第22話

文字数 6,347文字

二〇二〇年十二月九日

 成美との記録を全部書いた。彼女への感情がなくならない。あの時、成美は話したいことをメッセージで送ると言った。今日メッセージが来るのではないかという考えが止まらない。

 午後10時半、成美のSNSを見たらプロフィール写真が変わっていた。いつ変わった?昨日?今日?一昨日?そうか、そうなんだ。今から数多くの男が成美とセックスするために連絡をするだろう。違う、豆腐の写真に変えたことについて考えよう。他の男を誘う目的だったら、この前のように露出が多い写真に変えたと思う。俺に連絡する機会を作ってくれたのかも。あ、駄目だ。他の何処かに感情を吐き出して小説執筆に集中しないと。

<渡せない手紙>

 もし、この手紙が貴方に届くならば、短編小説だと思って最後まで読んでください。私が望むことはそれだけです。一人の男として貴方と良いお別れをしたかったのですが、そうできず男は皆んな同じだの中の男になって悲しい気持ちでいっぱいです。更に、今から書こうとする言葉が伝わったら貴方からお節介だと思われるという不安を振り切れません。それにも拘らず、私は決めました。貴方に嫌われることは想像するだけでも酷いことですが、背中を押す行為が必要だと思ったからです。これは私のためでもあります。今でも手放せていない未練を振り切りたいからです。

 私は貴方がどのような仕事をしているのか知っていました。もしかしたら貴方も私が知っていたことに気付いていたかも知れません。世の中に長所しかないものは無いという話は合っていました。何年か前から少しではありますが、私は望んでいた世界の流れを読んで人を見抜く目が得られ、見たくなく分かりたくないことまで悟らせました。知らずにいられなくてごめんなさい。分からない方が良い現実に深く入り込んでごめんなさい。痛くて苦しくても知ることを求めてきた人であったからであり、感情で目を覆っても長く続かなかったからでした。努めて無視していた現実がもう隠されなくなった時から私の心は日々腐っていきました。この関係を終わらせることがお互いのためだと思って何回か試みたのですが、貴方が居ない世界は耐えられませんでした。既に捧げた心を回収することは難しく、幸せな経験をしてから惰弱になり、独り立ちをしたくなかったからだと思います。なので、良くない結末であると予想しながらも貴方の下に戻ったのです。戻ってまた現実を否定する過程で貴方に近付き、自分が苦しいからと私たちの関係の一線を超えた時もありました。その時に私は心が一方通行でないことを確認したかったと思います。このような愛し方をしてごめんなさい。

 一度自分の感情を尊重してからは調節しようとしてもできませんでした。なんとか今まで生きてきた間に何も知らないふりをすることと何も話さないことを練習したので、心底から沸き起こる言葉は胸が押し潰される感覚と涙を流すことを対価として払って体内に保たれました。僅かではありますが貴方が憎たらしかった瞬間に、もしくは貴方を愛している心の大きさを教えたかった瞬間に、どんな仕事をしているのか知っている、心は私に向いているのかと聞きたかった危機が少なくはありませんでした。その中で強く記憶に残っている日があります。私たちが大喧嘩をした日のことです。その日は話さなかった言葉が涙を流すだけでは我慢できませんでした。私は寮に入って孤立していた状態だったので、誰にも連絡できない状況だったのに、夜中に外へ出ることで上がってくる言葉を飲み込みました。10月のある日、秋を追い出していきなり冬が訪れたようなとても寒い夜でした。覚悟を決めたのに思ったより寒くてどうしたらいいか迷っていた時、貴方が手を差し伸べてくれて安楽で暖かい懐に帰れた日のことです。翌日の朝に私たちはまた喧嘩をしました。貴方は私が好きでないと、より好きな人が辛いのは当然だと言って私を突き放しました。そして、再び私たちの関係にふさわしい距離まで離れて何もなかったかのように平然と一緒にご飯を食べました。その日が寮に帰る日でしたが、貴方は美味しい物を買ってあげるから帰らないでと言いました。そうすることにして私たちはベッドでくっついて2作の映画を連続で観ました。リプリーとドライビング・ミス・デイジーでした。2作の映画が終わった途端、貴方は抱いて欲しいと言って額を私の胸に押し付けて号泣し始めました。泣くとしても静かに涙を流すことしかしなかった強靭な人が、言葉が話せないほど泣きながら、あんなこと言うつもりじゃなかった、ストレスを受けて追い込まれたら思っていないことも口から出ると、世界で一番悲しく泣いたのです。当時の私は言いたい言葉を我慢して良かった、貴方の大きな傷に新しい傷を上塗りしなくて本当に良かった、朽ち果てるとしても俺の苦痛を貴方に分け与えることにならなくて良かったと考えました。そして、私たちが恋人に似たような関係になる前、夜中に貴方が電話を掛けて泣いた日が思い出されました。自らの感情に素直になれない自分が嫌いだと言った貴方。その時はこれほど深い窪みに落ち込んでいるとは夢にも思えませんでした。それで、貴方を抱いて慰めながら自分に教え諭しました。私に事実を告げなくても、感情の一部を見せてくれただけでも満足しよう、自分に許されているのはここまでだと。私は誰かが泣いたとしてもつれられて泣く人ではなかったのですが、貴方の苦痛が溶けている涙が胸に当たって痛みを感じました。だから私も泣いたのです。もしかすると、これ以上は近付けないという現実を確かめたから悲しくなったのかも知れません。貴方が置かれた環境に加えて私の真面目な性格が原因になって貴方が感情をより表しにくくなったこと、特定の瞬間以外には愛していると言えなかったことについて自責する心で泣いたのかも知れません。そして、その日の約束を守らなかったこと、お許しください。

