第1話 大きな古時計
文字数 2,356文字
ときどき思い出しては聞いて涙する曲がある。
何に感動したか分からないまま、自然に涙が頬を伝っている。
2002年8月に出た平井堅の「大きな古時計」だ。当時大ヒットとなったのは、高くて透き通る情感のこもった平井堅の歌声にあるのは誰もが認めるところだろう。
原曲は1876年にアメリカの作曲家ヘンリー・クレイ・ワークが作詞・作曲したものだが、日本では、1962年に作詞家保富庚午が訳詞したのをNHK「みんなのうた」で歌われたのが最初だ。2002年が40周年だったことから、再度「みんなのうた」で取り上げられたのもヒットの一因になっただろう。
ただ、「大きな古時計」という詩と曲が持つ情感が、私たちの無意識にある感覚と共鳴したこともヒットの大きな要因のひとつであることも忘れてはならない。
では、どんな情感が無意識の共鳴を誘ったのか。ワークの詩と保富の訳を比較しながら、どちらも平井堅の歌声で味わってみた。
原詩と訳詞では、忠実な訳にも関わらず、詩全体の情感には違いがある。
曲名では、ワークが"My Grandfather's Clock" (私のおじいさんの時計)と、おじいさんと時計の関係を示唆したのに対して、保富は「大きな古時計」と、古時計そのもの存在感を強調した。
詩の出だしを比較してみると、
ワーク:My grandfather's clock was too large for the shelf, so it stood ninety years on the floor.
(おじいさんの時計、大きすぎて棚には入らない。だから90年間、床に立っていた。)
It was taller by half than the old man himself, though it weighed not a pennyweight more.
(背丈はおじいさんの1.5倍、でも目方はおじいさんとちょうど同じ。)
保 富:大きなのっぽの古時計 おじいさんの時計 100年いつも動いていた ご自慢の時計さ
ワークのそのあとの詩でも繰り返されるのは、おじいさんと時計の不思議な一体感の物語だ。
それがはっきりするのは、何度も繰り返される有名なフレーズだ。
ワーク:But it stopped short, never to go again, when the old man died
(でも急に止まって、二度と動かない、おじいさんが死んだ日に)
保 富:いまはもう動かないその時計
ワークの詩では、おじいさんの死と時計が動かなくなったことが同時に起こった不思議さを表現しているのに対し、保富は倒置法と体言止めによって、古時計が静かにしかし存在感を持って立っている姿を余韻として残している。
詩の忠実な訳詞でありながら、違いが生まれるのはなぜか。
私は場所の違いに視線を向けたい。
この詩はある実話の設定を変えて脚色し直したものだという。おそらく時計と人間の不思議な関係を聞いたワークは、産業の近代化が進む社会にあって、モノであっても大切している人間と運命をともにするような一体感を醸し出す不思議なことがあることを表現したかったのだろう。
孫がおじいさんと時計の不思議な物語を客観的に語っていくスタイルを取っているのは、その純粋な気持ちを表現したかったからではないだろうか。描かれているのは、時計というモノと人との関係による物語だ。
他方、保富には古時計そのものの存在感が重要だった。そのためワークが90年とした年数をあえて100年に変えている。歌ったときの語調が悪いためだという解釈もあるようだが、おじいさんとの一体感という意味では「90年」は限度だろう。それをあえて100年としたのは、古時計の存在感を重視したからではないだろうか。
そして、その視点を歌っている人に置いた。
歌ってみると分かると思うが、自分の心にある「古時計」の物語を語っているように感じないだろうか。
保富の訳詞は、高度成長の途上で古い慣習、風景や建築物などが徐々に消えていく時代にできている。大きな古時計のような人と長くつながりを築いてきた場所を描くことで、古い物を大切にしていく心の共感を広げていきたいと思ったのではないか。
幼いころに母親が「大きな古時計」を台所でいつも歌っていたことから、平井堅にはこの曲に対する強い思い入れがあった。それが歌に対する執着の原点ともなった。デビュー当時からライブでも披露していたようだ。
シングルCDのジャケットの写真に、自身が小学4年生のときに描いた実家にある古時計の絵を使用したことも彼の思い入れの一端を示している。
平井堅がこの歌を歌うときに心に広がっている場所は、実家の古時計であり、おかあさんなどの家族とのつながりの場所なのかも知れない。
では、私はなぜこの歌を歌うと自然と涙が出るのだろう。
この歌を覚えたのは小学校1、2年のころだろうか。クラスのみんなと一緒によく歌った記憶がある。その場所が蘇るのだろうか。
「天国へのぼるおじいさん」で、自分のおじいさんの死を思い出すのだろうか。
あるいは、「うれしいことも 悲しいことも みな 知ってる 時計さ」というフレーズを歌うとき、どこかに自分の喜びや悲しみを本当に分かってくれる存在があるという思いが重なっていたのだろうか。
来年は平井堅の「大きな古時計」が出て20年、「みんなのうた」からは60年になる。
新型コロナの感染が治まって、新しい変化を生んでいくきっかけのひとつとして、「大きな古時計」が息を吹き返したらいいのにとひそかに思っている。
何に感動したか分からないまま、自然に涙が頬を伝っている。
2002年8月に出た平井堅の「大きな古時計」だ。当時大ヒットとなったのは、高くて透き通る情感のこもった平井堅の歌声にあるのは誰もが認めるところだろう。
原曲は1876年にアメリカの作曲家ヘンリー・クレイ・ワークが作詞・作曲したものだが、日本では、1962年に作詞家保富庚午が訳詞したのをNHK「みんなのうた」で歌われたのが最初だ。2002年が40周年だったことから、再度「みんなのうた」で取り上げられたのもヒットの一因になっただろう。
ただ、「大きな古時計」という詩と曲が持つ情感が、私たちの無意識にある感覚と共鳴したこともヒットの大きな要因のひとつであることも忘れてはならない。
では、どんな情感が無意識の共鳴を誘ったのか。ワークの詩と保富の訳を比較しながら、どちらも平井堅の歌声で味わってみた。
原詩と訳詞では、忠実な訳にも関わらず、詩全体の情感には違いがある。
曲名では、ワークが"My Grandfather's Clock" (私のおじいさんの時計)と、おじいさんと時計の関係を示唆したのに対して、保富は「大きな古時計」と、古時計そのもの存在感を強調した。
詩の出だしを比較してみると、
ワーク:My grandfather's clock was too large for the shelf, so it stood ninety years on the floor.
