二十五年前──偶然の奇跡

文字数 1,142文字

走った。脇目もふらず、振り返りもせず、ただただ前を見て。斬られた父も、刺された母も、何も、何も考えず。前に、前に前だけに。
涙が溢れた。目が痛い。きっと風のせいだけではないだろう。もつれそうになりながらも懸命に走り続け、それでも幼い娘の足では大人にあっという間に追いつかれてしまう。
怒鳴り声が直ぐ背後で聞こえ、娘は喉から風が通るような音を鳴らした。身体は前傾になり、坂道を転がるように降りる。ここさえ降りきってしまえば、下には村がある、きっと、きっと誰かが助けてくれる。逸る思いが先走ったように、坂に足を取られ、娘は転がった。追いかける男は幸運とばかりに舌なめずりをした。全身を打ちつけ息をすることさえ苦しい娘を、男は踏み、押さえ込んだ。
「彼奴、好き勝手に俺らのことを使いやがって」
男は悪態をつき、娘に向かって足を振り上げた。
ぎゅ、と娘は目を瞑った。
けれど、待てど痛みは降りかからなかった。何か重いものが身体に乗しかかり、娘が瞼を開くと、先程まで自分を踏んでいた男がぐったりともたれていた。そっとその背を触ると、ぬるりとした何かが掌についた。血だ。
息を呑む。と、男の肩越しに、誰かが立っているのが見えた。
色の薄く長い髪をした、ぼろぼろの刀を持っている十五、六の歳の頃の少女だった。
「……なんか斬っちゃった」
夜しか斬らないつもりだったのに、と少女は不満げに呟いた。
少女は死体の下から娘を乱暴に引っ張り出した。
「斬っちゃったけど、良かった?」
あまりに当然の出来事に、娘は呆けた表情をしていた。
「えっと……ひとりなの?」
反応のない娘に、少女は困ったように頭をかいた。娘は、はっとして首を縦に振った。
「ふうん……向こうから血の匂いがする気がするし、そういうことかあ」
ひとり納得したような少女を、娘は何を言うでもなくただ見ていた。
「帰る家は?」
「……」
少女はかちゃかちゃと弄んでいた刀を握り直した。
「此処から先、村の左を通った向こうの山に寺がある。慈善をしているらしいから、当てがないなら行ってみても良いと思う」
少女は、まるで刀が自分の一部かのように、その方向を指さした。
開いた口が塞がらないままじっと見つめる娘に気づくと、少女はにっこりと笑った。
娘は立ち上がり、詰まる息を全て吐き出すように礼を言った。
「あ、有難う御座います。私は、(おとずれ)と、言います」
少女はぱちくりと瞬きした。礼を言われるようなことはしていない、といった素振りだった。
「お名前を、教えてください。いつか必ず、お礼をします」
「私は(りん)、だけど……」
倫は、真っ直ぐな瞳で自分を見上げている訪に、ふっと頬を緩めた。
「きっと、二度と会わない方があなたの為だよ」
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