 貴方のことを理解できてその苦痛を分かっているとは言いません。私は単に理解しようと頑張って推測しただけです。貴方の混乱と苦しみは私が想像することもできず、一回知ってからは抜け出ることが難しい分かってはいけない世界から来るものですから。したがって、私は貴方を本気で愛すると同時に自分の内面ではなかったことにしていました。そうしないと、また私たちの関係の一線を超えてしまうと思ったからです。このくらいなら良い距離だと感じても、貴方が他の異性と居る瞬間を考えると胸が締め付けられ、気持ちは絶えず落ちて感情の底にも地下があることを教えてくれました。私の辛さを分かって欲しいということではありません。このような感情の起伏の反復の中でも、誰かに愛している人がいると言えるほど、貴方が価値のある人だと言いたかったのです。

 もう忘れてくれていればいいのですが、貴方も知らぬ間に傷として残っていると思って話します。私たちの恋愛の初期にあったことです。初めての彼女が風俗店で働いたことに影響を受け、異性に対する心の扉を閉めたと言ったことについて謝りたいです。私は何でも率直に話しているように見えると思いますが、そうでないこともありました。私は正体の分からない渇望のせいで目標に向かっていて、女性というのはその道を進む途中の副次的な要素として大勢いるという価値観で生きてきました。それが異性に心の扉を開けない主な理由でした。付き合っている女性に「貴方も大事だけど、俺は目標と仕事が第一だ」と何気無く話した過去が思い出されて恥ずかしいです。貴方を愛するまではそれが相手を傷付ける言葉であることも分かりませんでした。問題は、その価値観から生じる雰囲気の影響なのか、その扉を崩すために「私がこうしても開けない?」と自分には過分な女性たちが近づいて来たことです。その度に、相手の女性が綺麗で家柄が良いほど馬鹿らしく感じるようになりました。そうやって私は女性を愛することができない人になったのです。貴方に肯定的な諦念を感じてからその扉に罅が入りました。長い間開かれたことのない堅固だったダムが壊れ、そこから流れてくる水のように溢れ出る感情で今の状態になったと考えています。

 ああ、生きることは何故これほど残酷なのでしょうか。この歳にもなってまだ社会に出たこともなく独りでは自分の体を維持することさえできない私は、一歩離れて人間と世界について突き詰めることだけでも辛くてしんどい毎日を過ごしてきました。貴方は人間の汚くて醜悪なことが集まってできた社会で働いてきたから、誰よりも世渡りの残酷さが骨身に沁みたことでしょう。私は生とは祝福であると同時に呪いと罪悪だと思います。だとしても、自ら死を選んではいけないと考えるから、どうにかして生き甲斐というものを探そうとしてきました。流れるままに身を任せて生きると、以前に遭ったことと同じ脈略の苦痛に、周期的に巻き込まれるからです。私は刻苦することで視野が広くなって世界を動かすものが何なのか見えるようになりました。その代わりに一般常識は足りませんでした。「何も分からない」と責めてくる貴方が思い出されて微笑ましく思います。その能力の影響で生きることに対する虚無と何も行えない自分の現実に苦しみました。何を選んでも辛いが、せめて発展がある苦痛を慰めだと思い、見える道を歩むための能力を養っていた途中で、貴方と出会ったのです。この世で金銭に関する労働をする必要がなく、他人と比較されるしかない自ら描いた未来像を気にしなくても良かったら、私たちは長く愛し合うことができたのでしょうか。生涯を一緒に送れたのでしょうか。

 貴方を愛する前までは目標に向かって歩いていけない日常を繰り返したら、私は生きていたくなくなっていつか自殺するかも知れないと思う日々を過ごしながら自分なりに精進してきました。そうする日常の中で眠る直前はこのまま目覚めない明日を期待した日が少なくはありませんでした。しかし、誰と過ごすかによってそういう日常が幸せに変わることを貴方と一緒にいる時に気付いたのです。もし、貴方が私の本気に真正面から向き合ってくれる状況だったら、奥歯が割れるほどに食い縛って、胃袋から苦い水が上がってくる苦痛を伴って得られたものを全部捨てて、貴方と生涯を送ろうとしたと思います。いいえ、必ず喜んでそうしたでしょう。運命の人という面映ゆい世間の言葉の通りに貴方に陥ったはずだと思います。故に、今となっては私から離れてくれた貴方へ、心の奥底の名残惜しさと一握の感情を残して心から感謝することができました。誰かを真面目に愛する幸福を味わい、前に向かって進めるようになったからです。今私はその扉を閉じて再び目標に向かう道を歩もうとしています。それは貴方も同じであるでしょう。

