第1話
文字数 2,841文字
「すまない」
そういって頭を下げたマルードのつむじを、リトは黙ってじっと見ていた。
なにを謝っているんだろう、と思うのと同時に、どうしてそんなことを言うんだ、という腹立ちに似た気持ちもあった。
「向こうにはちゃんと話がしてあるから」
マルードが顔を上げてさらに続ける。
「私だって、お前にはずっとここにいてもらうつもりでいたんだ」
こっちが申し訳ない気分になるほどすまなそうな顔で、マルードはリトを見る。
「じゃあ、おれ、本当にここを出ていかないといけないってこと?」
マルードは、何か言う代わりにまた大きな動作で頭を下げた。
マルードは、イルク地方の領主だった。中流貴族の家柄で、二年前に亡くなった父親の後を継いでこの小さな地方を治めていた。
リトの母親はマルードの世話係をしていたため、物心ついた頃から、五歳年上のマルードと一緒に育った。リトは、本当の兄のように思っていた。父親を亡くしてわずか十六歳で家を継がなくてはいけなかったマルードを、自分がこれからずっと支えて助けていくのだと、子供心に思っていた。マルードも、同じように思っていてくれたはずだ。
それなのに。
確かに、予兆はあった。
家を継いでから、にわかにマルードの家は苦しくなった。もともとそれほど大きな家ではなく、地道に細々とやっていたのだ。
窮状を知った遠縁の貴族の紹介で、マルードの婚姻が決まった。
大勢の従者を引き連れて屋敷にやってきた花嫁は、すらりと背の高い、美しい女性だった。理知的でてきぱきとしていて、マルードの方が押され気味のようにリトには見えた。やがて、どうやら彼女は自分のことが気に入らないらしいことも、その振る舞いの端々からかいま見えた。
マルードの妻の態度がよりあからさまになってきたのは、去年リトの母親がなくなってからだった。
母の死は、本当に突然のことだった。
リトは、しばらく呆然と時を過ごした。やっと我に返ってみると、いつの間にかリトはマルードと話をすることがほとんどなくなっていた。一緒にとっていた食事も、別々にとるように言われた。母を手伝ってやっていたマルードの身の回りの世話も、いつの間にかしなくてよくなった。
屋敷の中で、ひとりぼんやりすることが多くなった。
そんなとき、マルードに久しぶりに部屋に呼ばれた。でもそれが、こんな話だったなんて。
自分の部屋に戻って、窓の外をぼんやりと眺めた。
「ここを、出るのか」
狭くて殺風景ではあるが気に入っていた。
でも、この部屋は自分の部屋などではなかった。
「気づかなかったな」
出ていってほしい、そうマルードに言われるまで、気づかなかった。ここが、自分の場所ではないことに。
マルードは、リトの新しい仕事をもう見つけてあると言った。その仕事のために、たったひとりで知っている人の誰もいない知らない土地に行かなくてはいけない。
考えると、不安に押しつぶされそうになる。
荷物の用意をしないと、と思うだけで、リトはただぼんやりと窓の外を見ていた。
数日後の出発の日、空は、どんよりとしていた。
気の進まないままに用意した荷物は、やっと小さなかばんにふたつほどだった。
馬車はリトとかばんをのせて、新しい仕事先であるタウルーという街に向かって出発した。マルードの屋敷からは、馬車で半日と少し行ったところだという。
「それにしても、寂しいねえ」
御者のバージョが、手綱を操りながら言う。
「そう思ってくれる?」
「そりゃそうだ、全く」
少しいらだたしげに、バージョはまた手綱を振った。
「まったく、旦那様は何でこんな……」
言いかけて口をつぐむ。
「しょうがないよ」
リトは上の空でそう言った。
山道を、揺れながら馬車が行く。幼い頃から何度も通った道だ。マルードを追いかけたり、母を追いかけたり。
それを今、こうしてひとりで通っている。
リトは曇った空を見上げた。
馬車はやがてリトの知らない道に入り、道は次第に山を下りて周囲には人家が増えてきた。
「タウルーはローゼル様のご領地なんだ」
その貴族の名前は聞いたことはあったが、知っているわけもない。
「まあご領地の中でも少しはずれの方だから、そんなに大きい街じゃないがね」
リトが返事をしなくてもバージョは気にしないようだった。通り過ぎる旅人に目を奪われているような振りで、リトは生返事をした。
「大きくはないが古くからある街だよ。街外れに古い礼拝堂があって、巡礼者がけっこう来る」
「……ふうん」
「お前が今度行く地方官は、その……、少し変わったお人であるらしいな」
「変わったって?」
