一の消費でより価値があることを作り出したと言ってもいいのではないだろうか。しかし、そういうことに執着するようになる危険性があり、気持ち良かった慰めに慣れてそれほどでもないと感じる時が必ず来ると思った。その次の段階は、普段の日常がもっと苦しくなり、より一層の刺激を探す努力をすることになるだろう。進むためには行先の方向を探し、その道を歩む自発的な苦痛が要求されるのに、日常の苦しみさえ耐えられなかったら、生きていく方向が歩きたい道から逸れるかも知れない。これは儚い夢にみえるとしても諦めずに最後までやり続けると何でも叶えられるという希望が溢れ出る話ではない。自分が選んだ道の果てまで行ってみたら崖だったという場合もあると知っている。だが、崖に立っている時に残っているのは時間の浪費と絶望のみであるのか?そのまま座り込んで崖の下を見詰めるばかりになったらそうかも知れない。しかしながら、そこで止まらないで自分が選んだ道がなぜここに繋がっているのかについて、自分の性向と状況と仕事ぶりと時期を考えたら、世の中の流れを読む主観的な目ができると思う。この過程を何度も繰り返し、数多の経験が積まれると、いつかはかなり正確に流れを把握する能力が手に入ると思う。自発的に苦痛の道を歩める力が身に付くことはおまけ。こう表現するのは曖昧かな。能力というものは開花してからも弛まず鍛え磨かないと維持できず、苦痛を伴う努力をしないと向上できないから。また、肉体的にも精神的にも限界があり、その限度を超えると壊れ始める。歳によって回復速度が違うから、能力のある状態を維持できなくなる時が来る。そのため、能力は手に入れたと言うには不安定である。いや、ここまで問い詰めると定義できることがない。兎に角、崖に辿り着いた後の過程は、そこに来るまでの旅程を上回る努力が要る時もあるから、絶望を味わった状態になってもうやりたくなくなる可能性が高い。そこから得られるものが多いから残念だが、選択は自分次第であるのだ。もっと行きたいのに力尽きて歩けなくなった時、俺が精神的に行うプロセスがある。俺はこのような道を歩いてみた人であるという事実を記憶の中に刻印すること。つまり、体内に一つの自信感玉を作ること。俺はこれが生きていくことに役立つと感じた。そうでなかったら、俺はもう倒れていたと思う。挫折した時は多いが、最近のことを書いてみる。綺麗に作った体を撮影してから挫折した俺は写真館の友達が話してくれた言葉に自信を持った。
「俺なら、体脂肪率を4.0パーセントまで削れた男だという事実を誇りに思う」
 勿論、自信感玉が謙遜の領域の外に転がって過去の栄光にすがらないように気を付ける必要はある。これからは食文化考察の結論。息抜きと慰めとして何かを楽しむことは、それが何であろうが耽溺するようになる可能性があり、そうなった瞬間からは道を歩む方向が曲がると感じたということ。特に、現代を生きていく我々には一目で危ないと分かる麻薬より、身近にある衣食住と文化が危ないと思った。努力したら飯は食っていける社会に住んでいて、手を伸ばせば楽しめるものが沢山ある時代にいる者にとって、何より方向を定める努力が重要なことではないかということを、一度は悩んでみる価値があるのではなかろうか。

 俺は幸せな生活からなる充実感を味わいながら、自分が歩もうとする道の果てまで辿り着ける人間なのかと、自分が疑わしくて怖くなった。文化を知ることは大事だと思うが、俺はこのように日常を営んで死ぬほどの努力ができる人であるのかと、繰り返し悩んだ。

二〇二〇年六月二十六日

 可愛らしい猫である豆腐の飼い主の名前は成美だった。
「明後日、成美の部屋で3対3宅飲みしない?」
 俺はもう日常を楽しむことをなるべくしないようにすると決め、その場で小説に役立つこともないと思って断った。だが、俺以外に呼べる人がいない、明後日を楽しく過ごす最後の日にしようと誘われた。それでも断った。その後も何回も断った。
「宅飲み行ったら豆腐にちゅ〜るあげられる、成美に話しておくから、な?頼む」
 行くことにした。

二〇二〇年六月二十七日

 食文化体験と旅行から消費というものを2つの側面で考えてみた。

 1つ目、どのような文化を消費しているかによって自己表現ができるということ。人は自分なりの個性があることを望む。しかし、ある特徴を自分のものにするためには物凄い努力が必要となる。それに比べて消費は何かを買ったり楽しんだりすることから個性が現れる手段である。また、消費は対象の種類によって個性表現の強度が違う。例えば、石鹸を買うことは香水を買うことより個性が弱い。コンサートと美術館は強い方だと思う。音楽も大衆性がないジャンルほど個性が強い。これは非主流文化を消費することによって自分の個性を表す雄太のお陰で分かった。彼はいつも「主流文化だけを楽しむ奴らは自分の考えがない、個性がない奴だ」と言う。怒りを含んだ口癖のように繰り返しその話をする彼から、個性を表現することも他人に認めてもらいたい行為であることが感じられた。俺が感じたことを雄太に言ったら、彼は認めたくなかったのか他の主題で話し始めた。
「人口が多くて非主流分野も稼げる他国とは違って、この国では非主流が飯食っていき辛いから、主流を貶めるべきだ」
 ちょっと聞くと筋道が通る話に聞こえたが、自分を生かすために他者を攻撃することは、俺の基準では許せなくて詭弁だと答えた。でも、雄太との会話はいつも面白い。話が逸れた、戻ろう。消費で自分を表現することの利点は、どの文化を楽しんでいるかが現れることから、自分がより付き合いたい人を寄り添わせることができる点だ。好きなことが重なる人との付き合いは楽しいから。SNSも文化の一種であり、その引き寄せる道具として適当だと思った。他にも、消費は富を表す手段にもなりうる。名品や高級外車や良い家など、これらも消費で自分の価値を表現することによって他人に認めてもらおうとすることであるのだ。俺もこれが悪いと思わない。問題はブランド品の偽物を買う人や本人の経済力に合わない物を買う人がいる点である。身の程知らずであろう。自分ならばこのような物が似合うと思っているが、実際にはそれほどの努力をしたことがない人。現代は豊かになったとは言え、非常に生き辛い時代であるのだ。仮想世界と現実世界の乖離感から逃れられないこと、手を伸ばせば刺激的な楽しさが溢れていること、容易く個性を表現できる手段が多いこと。精神的な修養は昔は大事であったことだが、今は効率と速度が重視されている風潮があると思う。だが、生活に関する全てのことを利用するのは人間なのだ。人間は昔も今も人間である。したがって、昔より今が精神的な修養が重要なのではないだろうか。鬱病が現代人の連れ合いになった理由はそこにあるのではないだろうか。

 2つ目、消費は媒介を通じて行われる非対面交流であるということ。造り出されたものを買うことは、その中に入っている作者の意図を受け入れることになり、創り出したものが売れることは、伝えたいことが受け入れられたことになると思った。
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