第4節 日本のノンフィクション小史

文字数 5,145文字

第4節 日本のノンフィクション小史
 以上のように、アメリカでは雑誌がノンフィクションを育てたが、日本の場合、ノンフィクションが本格的に独立したジャンルとして書かれるようになるのは、第2次世界大戦後のことである。アメリカの状況を参照するならば、ノンフィクションが発達しなかったことは不可解である。新聞は政財官界の不正・腐敗・醜聞を報道し、シーメンス事件の山本権兵衛内閣のように、内閣が総辞職に追いこまれる事態も起きている。また、関東大震災直後、空前の出版ブームが沸き起こり、『週刊朝日』や『サンデー毎日』といった週刊誌さえ発行されている。商業主義に対する抵抗感は、1905年1月から1940年9月までの『東京朝日新聞』の紙面を見る限り、今日より希薄である。この間、博報堂が第一面を買いとり、雑誌や書籍の出版広告で埋め尽くしたため、記事は一切ない。しかも、日本放送協会のラジオ放送は、民間企業が広告を受け付けず、全国をカバーする広告媒体としての雑誌の優位さは揺るがない。しかし、雑誌はマックレーカーズ登場以前のオピニオン・ジャーナリズムが中心で、ノンフィクションには欠かせない調査報道はあまり見られない。

 言うまでもなく、戦前にも優れたノンフィクションは発表されている。横山源之助の『日本之下層社会』(1899)や細井和喜蔵の『女工哀史』(1925)がその代表であろう。横山源之助は、他にも、海外移民問題をとり上げた『海外活動之日本人』(1906)を著わすなど日本のノンフィクションの魁である。

 けれども、社会の実態を描く散文はノンフィクションではなく、取材や調査に基づきながらも、フィクショナルに加工した小説が主流である。この理由を検閲の厳しさに求めることはできない。確かに、多くのプロレタリア文学が当局から削除・発禁を命じられ、表現の自由も十分であったとは言いがたい。しかし、戦前のテキストをあたると、それが今日の先入観とは違う基準だったことを思い知らされる。農商務省による工場調査に嘱託として横山源之助が参加してまとめられた『職工事情』(1903)は、当時の労働現場が以下に暴力で支配されていたかを生々しく伝えている。

 一例として、虐待・暴行された挙げ句、失明してしまった機織工女カノの証言を引用しよう。

 縄を股の下に入れて、股から肩へ襷に縛って、それをまた腰の処で縛って、そうして高い敷居へ宙吊りに吊って打たれたんです。それは一時間ばかりで堪忍してもらったけど、またその翌日、腰だの何かが痛んで受取ができなかったもんだから、今度はまたブリキの銅壺(石油缶なり)をやっぱり股に挟んで、それで(残酷卑猥につき中略)といって来たんけど、そん時は友達が託ってよしたんです。

 この報告書は戦前には復刻されなかったけれども、官製の文書でさえここまで記すことができている、これと比べると、プロレタリア文学は取材・調査が不足し、その代わりに、イデオロギー性が色濃い。小林多喜二の『蟹工船』(1929)を例にとると、蟹工船を舞台にしながら、蟹の捕獲や缶詰の生産工程、人員の具体的配置などに触れられていない。ノンフィクションは規範ではなく、実態を描く。それを書くには、ジャーナリストの技能が必要である。

 作者は自分の意見を語るのではない。扱っている対象から発せられる声を聞かなければならない。こういったジャーナリスティックな取材・調査の方法が志望も含めて作家の間に普及していない。何しろ、アメリカでは大学にジャーナリズム学科が設置され、そのリテラシーを体系的・総合的に教育している。ジャーナリストは、医師や弁護士と同様、専門職であり、体系的・総合的な教育が不可欠であって、組織的に再生産される必要がある。それに対し、日本においては現場で一から覚えるしかない現状とあっては、それもやむを得ない。

