第3節 インターネット時代の調査報道

文字数 2,580文字

第3節 インターネット時代の調査報道
 調査報道がすたれれば、それを喜ぶ連中も少なくない。そこで、アメリカでは調査報道にとり組むNPOが登場し、成果を挙げ始めている。寄付によって運営し、ネットで記事を配信している。ニューヨークの「プロパブリカ(ProPublica)」やワシントンDCの「共性保全センター(The Center for Public Integrity)」などがその一例である。こうしたサイトでは分かりやく読みやすい記事ではなく、むしろ、読み応えがある入り組んだ長文の方に人気がある。いずれもプロのジャーナリストが記事を書き、法的トラブルにも対応できる専門家を用意している。正確性・公正性・公共性において、ブログよりもはるかに高い基準を設けている。長文を読むのに適したモニターやフォントの開発が進められているが、長年に亘って蓄積されてきた書籍のレイアウトには及ばない。また、電子書籍の端末もまだまだ高額である。しかし、技術革新がそれを解決するに違いない。もし成功すれば、調査報道の重要性が再認識されるだけでなく、それを可能にする新たなビジネス・モデル確立のきっかけとなるだろう。広告収入に依存しない課金のシステムも成り立つだろう。読み応えのある記事を提供すれば、読者は対価を払ってもかまわないはずだ。記者中心でもなければ、読者中心でもない。両者は一つのチームであり、ジャーナリズムは読者と共生する。

 プロパブリカのポール・スタイガー(Paul Steiger) 編集長は、同組織のホームページにおいて、「インターネット時代において、出版のプラットフォームの数と種類は爆発的に増加している。しかし、こうした新しいものので、オリジナルにあたる詳細な報道は皆無に等しい。要するに、意見の情報源は激増しているが、その意見の元になっている事実の情報源は縮小している(The number and variety of publishing platforms are exploding in the Internet age. But very few of these new entities are engaged in original, in-depth reporting. In short, sources of opinion are proliferating, but sources of facts on which those opinions are based are shrinking)」と言い、プロパブリカの必要性を説いている。ジャーナリストは専門職であり、そのリテラシーを体系的・総合的に習得していなければ、記事を書けるものではない。ウェブは、そのため、オピニオン・ジャーナリズムに舞い戻っている。

 こうしたネットの現状に対して、調査報道に携わるジャーナリストのみならず、タブロイドからも憤りの声が伝わってくる。SBCが2009年6月30日の『ナイトライン(Nightline)』で特集したように、マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)の死に際して、アメリカの各ゴシップ誌は誌上にこだわらず、競ってウェブで最新情報を発信している。しかし、記者はいずれもアカデミズムでジャーナリズムの学位を得ている。対象がバラク・オバマ(Barack Obama)であるかブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)であるかが違うだけで、手法に違いはない。持ちこまれる大量の情報を精査し、裏づけをとった上で、報道する。情報を垂れ流すことなどしないし、ジャーナリストとしてやってはいけない一線というものも心得ている。

 確かに、インターネットは活字媒体のみならず、映像媒体の報道にも変化を促している。2009年に実施されたイランの大統領選挙では、投票結果の発表以降、当局は外国メディアの取材活動を厳しく規制し、報道はウェブ上に投稿された写真や動画に頼っている。報道ならびに分析の情報源はYou TubeやTwitterである。ハバナ訪問中に偶然革命に遭遇した写真家マリ・エレーヌ・カミュ(Marie Hélène Camus)の手記のようなノンフィクションはもはやありえない。

 ジャーナリズムが発達するにつれ、煽動性の問題が大きくなってきたが、ネット社会はそれを頻繁にしている。送り手と受け手の間で、感情の中でも「怒り」と「驚き」がイメージを共有しやすい。これらは情動と関係し、適応行動に直結する。この二つの感情は明確な対象によって引き起こされ、交感神経を強く刺激し、情報処理に割りこんだり、その資源を奪ったりして、思考力や判断力を低下させる。ある特定の刺戟に対する反応であるため、急激に精神状態の変化が自覚され、生理的喚起と表情表出が伴うが、一時的な感情に過ぎず、遺族性は弱い。世界的に評価を受けている日本の芸術家や作家、演劇人は、必ずと言っていいほど、作品に「驚き」を用いているが、それは受け手とイメージを共有する最も安易かつ確実な手口だからである。現在でも、具体的な例を挙げるまでもなく、マスメディアやインターネット上には怒りや驚きを引き起こす対象に溢れ、人々がそれにより衝動的・独善的な行動に走ることも少なくない。

 言うまでもなく、活字媒体ならではの調査報道も厳然としてある。ウォーターゲート事件(Watergate Scandal)におけるボブ・ウッドワード(Bob Woodward)とカール・バーンスタイン(Carl Bernstein)の姿勢は、活字ジャーナリズムでしかありえない。情報提供者を「ディープ・スロート(Deep Throat)」のままで、その映像なしで報道し続けれるのはテレビでは難しい。まさかリンダ・ラヴレース(Linda Lovelace)の画像を放映し続けるわけにもいかないだろう。テレビは協力者に撮影を同意してくれないと、その説得力を十分に発揮できない。他方、活字では匿名ですむ。活字媒体による調査報道は依然として有効である。活字媒体の調査報道ならびにノンフィクションは、新たな映像メディアが登場すると、その特性を文章表現に生かしつつも、自らを見直す契機としている。
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