第6話  口笛

文字数 2,917文字

 5歳頃だったろうか。父から口笛の吹き方を教わった。当時、父がフランク永井のヒット曲「君恋し」を口笛で吹いていたのに心地よさを感じたからだ。
 父は怒るとすぐに平手打ちをしたり、押入に閉じ込めたりする気の短い人だったが、何かを教えるときは熱心だった。私は日中外に出ると、畑の遠く彼方に聳える金華山に向かって懸命に口をとがらせ練習した。結構きれいな音が出るようになって、父にも褒められたことがあった。調子に乗って夜も吹いていたら、母が「夜は口笛を吹くと泥棒が来るからやめてね」と言ったのを覚えている。
 ちょうど父母が新しい家を構えて借家から引っ越して来たばかりの頃だ。周囲は広い敷地の農家と田畑ばかりの穏やかな農村だった。初めての持ち家で若き父母にも夢が大きく膨らんでいたことだろう。
 近所には年の近い子どもが多かったので遊び相手がたくさんいて、外に出れば誰かと出会いいっしょに遊んだ。斜め向かいの農家の少し年上の息子も遊び仲間の一人だった。
 その子の父親が夕方になると手笛を吹いて息子に帰宅時を知らせていた。両掌を交差にして閉じ、親指を合わせたところにできる狭い隙間に上手に息を吹き込むと音が出る。口笛よりは低い音でホーホーと鳩の鳴き声のようだった。自然の音以外にない田舎なので大概どこにいても聞こえてくる。音を聞きつけた友達は、「あっ、帰らんといかん」と家に向かった。口笛のように曲を奏でることはできなかったようだが、かえって伝えたいことが確かに感じ取られた。

 Mr.Childrenの「口笛」という曲を聞くと、僕は幼い頃過ごしたこの田舎の風景を思い出す。
 「口笛」は本当によく練られていて、詩を味わいながら曲に心を合わせると、それぞれの心に蓄積された風景や場所が広がって、懐かしさや優しい気持ちが溢れてくる。

 ♪無造作に下げた鞄にタネが詰まっていて 手品の様 ひねた僕を笑わせるよ 
  形あるものは次第に姿を消すけれど 君がくれたこの温もりは消せないさ♪

 突然の雨に橋の下で佇んで、雨が止んだ後に上がって空に架かった虹を恋人と眺めた思い出、幼い頃初恋の人と夕日に向かって歩いた学校の帰り道、叱られて飛び出した僕を迎えに来た父と一緒に手を繋いで歩いた帰りの畦道、息子と久しぶりに夕暮れまで遊んだ帰り道、亡くなった息子との思い出、亡くなった父との思い出などなど(とりあえず「口笛」のイメージから主人公を男にしてありますが)、それぞれの心にさまざまな場所が広がってこの曲への共感が生まれ、一体となっていくように思われる。

 ♪口笛を遠く 永遠(とわ)に祈るように遠く 響かせるよ 
  言葉より確かなものに ほら届きそうな気がしてんだ♪

 このフレーズを聞いて思い浮かんだのは、遠藤周作の『口笛をふく時』だ。
 数ある名作の一つで、泣き笑いのあるストーリーの中で、時代や戦争が人々の生活に与えた影響や、人と人との不思議なつながりとその大切さに心動かされる作品だ。
 不思議なのはタイトルに反して口笛の流れるシーンがないことだ。唯一口笛という言葉が出てくるのは、最後から二つ目の節「口笛」だ。主人公の小津が、灘中以来の友人、平目(ひらめ)が生涯を通じて好きだった女性・愛子の遺体に霊安室で対面したときの描写だ。当の平目は戦地で病死していた。愛子のご主人も戦地で亡くなっていた。

 「私もいつか、あなたたちの世界に行きますよ」
  がらんとしたこのセメントの壁のなかには愛子の遺体を飾る花一つなかった。その静けさ
に眼をつぶっていると、小津の眼からゆっくりと泪が流れた。それは鋭一(※小津の息子の
こと)たち若い世代には決して理解できぬ泪だった。戦争で親しかった者と愛していた者と
を失った世代でなければわからぬ泪だった。
 (この部屋じゃあんまり、可哀想やで)
 と彼は平目に向かって言った。
 (花もないし、家族もいないんやから)
 (そんなら……)
 と泪のなかに平目の顔が浮かんで彼に囁いた。
 (口笛でもそっと吹いてきかせてくれや。お前、灘中の時うまかったやんか。あの人と俺の
 ために)
  小津は唇をとがらせて口笛を吹こうとした。しかし、その唇からはかすかな、途切れた音
 が出ただけだった。

 「口笛をふく時」は来たが、お見送りの場に相応しいような「永遠(とわ)に祈るように遠く」に届くような口笛は出なかった。万感の思いが音を途切れさせてしまった。歌じゃいけなかったのだろうかと人は思う。しかし、歌には言葉とメロディが必要だ。愛子のことをほとんど知らない小津の心にその場に相応しい言葉やメロディなどない。口笛を吹こうとして途切れた無念な音こそ、戦争という時代を共有した人々の「言葉より確かな」心の有様を表現しているのかも知れない。

 ♪さあ 手を繋いで 僕らの現在(いま)が途切れない様に
  その香り その身体 その全てで僕は生き返る♪

 僕にはこのフレーズが桜井和寿さんの哲学の一端を披露しているように思える。桜井さんからは詩を題材にして自分の考えに聞き手を誘導するなと叱られるかも知れないが。
 そのわけは、まず「現在」をあえて「いま」と読ませていることにある。
 なぜ「今」ではいけないのか。それは恐らく「僕らの現在(いま)」が時間の流れの中にある「今」ではなく、つながりででき上っている「いま」だからだ。
 そのあとに続くフレーズ「その香り その身体 その全て」とは生命(いのち)あるものの存在の有様を表現しているように思えないかな。存在と言えば「現在」に「存」を入れると「現存在」だよね。現にここにあることの気づき、それは手を繋いだとき感じられる香りであったり、身体であったり、そうした実体を表現するすべてとの相互作用の連続の中で生まれるもので、それが僕らの生きている証だと言ってるように思えるんだ。
 だから先に紹介したフレーズ「口笛を遠く 永遠(とわ)に祈るように遠く」にある「永遠(とわ)」も時間の流れにあるのではなく、つながりの連続の果てを見据えた永遠(とわ)のように思える。
 口笛を吹くのは心にある何かがそうさせるからだろう。その何かは言葉で説明すれば過去、現在、未来を意識した薄っぺらな表現になるかもしれないけど、口笛はつながりの相互作用の中で変化している人の心のすべてを包み込んで外に出てくる。意味など考えても仕方がない。ただ感じ取る以外にないからこそ、共感できる人に伝わるのではないだろうか。小津の口笛は途中で途切れたけど、読んでいる人は彼の現在(いま)を十分に感じ取ることができるのじゃないかな。

 口笛なんて最近は滅多に吹く機会はない。吹いている姿を見掛けることも少なくなった。
 それでも何かで落ち込んだときには、ふと吹いてみたくなる。心に溜まった感情をやわらく包み込んで体の外へ流れ出ていき、ときには誰かに届いて気持ちを共有してもらえるように感ずるからだ。
 幼い頃に父が吹いた口笛、近所の友達の父親が吹いた手笛に包み込まれて空気を振動させていたもの、それはきっと、言葉では決して表現することはないが、確かに心の奥底に流れている優しさと愛情の一部だったに違いない。そんなことをふと思い起こさせるのが「口笛」だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み