第2話

文字数 3,715文字

「ここの引き出しに」
 屋敷の書斎で、リトはレンフォードの手元をのぞきこんだ。
 書棚の一角に小さな引き出しが三段ついている。そのうちのひとつの取っ手を引いて、レンフォードは中に入っているものを取り出した。
「地方官の印が入っている」
 小さな木の箱だった。手のひらに乗せてリトに見せる。箱の底の角にある小さな出っ張りを押すと、ふたがぱかんと開いた。中の物をレンフォードはつまみ出す。
「これだ」
 持ち手の細工が細かくてきれいなことが印象に残る、小振りの印だった。
「重要な書類に押す。必ず、この部屋か庁舎の部屋で使う。他では使わない」
「はい」
 引き出しの奥から、レンフォードはもうひとつ似たような木箱を取り出した。
「こっちは仮印だ。正式ではないが同じような効力がある。ただし、必ず後でこの本印を押さなくてはいけない」
 レンフォードは机に戻って、置いてあった紙にそれぞれの印にインクを付けて押した。小さな花や葉っぱを散らしたような細かい柄が現れた。
「本印と仮印は、同じように見えるがほんの少しちがう。見る人が見れば本印か仮印かすぐわかる」
「はい」
 どこがちがうのか、じっと見つめたが、リトにはわからなかった。
「官印を押してほしいと言われたら、必ず私に聞くように。勝手に押してはだめだ。ここから持ち出してもいけない」
「わかりました」
 リトは大きくうなづいた。
 この官印というのは、おそらくリトが想像する以上に重要な意味があるのだろう、と思った。そんな大事な物のことを教えてくれていると思うと、少し緊張した。
 レンフォードは、先ほどリトが書きあげた報告書を机に広げると、下の方の隅に、今の官印を押した。領主ローゼルへの報告書だ。丁寧にインクを拭くとレンフォードはそれを再び木箱にしまった。元の引き出しに収めて鍵をかけ、鍵を机の引き出しの奥にしまった。
 その日の午後、リトはレンフォードとキリアンとともに馬車に乗って街に出た。庁舎に行くのかと思ったら、馬車は広場を通り過ぎ、以前リトがうろうろしたあげくそこから街の外にでるのをあきらめた城門の前に出た。
 馬車はそのまま城門を通って街の外に出てしまう。
 空は少し曇りがちで、灰色の雲が風に流れていた。
「あの」
 思い切って、向かいに座るレンフォードに声をかけた。キリアンは、リトのとなりで気持ちよさそうに船をこいでいる。
 レンフォードは無言でリトを見た。にらまれているのかと一瞬ひるむが、いやここで引くものかと、倒れかかってくるキリアンを肩で押し返しながら、リトはレンフォードの視線を受け止めた。
「どこに行くんですか」
 レンフォードは無表情に答えた。
「アラードの地方官を訪ねる」
「アラード、って……」
「アラードはタウルーの東に接している地方だ。ローゼル伯領ではなく、ナクラ侯爵領になる。同じアラードという名の街を中心としていて、タウルーと同じように地方官がいる」
「へえ、そうなんですか」
 馬車はやがて丘陵地に入り、ほどなく眼前に美しい湖面が現れた。水面にさざ波が立ってきらきら光っている。
 その湖の対岸に、低い建物が見えてきた。
 馬車は湖岸に沿って迂回し、建物の門の前で止まった。
 馬車を降りたリトは、目の前の石造りの建物を見上げた。こんなへんぴなところにぽつんと一棟だけで建っている割には、手入れも行き届いているようだ。
 後ろから来たレンフォードが門の取っ手を鳴らすと、すぐに使用人らしき男性が現れた。レンフォードに一礼すると、先導して歩きだす。
 応接間のような部屋に通され、リトは腰を下ろしたレンフォードの後ろに立った。キリアンがさらにその後ろに立つ。
 しばらく待った後、大きな音を立てて扉が開き、ひょろりとした若い男が大股で入ってきた。
「レンフォード殿、よく来てくれたね」
 ずいぶんと若い。レンフォードよりも若く見える。
 レンフォードがすっと立ち上がって、一礼する。リトもあわててそれに習った。
「トーレム殿、お招きに預かり、参上いたしました」
「相変わらず堅い人だね。まあ、気楽にしてよ」
 トーレムというその男は後ろに小姓らしき男を従えて部屋の中央までやってくると、促すように片手をさしのべ、自分も向かいのいすに腰を下ろした。
「やっとこの別荘にくる時間がとれたんで、それならやっぱりあんたに会いたいと思ってさ」
「ありがとうございます」
 レンフォードが丁寧にまた頭を下げる。
「このごろはタウルーはどう?」
 トーレムは、年の頃二十をいくらか過ぎているくらいだろうか。色白の肌に青い目をしている。茶色の髪を少し長くのばしていた。いすにくつろぐ様子や仕草からは、年に似合わぬ尊大さがあり、不自由のない暮らしに慣れた地位の高い者の雰囲気が伺えた。