「さて、詳しいことはわしもよく知らんのだが」
なんなのかぜんぜんわからない。
「それから、これはほんとにうわさだが」
ほんとにうわさ、ってどういう意味なんだか、と思ったが、リトは黙っていた。
「タウルーの地方官の屋敷は、いろいろ不思議なことが起こるそうだ」
「……はあ?」
気の抜けた声が出た。
「なんで? 不思議なことって? お化けでも出るの?」
リトがあからさまな声を出したので、バージョはあわてて取り繕うように言った。
「ばかげたうわさだよ、確かに。屋敷の庭で幽霊を見たとか、女の泣いている声がしたとか、まあよくある話だが」
少しの間をあけて、バージョは続けた。
「それに、その地方官は何人かお前のような助手を雇ったらしいが、みんなすぐに辞めたり、行方不明になったりしておるそうだ」
馬車が揺れて、リトは思わず座席のへりをつかんだ。
「行方不明って、なんで」
「さてなあ」
リトは、なんと言っていいのかわからなかった。
バージョもその後は無言になった。リトはただ馬車の揺れに体を任せて、通り過ぎる風景をぼんやり眺めていた。
ものすごい冒険に向かっているような気もしたが、同時に、恐ろしいことが始まるようにも思えた。
行き先はお化け屋敷で主人は変人らしい。助手はすぐに辞めるし行方知れずになるし。
まったく、笑ってもいいくらいだ。
途中の街で昼食をとり、再び馬車に揺られていい加減腰が痛くなってきた頃、小さな城門を入った。
馬車は街の中をどんどん進んだ。城門からはずいぶん離れた静かな界隈に入ってしばらくした頃、地味な門構えの屋敷の前で、馬車は大きくひと揺れして止まった。
リトは無言でふたつのかばんを抱え、地面に降り立った。
「ありがとう、バージョ」
「リト、元気でな。何かあったら、いつでも戻ってこいよ」
リトは軽く手をあげた。バージョもそれに答えるように手をあげると、そのまま手綱を振るった。
馬車がきしみながら再び動き出す。リトをその場に残して。
振り向いて手を振るバージョと馬車の姿が遠ざかり、やがて角を曲がって見えなくなった。
着いたばかりの屋敷の門と、リトは向かい合った。門の向こうにはこれも簡素な館が、曇り空の下で陰気に横たわっている。お化け屋敷と言われれば、そんな気もしてきそうだ。
リトはかばんを抱え直すと、ひとつ深呼吸をした。
そういって頭を下げたマルードのつむじを、リトは黙ってじっと見ていた。
なにを謝っているんだろう、と思うのと同時に、どうしてそんなことを言うんだ、という腹立ちに似た気持ちもあった。
「向こうにはちゃんと話がしてあるから」
マルードが顔を上げてさらに続ける。
「私だって、お前にはずっとここにいてもらうつもりでいたんだ」
こっちが申し訳ない気分になるほどすまなそうな顔で、マルードはリトを見る。
「じゃあ、おれ、本当にここを出ていかないといけないってこと?」
マルードは、何か言う代わりにまた大きな動作で頭を下げた。
マルードは、イルク地方の領主だった。中流貴族の家柄で、二年前に亡くなった父親の後を継いでこの小さな地方を治めていた。
リトの母親はマルードの世話係をしていたため、物心ついた頃から、五歳年上のマルードと一緒に育った。リトは、本当の兄のように思っていた。父親を亡くしてわずか十六歳で家を継がなくてはいけなかったマルードを、自分がこれからずっと支えて助けていくのだと、子供心に思っていた。マルードも、同じように思っていてくれたはずだ。
それなのに。
確かに、予兆はあった。
家を継いでから、にわかにマルードの家は苦しくなった。もともとそれほど大きな家ではなく、地道に細々とやっていたのだ。
窮状を知った遠縁の貴族の紹介で、マルードの婚姻が決まった。
大勢の従者を引き連れて屋敷にやってきた花嫁は、すらりと背の高い、美しい女性だった。理知的でてきぱきとしていて、マルードの方が押され気味のようにリトには見えた。やがて、どうやら彼女は自分のことが気に入らないらしいことも、その振る舞いの端々からかいま見えた。
マルードの妻の態度がよりあからさまになってきたのは、去年リトの母親がなくなってからだった。
母の死は、本当に突然のことだった。
リトは、しばらく呆然と時を過ごした。やっと我に返ってみると、いつの間にかリトはマルードと話をすることがほとんどなくなっていた。一緒にとっていた食事も、別々にとるように言われた。母を手伝ってやっていたマルードの身の回りの世話も、いつの間にかしなくてよくなった。
屋敷の中で、ひとりぼんやりすることが多くなった。
