第8話

文字数 5,668文字

「おい、報告書はまだか」
「あ、は、はい」
 あわててあくびをかみ殺して、ペンを握りなおした。
 リトがレンフォードと一緒に庁舎に通うようになって、そろそろ三ヶ月ほどがたつだろうか。最初の訳がわからなかった頃に比べると、この部屋もずいぶんと居心地がよくなってきた。書類を書くのに加えて、打ち合わせに一緒に行ったり言伝や手紙のためにお使いに行ったり、リトの仕事もずいぶんいろいろ増えた。
 時には、近所の店に食事を買いに行くこともある。
 レンフォードにはお気に入りの店がいくつかあって、今日はきのこのパイ包みにしよう、と言うと、リトはその店まで行ってパイ包みを注文する。肉の網焼きにしよう、というと、網焼きの店までひとっ走りする。
 最近は、そういうときにはキリアンは一緒に来ない。店の女の子としゃべったり道中にちょっとしたお店をのぞいたりできるので、リトはこの食事の買い出しが好きだった。
 今日は外に行けるかな、とあくびをまたかみ殺しつつ、書きかけの報告書を何とか終わらせる。まちがいがないか、何度か見直した。最近はまちがいも少なくなってきたが、逆にまちがえたときのレンフォードの反応が怖い。
「こんなところをまちがえてるようでどうする」
「いい加減にひとりでできるようにならないのか」
 そういうことをレンフォードは平気で言う。
 いまだに言われるたびに心臓が縮む思いがする。
「できました」
 持っていくと、レンフォードは無言で受け取った。そしてまた別の書類を差し出す。
「これは四通書いて、あとで届けてきてくれ。警備隊長と神官長に」
 残りの二通は控えだ。
「わかりました」
 夏市の関係だ。市の開催まであと二週間を切っているので、このところ打ち合わせが頻繁にある。
 リトが再び机に座ろうとしたとき、あわてたように扉をたたく音がした。腰を上げて扉を開けると、勢いよく男がひとり飛び込んできた。
「地方官はお見えですか?」
 少し早口にその男は言った。守衛の男だとリトはわかった。いつも一階の入り口の部屋にいて、来客の対応をしたり手紙や荷物を取り次いだりしてくれる。
「どうした」
 奥からレンフォードが声をかける。
「それが、玄関に、地方官を呼べという人がいて……」
 困惑した顔で男は言った。
「どうも、西の村の者らしいので」
「西の?」
 レンフォードが、不思議そうな顔をする。
 西の村の者は、時折買い物や用事で街にやってくることはあるが、庁舎や神殿までやってくることはまずない。
「なんだか、何かいなくなったとか言ってるようで、騒いで手がつけられんのです」
「わかった、行こう」
 レンフォードが身軽に立ち上がったので、リトはあわててその後を追いかけた。今日はキリアンは、別の用事だとかでいない。守衛の男が、ほっとしたような顔でリトのあとからついてきた。
 玄関ホールには数人の人だかりがしていた。
「地方官は私だが、何か用か」
 近くまで行ったレンフォードに気づいて、取り囲んでいた男たちがはっとしたように動きをとめた。そのまんなかにいた男が、レンフォードの声に気づいて、また声を上げた。
「よかった! あんたを呼んでくれって言ってるのにこいつらと来たらまったく」
 小柄な男だった。リトは見たことがなかったが、男の方はレンフォードを知っているようだった。
「レセクか。めずらしいな、こんなところまで。何かあったのか」
 どうやらレンフォードの方も知っている男らしい。
「それが……」
 ちら、とあたりにいた庁舎の男たちを見回してから、レセクというその男は少し声を低めた。
「ちょっと、何というか、牛がいなくなっちまって」
「牛が? 逃げたのか」
「いや、そうとも言い切れねえんだ……」
 何となく男の言葉は歯切れが悪い。
「わかった、行ってみよう。リト、支度を」
「は、はい」
「少し外で待っていてくれ」
 レンフォードはレセクにそう言うと、あたりにいた男たちに軽くうなずいた。男たちは、何となく納得したように身を引き、三々五々引き上げていく。
 荷物の用意をしてレンフォードとともにまた階下におり、リトは裏へ回って、馬車溜まりにいたゴードンに出かけることを告げる。ゴードンはすぐに馬車の用意を始めた。
 表に戻って、回ってきた馬車にレンフォードとレセクと一緒に乗り込む。馬が首を一振りして、馬車はゆっくりと動き出した。
 外はさんさんと日が照っていて、暑かった。馬車は街を出て、以前通った道をゆっくりと西の村に向かって進む。レセクというその小柄な男は、馬車が街を出た頃から、ぽつりぽつりと話し出した。
「おれんとこの牛が、ここんとこときどきいなくなっちまうんだ」
