第2節 記者クラブの弊害

文字数 1,418文字

第2節 記者クラブの弊害
 日本の場合、1942年に戦時体制の一環として内務省が指導した一県一紙制がほぼ戦後も存続したため、新聞社の経営規模がアメリカより大きい。販売部数の低下や広告収入の現象はあるとしても、全国各地で新聞社がばたばたと経営危機に陥る可能性は、現時点では、低い。しかし、調査報道を日本で主に担ってきたのは、新聞ではなく、雑誌である。アメリカの活字報道の新たな姿の模索は、日本のノンフィクションの今後を考える際に、参考となる。

 新聞以上に雑誌が調査報道で成果を挙げた一因は記者クラブ制にある。雑誌はこの制度の外で活動する。言論統制は仕上げの段階に入る。1941年11月、政府は、すべての新聞社に「新聞統制会」への加盟や記者クラブの整理などを求める「新聞ノ戦時体制化ニ関スル件」を閣議決定する。

 記者クラブ自体はこれ以前にも存在する。1890年、第一回帝国議会の新聞記者取材禁止の方針に対して、『時事新報』の記者が在京各社の議会担当に呼びかけ、「議会出入記者団」を結成する。同年10月、これに全国の新聞社が合流し、「共同新聞記者倶楽部」と解消し、記者クラブ制が始まる。

 しかし、この統制のため、記者クラブの数は3分の1も減らされると同時に、自治も禁止されている。1941年12月、日米開戦後内閣情報局が「記事差し止め事項」を作成し、報道に対する管理統制を強め、政府は「新聞事業令」を公布し、新聞社を統合・削減し、「一県一紙」体制を確立させていく。

 戦後、記者クラブ制が復活する。これは政府や国会、行政機関、自治体、各種組織・団体などを担当する記者他とがお互いの親睦を高めるための自治会である。もちろん、これは建前であって、実態はそうではない。特定の報道機関のみが参加でき、ニュース・ソースとの接触をほぼ独占し、一見さんお断りの極めて閉鎖的な制度である。

 現在の記者クラブは、戦時下に内務省指導によって結成された「日本新聞会」とは別組織ということになっている。だが、現行の制度は、日本新聞会の傾向を受け継いでおり、それ以前の自主的な記者クラブとは異なっている。言論統制の前は、登録制がなく、クラブと言うよりもサロンであって、相当ゆるやかな集合体であり、そもそも複数の会が併存し、一元的ではない。戦後の記者クラブにはこうした風通しのよさはない。

 現行の制度の下でも、実際、地方紙も含めて、傑出した調査報道も見られる。何事も工夫次第だ。記者クラブ制度の帰省がかかりにくいテーマや切り口を選べばよい。けれども、特定の個人が可能だったからと言って、その制度存続の根拠にはならない。近代的制度は個人の資質に依存しない。

 昨今、逆の対応も見られる。記者クラブが担当組織から事情を説明され、承知していながらも、世論の流れに抗うのが恐くて、それを口にせず、批判に回る。これは世論が感情的に過熱しているときに怒起こり、その組織の対応は二つに分かれる。多勢に無勢として反論せず、それを甘んじて受けるか、とりあえず、ほとんど無意味な形だけの態勢をとるかのいずれかである。これらは刑事司法や安全保障などあまり一般に知られず、むしろ、見せないようにしてきた領域でしばしば生じる。記憶に新しいところでは、記者クラブ所属のすべての報道機関がそうだったわけではないけれども、2009年4月に北朝鮮が実施した飛翔体発射実験の際の自衛隊による対応がそれに相当する。
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