第9話

文字数 2,822文字

 その、収支報告書とやらいう書類は、散々だった。レンフォードよりももっと悪筆な人が書いたらしく(しかもひとりではない)、解読するだけで一苦労だった。そして、たいがいリトの解読はまちがっていた。もともと知らない言葉なので想像することもできない。
 聞きに行くたびに包帯の下のレンフォードの顔が険しくなる気がして、リトは書斎の扉をたたくのもこわごわになった。
「ここの数字はこれを入れるんだ。これは名前がちがうだろう」
 そんなこと言われても、くちゃくちゃに書いてあって読めない。レンフォードは読めるのか? それはそれでおどろきだ。
 そのうちレンフォードは、黙ってため息をつくだけになった。リトはただ身を縮めていた。
 何回目かに書き直して見せに行こうとしたが、少し前にレンフォードは部屋を出ていったのを思い出した。用足しに行ったのか、ほかの用事か。少し待ってみたが、帰ってこない。
 どうしようかと少し悩んでから、リトは書きあげた報告書を手に、廊下に出た。
 玄関ホールに向かって歩いていくと、食堂から人声がした。近づいていくと、声はヘルドとレンフォードとハネットらしい。しかも、なんだか楽しそうに聞こえる。
「では、レンフォード様は反撃されたのですね」
「なんとかな。ゴードンが降りてきてくれたから、相手はそのまま逃げたんだ」
 ゴードンというのは確か御者の名前だ。
「やはり、馬車は箱型にした方がよいのではありませんか」
 ヘルドの声が少し心配げになる。
「今回は例外だ。普段ならキリアンがいる」
「でも、ただでさえいないことも多いのに、たまにいても今度みたいなことだと、護衛といってもどうなのという気がいたしますね」
 少し憤慨したようなハネットのやわらかい声に、レンフォードが答える。
「仕方ない。無理やり護衛を頼んだのはこっちだからな。いるときはせいぜい働いてもらうことにしよう」
 いつの間にか足を止めて、リトはぼんやりと、もれ聞こえてくるその会話に耳をすませていた。
 リトといるときに、レンフォードがこんなくつろいで話したことがあっただろうか。
 そっと近づき、細く開いている扉の隙間から中をのぞいた。
 ヘルドとハネットが立っている横にレンフォードは扉に背を向けていすに座っていた。頭の包帯に手をやっている。
 ハネットが何か言い、それに答えているレンフォードは、リトにまちがいを指摘するときとはまるで別人のように見えた。
 胸の奥に、訳のわからない気持ちがわき上がっていて、リトは息苦しくなった。
 手の書類に目を落とす。
 一生懸命やっているのに。
 そのとき、初めて聞く声がした。
「まあ、あんまり派手なことはよして静かにしてることだね」
 女の人だ。それも、どちらかというと少し年配の感じの。
 誰だろう。聞いたことのない声だ。
 リトは、はっとした。もしかして、あの部屋の主人なのかと思ったのだ。ドレスのいっぱい詰まった衣装部屋。あのドレスを着る女の人はもしかして。
「おれだって静かにしていたい」
「あんまり大きな傷を作ると、牛用の針で縫わなくちゃいけなくなるよ」
「……たのむから勘弁してくれ」
 レンフォードがげっそりした声になる。
「さて、そろそろあたしは行くよ。しばらくは激しい運動はよしてね。頭痛がするようならまた呼んで」
「どうもありがとうございました、先生」
 ヘルドの声に、ようやくこの女性は医者らしいとわかった。
 そして、あわてて周囲を見回した。この女性の医者が出てくると、見つかってしまう。
 そのとき、ホールの方で玄関の扉が開く大きな音が聞こえた。誰か来る。うわ、とうろたえているうちに、キリアンが廊下の角に姿を見せた。
「おい、レンフォード、いるか! レン!」
 書斎の方に向かってキリアンが怒鳴る。そしてこちらをふと振り向いて、食堂の前にいるリトに気づいた。
「なんだお前、こんなとこでどうした」
 しまった、と思った。いまさらどこにも隠れられない。
「レンフォードはそっちか?」
 言いながら廊下をずかずか歩いてくる。
 おたおたしているうちに、小柄な白衣の女性を伴ってレンフォードが廊下に出てきた。
「なんだキリアン、そんな大声出さなくても聞こえる」
 言い終わる前にリトに気づいたレンフォードの顔が、さっと険しくなるのに、リトは心臓が止まるかと思った。
「リト、お前……」
 リトは首を縮めた。
「こんなところでなにしてる」
 突き刺すような冷ややかな声だった。
「あ、あの、その、書類が……」
 背中を冷や汗が伝うのがわかった。
 無言で出されたレンフォードの手に、持っていた書類の束をおそるおそる渡した。
「立ち聞きとは、あまりほめられたことじゃないな」
 かっと顔が熱くなった。
「それより、さっき庁舎のやつから頼まれたんだが」
 キリアンが強引に割って入った。
「地方官に至急来てほしいってさ。セーズ広場で騒動が起きてるらしい」
「騒動?」
 レンフォードの顔が緊張した。
「ああ、行商人と客のもめ事みたいだ」
「なんだ、おれが行くようなことか」
「それが、行商の方が西の村のやつらしくて、周りを巻き込んで盛り上がってるらしいぞ」
 レンフォードが忌々しげに舌打ちした。
 それから受け取ったばかりの書類をリトの前に突き出した。
「書斎の机に置いておいてくれ、帰ってきたら見る。今日はもうあとは好きにしていい」
 そう言って後ろを振り向いた。
「先生」
「ああ、いいよいいよ、あたしはひとりで帰れるから」
「すまない。ヘルド、あとを頼む」
「かしこまりました」
「ほら、早く行った行った。けが人がでる前に何とかしておくれ」
 女性の言葉に小さくうなずいて、レンフォードは足早にキリアンと一緒に行ってしまった。
 ホールの扉の閉まる音がすると、女性がかばんを持ち代えた。
「それじゃ、あたしはこれで」
「あ、はい、ありがとうございました」
「馬車はいらないよ、歩いて帰るから」
「え、大丈夫ですか」
「何か問題あるかい?」
「いえ」
 気圧されたようなヘルドに軽く手を振って、女性も行ってしまった。
 そして、静かになったその場に、ヘルドとハネット、リトは残された。
「リトさん、すいません、ちょうどレンフォード様は診察の時間でしたので」
 ヘルドが、気遣わしげな顔で言った。
「探しに来られたんですよね。レンフォード様ももう少し言い方をお考えになればよいのですが」
「いえ、別に何とも思っていませんから」
 この声は、いったいどこからでているのだろう。自分が話しているはずなのに、まるでどこか別のところから聞こえてくる気がする。
 操り人形のような動きで、リトはその場を後にした。
 小部屋から、レンフォードのいないときには入れない書斎の扉を開けて、中に入った。
 主人のいない部屋の中央の大きな机に近づくと、しばらく黙って机を見下ろした。それからだしぬけに手を振り上げて、机の上にたたきつけるように書類を置いた。
 そして、あとも振り返らずに部屋を出た。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み