 確かに、日本でも、1920年代の一時期、ジャーナリズムの専門教育が行われている。1910年代に新聞産業が拡大するにつれ、専門教育の必要性が議論されている。当時、取材記者は「探訪者」と呼ばれ、記事を書かず、ニュースを巷から集めることを専門にしていたが、とにかく評判が悪く、「羽織ゴロ」と毛嫌いされている。この状況に危機感や憂慮を覚える人たちは「新聞記者」を職能と位置づけようと制度設計に向かう。

 1923年9月1日に起きた関東大震災は新聞業界の地図の書き換えを促す。大阪の新聞社が東京に進出し、産業規模が拡大する。大卒も新聞社を希望するようになり、入社試験も実施され始める。と同時に、さまざまな養成機関が設立されている。さらに、欧米の動向も参考にしつつ、新聞記者の資格の制度化の検討も始まり、「新聞士」の認定も論議されている。しかし、激しい論争の後、1930年代には資格制度は斥けられ、ジャーナリスト養成も社内教育が中心になる。この辺の事情は、現在、研究課題として残り、まだ明らかではない。

 篠田一士は、『ノンフィクションの言語』(1985)において、19世紀の近代文学は情報伝達の昨日も帯びていたが、急速に近代化した日本では、ロマン主義の受容に追われるあまり、それをノンフィクションに委ねざるを得なかったと論じている。しかし、ここには近代ジャーナリズムに基づく社会性という観点が欠落している。ノンフィクションは具体的な個別的事例を追求することで普遍性を見出すわけではない。それでは、チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)の『種の起源(On the Origin of Species)』(1959)もノンフィクションに含まれてしまう。そうではなく、ノンフィクションが浮かび上がらせるのは近代の社会性である。

 「ありのままを書く」をモットーに、自然主義文学から派生した私小説が日本近代文学の中心的地位を占めている。しかし、これらは、著しく社会性に乏しく、ノンフィクションとは呼べない。ノンフィクションはリアリティショーではない。スポーツや芸術、芸能を舞台にしていようとも、ノンフィクションには「社会とは何か」という根本的な問いがあり、公共性・公益性への寄与においてその存在意義がある。読者は扱われている対象を通じて社会を改めて考える。

  戦前にも私は匿名でしばしばものを書いた経験をもっているが、こんど単なる匿名評論ではなく、「猿取哲」なる新しい人間を創造して、陰からこれを入形のようにあやつる、というよりも、自分がこれになりきることだというふうに考えた。
「猿取哲」の特性は、まず第一に世間に通用している主義主張を決してもたないことである。厳正中立、不偏不党、徹底した是々非々主義で押し通すことである。書くのは大宅壮一であるが、書くことは大宅壮一から独立すべきで、大宅壮一個人にとってどんなに親しい人間をあげつらう場合にでも、絶対に私情には影響されないで、何でもいってのけられる立場に立とうというのである。そのころの日本はまだ“主義”という名のついた“思想”のレッテルが横行していて、生きた人間がいうよりはレッテルがものをいうことが多かった。そこで時と場合によっては「猿取哲」がその生みの親である大宅壮一をやっつけねばならぬこともあり、事実やっつけたこともあった。
 世間はこれを文筆アクロバットと見た。だが、私は前にのべたような目的と信念をもって、一つの試みとして、計画的にやっていたのである。
(大宅壮一『「無思想人」宣言』)

 傑出したノンフィクションが登場しても、後継者が生まれず、流れが形成されない。ノンフィクションの方法論が世代を超えて継承されていない。花が咲いても、種をつけない。戦後、こうした現状を変えるのに最も貢献したのがこの大宅壮一であろう。

 1957年、彼が中心となってノンフィクション・クラブを設立する。ノンフィクションに不可欠な方法を後進に指導し、ノンフィクションを独立したジャンルへと育成するのに努めている。ノンフィクションの執筆には、ジャーナリストのリテラシーが必要である。それは習得されるスキルであって、自然に身につくものではない。60年代後半から、その活動は実を結び始める。努力が実り始め、70年代には、独立したジャンルとして確立する。石牟礼道子の『苦海浄土─わが水俣病』(1969)や鎌田慧の『自動車絶望工場』(1973)はこの時期を代表する。

