未来図──月光

文字数 1,749文字

「結婚するんだ」
桟に腕をかけ、視線を遠くに投げたまま秋穂(あきほ)は言った。平生と比べ少し沈んだ声色。けれどそれに気付くには、哉巳(かなみ)は余りに離れ過ぎていた。
短い髪が夜風に揺れる横顔を見ながら、哉巳は掠れた声を絞り出した。
「……誰と」
「茶屋の主人」
人の良い顔をした男が脳裏に浮かぶ。求婚されたんだ、と秋穂は続けた。
「私も良い歳と言えばそうだからな。向こうも気心知れた相手だし、悪くない」
秋穂の目を物悲しい色が覆った。
なあ。
本当に良いのか。
お前はそれが──幸せなのか。
頭を占めるその問も、利己的だと言えばそれまでだ。哉巳は俯いて唇を噛んだ。
「……何時なんだ」
「来月」
祝ってくれ、と秋穂は笑った。薄く持ち上げられた口の端が、細められた目が、哉巳には堪らなく痛切に感じた。
身を寄せて、頬に手を添える。夜風に冷えた温度が掌に広がっていく。
そのまま唇を重ねた。
驚き仰け反る秋穂に哉巳は構わない。体勢が崩れた上に被さり、その太腿の上に手を乗せる。
「──お前は、どれだけ私を泣かせれば気が済むんだ」
はっとして、哉巳は秋穂の顔を見た。今にも泣き出しそうな程に潤んだ瞳で、それでも毅然と、変わらない表情でこちらを見つめていた。
血の気が足先までもから引き、上体を起こす。悪い、と口から間の抜けた言葉が滑り落ちた。
秋穂は手をついて立ち上がり、何も言わず何処かへ行った。
──もう駄目だ。
近くに居てはいけない。お前の存在そのものが、邪魔なのだ。
いやに冷めた頭がそう言った。違い無い、と哉巳は立ち上がり襖を開けた。
おっと、と湯呑みをふたつ持った秋穂が声を洩らした。
「何処へ行く?」
片方に口をつけ、もう片方を哉巳に手渡した。
「少し頭を冷やせ」
渡された冷茶を見つめる哉巳の横をすり抜け、秋穂はまた部屋へ戻り元の位置に腰を下ろした。
「出された茶は最後まで飲んで行け」
また甘えてしまう事を自覚しながら、哉巳は秋穂の前に座った。冷茶を嚥下する。心臓の奥に熱く燻った塊が、ゆっくりと冷えていくのを感じた。
「昔もあったな、こんな事」
「……鞘を、割った時か」
良く覚えてるな、と秋穂は笑った。
運悪く踏みつけて、一番上の兄の刀の鞘を割ってしまった事があった。鞘自体高価な物では無かったが、虫の居所が悪かったのであろう、酷く兄に怒られたのだ。ばちりと頬を張られた時、言い様のない恐怖と、不安と、哀しさが胸を覆った。
その時、傍に居た哉巳が割って入ったのだ。そこまでする事は無いだろ、と自分の事のように怒った。仕舞いには一回りも身体の大きい兄相手に取っ組み合いを始めたのだった。
将軍の息子に手を出したと、哉巳は危うく斬首にかかる所だったが、秋穂が必死に訴え、数日の謹慎で済んだ。
自分の為に怒ってくれた事が、秋穂にとって何よりも嬉しかった。
「どれだけ止めても聞かないからと深夏(みなつ)姉さんに言ったら、二人まとめて水を頭から被せられていたな」
くすくすと秋穂は楽しそうに笑う。
その後、迷惑をかけてしまったと哉巳が酷く落ち込んでいたから、秋穂は冷茶を差し出したのだ。胸の熱さが消えていく感覚までもがあの時と同じだった。
哉巳は懐かしさに頬を緩めた。
それを見て、秋穂は口を開く。
「私は怒っていないよ、全部」
弾かれたように哉巳は顔を上げ、くしゃりと歪めた。対称に、秋穂はまた遠くを見るような目で薄い笑みを浮かべている。
数秒の間、空気を壊すように秋穂は明るく言った。
「まあ、それでもさっきのは駄目だな。この身体はもう人の物だ」
その言葉を聞き、哉巳は身を乗り出し、きつく秋穂を抱き締めた。
哉巳、と言いかけた秋穂を、絞り出すような、痛々しい、細い声が遮った。
「……お前の物だろ」
──そうだ。こいつは、こういう奴だった。
口に出せない私の代わりに言ってくれた。態度に出せない私の代わりに怒ってくれた。
何時だって、私の事を考えてくれていたのだ。
哀しいくらい、優しい人だ。
愛おしさと切なさが滲む。苦しさを表すように力のこもり強ばった背に手を回し、熱い項に頬をつけた。
一筋、透明な涙が零れ落ちた。
「……今夜は良い夜だな。なあ見ろ、哉巳。月がこんなにも綺麗だ」
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