「それほど問題になるようなことは。幸いなことに」
 レンフォードが答える。普段の屋敷や庁舎での様子に比べると、ずいぶんと腰の低い感じだ。
「移民の方はどうなの。また騒動があったって聞いたけど」
「それはすぐに治まりまして、今のところは問題ありません」
「そうか、それならよかった。タウルーが落ち着いていれば、商売の方もお互いにうまくいくってものだし」
「そうですね」
「今年は少し天候がよくないって、聞いた?」
「はい、今のうちに水の算段をつけておいた方がよいかと思案中ですが、アラードではいかがですか」
「なんかそんな話があったから、一応、水源の川と湖を見回らせてるよ」
 しばらく、レンフォードと若い男は天候や作物の出来や、それによる商売とやらの話を続けた。
 リトは、レンフォードの後ろでその話を聞いていた。レンフォードが尊大な男の言葉に丁寧に答えているのが、妙な感じがした。それに、こんな若い男が地方官をしているというのがおどろきだ。
 不意にトーレムがリトの方にあごをしゃくって言った。
「ところで、新しいお連れがいるようだけど」
「はい、これは」
 レンフォードも後ろを振り向いた。リトは心臓が跳ね上がった気がした。
「新しい助手で、リトと申します」
 そう言ってレンフォードが目で促すので、リトはあわてて頭を下げた。
「ふうん、またずいぶんと……」
 そう言いかけて、トーレムはくすりと笑った。
「ずいぶんとお若いようだけど」
「いろいろ勉強中でございます」
 レンフォードの答えは控えめだった。
「まあでも、レンフォード殿が助手にされているんだったら、きっとすごくできがいいんだろうね」
「まだまだそのようなものではありませんが」
 その後ももうしばらく、細かい話が続き、帰りの馬車に乗る頃には、日が少し傾きかけていた。
 来た道を、がたがたと揺られながら戻っていく。
 あの美しい湖が遠ざかり、別荘の建物が木々の間に消え、空の色は次第に深みを帯びてくる。
「まったく、嫌味なやつだな」
 岩山を下って平地に出た頃になって、レンフォードが苦々しげにつぶやいた。
「いまさら」
 キリアンが肩をすくめる。
「どうしてですか」
 リトは思わず聞き返した。
「お前のことだよ、リト。あいつはレンフォードの助手が何人も辞めてるのを知ってるからな」
 キリアンの言葉にレンフォードは渋面になった。
「おれのところじゃ長続きしないって言いたいんだろう」
「どうする、リト。責任重大だな」
 リトは言葉に詰まった。実際リトは一度辞めかかっているのだ。
「それに」
 レンフォードは腕を組んだ。その瞳がすっと鋭くなる。
「騒動の話、やっぱり知っていたな」
「そりゃ、ネズミを紛れ込ませてるんだろう」
「へらへらしながらやることはやってるわけだ」
「あの……」
 レンフォードが無言で視線を向けてくる。だんだんそれにも慣れてきた、ような気がする。
「あの、アラードの地方官、って、どういう人なんですか」
「どういうって、どういう意味だ」
「いえ、その、ずいぶん偉そうな人だと思って。レンフォード様より年下ですよね」
 レンフォードが、敬語を使っていた。
「あれは、ナクラ侯爵の弟御だ」
「え」
「位でいえばおれより数段上だ」
「そう、なんですか」
「ああやってちやほやされるのに慣れている男だから、持ち上げておくにこしたことはない」
「あの人が嫌いなんですか?」
 レンフォードは、いやそうな顔でリトを見た。
「はっきり言うな、お前」
「いえ、あの、すいません」
 リトは首をすくめた。
「いや、おれもまだ修行が足りないということだ」
 そのままレンフォードは無言で馬車の進む方にじっと目を凝らした。リトはもうそれ以上声をかけられなかった。
 屋敷で無言でリトに書類を突き返してくるレンフォードしか知らなかった。庁舎に行くようになって、他の人とあれこれ議論しながらてきぱきと仕事をこなすレンフォードを知った。今日あのアラードの地方官にへりくだった言葉で話すレンフォードの姿は、リトにはまた新鮮だった。
 相変わらず話しかけるのには勇気がいるものの、このごろは以前ほどレンフォードに腹が立たない、とリトは気づいた。
 日が低い位置まで落ちてきて、空にはぽつりぽつりと白く光る星が見え始めた。
 馬車は、荒れ野の中の道をタウルーに向かってごとごとと進んだ。
 リトはいつの間にか、眠りに落ちていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み