 いつになるのかは分かりませんが、貴方も今住んでいる欠乏に満ち満ちている世界から出る準備をしないといけません。欠乏を欠乏で埋めてはいけません。いつの間にか欠乏の世界から出ようとする踠きさえしていない自分を発見する日が来るかも知れません。現在のような日常と言動を楽しまないでください。自分の能力であるとしても不当な方法で相手を利用したら、その余波で自縄自縛をもたらします。また、楽しむことに夢中になって賢明に判断できなくなります。虚栄を求めて身に余るものをすぐ手に入れようとしないでください。自分をそういうものに無理やり挟み込んだらより惨めになります。今は何も感じられないとしても治せない痕跡が残ります。危うい近道でない道を歩もうとしなければなりません。近道は実際には楽ではありません。むしろ易しく見える道の旅程でより深く傷付く場合が数多あるからです。また、他人の労働力を軽く考えてはいけません。無論、指示するのも能力であることは事実です。貴方は他人に働かせるだけでなく自らも一緒に働くことができるからリーダーとしての資質があると思います。しかしながら、本人も働くといっても頼んだことに対する感謝の気持ちを持っていてこそより高いところまで登れます。貴方は一般的な基準よりスケールが大きく、能力を秘めた人です。生まれ付きの才能が環境に埋もれている状態であるから、その事実が信じられないと思っているのでしょう。寂しさを一人で耐えようとしない本能と、自分にできるものなら全部やってみようとする欲望を抑え、他人に価値を認めてもらう手段を変えたら、種が開花するまで長い期間はかからないと思います。世界には現実を直視する人が少なく、ましてや環境を変えるほどの努力をする人はほとんどいません。貴方からその二つのことをしようとする心が見えましたが、行動に移す力とそれを維持する努力が足りていませんでした。直ちに強い志を持つ必要はありません。完璧で効率的にする必要もありません。貴方は勉強する方法と運動する方法と努力する方法を知っている人ですから、取り敢えず動く習慣を身に付けた方が良いです。最初はどんな理由を作っても構いません。意欲を自己陶酔的なことから引き出しても構いません。初心に返るという表現があるほど、最初が重要であることは明らかですが、初心にも段階があるのです。一回軌道に載せてから次の段階で必要な初心がありますからその時に直せば良いのです。私は実力や成果があっても人に助言をすることが生意気なことだと考えていますが、私自身が現在何も持っていないにも拘わらず勝手に話し続けています。よく言えたものですが、今の私が誰よりも貴方の人生が捗ることを願っているからだと、胸を張って言うことはできます。

 一つ聞きたいことがありました。直接聞いたら深いところまで入り込まないでと、貴方が遠くまで逃げると思って聞けませんでした。貴方の手首にある傷跡、私の予想とは違って不慮の事故からできたものかも知れませんが、そうでなかったら二度としないでください。私たちの関係が親友にもなれなくなったとしても、貴方が私と同じ空気を吸っていないという状況は想像することも苦痛です。大袈裟に言えば私は倒れるかも知れません。事程左様に貴方を愛しています。なので、どのような状況でも生きてください。

 貴方を理解できるほどに深い残酷さを経験していないことがごめんなさい。貴方の全てを抱いてあげられない私でごめんなさい。これは目標を叶えたい私の欲であり、私たちの現実を変えられない無能さに対する謝罪です。もし、罪悪感から私を気の毒に思っているなら、そう思わないでください。貴方と出会えたこと、貴方と共有した瞬間に対して、心から感謝しています。

 文章を書いて感情を吐き出したら気が楽になるのではないかという漠然とした期待がありましたが、より深い感情の沼に足を入れたのではないかという感覚もあります。世の中を楽に生きるためには無視する方法を学ぶべきだという話があるのですが、私はそれができない要領の悪い人であるようです。また一線を超えたと軽蔑されて悪口を言われてから進めるのか、貴方の心が完全に私に向いていたと言われてから進めるのか、若輩者である私にとっては分かりかねることです。私はいつになったら貴方を忘れられるのでしょうか。早く振り切って進もうと思いながらも、一生覚えていたい気持ちもあり、未だに頭の中がまとまりません。ただ今は誰も取り出せない胸の奥に貴方との時間と感情を仕舞っておきます。長い愚痴を最後まで読んで頂き、誠にありがとうございます。 敬具

生涯一人切りであって欲しい私の愛する人に、ある馬鹿な男より。
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