そんなとき、マルードに久しぶりに部屋に呼ばれた。でもそれが、こんな話だったなんて。
自分の部屋に戻って、窓の外をぼんやりと眺めた。
「ここを、出るのか」
狭くて殺風景ではあるが気に入っていた。
でも、この部屋は自分の部屋などではなかった。
「気づかなかったな」
出ていってほしい、そうマルードに言われるまで、気づかなかった。ここが、自分の場所ではないことに。
マルードは、リトの新しい仕事をもう見つけてあると言った。その仕事のために、たったひとりで知っている人の誰もいない知らない土地に行かなくてはいけない。
考えると、不安に押しつぶされそうになる。
荷物の用意をしないと、と思うだけで、リトはただぼんやりと窓の外を見ていた。
数日後の出発の日、空は、どんよりとしていた。
気の進まないままに用意した荷物は、やっと小さなかばんにふたつほどだった。
馬車はリトとかばんをのせて、新しい仕事先であるタウルーという街に向かって出発した。マルードの屋敷からは、馬車で半日と少し行ったところだという。
「それにしても、寂しいねえ」
御者のバージョが、手綱を操りながら言う。
「そう思ってくれる?」
「そりゃそうだ、全く」
少しいらだたしげに、バージョはまた手綱を振った。
「まったく、旦那様は何でこんな……」
言いかけて口をつぐむ。
「しょうがないよ」
リトは上の空でそう言った。
山道を、揺れながら馬車が行く。幼い頃から何度も通った道だ。マルードを追いかけたり、母を追いかけたり。
それを今、こうしてひとりで通っている。
リトは曇った空を見上げた。
馬車はやがてリトの知らない道に入り、道は次第に山を下りて周囲には人家が増えてきた。
「タウルーはローゼル様のご領地なんだ」
その貴族の名前は聞いたことはあったが、知っているわけもない。
「まあご領地の中でも少しはずれの方だから、そんなに大きい街じゃないがね」
リトが返事をしなくてもバージョは気にしないようだった。通り過ぎる旅人に目を奪われているような振りで、リトは生返事をした。
「大きくはないが古くからある街だよ。街外れに古い礼拝堂があって、巡礼者がけっこう来る」
「……ふうん」
「お前が今度行く地方官は、その……、少し変わったお人であるらしいな」
「変わったって?」
「さて、詳しいことはわしもよく知らんのだが」
なんなのかぜんぜんわからない。
「それから、これはほんとにうわさだが」
ほんとにうわさ、ってどういう意味なんだか、と思ったが、リトは黙っていた。
「タウルーの地方官の屋敷は、いろいろ不思議なことが起こるそうだ」
「……はあ?」
気の抜けた声が出た。
「なんで? 不思議なことって? お化けでも出るの?」
リトがあからさまな声を出したので、バージョはあわてて取り繕うように言った。
「ばかげたうわさだよ、確かに。屋敷の庭で幽霊を見たとか、女の泣いている声がしたとか、まあよくある話だが」
少しの間をあけて、バージョは続けた。
「それに、その地方官は何人かお前のような助手を雇ったらしいが、みんなすぐに辞めたり、行方不明になったりしておるそうだ」
馬車が揺れて、リトは思わず座席のへりをつかんだ。
「行方不明って、なんで」
「さてなあ」
リトは、なんと言っていいのかわからなかった。
バージョもその後は無言になった。リトはただ馬車の揺れに体を任せて、通り過ぎる風景をぼんやり眺めていた。
ものすごい冒険に向かっているような気もしたが、同時に、恐ろしいことが始まるようにも思えた。
行き先はお化け屋敷で主人は変人らしい。助手はすぐに辞めるし行方知れずになるし。
まったく、笑ってもいいくらいだ。
途中の街で昼食をとり、再び馬車に揺られていい加減腰が痛くなってきた頃、小さな城門を入った。
馬車は街の中をどんどん進んだ。城門からはずいぶん離れた静かな界隈に入ってしばらくした頃、地味な門構えの屋敷の前で、馬車は大きくひと揺れして止まった。
リトは無言でふたつのかばんを抱え、地面に降り立った。
「ありがとう、バージョ」
「リト、元気でな。何かあったら、いつでも戻ってこいよ」
リトは軽く手をあげた。バージョもそれに答えるように手をあげると、そのまま手綱を振るった。
馬車がきしみながら再び動き出す。リトをその場に残して。
振り向いて手を振るバージョと馬車の姿が遠ざかり、やがて角を曲がって見えなくなった。
着いたばかりの屋敷の門と、リトは向かい合った。門の向こうにはこれも簡素な館が、曇り空の下で陰気に横たわっている。お化け屋敷と言われれば、そんな気もしてきそうだ。
リトはかばんを抱え直すと、ひとつ深呼吸をした。