第1話

文字数 3,060文字

 レンフォードが馬車を飛ばしてトーレムの屋敷に着いたのは、すっかり日が暮れた後だった。
 食卓の上には、香ばしい香りの湯気がたっていた。
 磨き上げられたグラスも並び、壁にいくつも取り付けられた燭台の光を、きらきらと反射している。
 案内されるままに腰を下ろしたレンフォードの向かいには、トーレムがいつもの締まりのない笑みを浮かべて、頬杖をついていた。
「急な話だったのに、来てくれてよかったよ」
 そう言って、歯を見せる。
「どうしようかと思ってたからさ」
 葡萄酒の瓶を持った男が、レンフォードの方のグラスに濃い赤紫の液体を注ぐ。それから、トーレムのグラスにも同じように葡萄酒を注いで、下がっていった。
「どうかなさったのですか」
 表情のない声でレンフォードは聞いた。
「まあ、食事をしながらゆっくり話すよ」
 間延びした声でトーレムは言い、グラスを手に取る。
「まずは乾杯といこうよ」
「いえ、私は。先にお話をうかがえれば」
「いいじゃない、別に固い話ってわけじゃないんだし」
「そうなんですか」
 レンフォードは、内心首をかしげた。相談と書いてあったから、なにか仕事がらみの話だと思った。トーレムは一見ふらふらしているが、一応そういう地方官の仕事はそつなくこなしているように見えるので、そう思って仕事のつもりで来たのだ。そして、仕事のときに酒を飲むのを、レンフォードは好まなかった。
「では、ご相談というのは」
「それがさ、まあ簡単に言うと、今度、兄がここに来るって言うんだよ」
 レンフォードが呼ばれたのは前回と同じトーレムの別荘で、トーレムが普段住むアラードの街からは、少し西の方に外れたところにある。トーレムは、街での仕事に飽きるとすぐにこの別荘にやってきて何日も過ごして行くのが常で、その滞在に飽きるとレンフォードを呼び出すということらしかった。そのたびに仕事を中断することになるので、レンフォードは苦々しい気分になる。
 トーレムの兄は、アラードを含む王国の東南部地方を束ねる領主で、レンフォードよりも年上の実直な男だという。面識はなかったが、年の離れた弟であるトーレムを溺愛している、といううわさは聞いていた。
「トーレム殿に会いに来られるということですか」
「会いに来るって言うかさ」
 トーレムは、グラスをゆらゆらと揺らしながら、声を出さずに笑った。
「まあ、まずは、ほら」
 レンフォードは、仕方なく手を伸ばしてグラスをとった。さっさと話を聞いて帰るつもりだったのだが、これではどうなるかわからないな、と思った。
 いつもへらへらとしているトーレムだが、今日はそれにもまして、とらえどころのない感じがした。だが、何を考えているのかわからないのはいつものことだ。この男がふやけた頭で何を考えているのか、レンフォードには想像の外だった。
 グラスの赤紫色が、部屋の灯りに揺れて光る。その向こうに、ゆるんだ笑みを浮かべているトーレムの顔が見えた。
 そのとき、レンフォードはふいに胸の奥がなにかざわめくような感じを覚えた。
「さあ、乾杯」
 トーレムの声に、レンフォードはゆっくりとグラスを合わせた。トーレムが、ぐっとグラスを飲み干すのを見ながら、わずかな逡巡の後、ひとくちふたくち口をつけた。アラードの葡萄酒なのだろう、タウルーのものよりもいくぶん渋みが強い。レンフォードは、やはりタウルーの方が口に合うな、と心中でひとりごちた。
 何だろう。
 さっきの胸騒ぎのような、何かは。
 トーレムが話しかけてきて、レンフォードは考えるのをあきらめた。
 食事を始めてからも、トーレムの話はあっちへ行ったりこっちへ行ったりして、今ひとつ要領を得なかった。要するに、兄が来るのが煙たいのだ、ということはわかった。
「まったくさあ」
