第3節 ノンフィクションの文体

文字数 2,498文字

第3節 ノンフィクションの文体
 この写真が文章表現に与ええた衝撃は計り知れない。ノンフィクションは写真の特性を文章表現にとり入れる。小説や批評と比較してみると、それは明瞭になる。

 言葉は抽象的・一般的なものを容易に示すことができる。そのため、写真が登場して、初めて、書き手は文章表現が具体性・固有性への意志が不徹底だったことに気づかされている。批評はノンフィクションより古く、18世紀欧州で諷刺の形式をとって全盛時代を迎えた散文ジャンルであり、「在野の文学」である。時事性だけでなく、アカデミズムも兼ね備えているため、抽象的な課題を直接的にとり扱うことができる。「ノンフィクション」というテーマを書く場合、ノンフィクション作品であれば、現場で活躍している作家や編集者などへのインタビューを通じて構成していかなければならないが、批評においては取材は必ずしも必要ではない。それに対し、ノンフィクションは取材のできない対象を扱えない。事情を知る関係者がすべて亡くなっている以上、ユリウス・カエサルの暗殺事件の舞台裏や真相をノンフィクション化することは不可能である。ノンフィクションは、基本的に、同時代を対象とする。

 他方、抽象性を扱えるということは、批評はそこにないものも対象化できるので、未来や過去も語り得る。レイチェル・カーソン(Rachel Carson)の『沈黙の春(Silent Spring)』(1961)は冒頭で未来を寓話化しているが、あくまでも、今の社会に対する警告として描いている。

 文体や構成の展でもその実在性が反映する。ノンフィクションは、本当の社会の姿を描くために、すでに社会的に認知された文体や構成を用いる。それに対して、批評は、こうした因習には従わない。社会を風刺し、あるべき姿を語るため、文体や構成は非常に自由である。

 近代小説は近代社会に登場した普通の人々を扱う「市民の文学」である。登場人物は等身大で、その性格・心理・志向は社会が表われたものである。社会的仮面、すなわちペルソナを被った本当の人間あるいは人間の真の姿を描写しようとすることから、しばしば因習的とならざるをえなくなる。しかし、反面、登場人物の心理に自由にかつ深く立ち入ることができ、それによって読者は平凡でどこにでもいそうな主人公に共感することも少なくない。等身大の人物をとり扱うことができるが、それ以外は不向きである。この短編形式は一般的には「スケッチ(Sketch)」と呼ばれている。

 ノンフィクションは心理描写を行わない。写真のように、対象を外側から見る。作者が登場人物の私的領域である内面をあれこれ想像することはせず、公的領域の外発されたものだけを記す。その代わり、等身大に限定されることなく、いかなる人物も対象にできる。ノンフィクションは社会的文学であり、扱うべきは公的領域である。各種の証言を集めてその人物像の複雑さを提起する試みは重要であるが、アドルフ・ヒトラーの内面描写をして、よき家庭人だったと強調することでその公的行為を救うのがノンフィクションの仕事ではない。心理描写の禁止は、ノンフィクションの弱みや限界ではなく、強みであり、可能性である。

 以降、ノンフィクションは新しく出現した映像メディアの衝撃に刺激を受け、その特性をとり入れ、自己変革していく。ノンフィクションはまさに「複製技術時代」(ヴァルター・ベンヤミン)の散文である。

 ジョン・リードの前には、静止画である写真ではなく、動画の映画が登場している。画像と映像の間でも、異なった点がいくつかある。動きを獲得したため、映像の、時制は現在形である。写真は距離の遠近法だけが効果をもたらしていたが、動画では、それと同時に、時間の遠近法も作用する。アップになると、時間が速く、ロングになると、逆に遅く感じられる。

 そのため、映像を編集する際に注意しないと、日常的な感覚と逆転することがある。人はじっくりと対象を見ようとするとき、顔を近づける。しかし、映像ではアップのシーンは時間が速く感じられるので、せせこましくなる。映像のリテラシーを理解して撮影・編集しなければ、効果的な映像表現は難しい。

 1910年代後半、D・W・グルフィスは映画を庶民の娯楽だけでなく、芸術にまでその可能性を拡張している。フェイドインやフェイドアウト、クローズアップ、クロス・カッティング、カットバック、ラスト・ミニッツ・レスキューを考案し、一つの作品に複数、最大で四つまでの筋を並行する方法も導入している。これはリードのロシア革命を描いたノンフィクションの手法そのものである。1925年、ソ連のセルゲイ・エイゼンシュテインが『戦艦ポチョムキン』でモノクロ映画の可能性を極限まで追求して見せる。

 1960年代に出現したニュー・ジャーナリズムのときには、テレビがお茶の間に入り込んでいる。先の特性は動画一般であり、主に映画を想定してきたが、テレビとなると、さらにいくつかの違いが出てくる。テレビにはテレビのリテラシーがある。

 テレビの時制は現在進行形である。映画はシーンの切り替えの際に、1秒24コマを基準に場面に応じて8コマや12コマといった具合に選択できる。テレビでは、生放送はもちろん、多くのスタジオ収録の番組は複数用意されたカメラの切り替えによってシーンが入れ替わる。このスピードは映画とは比較にならないくらい速い。フィルムのコマ数に換算して、3コマで切り替わることさえあるが、映画ではその倍は最低でも費やす。

 また、テレビは家庭で見られるため、ながら視聴を可能にする必要がある。それには、音声による情報量を増やし、聞いているだけで、話がわかるようにしておかなければならない。そうすると、ニュース原稿を読むキャスターでお馴染みの上半身だけ映すバスト・サイズのカットが多くなる。これらの特徴のため、ワン・ショットに入る情報量が少なく、それを速い切り替えと音声によって補う。俳優も、映画と比べて、日常性が透けて見える情報量の少ない顔のタイプがブレークする。
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