九年前──赤の涙

文字数 1,646文字

ここは奈落に例えられる。一度堕ちては抜け出せない、底の無い奈落。だから、この組織に入る事は奈落堕ちと言われている。
そう、ここは奈落。地獄の最奥。足を踏み入れ堕ちてから十余年、此処に居る理由も既に亡くなり、ただ惰性で生きていた。
そんなくだらない生の為に、人を殺した。何人も、数え切れない程。
血塗れの足元ばかり見続けていた日々の中、その子は現れた。
部下が、処分したという気狂いの殺人鬼に娘が居たと報告してきた。組織の事が洩れると不味い、さっさと口封じをしてしまえと言うと、部下は口ごもった。どうにも様子がおかしいのだと言う。
首を傾げて、部下に着いて行くと、其処には確かに十もいかないであろう幼い娘が居た。
娘は、目の前で殺された父親の死体を、解体していた。
開いた口が塞がらなかった。
小さな両手で大きな鉈を持ち、懸命にその骨を断とうと振るっている。白い肌は血に塗れ、黒い瞳には何も映っていなかった。人を殺した大の大人達に囲まれているというのにそれを意に介す素振りは全く無い。ただ表情の抜け落ちた顔で、鉈を握っている。
部下もどうすれば良いのか分からず、ただそれを見つめている。重苦しい空気の中、肉の擦れる音だけが響く。
最後は首だ、と娘は鉈を振り上げた。
その手が下りる前に、俺は手首を掴んだ。娘は此方を見ようともせず、尚振り下ろそうと腕に力を入れた。
弱い力だった。
胸を大きな力で突かれた様で、束の間息が出来なかった。
処理は完璧だった。それを上に報告すると、ならば死体処理係として置いておけばいいと言った。もちろん処分してしまっても構わない、それはお前達の組の自由だと。
まだ幼い事が半分、気味の悪さ半分で、娘は生かされる事になった。部下はみな見た目が恐いのと不器用無愛想なので、自然俺の所へ子守りが回ってきた。とは言え、俺も子供なぞ居た事は無いし、妹弟も居らず、接し方がまるで分からなかった。しかしその懸念も無駄になる程、娘は大人しかった。名を問うても沈黙、最低限の対話すら無い。耳は聞こえているようだし、聾唖なのかも知れなかった。名が無いのも不便だし、ならば付けても良いかと言うと、娘はじっと此方を見、頷いた。
雛枝(ひながえ)。幸い嫌な顔はされなかった。いや、どれだけ変な名前を付けても同じ反応なのかも知れないが。
見ていないと飯も食わない為、日の殆どを雛枝と共に居る事になった。だが俺にも仕事がある、何時までも日中雛枝に付いている事は出来ない。しかし、親を解体する様な娘としても、人を殺す所など見せたくなかった。
大人しく待っているんだ、と言い背を向けると、陣羽織の裾を僅かに引かれた。
朗景(ろうけい)、と、確かに俺の名を呼んだ。
ただそれだけの事だったが、声すら洩らさなかった雛枝が、言葉を発した。
涙が出る程嬉しかった。細く小さな身体を抱き締めて、ただ背を撫でた。
それから少しずつだが会話をする様になった。僅かな変化に有頂天になり、部下達にはまるで父親だと笑われた。
情が湧いた。喜ばしい事でも、此処では一転して致命傷だ。
利用価値が無ければ置いておく事は許されないと上に言われた。摂理ではあったが、この歳の子に突き付けるには理不尽に感じた。けれど、俺にはどうにも出来ない話だった。
従いの女に案内され、雛枝が薄暗い部屋に通されるのを、何も言わず、言えず、ただ後ろから見ていた。地下に埋まったその部屋は、灯りは地から出た僅かな高さの格子窓のみ、あとは小さな蝋が置かれただけだった。作業台の様なものもあった。その為に用意されたのだろう、綺麗なものだった。
この部屋が血に汚れる様が、手に取る様に見えた。
俺が居ない間は此処で『仕事』をする様に、女は雛枝に言った。雛枝は聞いているのかいないのか分からない何時もの調子だったが、翌日から、言われた通り死体処理をしていたらしい。
ある時帰ると、雛枝の頬に血の跡がついていた。
それが如何にも、俺には涙の様に見えたのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み