 レセクは牛を何頭か飼っていて、チーズやバターを作っているのだという。西の村にはレセクのように小規模に牛を飼っている者が多いらしい。
「でも、お前たちの牛はほとんど放し飼いなのだろう」
 レンフォードが落ち着いた声で返す。
「何にもないところでただ放してるわけじゃねえ」
 崖や茂みや森の位置などを考えて、牛が勝手にどこかに行ってしまえないような場所を選んでいるという。
「それに、ときどき見回りにも行くし」
 馬車は、レセクの指示に従って村の手前で曲がり、やがて少し開けた牧草地に出た。
 リトはレンフォードとレセクに続いて馬車を降りる。
 牧草地の入り口あたりに人影が見えた。リトは、すぐにそれが誰だか思い出した。前に村に来たときに会った、西の村の代表のムバルだ。レンフォードの姿を見て、一礼している。
 レンフォードは大股にムバルの方に向かった。
 そのあとをついていきながら、リトはきょろきょろとあたりを見た。
 牛が、何頭もいた。
 馬車の中から通りすがりに見るより、ずっと大きな牛が。近すぎて、怖いくらいだ。リトの背よりずっと大きい。ぶおーぶおーと鼻息の荒い牛もいる。太いしっぽをぶんぶん振っている牛もいる。リトはちょっと体を小さくしながら、レンフォードを追いかけた。
「わざわざありがとうございます」
 そういってムバルはまた頭を下げた。
「牛がいなくなったそうだな」
 ムバルの横に並んで、レンフォードはゆっくりと牧草地の奥に向かって歩いていく。リトはその後ろに続いた。レセクは、ふたりを先導するように少し前を歩いている。
「あいつはいつもこのへんにいるんです」
 レセクは言って、牧草地の端っこを指さす。
 ざっと見たところ、牛の数は、十頭もいないくらいだった。そのほとんどが、牧草地の縁に沿って点々としている。寝そべっていたり、立っていたり。周りは木々で囲まれていて、奥には斜めに上る崖があった。その手前に大きな岩が転がっていたり低木の茂みがあったりして、確かに大きな体の牛が通り抜けられそうな感じではなかった。牧草地の出口は、今リトたちが馬車から降りて入ってきたところだが、そこは普段は茂みと茂みの間に太い木の枝が数本、とおせんぼのように渡してあるという。
「確かに、入り口から無理矢理入ろうとすれば入れないことはないですがね」
 歩きながらムバルは説明した。
「表の街道から見えるところじゃないし、わざわざ来るのは、レセクや村の者が世話しに来るか、あとは……」
 最後の方は何となく言葉を濁す。ここに来てようやくリトは、レセクやムバルは街の者を疑っているのだということに気づいた。
「私たちに含むところのある者は多いでしょうし」
「あいつらならやりかねねえ、そうでしょう、ムバルさん」
「まあレセクはこう言うんだが、私はあまりそう考えたくないんだよ」
 レンフォードは時折足を止め、牛に近寄ったり、藪に近寄ったりして、ぐるりと牧草地を一巡りした。ときどき何か検分するように足下や茂みの向こうをじっと見つめる。
「嫌がらせとしても、街の中ならともかく、わざわざこんなところまでやって来るというのは、なあ、レセク」
「そんなの、わからねえですよ」
 レセクは口をとがらせる。
 レンフォードは答えず、牧草地の奥の方まで歩いていく。
「レセク、そういうことをおおっぴらに言わん方がいい」
「でも」
 不満そうなレセクと心配げな顔のムバルが、並んでレンフォードのあとをついていく。
「この向こうは何かあるのか」
 端まできて、崖の手前の大きな岩のところでレンフォードがふたりを振り向いた。
「向こうは森ですよ」
 レセクが言う。
 レンフォードは、岩を回って茂みの奥をのぞき込んでいた。リトはレンフォードの近くまで行く。
「何かあるんですか」
 見上げて聞くと、レンフォードはちらとリトを見て、「ふむ」と鼻を鳴らした。そのまま黙って茂みを手でかきわけている。その姿が、ふと濃い緑の葉の奥に消えた。
「レンフォード様」
 リトはあわててさっきまでレンフォードがいたあたりの茂みをかき分けた。と、大した抵抗もなく奥に入り込んでしまった。一見しただけでは分からないが、そこだけ枝が途切れているらしい。
 こんなところから奥に進めるとは思わなかった。それは、がさがさと音を立ててついてくる、ムバルとレセクも同じらしい。
「ここから奥に行けるのか」
「地方官はどこへ行くつもりなんだ」
 レセクのどことなく不満そうな声を背中に聞きながら、リトは見え隠れするレンフォードの背に必死でついていった。小枝がびしびしと顔に当たって痛い。
「レンフォード様、ちょ、ちょっと待ってください」
 手で顔をかばいながら、必死で足を運ぶと、唐突に藪が終わった。