 さらに、日本のノンフィクションにとって、歴史的な作品が発表される。1974年、『文藝春秋』11月号は「田中政権を問い直す」という特集を組み、立花隆の「田中角栄研究─その人脈と金脈」と児玉隆也の「淋しき越山会の女王」の二本の作品を掲載する。目次には、前者のリードとして「人は詳細を知らずに金権政治という。本誌は雑誌ジャーナリズム始まって以来の大調査に基づいて、その実態を今ここに明らかにする」、後者では「この人の存在自体が家政的国政の象徴である(。)いいわるいを超えてこれが自民党の体質だ!」と記されている。

 田中角栄内閣総理大臣は、この雑誌記事、特に前者の内容をめぐって国会内外で激しく追及される。12月9日、絶えきれなくなった田中内閣は総辞職する。

 この一件は、しばしば、一本のノンフィクションが首相を退陣に追いこんだと伝説的に語られる。しかし、立花隆のレポートが発表される前から、田中首相への世間の風当たりはすでに厳しい。

 1972年7月16日に、内閣総理大臣に就任したときの田中は「今太閤」ともてはやされ、各種の世論調査は70%前後の高い支持率を示している。ところが、1973年に、彼の日本列島改造計画が不動産価格と建設資材の高騰を招き、さらに、秋には第4次中東戦争に伴う第1次オイル・ショックが起こり、経済状態は急速に悪化する。その間に、田中の金権体質の噂に対して、当初はいぶかしく思っていた世間も次第に信じるようになり、失望感が広がっていく。とうとう74年7月に実施された参議院議員選挙で自民党は大敗を喫してしまう。角栄人気は今は昔という有様で、首相の交代は時間の問題と見られるようになる。読者が田中叩きの記事を待ち望んでいるときに、発表されたのが「田中角栄研究」である。それは辞職寸前の田中首相に最後の駄目押しをしたというのが正確なところだろう。

 元々、この作品は立花隆自身の発案ではない。彼の『田中角栄研究 全記録』によれば、74年8月25日頃に、『文藝春秋』編集部から田中政権に関する企画のアイデアを求められ、それに対し、権政治の実態を世間に知らしめるために、集金手法を調べることを勧めている。当初、立花隆はそれを自分で手がけるつもりはなかったが、アシスタントを十分に用意するからと編集部に説得され承諾している。自身の立てた取材計画に沿って、アシスタントと共に作業を進め、最終的な原稿作成を行っている。

 「田中角栄研究」は雑誌における日本初の本格的な調査報道であり、各方面に大きな衝撃を与える。調査報道の手法の有効性が確証され、積極的に採用されるようになっただけではない。月刊総合誌がそういったノンフィクションを発表する主要媒体となったことも大きい。

 月刊総合誌は、広津和郎の「松川裁判」が『中央公論』1954年4月号から4年半に亘って連載されるなど従来からノンフィクションを掲載していたが、自認しているかどうかは別にして、知識人が論文や評論、批評、エッセイを発表し、議論をするのがメインである。こういう雑誌を「論壇誌」や「オピニオン誌」とも呼ぶ場合もある。『文藝春秋』11月号でも、小田実の「国家はどのようにしてできるか」や橋本明の「征韓論を排す」、丸谷才一の「四国遍路はウドンで終る」、倉田保雄の「鎖につながれたアヒルの反骨」などが掲載されている。東西冷戦が始まり、各雑誌のイデオロギー傾向の強い論文を中心にすえることが常態化している。その状況がこのノンフィクションの成功によって変わる。1966年創刊の『月刊現代』が長編ノンフィクションを積極的に掲載するように、ホーム・グラウンドを獲得したノンフィクションは、日本でも、飛躍的に発展していく。

 主張というのは、すごく難しいんですよね。主張することがマイナスになる場合がある。つまり説得力がない主張というのは、マイナスでしかないでしょう……。説得力がある主張というのは、あまり主張しない主張だと思うんです。その主張が通りだけの材料をあらかじめ与えておいて、あまり言葉は使わない。
(立花隆『ノンフィクションは、いま何をどう伝えるのか?』)
 
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