 鳥の蒸し焼きをナイフとフォークで騒々しくちぎりながら、トーレムは続ける。
「せっかくここでのんびりしてるのに」
「でも、兄君とお会いするのは、久しぶりなのでは」
 どうも舌が回らないと思いながら、レンフォードは返した。
「そうでもないよ。先月も城まで行ってきたんだもの」
 トーレムは口をとがらせる。
「なのに、なんでまたわざわざ来るかなあ」
 それが相談なのだろうか。レンフォードは、痛む頭に手をあてた。それとも、別荘での滞在に飽きて愚痴を言う相手にレンフォードを呼んだのか。まあ両方だろう、と思った。これでアラードが問題なくおさまっているのが不思議だ。いや、問題はそれなりにあるにせよ、トーレムの周囲の者たちが優秀なのだろう。
 これが自分の弟でなくてよかった、と心底レンフォードは思った。
「……っていうのは、どう思う?」
 憤慨した口調で言うトーレムの言葉が、よく頭に入らなくて、レンフォードは聞き返した。
「え、なんですか」
「だからさあ……」
 にやにやとしたトーレムの口元の笑みが、妙に腹立たしい。
「せっかくこっちがあれこれ考えてるっていうのに」
「……なにをですか」
「だって、普段の分だけじゃ、ぜんぜん足りないんだもの。ちょっとおいしい食事をしようと思うと」
 何の話だかレンフォードはよくわからなかった。こんな埒もない話につきあうために、わざわざ日が暮れてからこんなところまで来たかと思うと、どっと力が抜ける気がした。
「たまには、都の楽師も呼びたいし、きれいな細工の衣装もそろえたいし、それに最近さあ」
 ナイフがかちゃんと音を立てて食卓に転がり、レンフォードははっとした。あわてて拾おうとするが、なぜだか指に力が入らない。
「ちょっと馬にこってるんだよね。東方にいい馬がいるっていうから、是非手に入れたくて」
 トーレムの笑い顔が、なんだかゆがんで見える。さっきから頭痛もひどくて、レンフォードは頭を振った。とたんに周囲がぐるりと回って気分が悪くなった。パンのかごに伸ばした手は、パンをつかむ前にぱたんと食卓の上に落ちた。
「おや、レンフォード殿はどうやらお疲れのようだね」
「なんでも、ありません。失礼しました」
 レンフォードは無理矢理口を動かし、内心首をひねった。
「無理しなくてもいいよ。今日はここに泊まっていったら」
「いえ、そのような、ご迷惑は……」
 言いかけて、自分の言葉が言葉になっていないことにレンフォードは気づいた。
「ほら、そんなんじゃ帰れないよねえ」
 相変わらずにやにや笑いながら、トーレムが言う。
 何か冷たいものが、ぱっと胸の奥に広がった。同時に、激しい憤りが沸き上がってくる。
 もしかして。
「おっと、そんな恐い顔しないでよ」
 トーレムは頭を引いて、両手をひらひらと顔の前で振った。
「ちょっとお願いしたいことがあったからさ」
「あなたは、人にお願いがあると、毒物を飲ませるのですか」
 この、馬鹿野郎。
 こんなへらへらした小僧に、どうやら一服盛られたらしいと、ようやくレンフォードは気づいた。鉛のように重い舌をなんとか動かして、やっと言葉を吐き出す。
「だって、ふつうに頼んだらやってくれないでしょう」
 なにを頼むというのか。
「それに、別に毒ってわけじゃないよ。お医者さんだって使うっていうから、大丈夫だって」
 本当に、一服盛ったのか。
 今、自分で認めなかったか。
 信じられない。
 瞼が下がってくるのに、レンフォードは必死で抵抗した。
 頭が痛い。気持ちが悪い。
 正面のトーレムの顔がぼやけてきた。いつの間にか、それも視界の外に去って薄暗くなってきた。
 トーレムがなおも何か言っているのが聞こえる。
 それも段々遠くなり、やがて、なにもわからなくなった。
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