 森の中にぽっかりと小さな空間が開けていた。レンフォードはそこに立ってあたりを見回している。
 追いついてきたムバルたちを見てレンフォードが、足下を指さした。
「このあたりに、通ったあとがある」
「通ったって?」
「こんなところを牛が通るとでも?」
 ふたりの返事が重なった。
 レンフォードの指さしたところには、折れた木の枝が何本か転がっている。レンフォードはふたりの返事にはかまわず、しゃがみ込んで落ちている小枝を拾った。
「何かあるんですか」
 リトはレンフォードの横顔とその手の小枝を交互に見た。レンフォードは無言で、今度は一方に歩き出す。リトはムバルとレセクと一緒に、訳もわからずそのあとをついていった。藪の間を縫うようにさらに奥に進むと、やがてどこからかかすかな音が聞こえてきた。
 何の音だろう、とリトは耳を澄ました。レンフォードがその前でやはり立ち止まって振り向いた。
「ムバル、このあたりには沢があるのか」
「あ、はあ、そうですね、小さいのがありますが」
「もっと向こうじゃないか、沢は」
 レセクの声がムバルを遮る。
「あれは水の音だろう」
 言ってレンフォードはまた歩き始めた。程なく、急に音が大きくなった。不意に木立が途切れ、その少し先で、地面も途切れていた。
 レンフォードは崖の端まで行って下を見下ろしていたが、次の瞬間、その姿がふっと消えた。
「レ!」
 リトの言葉は途中で途切れた。心臓をつかまれたような気がした。
「地方官!」
 後ろからすごい勢いでムバルが走ってきて、崖から身を乗り出した。
 レセクもあわてて走り寄り、後ろから崖を見下ろすムバルの腕をつかんだ。
「あ、地方官! 大丈夫ですか」
 崖下から、レンフォードの声だけがかすかに届いた。
 ムバルはさらに身を乗り出して片手を伸ばし、レセクはうーんとうなりながらムバルの反対の腕を引っ張った。リトもそのレセクの腰をつかんで、まるで大きな芋でも掘るときのように足を踏ん張る。と、急に抵抗がなくなった。
「うわ」
 勢い余ってリトは後ろにひっくり返った。が、次の瞬間にはね起きた。
 崖の手前にレセクとムバルが同じようにひっくり返っていて、その向こうに、崖から上半身を持ち上げているレンフォードの姿があった。
「レンフォード様!」
 レンフォードがひょいと崖をよじ登ってきた。
「だ、大丈夫ですか」
 リトはレンフォードに駆け寄った。
「大丈夫って、何が」
 レンフォードの声は、普段と変わらない。
「もう、おどろかせないでください。どこか怪我してませんか」
 リトは思わず大声で言った。
「どうして怪我なんかするんだ」
 意外そうにレンフォードが言う。
「え」
「ちょっと下に降りてみただけだが」
 リトは疑い深くレンフォードの顔を見た。レンフォードのすっきりと整った顔が、わずかに不思議そうな表情を見せている。
「それより、ムバル」
 レンフォードは手と服をはたきながら、リトの後ろに声をかけた。
「下にいたぞ」
「え、なにが」
「牛に決まってるだろう」
 なにを言ってるんだ、という顔でレンフォードは言い、再び崖の方に近づいた。
「ちょ、ちょっとレンフォード様、危ないですから、もうそんなところまで」
「だいぶ弱ってるようだったから、早く引き上げた方がいい」
 ムバルが四つん這いになって崖に近づき、こわごわと首を伸ばして下をのぞき込んだ。
「あ」
「ムバル、ほんとか」
 その後ろに、おそるおそるレセクが近づく。
 リトも、そろりと三人の後ろに近寄って、レンフォードとムバルの間から首をのばした。
 下の方に、左右を茂みに遮られて沢の流れが見えた。岸辺の岩が白い波に洗われている。茂みの少し手前の岩場に、何かしろいふさふさしたものがぱたんぱたんと揺れているのが見えた。
「あ」
 レセクの小さな声が聞こえた。
「おそらく何かにおどろいて、あの茂みからこっちに来てしまったんだろう。うろうろしているうちに、ここから落ちたんじゃないのか。死んでなかったのがおどろきだが、運がよかったな、レセク」
 振り向いたレンフォードの顔は、相変わらず無表情だった。
「いえ、あの、その……」
 レセクが決まり悪そうにうつむく。
「見つかってよかった。後は任せていいか、ムバル」
「あ、は、はい」
「また今度、お前のところのうまいチーズを食わせてくれ」
 レセクに向けてかすかに笑みを浮かべると、レンフォードはそのままきびすを返してすたすたと歩きだした。
「あ、レ、レンフォード様」
 リトはあわてて立ち上がって、大股で遠ざかるレンフォードを追いかけた。
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