(おじいさんの時計、大きすぎて棚には入らない。だから90年間、床に立っていた。)
It was taller by half than the old man himself, though it weighed not a pennyweight more.
(背丈はおじいさんの1.5倍、でも目方はおじいさんとちょうど同じ。)
保 富:大きなのっぽの古時計 おじいさんの時計 100年いつも動いていた ご自慢の時計さ
ワークのそのあとの詩でも繰り返されるのは、おじいさんと時計の不思議な一体感の物語だ。
それがはっきりするのは、何度も繰り返される有名なフレーズだ。
ワーク:But it stopped short, never to go again, when the old man died
(でも急に止まって、二度と動かない、おじいさんが死んだ日に)
保 富:いまはもう動かないその時計
ワークの詩では、おじいさんの死と時計が動かなくなったことが同時に起こった不思議さを表現しているのに対し、保富は倒置法と体言止めによって、古時計が静かにしかし存在感を持って立っている姿を余韻として残している。
詩の忠実な訳詞でありながら、違いが生まれるのはなぜか。
私は場所の違いに視線を向けたい。
この詩はある実話の設定を変えて脚色し直したものだという。おそらく時計と人間の不思議な関係を聞いたワークは、産業の近代化が進む社会にあって、モノであっても大切している人間と運命をともにするような一体感を醸し出す不思議なことがあることを表現したかったのだろう。
孫がおじいさんと時計の不思議な物語を客観的に語っていくスタイルを取っているのは、その純粋な気持ちを表現したかったからではないだろうか。描かれているのは、時計というモノと人との関係による物語だ。
他方、保富には古時計そのものの存在感が重要だった。そのためワークが90年とした年数をあえて100年に変えている。歌ったときの語調が悪いためだという解釈もあるようだが、おじいさんとの一体感という意味では「90年」は限度だろう。それをあえて100年としたのは、古時計の存在感を重視したからではないだろうか。
そして、その視点を歌っている人に置いた。
歌ってみると分かると思うが、自分の心にある「古時計」の物語を語っているように感じないだろうか。
保富の訳詞は、高度成長の途上で古い慣習、風景や建築物などが徐々に消えていく時代にできている。大きな古時計のような人と長くつながりを築いてきた場所を描くことで、古い物を大切にしていく心の共感を広げていきたいと思ったのではないか。
幼いころに母親が「大きな古時計」を台所でいつも歌っていたことから、平井堅にはこの曲に対する強い思い入れがあった。それが歌に対する執着の原点ともなった。デビュー当時からライブでも披露していたようだ。
シングルCDのジャケットの写真に、自身が小学4年生のときに描いた実家にある古時計の絵を使用したことも彼の思い入れの一端を示している。
平井堅がこの歌を歌うときに心に広がっている場所は、実家の古時計であり、おかあさんなどの家族とのつながりの場所なのかも知れない。
では、私はなぜこの歌を歌うと自然と涙が出るのだろう。
この歌を覚えたのは小学校1、2年のころだろうか。クラスのみんなと一緒によく歌った記憶がある。その場所が蘇るのだろうか。
「天国へのぼるおじいさん」で、自分のおじいさんの死を思い出すのだろうか。
あるいは、「うれしいことも 悲しいことも みな 知ってる 時計さ」というフレーズを歌うとき、どこかに自分の喜びや悲しみを本当に分かってくれる存在があるという思いが重なっていたのだろうか。
来年は平井堅の「大きな古時計」が出て20年、「みんなのうた」からは60年になる。
新型コロナの感染が治まって、新しい変化を生んでいくきっかけのひとつとして、「大きな古時計」が息を吹き返したらいいのにとひそかに思っている。